2-5(終) 必殺技
猫の救出完了。その一報を受けた健二は、情報部長に視線を送った。頷くと同時に情報部長が何か命令を飛ばし、次の瞬間、部屋のあちこちに灯っていたランプが消えた。それと同時に巻き起こる、控えめな技士たちの歓声。一見して何が起こったのかわからない。辺りを見回す健二に、情報部長が微笑みかける。
「副社長、たった今、大規模量子計算機の全機能が回復、その解析速度が敵の侵攻速度を上回りました」
「……つまり?」
「勝利確定です。敵は不正侵入を諦めて回線を遮断したようです」
「あ、そう……地味なんだね、けっこう」
「次からファンファーレでも用意しておきましょうか」
「名案だと思うよ。それより、ナルの接続も解除してあげて」
首筋にコードを繋がれたまま、苦しそうにうなされているナルに視線を送る。技士たちが彼女を助けにかかったのを見て取ると、健二は柔らかいとは言えない革張りの椅子に、どっかりと腰を下ろした。
*
「あー」
「なー」
二人……いや、一人と一匹は、そろって似たような鳴き声をあげる。自宅への帰り道、夕暮れに染まった並木の下を、二人並んで歩きながら、ハジメはぼんやりと足元を見下ろしていた。
隣では、ナルが腕の中に抱いた猫の鼻先に指を出し、じゃれつかせている。猫の手が力一杯振り回されて、ナルの指を追いかける。当たると見えて当たらず、当たらないと見えて時々当たる。そんな絶妙なバランスで、ナルと猫は二人だけのゲームを楽しんでいる。
「コンピューターの中って、どんな感じだったの?」
会話に困ったハジメがそんなことを聞くと、ナルはうんざり顔をする。
「……しばらくかけ算は見たくないなー」
「かけ算……?」
「んーん、何でもない。ねー」
「なー」
またそうやって、猫と二人だけの世界だ。
考えてみれば、健二が言ったことはもっともなのだ。
――僕が何を隠し立てしたところで、君は知ったこっちゃないだろう。
そのとおりだ。
ハジメが知りたいのは、健二が隠していることじゃない。
ナルが胸の内にある『何か』だ。
ナルは、何か恐ろしい苦悩を自分ひとりで抱え込んでいる。ハジメはそれが辛いのだ。話してもらえない、頼ってもらえないのが歯がゆいのだ。
だから、何かをしたかった。ナルのために。ナルを喜ばせるために。ナルの笑顔を一秒でも長く守るために。好きだから、愛しているから、自分の手で何かをせずにはいられないのだ。
ナルだって同じだ。あの猫への執着は、そういうことだったのだ。
ハジメはナルの横顔をのぞき見た。ナルがそれに気付いて、微笑みをくれる。夕日に照らされた頬が赤く染まって、ハジメのそばで輝いている。そう、この笑顔のために何かができるなら。ナルのために何かができるなら――
いいじゃないか。目的なんかどうだって。
ハジメは深呼吸すると、遠くの夕日を、目を細めて眺めた。赤く燃える空には、雲一つない。春の天気は移ろいやすい。雨の後には晴れ間がのぞく。
「ねえ、ナル」
「なに?」
「一度、大家さんにかけあってみるよ。その……猫飼ってもいいかどうか」
横手に衝撃があった。見れば、ナルがまるまると目を見開いて、ハジメの腕にすがりついている。猫がナルの胸をよじ登り、その丸い肩に居場所を見つけ、わけもわからずなーと鳴く。
「ほっ、ホントに!?」
「う、うん」
「やっ……」
ナルは猫を両手で握りしめ、膝を曲げてうずくまると、
「たぁ―――っ!」
一気に空へ跳ね上がった。
「やったー! やったー! やったぞーっ!」
「なー! なー! ギニャー!」
嫌がる猫の抗議を無視して、ナルはぐるぐる回転する。猫は散々振り回されて、ナルの腕に脚を踏ん張り、必死の形相で耐えている。ふと、ナルは縁石の上に飛び乗ると、ぴたりと止まり、ぐったりした猫を再び胸に優しく抱いた。
「ハジメっ!」
「ん?」
「必殺技、行きます!」
必殺技? とハジメがオウム返しにするより早く。
ナルが繰り出した不意打ちのキスは、ハジメの唇に炸裂した。
必殺技。
踏み台代わりの縁石からぴょんと飛び降りると、キス一つで赤くなっているハジメを置いて、ナルは家への道を駆け出す。猫を抱いて元気よく駆けていく。ハジメはその背を見送りながら、心の中で呟きを漏らす。
いつか、心の扉を開いていった先に、きみがいるんだろうか。
ぼくがたどり着きたいのは、そこなんだ。
そしてハジメは駆けだした。逃げるナルの後を追って。
春の風が、ハジメの背中を押していた。
*
数日後――。
猫の名前はスェーミと決まった。大家さんに散々頭を下げて、なんとか飼うことを許してもらった。ただし、何かトラブルを起こしたらすぐに捨てること、という条件付きで。いたずら好きな猫には厳しい条件だが、やむを得ない。監視の目を絶やさないようにしなくてはなるまい。
外は今日も雨だ。昨日までの快晴が嘘のように、朝からしとしとと気持ちの悪い雨が降っている。ハジメは窓を叩く雨音を聞きながら、キャットフードを用意している。スェーミが足元に擦り寄ってくる。ぴんと尻尾を立てて、お腹を脚に擦りつけるように。
こうして見る限り、気に入ってくれているようなのだが……どうも、ハジメには懐いていないようである。遊ぼうと思っても全然寄ってこないし。ナルには積極的にじゃれついていくのだから、ハジメはますます面白くない。
餌のトレイを足元に置くと、スェーミはもはやハジメには見向きもせず、キャットフードをがっつきはじめた。結局、餌が欲しいだけだったのである。
「即物的な奴って、嫌われるぞぉ」
猫に向かって言ってみても甲斐がない。おまけにハジメも人……猫のこと言えない。懐いてほしいという下心で世話しているのだから。
そのとき、玄関でドアの開く音がした。買い物に出ていたナルが帰ってきたのだ。ハジメは出迎えに立ちあがり、ナルの姿を認めて、そして凍り付いた。
「た、ただいまぁー……」
恐る恐るナルが言う。
「おん!」
おんじゃないだろ……。
ハジメはがっくりうなだれて、ナルの腕に抱かれた子犬から目をそらす。雨に濡れた雑種犬は、ナルの腕の中で、うれしそうに尻尾を振り回していた。
「あ、あのね、ハジメ、実は雨の中で震……」
「絶対だめですッ!」
キャットフードを平らげたスェーミが、奥でなーと鳴いていた。
2:「ただいま」と「おかえり」のまにまに 完
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