4-2 性と愛のはざまで
じゃれ合いながら飛び込んだブティックでも、ナルはひとしきりはしゃぎ回った。美月が紹介してくれたという、街角の小さなブティックは、ティーンエイジャーが好むような派手で露出の多い服で一杯だ。宝探しをするように店の奥に飛び込んでいったナルを見送り、置いてけぼりを喰らったハジメは、手近なハンガーを一つ手に取る。そこにぶら下げられていたのは、服と言うよりは布の切れ端のような代物。思わず眉をひそめる。
ふと、頭の中でナルがそれを着ているところを想像する。すぐさま想像はシュワポンと音を立てて雲散霧消した。だめだ。二人だけのときなら扇情的で悪くないかもしれないが、こんなのを着て街を歩いて欲しくない。ハジメは元来、嫉妬深い男である。
だいたい、この値札に並んだ数字の羅列はなんだ。使われている布地の面積比からすれば、恐ろしく劣悪な
「ねーねー、ハジメー」
奥からナルの声がする。ハジメは丁寧にハンガーを戻すと、ナルの姿を探してティーンエイジャーの群れを掻き分けた。いた。奥の試着室で、カーテンの脇から顔だけ覗かせている。そのそばには、にこにこと笑顔を絶やさない女性店員。
「こんなのどうかな?」
と、カーテンを開いたナルが着ているのは、さっきハジメが見ていた服の色違い。
「……どうって」
呆れて物も言えない。女性店員はすかさず試着室を覗き込み、
「あら、お似合いですよー」
「えへへ、やっぱり?」
「ダメ! そんなのダメだよ」
げっそりやつれたように見えるハジメが大きく腕でバツを作ると、ナルは頬を丸く膨らませた。
「えーなんで」
「そんなの着て町中歩けないだろ……」
「いいじゃない。水着みたいなもんだよ。ねー?」
「ですよねー」
そこの店員。焚きつけるな。ハジメは眉をひそめて腕を組む。
「とにかく、もっと大人っぽいほうが似合うと思うんだ、ナルには」
「そんなことないですよ、若々しいですもん。このくらいの方がいいですよ」
だから焚きつけるなって。買ってほしいというオーラがこっちまでビンビン伝わってくる。しかしナルの方はと言えば、こんな見え透いたおべんちゃらを真に受けたのか、さっきまで膨らませていた頬を赤く染め、
「ええー、やっぱりぃ? ねえ、何歳くらいに見えます?」
ふと、ハジメはナルの声色に、静かな物を感じ取った。
「そうねえ……二十代のはじめくらいかなあ」
無邪気に応える店員。ナルは目を細め、笑顔を浮かべて、彼女に礼を言っている。その笑顔はまるで能面のよう。少し角度を変えるだけで、全く違う表情に姿を変える。そんなふうに見える。
「でも大ハズレ。ほんとは生後七ヶ月の赤ちゃんだもんねー」
ナルはそのまま、笑顔をハジメの方に向けた。店員は、冗談だと思って愛想笑いをしている。ハジメは――
それが事実なのだと知っているハジメは――
ただ、曖昧な笑みを浮かべて、視線をそらすことしかできなかった。
*
結局そこでは何も買わず、二人は遅い昼食をとろうと、レストランに足を運んだ。
少し表から外れた細い通りに面していて、味は良くて安いのに、なぜかいつも閑古鳥が鳴いている、そんなイタリアン・レストランだった。サイズの小さいピザやパスタをあれこれ頼み、二人はお互いに皿を取り替えながら、ゆっくり料理を楽しんだ。
窓に面した席だったが、向かい側には大きなパチンコ店のネオンがやかましく輝いていて、下はゴミに汚れて違法駐車だらけの路地しかない。良くも悪くも梅田の街の典型的な風景だったが、あまり見栄えのよい景観とはいえない。
ウェイトレスが、最後の料理と伝票を運んできた。まだ高校生くらいの、若くてかわいらしい女の子だった。髪は淡いブラウンに染めていて、清流のように静かな、さらさらのストレートにしている。唇の色は淡く、肌は健康的に日焼けしていて、彼女の活発さを如実に物語っている。
「ごゆっくりどうぞ」
元気良くお辞儀をして微笑むその瞳は、太陽のような、自然でほっとする輝きに満ちていた。
ナルは、彼女に笑顔を返すハジメを、じっと見つめていた。ストローでジュースを音を立ててすすった。ハジメはその音に気付きもしなかった。ウェイトレスはスカートの裾を揺らしながら、厨房に戻っていった。ハジメの視線はようやくナルの方に戻ってきた。目と目が合って、ナルは意味ありげににやりと笑った。ハジメはわけも分からず、適当な笑みを返した。
「ねー、ハジメ」
「ん?」
ハジメが二つ折りにしたピザにかぶりつく。食欲はあるようだ。気分がいいということだろう。
「ハジメのいい所って、正直で、誠実で、自分に嘘をつかないとこだと思うの」
「え?」
「ハジメのそういう所、好きよ」
「なんだよ、藪から棒に」
「ほんとに、好きなんだから」
不思議そうにハジメは頭を捻っている。ナルはにっこり微笑んだ。思えば、ハジメと出会ってから、笑ってばっかりだ。最初は、ハジメを安心させようと思って笑っていた。そのうち、本当に楽しくて笑うようになった。
でも、今は?
「疲れちゃった。ね、食べ終わったら帰ろ」
「まだ来たばっかりだよ?」
「そうだけど……なんか、ダメだね。歳かなー?」
「ナル……」
そう。一つ忘れていた。
「前も言ったけど、そういう風に呼んでくれる時の声も、好き」
ハジメは見るからに戸惑っていた。きっと、彼はこう考えている。僕は一体何を間違えたんだろう。僕の何が、ナルの機嫌を損ねたんだろう。僕はどうすればいいんだろう。そうやって、自分の中に、自省という名の閉鎖された空間の中に、いつも答えを求めようとする。
そうじゃないんだよ。ナルはまた、にっこりと微笑んだ。あなたが間違ったんじゃない。わたしの機嫌が悪くなったわけでもない。どうこうすればいいわけじゃない。ただ、あなたはそういう人で、それは良いことでも悪いことでもなくて、わたしはそのことで、少し寂しいと感じている。
「うちに帰ってゆっくりしたい。いつもみたいに、優しく、ぎゅっ、って」
囁くように、ナルは言った。
「抱いてほしい」
それだけは、絶対に信じられる、本当の気持ちだから。
*
わたしは、老いている。
ナルははっきりと自覚していた。肉体的なこともある。体力が落ちてきたり、贅肉がついてきたりというのは、その顕著な現れだ。肌は以前のような張りを失ってきたし、頻繁にかさつくようになった。膝の裏側には、青い静脈血がくっきりと浮かび上がって、気持ちの悪い網目模様を見せている。食欲も落ちてきて、脂物を食べると必ず胃の具合が悪くなる。
そして精神的にも。ちょっとしたことですぐ気分が落ち込むようになったし、わけもなく寂しさに襲われることもある。逆に妙にはしゃいだり、むやみにイライラしたり、他にも――そう、性欲もだんだん薄くなってきた。
でも、それ自体は、悲しいとも辛いとも思わない。これは自分だけではなく、誰もが通る道だから。いわば運命のようなもの。人間として産まれてきたからには、老いと死を避けて通ることは、誰にもできない。
悲しいのは、辛いのは、自分を見つめるハジメの目の、僅かでしかし確実な、変化だ。
初めて会った頃の、藁にもすがりたいというような、必死な目。
一緒に暮らし始めた頃の、心の底から自分を愛してくれている、優しい目。
そして今の、沸き上がってくる哀れみと義務感にやせ細った、疲れた目。
哀れみも義務感も、今になって湧いて出たものではない。ナルの出生の秘密を知る前から、ナルが胸の中に抱えている大きなしこりの存在を、ずっとハジメは感じていた。常に気遣ってくれていた。でもその感情は、覆い隠されていた。というより、別のずっと大きなものが、彼を支配していた。
愛。
ナルを愛するという心。
哀れみと義務感が姿を見せた理由は一つ。
薄れているのだ。ただがむしゃらにナルを求める、野性の心が。
老いているのだ。
わたしは、老いている。
女としての魅力が、少しずつ、しかし確実に、薄れてきている。
そしてハジメはまだ、伴侶に「女」を求めなければならない、若者なのだ。
少しずつ、ナルは結論に達しつつあった。
すなわち――
自分はハジメのそばにいてはいけない。
自分がハジメを縛ってはいけない。
ハジメは、もっと若くて、きれいな――普通に歳を取る女の子と、幸せにならなければ、いけない。
認めたくない最後の結論に。
ナルは、達し始めてしまった。
(つづく)
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