3-3 真相



 ナルは、突き抜けるような痛みに、目を覚ました。足首の筋肉が少し動くたびに、全身に電流が走るよう。顔をしかめながら、パンツの裾をめくってみる。足首が気持ちが悪くなるくらいに大きく腫れ上がっているのが、厚手の靴下の上からでもわかった。

 一体、何が。

 頭がぼうっとして、よく思い出せない。ナルは何度も深呼吸して、少しずつ心を落ち着かせた。そう、登山しに来た。ハジメと一緒に登っていた。そうしたら、突然雲が湧いてきて、辺りが一瞬真っ暗になって、恐ろしくて、ハジメのところに戻ろうと――

 そうだ。思い出した。慌てて動いた時に、足を滑らしたのだ。

 砂にまみれた岩の上は思いの外に滑りやすくて、そのままナルは、抵抗もできず崖下まで真っ逆様。途中、柔らかい低木ブッシュがクッション代わりになってくれたらしく、足首の腫れ以外に大きなケガはない。登山用にと新調した厚い服も、体を護るのに一役買ってくれたようだ。

 それでも、手のひらや顔は、小さな擦り傷だらけだった。

「ハジメ……」

 かすれた小声で、名を呼んでみる。返事はない。それはそうだ、とナルは溜息をつく。ここはまだ崖の途中。まばらに緑の木々や低木ブッシュが生えた、狭い岩棚だ。ハジメが近くにいるなら、こんな所に放ってはおかないだろう。

 岩棚の上とはいえ、ナルの体は絶妙な具合に、木々の影に隠れている。いつの間に日が暮れたのか、辺りはもう薄暗い。おまけに、まだ辺りに立ちこめている白い霧。歩いてここまで来るのは無理だし、空から眺めただけでも見つかるまい。

「迷惑、かけちゃったな」

 ナルは痛まない左足を曲げ、両腕で抱え込んだ。ハジメは今ごろ、どうしているだろうか。探しているだろうか。心配しているだろうか。それとも――

 それとも、何?

「本当はね、ハジメ……訊きたかったんだ」

 自分の膝の上に、ハジメの重みを感じていた、あの時。

 言葉に詰まり、結局ごまかした、あの時。

 わたしのこと、嫌いじゃない?

「でも……訊けなかったんだ」

 ぽつり。

 ナルは空を見上げた。

 木々の隙間からこぼれ落ちてきた雨粒が、彼女の頬を伝って降りた。



   *



 ハジメはただ、山頂の捜索隊事務所の中を、うろうろと辺りを歩き回っていた。

 できることはすべてやった。ナルの姿を見失って、遭難したことに思い当たると、すぐさまハジメは電話で救助を求めた。フロートドレスの捜索隊は、山頂からわずか五分で文字通り飛んできた。ハジメは山頂で待つように言われた。何か手伝わせてほしいと返した。足手まといだと一蹴された。

 できることは、すべてやったんだ。

 でも体が言うことを聞かなかった。座っていても体の奥からむずむずした感触が登ってきた。ハジメは立ちあがったり座ったりを繰り返し、やがて落ち尽きなく部屋の中をうろつき始めた。ことあるごとに窓の外を見た。今にもナルが戻ってこないかと思って。漏れ聞こえる捜索隊の無線にも耳を傾けた。朗報は一つもなかった。山頂には神社も寺もあったので、何度も出向いては無茶苦茶に祈った。そして何分かおきに、また事務所に戻り、自分の無力さを悔やんだ。

「ナルっ……」

 心配だった。体が張り裂けそうだった。胸の中に鉛の重りを埋め込まれたみたいだった。すぐにでも助かるかもしれないという希望、そしていつまでも助からないかもしれないという不安、二つが代わる代わる、鼓動のようにハジメを襲った。まるで泣いているみたいな鼓動だった。

 その時だった。事務所の外で話し声が聞こえてきた。捜索隊が帰ってきたのだ。ハジメは外へ飛び出した。降り出した雨が体を濡らすのもかまわずに。そしてリーダーらしい、フロートドレスの男にすがりついた。男はヘルメットを外すと、面食らいながらもハジメを屈強な胸で受け止めた。

「ナルはっ! ナルはどこに!」

「落ち着いて! 瀬田さん、落ち着いてください」

 男はハジメの背中を叩くと、事務所の中に押し返した。雨を避けて、さらに数人が事務所に入ってくる。ハジメは彼らに座らされ、落ち着くように何度も言い含められてから、絶望的な報告を聞いた。

「いいですか、瀬田さん……もう日が暮れてしまいました。天候も悪い。今日はこれ以上の捜索は無理です」

 全身の毛が逆立った。怒りがぞわぞわと肌の上で脈打った。ハジメはポリマー地のフロートドレスにつかみかかり、雨で滑るその首もとを握りしめた。周囲の隊員たちが慌ててハジメを羽交い締めにする。

「何を……何を! 見殺しにするのかッ! ナルを……お前っ」

「危険なんです!」

 男は怒気を孕んだ声で、唾を飛ばしながらハジメに怒鳴りつけた。

「見殺しにはしたないが、二次遭難は避けなあかん。わたしらの誰かがそれで死んだら、あんた責任取れますか!?」

「でも!」

「でももへったくれもあるかっ! だいたいあんたら、素人やろが? なんであんな危ないコースに入ったんですか。それで遭難してぎゃあぎゃあ騒がれてもね、こっちはとりあってられんのですよ!」

 ハジメはそれで、ぴくりとも動けなくなった。

 そうだ。止めればよかった。ナルが登山したいと行った時に。せめてもっと簡単な、旅行気分で登れるところにしておけばよかった。ナルから離れなければよかった。もっと早く霧に気付いて、注意しておけばよかった。

 できることは、すべてやった?

 大嘘だ。

 何もしなかった。何もしなかったに等しいんだ。

 立つ力を失って、隊員たちにつり下げられるような姿になったハジメを見下ろし、男は呼吸を整えた。その挙動に、既に怒りの色はない。むしろ自分の怒りに恥じているようにも見える。

「……すいませんけども、捜索の続きは明日からにさせてもらいます。夜半には天候が回復するという予報がでてますから、夜明けを待ってすぐに出動しますので。落ち着いてください。いいですね」

 その時だった。まだ外にいた捜索隊員たちが、急にざわめき始めた。男は外の様子をうかがおうと、ドアを開き――

 そして、絶句した。

『瀬田ハジメッ! 出てこい!』

 スピーカーを通したくぐもった声が、山頂一面に響き渡る。聞き覚えのある声。ハジメは隊員たちの腕を振り払い、外に飛び出した。

 ハジメは目を見開いた。

 空に浮かぶ巨大な質量制御飛行船フロートコンテナ。最新技術を駆使したそれが、上空からゆっくりと下降してくる。その周囲を飛び回る、真っ黒な鴉のように見えるものは、無数のフロートドレスたち。どれもこれも、捜索隊の作業用フロートドレスとは一線を画した性能の、暗視機能まで備えた軍事用だ。

 着陸したフロートコンテナのハッチが開いた。ハッチに描かれていたエンブレムが真っ二つに割れる。

 EMO社のエンブレムが。

「全く……何をやってる、瀬田ハジメ!」

 秘書の傘に護られながら、フロートコンテナのタラップを降りてきたのは、黒いブランドスーツに身を包んだ、小林健二その人だった。

「な……んです、あんたがたは!」

 慌てた捜索隊の男に詰め寄られ、健二はにこやかに微笑んだ。

「彼らの上司です。ここから先の捜索は、我がEMO社の誇る最新鋭の夜間工作部隊が引き受けますので、どうぞご安心を」

「あ、はあ……」

 健二は、まるで割れた海の底を渡るモーゼのように、自然と開けた人混みの中を、ハジメに向かって静かに歩み寄った。そして、まだ戸惑いを隠せないハジメの眼前に近寄るなり、

「副社長……」

「『副社長』であるかこのアホォッ!」

 ごつん。

 強烈な頭突きをぶちかます。ハジメはいきなりの衝撃に、よろよろと雨に濡れた地面にしりもちを付いた。

「ってぇー! 何するんですか!」

「こっちのセリフだッ! ナルが大事なら、命の一つや二つスパッと賭けて守れ、馬鹿者!」

 言われてハジメは言葉に詰まる。ぐうの音も出ない。全く、健二の言う通りだ。

 奥歯を噛み締めるハジメを見下ろしながら、健二はそっと目を細めた。

「ま、おおかた想像はつく……自分の体力を過信してたんだろ、ナルは。

 あの子、今日で何歳になる?」

「単純計算で二十九・三六九九歳ですね」

「三十路ともなれば、そりゃあ体が言うこと効かんよな」

「どういう意味です、それ」

 ハジメは眉をひそめたが、健二は何を今さら、とでも言わんばかりに肩をすくめた。

「前に言っただろ。八十倍の処理速度さ」

「あなたには話しておくべきだったかもしれません。

 あの子の本当の名前は、我が社の新型生物兵器開発プロジェクト『ユイリェン計画』の量産化試験零号機、YDS-PT00ナル

 製造期間を短縮するために、彼女の肉体は常人の八十倍のスピードで成長するよう作られているのです」

 ハジメは……

 ハジメは、立ちあがった。

 そうか。そういうことだったのか! それで全てが繋がった。企業製の人造人間、そういうものが大阪軍やヤクザの兵隊として使われていると聞いたことはある。ナルの異様なゲームの強さも、AIの代わりが務まるほどの頭脳も、それなら納得がいく。そして、最初は十代に見えたナルが、いつのまにかハジメより年上の肉体になってしまったことも。

 だが。

 八十倍で成長するということは、八十倍で歳を取るということ。

 八十倍の速度で、死に近づいていくということ!

「あんたら! それが人間のやることか!?」

 ハジメは健二の胸倉につかみかかった。近くにいた工作部隊のひとりが慌てて止めに入ろうとするが、健二自身がそれを手で押しとどめる。まるでハジメの怒りを、そのまま受け止めようとするかのように。

「やっと分かった! ナルの気持ちが……ずっと変だと思ってたんだ。何か悩んでるのは分かってたのに、それが何だか分からなかった! まさかこんな……ふざけるなよ! ふざけるな、お前ェ!」

「殴りたければ後で来い。今は時間が惜しい」

 健二が目くばせすると、恵里が、持っていたバッグの口を開き、ハジメに差し出す。

「僕からのプレゼントだ」

 本物のフロートドレス一式が、その中で眠っていた。



(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る