2-4 ごかけるろくはさんじゅー
気が付けば目の前に、見たこともないような空間が広がっていた。
ナルはきょときょと辺りを見回した。接続したときの感覚は、ゲームに神経リンクするのとそれほど変わらなかった。しかし中の様子は大違いだ。人の気配がするような、建物だの、道だの、そういうものは一切無し。世界は青一色に塗り込められていて、上もなければ下もなく、地面もなければ空もない。ただ、世界の真ん中に自分だけがぽつんと浮かんでいる感じ。目には何も見えないが、目を閉じればそこが無数のデータによって埋め尽くされているのがわかる。
ここが、大規模量子計算機の中に広がる世界。ずいぶん飾り気がなくて、退屈な雰囲気だ。一体ここで何をどうしろと言うのだろうか。何の指針もないので、何から手をつけてよいのかすらわからない。
「すいませーん、誰かいませんかー」
とりあえず、声をかけてみる。大規模量子計算機の意識とコンタクトできれば、仕事もあてがってくれるに違いない。
「あのー、お手伝いしに来たんですけどー」
[CCTPやかましい!]
いきなり耳元で大きな声――いや、ばかでかい意識が響いた。慌てて横を振り向けば、そこには常に形を変える、水の塊のようなものが浮かんでいる。最初、ただの球形だった水は、うねりながら手や足を生やし、首から上がない人のような形を取る。
[CCTP余計な言語処理に手間をかけさせるな、クズ! ゴミ! スカタン!]
……これが大規模量子計算機の意識か。
「くっ……口の悪いやつね! 礼儀ってものを知らないの?」
[CCTP礼儀を知らないのはそっちだ、アホ! ボケ! カス! そのミルク臭い息を吐く前にプロトコルを添えろ! きさまのママはそんな人生の基本すら教えなかったのか!]
「……そんなん知らんっちゅうねん」
小声でぼそぼそ呟いて、ナルは溜息をつこうとした。そして気付く。溜息をつこうにも、口もなければ鼻もない。よく見れば、自分には腕も脚もなくて、目の前にいる口の悪い人工知能と同じように、水の塊のような姿をしているのだった。どうも気持ち悪いので、腕を伸ばし、脚を伸ばして、頭をつけて、人間らしい形をイメージしてみる。その通りに自分を構成する水が動いた。
「えっと……CCTPそれで、何をどうすればいいんですかー」
半ば投げやりに問いかけると、人工知能はゆらゆらと横に揺れた。このジェスチャーはどういう意思表示なんだろうか。さっぱりわからない。
[CCTP俺がきさまに
「はいはい、りょーかい」
[CCTPコラ! マヌケ! ドジ! ニンゲン!]
ニンゲンって悪口か? 人工知能の思考というやつは、どうにも理解不能である。
「CCTPイエッサー!」
空元気を振り絞って答えたナルに満足したのか、人工知能の意識は揺れながら、どこかへ消えていった。残されたナルは、水のような指先で、水のような頭を掻き、ぽつりと愚痴を漏らす。
「疲れた……なんなのよあれ」
その時だった。
手元に突然現れた一枚の紙切れ……のようなデータのかけらを皮切りに、無数のデータが怒濤のように流れ込んできた。どれにもこれにも、簡単なかけ算がびっしり書き込まれている。そうこうする間にも、どんどん紙切れは増えてきて、見る間にナルの足元を埋め尽くす。
「これ……全部解くの?」
呆然とするナルの頭の上に、さらなるかけ算の群れがどさどさ降り注いだ。
*
ゆっくりと、ハジメは穴の中へ降りていく。逆さ吊りの体勢になっているので、頭に血が上ってしかたがない。大きく深呼吸して意識をはっきりさせると、ハジメは暗視スコープごしに目を凝らした。
断熱壁の隙間は、幅が五十センチくらいしかない、狭い空間である。そこにいくつもの支柱や段が突きだしていて、その中のどれかに猫が引っ掛かっているのは間違いない。慎重に灰色の猫の姿を探しながら、五メートルほど下ったそのとき。
「なー」
不安げな猫の鳴き声が、ハジメの耳に届いた。
すぐ近くだ。頭を動かし、体を捻って、声の出た方を見つめる。暗闇の中でもぞもぞ動く灰色の影。
見つけた。すぐさまハジメはインカムに囁いた。
「見つけました。あと半メートルくらい降ろして止めてください」
『了解』
涼やかな恵里の声がして、ハジメは滑らかな動きで最後の五十センチを降りきった。目の前の、ちょうどうまいぐあいに突きだしたでっぱりに、ちょこんと乗っかっている猫。こちらにお尻を向けて、小さく震えている。
「よしよし、もう大丈夫だからな」
ハジメは両腕を伸ばして、優しく猫を抱き上げようとした。
しかし、指先が猫の背中に触れた瞬間、猫は弾かれたように振り返ると、ハジメの指をすり抜けて足元を蹴った。爪がハジメの指をひっかき、小さな切り傷を作る。猫はといえば、一段下の、少し離れた足場に、ぺたりと着地している。
「なー!」
怯えた声で猫が鳴く。しくじった。この暗闇の中で、狭い訳の分からないところに閉じ込められて、猫も怯えている。
「しくじりました。もう半メートル降ろしてください」
*
「3×4=12、4×7=28、2×1=2……」
ナルは必死になってかけ算を解く。かけてもかけても無数に飛び込む次なる計算。いつまでも終わらないかけ算の嵐。そもそもこの計算が何の役に立っているのかすらわからない。やりがいも報いも何にもない、ひたすら続く単純作業。
それでも解く。これを解かなきゃ役立たずだと思われる。役に立たなかったらきっと健二は接続を解いて、猫を見殺しにしてしまう。
「9×0=0、8×9=81、ごかけるろくはさんじゅーっ!」
計算用紙にみたてたデータの山が、空中に舞い上がった。
*
「PT00の脳神経へ、負荷増大。
オペレーターの誰かが言っている。そろそろ四分。もう一分もすれば、ナルの脳は限界に達する。健二は手元のマイクをオンにして、音声をハジメのインカムへ送信した。
「ハジメくん、そろそろ限界が近い。急いでくれ」
|
やってるよ!
ハジメは歯がみして、断熱壁を支えている支柱に手をかけた。
支柱とでっぱりの間をかいくぐるようにして、ハジメは猫に近付いていく。猫はこちらを睨み付け、全身の毛を逆立てて警戒している。ハジメだということも分かっていないのだろうか。それとも、そもそもハジメになついていなかったのか。
ハジメは思う。どうしてこんな苦労しているんだろう。たかが猫一匹のために。
正直に言って、ハジメは猫のことなどどうでもいい。助けられるなら助けてやりたいが、ナルみたいに慌てたり、真剣になったりはしない。相手は猫だ。人間じゃない。ペットとして一緒に暮らしてきて、思い入れがあるわけでもない。
でも、ナルは違う。異常なほど、猫に執着している。
なぜ?
なぜ、猫なんかのために、こんなに一生懸命になれるんだろう。
猫がかわいそうだから? 産まれたばかりで、親から引き離され、飼い主に捨てられ、ただ一匹、雨の中に晒されていた猫が、かわいそうだったから?
ハジメは最後の支柱をかきわけた。その先に、灰色の猫がいる。ハジメは右腕を伸ばす。届かない。体をよじり、体勢を変え、右肩を前に突きだしてから、もう一度。指先が、猫の乗っている足羽に辛うじて届いた。
額に汗が滲む。汗が暗視スコープの周りを伝って落ちる。急がなければナルが危ない。焦りが、じわじわとハジメの心を侵食していく。
落ち着け。
ハジメは息を吸い込んで、吐きながら腕をめいっぱい伸ばした。中指が、猫の足元に届き……
その瞬間、猫がハジメの指に噛み付いた。
「いッ!」
思わず手を引っ込めそうになるのを、歯を食いしばって耐える。いま激しく動けば、猫はまた驚いて奥に入り込んでしまうかもしれない。そうなれば、時間内に助けるのは不可能になる。
落ち着け。
誰かがハジメに言っている。痛みを堪えて深呼吸。血管の中を血が動くたび、指先に痛みが走る。猫の小さな顎は、ハジメの人差し指を渾身の力で噛みしめて放さない。ハジメの爪が軋んでいる。痛みがじわじわと増大していく。
落ち着け。
三度目。
ハジメはじっと待って、機会をうかがう。猫の脚は、足場にしっかりと踏ん張っていて、ちょっとやそっとでは動かせそうにない。猫が気を緩める瞬間が必ず来る。それまで、ただ痛みに耐えて、ハジメは待ち続けた。
そしてついにその時が来た。疲れたのかもしれない。抵抗しないハジメに、警戒を緩めたのかもしれない。理由はわからないが、猫の脚の筋肉が、一瞬だけ、確かに緩んだ。
ハジメは一息に腕を引き寄せた。猫の体が、アゴ一つで指にぶら下がって、それについてくる。ハジメは宙に投げ出された猫の体を胴体で受け止め、しっかり両腕で抱く。腕の中で激しく暴れ回るが、ここで放すわけにはいかない。
「捕まえた! 上げてください!」
がくん、と体が揺れた。
ゆっくりと、ワイヤーが巻き上げられていく。
これにて一件落着だ。ハジメは胸の中にため込んだ息を吐くと、まだ暴れている猫を抱きしめた。もぞもぞと動く猫の体毛が、手のひらに当たって心地よかった。
(つづく)
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