減量遠征(リデューシング・エクスペディション)

3-1 おおきなおなか



 二〇三五年 五月十四日(月) 雨

 最近、何かがおかしいと思っていた。

 わたしの体の変調に、ハジメはまだ気付いていないようだ。彼が真実を知ったらどんな顔をするだろうか。まず、驚くことは間違いないだろう。戸惑いもするかもしれない。その後、彼は喜ぶだろうか。それとも、何か大きな間違いを犯したことについて、酷い後悔の念にかられるだろうか。前者であってほしい。

 さて、わたしの身に何かがあったときのために、わたしの体に現れた変調を、ここに書き記しておく。

 第一に、女性特有の生理現象がない。第二に、ときどきオエッとなる(特にハミガキをするときはよくなるようだ)。第三に、わたしの腹部は日々物理的膨張を続けている。

 これらの症状は、日増しに酷くなっているようだ。もはや無視できる状況ではない。幸い今日は午後から定例の健康チェックがあるので、そこで主治医に相談してみようと思う。

 その結果は、帰宅後、ここに追記するつもりだ――

(ナルの日記より抜粋)



   *



「……は?」

 恵里は聴診器を持つ手を止めて、目をまるまると見開いた。

 彼女と向かい合って丸椅子に座るのは、真剣なまなざしのナル。冗談で言っているようには見えない。顔をかちかちにこわばらせ、荒い鼻息を恵里に吹き付けながら、身を乗り出して恵里の返答を待っている。

「……今、なんて?」

「だからっ! 妊娠してるんじゃないかって!」

 恵里は一気に力の抜けた体を、椅子の背もたれに投げ出した。一体何を言い出すかと思えば。

「あなた、自分の仕様は把握してるんでしょう? 妊娠する機能なんて、あなたにはありませんよ」

「で、でも……心当たりはたくさん」

「精力的なのは結構ですが、少しは控えなさい」

「生理だって来ないのにっ」

「そもそも機能がないんだから、ンなもん来るわけないでしょう」

「ハミガキするときオエーッて!」

「それを言うならお米の炊けた臭いでしょう? ハミガキの時は胃腸が荒れてりゃ誰でもオエッてなります」

「それにほらっ! 事実お腹がこんなに膨らんで!」

 ナルはシャツの裾に手をかけて、胸まで一気にまくり上げた。

 白い肌は緩んでいて、柔らかい肉に覆われている。特にお腹回りはなだらかな山を作っていて、指でつまめば取れそうなくらいだ。恵里はしげしげお腹を観察し、それから大きく溜息をついた。

「ナル……」

「はいっ」

「それはただの肥満です!」

 肥満――!

 肥満肥満ひまんひまんひまひまひまひまままままま――



   *



 帰って来るなり、ナルはどんとちゃぶ台を叩いた。

「ハジメッ! 山行こう! 山登り!」

「は、はあ?」



   *



「金剛山?」

 健二は顔を持ち上げると、露骨に羨ましそうな表情を恵里に向けた。今日は、太陽もぬくぬく温かい最高の日曜日。社員の中にも行楽に出かけている者は多いが、こんな最高の陽気に、健二は副社長室にカンヅメだ。こんなふうに、ときおり休憩を取って、ナルが拾ってきた子犬……サマーニャと戯れるのが唯一の楽しみだ。

「ずいぶんきついところを選んだもんだね。昔は初心者向けのコースもあったけど、地殻変動ですっかり様変わりしちゃったんだぜ、あのへん」

「お詳しいのですか?」

「昔は登山が趣味だったよ。最近は忙しくって、ちっともだけど。でもなんでまた、急に登山なんか?」

 恵里は書類を小脇にかかえて、肩をすくめた。

「笑っちゃいますよ。あの子、妊娠したんじゃないかなんて言うんです」

「へえ?」

「お腹が出っ張ってるのは太ったせいだと言ってやりました」

 なるほど、それを気にして運動しようというわけだ。ほほえましいというか、いじらしいというか。

「何度も言うけど、きみはもう少し優しい言い方を身につけるべきだよ」

 健二が責めるような視線を送っても、恵里はそしらぬ顔をしている。事実を言ったまでだから、責められるいわれはないというわけだ。健二はサマーニャの背中を撫でると、お気に入りの自走玩具を走らせてやった。勝手に動き回るボールを追いかけ、サマーニャは絨毯の上を駆けめぐりはじめる。

「欲しかったのかな」

 革張りの椅子に腰掛けると、健二は小さく呟いた。耳ざとくそれを聞きつけた恵里が首を捻る。

「はい?」

「子供さ。ハジメくんとの」

 願望があるからこそ、そんな勘違いもしたのかもしれない。健二はまだ幼い子犬を眺めながら、そんなことを思う。ふと、冷たい目をしたままの恵里に視線を送り、

「女性は、そういう願望を持つものかい?」

「さあ? 持つ人もいるんじゃないでしょうか」

「そっけない返事だね、どうも」

 ぐるりと椅子を回して、強化硝子張りの窓を見上げる。空は快晴、どこまでも突き抜けるような青。そろそろツツジもきれいになってくる頃だ。すっかり運動不足に陥った体が、動きたくてうずうずしている。

「あーあ、僕も山行きたいなあー!」

「仕事が片づきましたら、いつでもどうぞ」

 背後で恵里が、新たな書類を広げる音がした。



   *



 金剛山は、奈良との境にある、大阪で最も高い山だ。地殻変動で山頂の位置が変わって、今は標高一一三一メートル。初心者だけで登るには少々きつい場所もある、昔からの霊峰である。昔は神さまが住んでいたとか、そんな言い伝えもあるらしい。

 新緑が眩しく映える山道で、ハジメは額の汗を拭った。こけむした岩の間を流れる沢が、涼しげな音を立てる。まるで入り込んだものを包み込むかのように、四方から聞こえてくる鳥の声。吹き抜けた風が鮮やかな緑を揺らす。抜けるような青空は、光と影のコントラストの上で、静かに漂っている。

「ハージメっ!」

 ナルが先の方からハジメを呼んだ。手を大きく振り回して、小さなリュックサックを揺らしている。

「早くはーやくっ!」

 今朝からずっとあの調子。よっぽど楽しみだったのか、はしゃぎにはしゃいで、見ているこっちがひやひやするくらいである。手近な岩の上にぴょんと飛び乗り、ナルは大きく深呼吸する。ぴんと伸ばして後ろに反らした両腕が、まるで翼のようにも見える。

 生き生きと躍動するナルの体が、むせかえるような大人の魅力を放つ。柔らかく膨らんだ胸も、流れるようにゆったりとした腰つきも、この遠目でさえハジメの視線を釘付けにする。

 何考えてるんだろう、山登りに来てまで。ハジメは頭を振って邪念を払い、心を清らかにしてから、ナルに応えた。

「そんなにはしゃいでると、上まで保たないぞーっ!」

「だいじょうぶ! たかが一キロちょっとじゃない、平気平気!」

 ……一キロちょっとって、それは高さの話だろ?

 分かっているのやらいないのやら。ハジメは後ろ頭をぽりぽり掻いた。



(つづく)

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