ナルとハジメのゲーム
4-1 心の老化
時間は流れる。
人は老いる。
そして死ぬ。
それは、絶対に逃れることができない運命。誰であろうとそれに変わりはない。だから、彼女だけが特別であるというわけではない。この世に生を受けた全ての命が、ひょっとしたらこの世界の全てが、いやこの世界そのものさえもが、逃れられない運命に縛られて、生きている。
だがナルは戸惑っていた。
とっくに受け止めて、取り込んでしまったはずの運命。乗り越えてしまったはずの運命。それが少しずつ、心の中で版図を広げていく。手に入れたはずのものが、愛が、ナルの心を削り取っていく。
わたしのこと、好き?
一度産まれた疑念は消えない。
ナルの心は重たい疑念に押し潰されて、少しずつやせ細っていく。
過ぎていく月日が、ナルの変化の性質を、成長から老化へと変貌させた。
そう、今や肉体だけではない。
心の老化が、始まっていた。
西暦二〇三五年、七月七日。
「ただいま」
疲れた声が玄関から聞こえてきた。ナルはぼうっと眺めていたテレビの画面から目を離し、弾かれたように立ちあがった。垂れ流しのどうでもいいニュースを捨て置いて、裸足でフローリングを踏みしめ、ぺたりぺたりと歩いていく。本棚の上に置かれた時計が、午前三時を告げていた。
ハジメと出くわしたのは、キッチンでだった。半袖のシャツは縒れていて、彼の疲れを体現しているかのようだ。靴下が床と擦れて音を立てていた。足を引きずって歩いているのだ。彼の顔を見上げた。接続酔いのせいだろう、青ざめた虚ろな顔だった。
「おかえりなさい」
「まだ、起きてたんだ」
「うん」
ハジメは大きく溜息をついて、荷物をナルに預けると、無言で居間に向かった。今日は
居間に入ったハジメは、ちゃぶ台の上に二人分の食事が用意されているのを見て、言葉を失った。
「……まだ食べてなかったの?」
「一緒に、食べようと思って」
「先に食べてくれればいいのに」
溜息混じりの、呆れたと言わんばかりの、冷たい声色だった。食事には目もくれずベッドに倒れ込むハジメから、ナルは目をそらした。ありがとうとか、ごめんとか、いつものハジメなら、そう言って、優しくしてくれたはずだ。
「あの、ハジメ」
自分でも何を言おうとしたのかわからない。結局名前を呼ぶだけで言葉に詰まり、その後を繋いだのは、ハジメの方の言葉だった。
「ごめん、疲れてるんだ……寝かせてよ」
消え入るように言って、ハジメはそのまま眠りに就いた。
ナルは、彼の体の上にタオルケットをかけて、
「おやすみなさい」
小声で囁いた。寝息がそれに応えた。
それからちゃぶ台の前に正座して、夕食の上に被せられたナプキンを取った。一人で手を合わせて、頭の中でいただきますと唱えると、冷めた白米を一口食べた。必要以上によく噛んでから飲み込んだ。
全然美味しくなかった。
音を立てないようにそっと箸を置き、ナルは無表情に立ちあがった。服を脱ぎ捨て、代わりに寝間着を着ると、灯りを消して、寄り添うようにハジメの眠るベッドに潜り込んだ。ハジメはナルの方に背を向けて眠っていた。彼の広い背中にそっと手を添わせた。安らかな寝息が、微かな振動になって、ナルの手に伝わってきた。
「寂しい」
自分が声に出していたことに気付くと、ナルは驚いて、口をつぐんだ。ハジメはぐっすり眠っていた。気付かれてはいない。寝返りを打って、ハジメと背中合わせになると、ナルはベッドの下で丸まっていたスェーミを、片手で抱き上げた。
眠りこけていたスェーミは、無抵抗に、ナルの胸の中に抱き寄せられた。
「ねえ、ハジメ」
まるで、腕の中で眠る猫に問うように、ナルは問いかけた。
「わたしのこと、好き?」
この日。
ナルの肉体年齢は、四十一歳に達していた。
*
七月八日の日曜日は、梅雨の間に突然姿を現した、気持ちのいい晴れの日だった。
昼前に目覚めたハジメはいつも通りの優しいハジメだった。ナルは彼を誘って、久しぶりに二人きりで、梅田に出張ってきたのだった。薄暗い梅雨の空ばかり見ていると、こっちの気持ちまで薄暗くなる。せめてすっきり晴れている日くらい、思いっきり遊び回りたかった。
幸い、昨日の仕事でハジメの懐には大枚が転がり込んでいる。もちろんそれも計算の内である。
梅田の街の休日は、いつにも増して人でごったがえしている。私鉄の駅から、ゆったりと流れる大河のような地下街の人混みを抜け、二人は太陽の燦々と降り注ぐ、大阪最大の繁華街にたどり着いた。
「んんーっ!」
眩しい太陽を見上げて、ナルは思いっきり背伸びをする。伸ばした手で、空がつかめそうな気さえする。手のひらを握って閉じてを繰り返す。残念ながら、空はつかみ所がなくて、ナルはそれを手にすることができなかった。
「むむっ」
無念そうに唸ると、ナルは長いスカートの裾をひるがえし、ハジメの腕にしがみついた。これならつかめる。つかみ所がある。
「ねね、ハジメ、あっち行こ、あっち」
と指さす先は、女性向けの
「目当てでもあるの?」
「美月に教えてもらったんだ。かわいいお店があるんだって」
美月はハジメの友人だが、以前に一度酒を酌み交わして以来、ナルとは仲良くしているらしい。時々電話もしているし、美月がうちに遊びに来る頻度も高くなった。女の子同士ということで気も合うのだろう。
「ね、行こ!」
なかば強制的に、ナルはハジメの腕を引っ張り、歩き出した。固く腕を組んで、ぴったり寄り添って。ハジメは気恥ずかしくなって周囲を見回すと、案の定、こっちを見てにやにや笑っている通行人もいる。
「ナル、やめようよ、こんな所で、こんな……」
「こんなってどんな?」
ナルは無邪気に首を傾げる。ハジメは人差し指で頭を掻くと、
「いや、その……くっつきすぎだと思うんだ。なんていうかな……」
「ほー。わたしとくっつくのは嫌ですかそうですか」
「いやそうじゃなくて」
「いーえ、取り繕わなくたって結構でございますよー。ふーん」
ナルはすっかりへそをまげ、ハジメを突き飛ばすように離れて、そっぽを向いた。ハジメは肩を落とす。こんなことで機嫌を悪くするようなナルじゃなかったと思うのだが。仕方がない。こういう時は相手に会わせてタガを外した方が、自分の方も楽しめる。
「しょうがないな……」
後ろからナルに飛びついて、力強く彼女の肩を抱き寄せる。ナルは小さく悲鳴をあげて、しかし為すがままにハジメの胸に飛び込んだ。そしてくすくすと楽しそうに笑う。
「これでようございますか、殿」
「うむ! 余は満足じゃ!」
そして二人は顔を見合わせ、おかしくなってケラケラ笑う。周囲の視線もどうでもいい。見たいなら見てくれればいい。その瞬間、二人は確かにそう感じていたのだった。
(つづく)
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