3-4(終) 僕の全て、きみの全て



 冷たい。

 雨の中、ナルは一人で震えている。上着のフードに包まれて、それでも顔は青ざめ、指先は凍るよう。雨粒が足首の傷を打つたび、突き抜けるような痛みが走る。たまらなくなって草葉で覆い隠しても、どれほどの効果があるだろう。

 冷たい。

 心をよぎるのは嫌な記憶ばかり。暗い部屋の中、狭い水槽に閉じ込められ、肺に不快な液体を取り込みながら、ただ浮かんでいるだけの毎日。全てが流れ込んでくる。酸素。栄養。電流。電流に乗って、言葉、歴史、技術、知識。

 何もかも与えられる暮らし。暮らしているのか暮らしていないのかも分からない暮らし。言葉を得るにつれ、知識を与えられるにつれ、ナルは自分の異常を悟った。人間はこんなものではない。時折姿を見せる「外の者」たちが普通の人間で、自分は人間ではない。ある時唐突に悟ったその事実が、まだ幼いナルの精神を叩きのめした。

 笑っている。脳波リンクのケーブルを通して流れ込んできた知識の中で、歴史上の様々な一瞬を捉えた映像や画像の中で、人間はみんな笑っている。誰かに微笑みかけている。隣に誰かがいる。人間は一つではない。繋がっている。全ての人間が、別の人間に所有されている。誰もが誰かのもの。全てが一つ。「喩える」という概念を用いるなら――まるで大人工知能連続体ネクサスのように。

 そしてわたしは、そのどことも繋がっていない。

 わたしは、誰のものでもない。

 わたしは、人間ではない。

 わたしは、人間になりたい。

 わたしは、誰かのものになりたい。

 わたしは、わたしは――

 あなたのものになりたい。

 ハジメ。

「馬鹿みたい」

 ナルはぽつりと呟いた。小さすぎて、声は雨音に掻き消されて、ナル自身の耳にすら届かない。それでよいのだとナルは思う。誰にも聞いて欲しくなかったから。自分にも聞かせたくなかったから。それでも誰かに言いたかったから。

 聞くのは、耳を持たない空と、雨だけでいい。

「本当はね、誰でもよかったの。あの時――」

 心の奥で蘇るのは、はじめてハジメと出会ったあの瞬間。雨の中で、死んだように動かない彼。うってつけだった。とても苦しそうに見えた。助けてくれと叫んでいるのに、道行く誰もが、その声に耳を塞いでいる。そう見えた。

「ただ、誰か――誰かのために、何かがしたかった」

 だから、手を差し伸べた。

「誰かのものになりたかった――」

 空を仰ぎ見る。雲に覆われた空は、重たく、そして優しい。まるでナルを包み込んでいるかのよう。暗闇の世界の中に。自分一人だけに戻れる、孤独で暖かい空間の中に。

「でもね、今は違うの……ハジメは、わたしの特別なんだよ。わたしの笑顔で元気になって――わたしの胸で泣いてくれる人。それが、嬉しい」

 だから、不安になる。

「だけどわたしは……あなたの特別になれたのかな」

 だから、訊きたい。

「わたしのこと、好き?」



   *



 体が軽い。

 妙な話だが、ハジメは生まれて初めて、体重が千分の一になるという感覚を、実感していた。今まで何度も、ゲームの方の「キャリオンクロウ」で体験していたことだ。しかし神経だけに情報が与えられるのと、実際に体の全てが千分の一のエネルギーで動くのとは、どこかが違う。理論上はゲームと同じになるはずなのに。

 体が軽いんじゃない。

 心が軽いんだ。

 ハジメは推進器にコマンドを飛ばして、一気に大空へ舞い上がった。雨という天候は、フロートドレスの加速を悪くする最悪のシチュエーションだ。ゲームの中なら、舌打ちの一つもしていたところ。でも今はそんな気分じゃない。どこへでも飛んでいける、すぐにナルの元へ飛んでいける。そんな気持ちがハジメの体を突き動かす。

「ナル」

 小さく呟くと、ハジメは五十MPSまで加速して、わずか十数秒でナルが落ちた崖までたどり着いた。歩きでなら三十分以上はかかろうかという地点までだ。

 辺りを見回せば、健二の引き連れてきた夜間工作部隊が、サーチライトで山肌を念入りに走査している。ハジメは目を閉じ、コマンドリストを展開した。見たこともない装備の制御コマンドが並ぶ中から、目的のものを選び出し、コンプに送る。目映いビームライトが、頭の両脇から視線の先を照らし出した。



   *



 光。

 ナルは顔を持ち上げた。いま、一瞬の光が、ナルの顔を照らして過ぎた。光だ。空を見上げる。夜の闇と雲の闇に包まれて、何も見えない空。その中に輝くいくつもの光。鴉のように黒くて、空を飛ぶ人影。

 その中の一つに、ナルの視線は釘付けになった。

「ハジメ」

 なぜだか、それがハジメだと分かった。

 目に涙が浮かんでくる。フードが風に払いのけられる。顔を打つ雨の冷たさも、足首の痛みも、どこか意識の果てに飛んでしまった。

 来てくれた。ハジメが、助けに。

 最後の元気を振り絞り、ナルは精一杯の声を出して、

「ハジメ―――ッ!」

 彼を、呼んだ。



   *



 聞こえた。

 ハジメは周囲を見回した。今確かに、ナルの声が聞こえた。雨の中、微かにだが。

 岩肌の上に人の姿は見えない。そう、ナルは捜索隊に見つからなかったのだ。空から容易に見つかるような場所にいるはずがない。上からでは見えない場所。そして徒歩でもたどり着けない場所――

 崖の途中の岩棚を覆い隠すように繁った木々。

 あそこだ。

 半ば直感的に悟って、ハジメは真下へ向かって加速した。僅か三分の一秒の飛行。木々の間を複雑な機動でくぐり抜け、ハジメはたどり着いた。

 木々の奥で、自分を待っていたナルの元へ。

「ハジメ……」

 ナルが弱々しく声をあげた。ハジメは彼女のそばに跪くと、濡れた彼女の体を護るように抱き起こし、顔を隠すヘルメットのバイザーに《開放》コマンドを送った。カメラアイを通じてではない。自分自身の目で、ナルの姿が見える。

 幻じゃないんだ。

「ハジメ、わたし……」

 何事か言おうとするナルを、ハジメは有無を言わせず抱きしめた。もう何もかもどうでもよかった。ただ、ナルが無事でいたという、それだけで。何もかも。

「よかった……無事で、本当に……」

 ナルの疲れた腕が、それでもなお、ハジメの背を強く抱き返してくれた。

 それが二人の間の全てだった。



   *



『こちら部隊長。副社長、朗報です』

 フロートコンテナに通信が入ってくる。健二は椅子に座ったまま、通信用のマイクをたぐり寄せた。

「どうした?」

『目標を発見しました。コンテナを低空に降ろしてください。収容します』

「そいつはよかった。見つけたのは誰だ? ボーナスはずむぞ」

『例の坊やです』

 冷淡な部隊長の言葉に、健二は目を丸くして、恵里と顔を見合わせる。まさか、プロの工作部隊をさしおいて、素人のハジメが最初に見つけるとは。

「ボーナスは部隊全員で頭割りだな。すぐにコンテナを降ろす。収容は任せた」

『了解』

 操縦は恵里に任せて、健二はぼうっと天井を見上げる。ふと、ある単語が頭をよぎる。

「やっぱ、愛の力かねえ?」

「非科学的です」

 左様ですか。健二はひょいと肩をすくめた。



   *



 あれから一週間。

「いってらっしゃーい!」

 ベランダから、ナルは下に手を振り回す。仕事に出かけるハジメが、通りから恥ずかしそうに手を振り返した。穏やかな春の青空。向かいの小学校では、体操服を着た子供達が、元気に跳ね回っている。

 ナルはベランダの手すりにあごを乗っけて、しばらく遠ざかっていくハジメの背中を眺めていた。角を曲がって、その姿が見えなくなってもまだ。幻のように、太陽に白く浮かび上がり、揺らいでいる街。流れていく雲。時折聞こえる、どこかのママが布団を叩く音。

「幸せだなあ、わたし」

 融けるような声で呟くと、ナルは背伸びして部屋の中へ戻った。スェーミが足元にまとわりついてくる。もうご飯食べたでしょ、とばかりに指を突きつけて、ナルは洗面所に向かう。

 もちろん、目的は床に置いてある、例の計測器だ。

 努力に努力を重ねた。ハジメと一緒のトレーニングもしたが、それ以上に、彼が仕事に出ている間に、秘密の特訓を重ねた。色々本を買って研究もした。食生活にも気をつかった。そろそろ豆腐にも飽きがきた。

 頑張ったのだ。ナルは。

 計測器の前に直立し、ふと気付いて、靴下を脱ぐ。これで少しでも違うはず。再びきをつけの体勢を取ると、恐る恐る、右脚からゆっくり踏み出した。

 計測器――すなわち体重計の上へ。

「減ってますように減ってますように減ってますように……」

 目をつぶって、右足を体重計に乗せ、ゆっくりじわじわ体重を動かして、左足も乗せる。そのまま一度深呼吸。高鳴る鼓動を押さえつけ、気合い一発、ナルは目を開いた。

「南無三!」

 減ってない。

 ……。

 やっぱり減ってない。

「そんなぁーっ……」

 ナルはその場にへたりこんだ。床の上にごろりと仰向けになり、涙でにじんだ天井を見上げる。

 スェーミが爪を鳴らして近寄り、ナルの鼻先をちろちろ嘗めた。慰めてるつもりだろうか。わけもわからず甘えているのか。どっちでもいいけどかまわないでくれ。一人にしといてくれ。そう思っても、スェーミを追い払う気力さえ湧いてこない。

「もう……ダメだぁ~っ!」

 ナルの減量遠征リデューシング・エクスペディションは、まだ終わらない。



3:減量遠征(リデューシング・エクスペディション) 完

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