4-4 別れ際に「大好き」を
ハジメはめちゃくちゃに、梅田の街を駆け回った。EMO本社を出て、ナルがどっちに行ったのか、てんで見当がつかなかった。ナルの行きそうな場所、あるいは行きそうにない場所、そういう所を片っ端から探し回った。
ナルの姿は、どこにもなかった。
昼が過ぎ、日が落ちて、辺りが薄闇に覆われ始めた頃、とうとうハジメは足を止めた。大きな橋の上に立って。欄干から身を乗り出し、下をゆったりと流れる川に視線を落として。
何でもっと早く気付かなかったんだろう。
ナルは自分に、助けを求めていたのに。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。
ハジメの中に、いずれ幻のように消えていくさだめのこの関係の中に、風の前の塵のように吹き飛ばされていく自分の若さの中に、ナルは救いを求めていたのに。
何でもっと早く気付かなかったんだろう。
まただ。また、終わってから気付く。
できることは全てやり尽くしたつもりで、本当は何もしていなかったということに、全てが終わってから気付く。
「……まだ終わってない」
誰にともなくハジメは言った。道行く人々が怪訝そうにハジメを顧みた。川の水面は、街の灯りを浴びてきらきらと輝いていた。街は燃え上がる星の煌めきのよう。全てがハジメに告げている。もう終わった。お前はただ、感傷に浸れ。
お前にはその権利がある。
そう告げている。
「まだ終わってない!」
自分を絡め取ろうとする全て鎖を振り払うように、ハジメは顔を上げた。
まだ終わってないなら、何ができる?
お前は一体何を以て、ナルを救えるというのだ?
街が、世界が、ハジメに問いかける。
僕は何もできない。
僕はナルのために何もできない。
僕は無力だ。
僕は。
「僕は――」
ハジメはただ、その場にくずおれた。
もし神さまがいるなら、どうかナルを救ってください。
何もできない僕の代わりに、残酷な時間の檻の中から、ナルを救ってください。
もし神さまがいるのなら――
*
「……ああ。わかった。とにかくきみは休め。こっちでも捜索隊を出してる。……ああ。大丈夫だから。僕に任せろ。いいね」
溜息をついて、健二は受話器を置いた。EMO本社の上層にある副社長室は、むやみにだだっぴろくて、その中に二人だけぽつんと佇む、置物のような健二と恵里を浮かび上がらせている。置物。置物だ。そこにいるだけ。本当には何もできやしない。
「ハジメくんですか?」
「ああ」
椅子の背もたれを軋ませて、健二は窓から空を見上げた。夜空に輝く星々。高く登った月。手をかざして、指の隙間からそれを見る。手のひらをそっと握ってみる。星がつかめるだろうか。月が手にはいるだろうか。空を抱きしめられるだろうか。
手のひらは、虚空をつかむ。
「僕は、あさはかだったかもしれない」
恵里は何も応えなかった。
「僕には罪悪感があった。元老どもの非道な計画を止められなかった罪悪感。ナルにあんな運命を背負わせてしまったという罪悪感。彼女が将来辛い思いをすることは、産まれた時からわかっていた。だからせめて、彼女には幸せに生きて、幸せに死んでほしいと思った。そのためにできることは、何でもしてきたつもりだ」
星は瞬いている。健二の言葉を証明するように。
「でもそれは、あさはかだったかもしれない」
「ハジメくんと一緒にしたことがですか」
無言。それはつまり、肯定だった。
「馬っ鹿じゃないの」
健二は顔をしかめて、恵里の凍り付いた無表情を睨み付けた。上司が怒りの形相で睨んでも、この秘書は眉一つ動かさない。
「あなたは神さまか何かにでもなったつもりですか? それともナルはあなたがいなければ何もできない人形か何かだとでも?」
「別にそんな」
「彼女はハジメくんと一緒にいて幸せそうでした。本当に幸せだったろうと思います。それは事実です。無力感に浸って自分を護るために、過去の事実までねじ曲げないでください。
私はね、もし神さまがいるなら、お礼を言いたいくらいですよ。ナルと彼を引き合わせてくれてありがとうって」
健二はすっかりへそを曲げ、ぶうたれて椅子をくるくる回した。ひとしきり回った挙げ句、両脚をデスクの上に投げ出して、思いっきり背伸びをした。いい秘書を持ったものだと思う。あるいは、最悪の秘書をか。
「まったく」
何度言えば分かるんだろう。
「きみは、もう少し優しい言い方を身につけるべきだと思うんだ」
*
休めと言われても、家に帰る気にはなれなかった。
スェーミがお腹を空かせているだろうか。いや、大丈夫だ。いつもみたいに、キャットフードの箱を自分で開けて、心ゆくまでかじりついているに違いない。何も心配することはない。
思う存分、こうして川を見つめていられる。川沿いのコンクリートブロックに腰を下ろし、誰にも邪魔されず、ハジメはじっと川を見た。夜の闇の中でも水面は変わらずたゆたっていた。繁華街のネオンがそこに反射して、夢の中の世界のように、非現実的な虹色の輝きを放っていた。
健二にかけたあと、ポケットにしまう気力もなくて、ただなんとなく手に持っていた携帯電話が、いきなりアラームを飛ばした。なんとはなしに通話ボタンを押して、ハジメは電話に出た。
『おいハジメ、今どこだ?』
仁井の声だった。
「何」
『何じゃねえだろ、美月の誕生日で、パーティやるって言ってたじゃねえか。何やってんだ?』
「忘れてた」
『……お前、どうした? 何かあったのか?』
何も。
何もない。何もないから、困っているんだ。
『とにかく早く来いよ。美月が寂しがってんだ。ナルも連れて――』
「ナルは……いない」
仁井が急に口をつぐんだ。
「僕も、行けない。ごめん」
『おい、どういう……』
電話を切る。すぐさままた仁井からかかってくる。仕方がないので着信拒否にしておいた。小うるさいアラームはすぐにやんだ。また沈黙が戻ってきた。世界は、ハジメを一人にしてくれた。
ところが今度は、川を船が進んでくる。船は橋にさしかかると、低い警笛をならして、せっかくの静かな水面を波立たせ、橋の下をくぐり抜けた。跳ね上がった水滴がハジメの足にかかった。うるさい。ハジメは耳を塞いだ。うるさい。
耳を澄ませば、遠くから人々の声が聞こえてくる。楽しそうな声。酒に酔い、夜に酔い、恋に酔う若者の声。もうやめろ。嬉しそうな笑い声。もうやめろ。たとえ一時的にせよ悩むことなど何もなさそうな、幸せな声。
もうやめろ!
ハジメは立ちあがった。空を見上げた。星がそこにあった。月がそこにあった。いつもと変わらず輝いている。なぜ? なぜこんなに星がきれいに? なぜこんなに月が明るく? 街は輝き、人は笑い、美月も仁井も今ごろ楽しくはしゃいでいる。
なぜ?
「黙れ」
ハジメは呟き、
「黙れ!」
そして叫んだ。
「なんでいつもと同じなんだ、なんでそんなに楽しそうなんだ! 僕が……こんなに辛いんだから……」
それは、心の底から沸き上がった声。
「世界なんか凍り付いて、消えてしまえばいいんだ!!」
*
ナルはたった一人、丸椅子に腰掛けて、無限ループを続けるデモ画面を眺め続けていた。
恵美須町
小さなゲームセンターには、ナルを含めて数人しかいない。みんな思い思いに時間を潰し、やがて遊び疲れると、足を引きずって店を出ていく。まるで無気力。生きながら死んでいるゾンビのような人々。とすればここは墓場。わたしに相応しい。
「わたし」
ぽつりと呟いたが、その声はけたたましい電子音に掻き消されて、どこにも届かない。
「一人になっちゃった」
ふと思いついて、ナルは自分の携帯電話を取り出した。無意識にアドレスリストをサーチして、サ行の名前を順繰りに見ていた自分に気付いて、ナルは指を止めた。一体どうしようと言うのだろう。
お別れを。
最後に一言、きちんとしたお別れを。
けじめを付けたい。
ナルのアドレスリストは多くはない。サから始まる名字は一つだけ。シはゼロ。スは三つで――
瀬田ハジメ。
ナルは通話ボタンを押し込んだ。
*
また電話が鳴っている。
鬱陶しそうにハジメは画面を見下ろした。そして我が目を疑った。送信者の名前がそこに表示されている。
NULL、と。
「もしもしっ!?」
飛びつくように、ハジメは電話を耳に当てた。声は聞こえない。けたたましい電子音が耳を衝く。古いタイプの音源だ。どこか懐かしいメロディが響く。しかし声は、求める声は聞こえてこない。
「ナル? ナルなんだろ、返事してよ、応えてよ!」
『……ハジメ』
優しい声が聞こえてきた。囁くような声。暖かい声。聞きたかった声。ハジメが待ち望んでいた、たった一つの声――
ナルの声。
「ナル……今、どこに」
『ハジメ、ごめんなさい。急に逃げ出したりして……』
「そんなこともういいんだ。どこにいるの? すぐに」
『ハジメ、わたしね』
ナルは無理矢理、ハジメの言葉を遮った。彼女の声に潜む、冷たくて、踏み込むことのできない聖域のような感情に、ハジメは言葉を失った。どうすればいい? どうやって踏み込めばいい?
どうすれば、ナルを救える?
そればかり考えている自分がいる。
『本当は辛かった……死ぬ事がじゃない。あなたの前で、わたしだけが歳を取らなきゃならないことが……辛かった』
「ナル……」
『もう自分の気持ちをごまかせないの。これ以上、わたしを見てほしくない。あの頃の……十五歳の……かわいくてきれいなわたしだけを……覚えておいてほしい……』
「ナルっ……」
『だから、わたしのことはもう見ないで。ハジメにはもっと相応しい人がきっといるから……もっと、きれいで、かわいくて、若くて……普通に歳を取る女の子を見つけて……幸せになってね』
「ナル!」
震える声で。
涙に揺れる声で。
しかしはっきりと、ナルは言った。
『さよなら。大好きだよ、ハジメ』
「ナル!!」
電話は、切れていた。
ハジメはすぐさまリダイヤルキーを叩いた。着信拒否を伝える冷酷なコンピュータ・ヴォイスがそれに応えた。ハジメは拳を振り上げ、そのまま、電話を地面に叩き付けた。小さな破裂音を立ててプラスティックの外装は破れ、役に立たない電話は地面に跳ね返り、川に飛び込み、沈んでいった。
沈んでいった。
「ずるいよ」
ハジメはうずくまった。
「最後の最後に好きだなんて……そんなのずるい……」
そのとき。
まるで雲の隙間から月明かりがのぞくように、ハジメの脳裏に、ある考えが閃いた。
電子音。
そう、電話の向こうで聞こえていた電子音。古いタイプの音源……いや、ハジメがよく知っているタイプの音源。ゲームセンターだ。ナルはどこかのゲームセンターにいる。梅田のか? あるいは他の? ひょっとしたら恵比須あたりに――
懐かしいメロディ。
そうだ。聞こえてきたあのメロディ。ハジメは意識の中で、音階を追う。ソ、ド、ソ、ファ……
「ナル」
あそこだ。
ナルは、あそこにいる。
ハジメは立ちあがった。
(つづく)
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