3-2 生後半年
「も、もうだめ……ギブアップ……」
いわんこっちゃない。へなへなと地面に座り込むナルに腕を引っ張られ、ハジメも少しよろめいた。登りはじめて一時間。まだ道は半ば、ここから山道はさらに険しくなろうというところだ。こんなところでへばっていては、先が思いやられる。
とにかく少し休まなければならない。ハジメはぐるりと周囲を見回し、近くに眺めのよい岩場があるのを見つけると、ナルの手のひらを握る手に、そっと力を込めた。
「ナル、がんばってあそこまで行こう。座る所もあるし、景色もいいよ」
「うん……ごめん、ちょっと引っ張って。立てないわ」
ハジメは非力な腕で、思いっきりナルを引っ張り上げた。反動をつけてなんとか立ちあがったナルと一緒に、とぼとぼと岩場まで歩を進める。
岩場からの眺めは、まさに絶景だった。
岩場は、昔の地殻変動でできた断崖絶壁の上にあった。どこまでも果てしなく広がる、雲もまばらな青い空。その下には大阪の街並みがえんえん広がっている。遥か彼方に見える黒い巨大な塔は、梅田の
「きれぇーっ!」
さっきまで死んだ魚のような目をしていたナルが、急に歓声を上げた。その声は、初めて会った頃のナルと全く変わらない。高くて澄んでいて、弾けて跳ね回るような、元気のいい声。ハジメは胸の奥から微笑みが込み上げくるのを感じると、手近な岩の上の砂を、手で払いのけた。
「少し休もう」
「うんっ」
岩の上にちょこんと腰掛けると、ナルはハジメの腕を引っ張って、自分の横に座らせた。椅子代わりの岩は狭くて、二人で座ると肩が触れ合うほど近付かなければならない。ナルの動きの一つ一つが、肩を通じて伝わってくる。ハジメは背筋に、何かとても心地よいものが走るのを感じた。
「はーあ」
ナルが沈んだ声を出す。見ればその顔は沈痛そのもの。きれいな景色から目をそらすように、自分の腕を見つめている。右手の指で、左の二の腕をつっついている。長袖の下で肉が揺れているのがわかる。
「へこむなあー。見てこの贅肉。肥満だってさ! 恵里さんに言われちゃった」
ハジメは目を丸くした。
「それで、急に山登り?」
「ん? んー、まあね」
言葉を濁して、大きく背伸び。思いっきり逸らした胸の柔らかい膨らみが、服の下で強調されている。ハジメは思わず目をそらす。
「でも思ったより筋力落ちてたみたい。前はこのくらい楽勝だったのになあ。トシかなあーっ!」
「トシって! 僕より若いだろ? まだ十……何歳?」
「何歳に見える?」
問われてハジメは言葉につまる。
そう。ずっとそれが気になっていた。
ナルは、一体何歳なんだ?
初めて会った時、せいぜい十代半ばの少女だと思った。しかしそれからほんの二ヶ月で、ナルの体形は明らかに変わってしまっていたのだ。背丈が伸びた。胸が大きくなった。最近では、表情にどこか疲れのようなものさえ見え始めた。
今のナルは……そう。ハジメよりも年上の、三十歳前後の女性に見える。
そんな馬鹿なこと、あるはずがない。たったの七十日あまりで十五歳の少女が倍の年齢に成長する、だなんてメチャクチャだ。体形が変わったように見えたのは気のせいに違いない。疲れて見えるのは単に調子が悪いからだ。そうに決まってる、のだが……
完全に硬直してしまったハジメに、ナルは、にぱっ、と鮮やかに笑って見せた。
「本当はぁー、生後半年の赤ちゃんでーっす!」
「またぁ」
「赤ちゃんだから甘やかしてくださーい! ばぶー!」
「じゃあ、トレーニングしよう」
ナルはきょとんとしている。かまわずハジメは早口にまくしたてた。
「体鍛えるんだよ。特訓。前にやったじゃない、石段兎跳びの刑とかそういうの。僕も、最近また運動不足になってるなって思ってたとこなんだ」
「ハジメも? 一緒にやるの?」
「ダメかな」
ナルはぶんぶん頭を横に振った。驚きと、嬉しさがごちゃまぜになって、ナルの表情がくちゃくちゃに歪む。
「んーん、一緒にやろっ!」
そしてハジメに抱きつくと、むりやり自分の膝の上に引き倒す。大切なものを抱きしめるように、ハジメの頭を胸に抱き、手のひらで無茶苦茶に撫で回した。しまいにはほおずりまでする始末。
「ハジメ、すっごく素敵……もう最高! かわいい! なでなでしちゃう!」
「ちょっ、ちょっとナルっ、こんなところで……いやそのうわっ」
ふと、ハジメは頭を撫でるナルの手つきが、急に優しくなったのを感じた。ハジメの短い髪を丁寧にときながら、水が流れるように指は流れていく。ハジメは視線を動かして、ナルの顔を見上げようとした。しかしナルの手がしっかりとハジメの頭を抱きかかえていて、それを許さない。
「ねえ、ハジメ」
「……ん」
諦めてハジメは耳をすました。ざわめく頭上の枝葉。耳元をすり抜けていく冷たい風。微かな靴の動きに合わせて、ちりちりと鳴く岩場の砂。そして鼓動。自分の鼓動。押し当てられた胸を通して感じる、ナルの鼓動。
低く声を押し殺して、泣いているみたいに聞こえた。
「ハジメは――」
沈黙。
ぺちん、とナルの手がハジメのおでこを叩いた。ハジメはゆっくり起きあがると、くちゃくちゃになった髪を撫でつける。ナルはくすくす笑っている。何がおかしいのか分からないが、目に涙を浮かべるほど笑っている。ハジメもつられて笑顔を浮かべる。
そしていつも、後からしまったと思うのだ。
「なーんでもないっ!」
ナルは勢いをつけて、一気に立ちあがった。大きく背伸びをすると、胸一杯に息を吸う。
「さあ、行こう! 先は長いぞっ!」
「うん」
「六根清浄六根清浄!」
どこでそんな古い呪文を覚えたのやら。元気よく手を振って歩き出すナルを見送りながら、ハジメはもう一度耳をすました。
耳の奥で、生き物のように泣くナルの鼓動が、まだ聞こえる気がする。
その時、ハジメの頭上を薄い影が覆った。弾かれたように空を見上げれば、さっきまで晴れ渡っていた空に、黒い雲が立ちこめはじめている。それと同時に辺りを包む、白くて濃い霧――いや、雲か。流れてきた雲が、ちょうど山肌に貼り付いたのだ。
山の天気は変わりやすい。こういう時に、こういう足場の悪い岩場で、下手に動くのは危険だ。一人で先に行ってしまったナルを引き留めようと、ハジメは胸に息を吸い込み――
「きゃあっ!」
ナルの悲鳴がハジメの耳を衝く。
「ナル?」
ハジメは不吉なものを感じて、声のしたほうに駆け寄った。雲に包まれた岩場。一歩踏み外せば崖下に転落しかねないそこに、ナルの姿はない。
「ナル……」
返事もない。
「ナル!」
ただ、ハジメの声だけが山に虚しく木霊していた。
*
恵里が定時に会社を出ることは、滅多にない。
今日はその滅多にない日である。普段は副社長秘書として、健二の仕事が片づくまでそばに仕えていなければならないのだ。何かにつけて仕事をサボりがちな健二を焚きつけるのも、恵里の仕事の一つだ。彼が珍しくやる気を出して、てきぱきと仕事を片づけてくれた時だけ、こうして恵里は普通の
と言っても、彼氏ナシ、遊びもナシの真面目一徹では、夕飯の買い物をして家に直行するしかないのだが。
仕事の後は疲れた体で家に転がり込み、そのまま泥のように眠る――という生活があまりに習慣化されてしまっているらしい。さほど疲れていない時でも、他にすることが思いつかない。悲しいことだ。
ともかく恵里は、たまの暇にゆっくりくつろごうと、買い込んできたカクテルの缶をテーブルに開けた。襟とスカートのウェストを緩め、結った髪をほどくと、メガネも畳んでテーブルの隅に置く。こういうときは、できるだけだらしのない格好がしたいものだ。
「TVオン」
しかしそんな高級品も、滅多に使うことはない。あまり稼働させないから壊れることもないが、宝の持ち腐れかな、とは少し思う。
とにかく、
『遭難しているのは、豊中市在住の飯田ナルミさんで――』
ぶ。
思わず吹き出したカクテルを拭い、恵里は
空中から映された山の映像。夕日に染まった新緑。剥き出しになった岩場。何機もの作業用フロートドレスが飛び交っている。そして画面の右上に、四角い別ウィンドウで表示されているバストアップは――
『午後からの悪天候のため、捜索は難航しています。現場は滑りやすい岩場で、当時一時的な濃霧に覆われていたということです』
画面が切り替わる。ニュースは終わりだ。どこだかわからない会社の車のCMが入る。流れるように走る美しい車の姿を、しばし呆然と見つめて、やがて恵里はぽつりと呟いた。
「ナル……」
飯田という名字は、はEMO社が持っている架空の国民登録のひとつ。ナルミは日本人らしくなるように考えた偽名。
ナルが遭難。
「全くあの子は……」
恵里は溜息をつくと、乱暴にカクテルの缶をテーブルに叩き付けた。緩めたばかりのウェストを、またきつく締め上げる。
「せっかく早く帰れたと思ったのにっ!」
力強く立ちあがり、恵里は再び戦闘態勢を整えた。
(つづく)
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