2-2 なー



「なー」

 ナルは目を瞬かせた。

 桜の花びら交じりの春雨を防ぐ、赤いビニールの傘を肩にひっかけ、ナルはひょいとしゃがみ込む。スーパーからの帰り道にある公園のベンチは、雨に濡れて、プラスティックの目の覚めるような青を、いっそう鮮やかに輝かせている。その下の暗がりに、濡れて破れそうになった段ボール箱が一つ。

「なー」

 声は、その中からしていた。

 ナルは段ボールを引きずり出し、おそるおそるふたを開いた。

 まだあどけなさの残る子猫が、扉を開いてくれた「おおきいやつ」を、興味津々、きらきらしたビー玉みたいな瞳で見上げていた。

 灰色をした、地味な猫だった。そいつを抱き上げ、目線が同じ高さになるように、頭の前にぶらさげる。ナルの両手に包まれたお腹が、ひくり、ひくり、と規則正しく動いている。手に伝わるその感触が、少しくすぐったかった。

「にゃー」

 ナルは、声真似をしてないてみた。

「なー」

 猫は、大口を開けてそれに応えた。

 猫はまだ、ナルの瞳をじっと見つめていた。



   *



 ……やっぱり、夕べの印象はただの気のせいに違いない。

「だだっ子みたいなこと言わないでよ、ナル……」

 いきなり無理を言い出したナルに、ハジメは沈痛な面持ちで眉間を押さえた。

「なによー、いいじゃない、猫一匹くらいっ。えーと、牛乳でいいのかな……」

 冷蔵庫のゴムパッキンがバカリと間抜けた音を立てる。よく冷えた牛乳の紙パックを引っ張り出して、そのままスープ皿に注ごうとするナルを、慌ててハジメは押しとどめた。

「だめだよ、そんな冷えた牛乳飲ませたらお腹下しちゃう。まず鍋に入れて、お風呂くらいの温度に暖めて」

「ふんふん、お風呂ね。なーんだ、ハジメだって飼う気満々じゃない」

「なー」

 なーじゃないだろ。

 ナルの拾ってきた猫は、早くもナルの足首に横っ腹をなすりつけて甘えている。ナルもナルで、さっきから顔が緩みまくりだ。引き離すのにずいぶん苦労させられそうである。

 このアパートはペット禁止なんだだと説明しても、ちっともナルはわかってくれない。そんなルール誰が決めたのよ! と、こうである。大家さんに決まっている。

 どうにも目が合わせづらいので、うつむき加減に自分のつま先を見下ろしながら、ハジメは負けそうになる意志をなんとか奮い立たせた。

「とにかく……ペット飼ってるなんてばれたら、追い出されたって文句は言えないんだぞ。雨宿りくらいならいいけど、雨が止んだら……」

「なー」

 こんどの鳴き声はやたらに近かった。

 ぎょっとして顔を上げる。目の前に毛むくじゃらの猫の顔。それをハジメの眼前に突きだしている白いものは、言うまでもなくナルの両腕。猫のざらざらした舌が、ハジメの鼻先をぺろりとなめる。ビー玉みたいなきれいな瞳が、ついでにうるんだナルの瞳が、徒党を組んでハジメを見つめる。

 やめてくれ。よしてくれ。そんな目で見ないでくれ。

「だっ」

 声まで裏返る。

「だめなものは、だめっ」

 これですっかりへそを曲げて、ナルは頬を膨らませながら、怒りを孕んだ足取りで引き下がった。床に降ろされた猫がなーと鳴いている。ナルは膝を折ってしゃがみ込み、

「だめだって! ほんと、人でなしだね!」

 無論「人でなし」は憎々しげに強調されているのである。

「なんと言われたって……」

「えーえー、もういいですよー。雨が上がったら外に連れて行きますからー。その代わり……」

 その代わり? 嫌な予感が背中を走る。ナルはハジメをきっと睨み付け、

「もう二度と、してあげないから!」

 ハジメは、屈した。



   *



「あはははははははは! うひひひひふふふくくくくげごっげごふっ」

「……むせるほど笑わないでください」

 腹を抱えて大笑いする健二から目をそらしながら、ハジメはぽりぽり頭を掻いた。

 ここはEMO本社ビルの廊下。無機質なクロム貼りの床が、曇った平らな面に、ようやくスーツも着慣れたハジメの顔を映している。そしてハジメの膝の上から興味深そうに下をのぞき込む、灰色の地味な子猫の顔をも。

 今日は、週に一度のナルの健康チェックの日である。

 そう、ナルが会社にとって重要人物である、という副社長の言葉は、嘘でも誇張でもなかったらしいのだ。この健康チェックの他にも、日常生活の事細かなことまで、報告を要求される。もちろん、報告するのはハジメの役目だ。これではまるで監視しているようではないか。

 しかも、何のためにこんなことをしているのか、と尋ねてみても、「企業秘密」の一点張り。気分が良かろうはずもない。おそらく、ナルが何かの新薬の実験台になっているんだろう、とは想像が付くが。

 それでもハジメがこの嫌な役目を引き受けたのは、そうすればナルと一緒に暮らせるから……という、ただそれだけの理由からだったのだ。

 ともかく、ナルの検査が終わるまでの間、こうして廊下の長椅子に腰掛けて、ぼうっと天井を眺めているのが、ハジメの密かな楽しみだった。ここにいれば忙しく動き回る社員たちの顔を見ることができる。ハジメなど眼中にない彼らの真剣な眼差しを見ていると、なんとなく、憧れにも似た気持ちを覚えるのだ。

 それに対して、真剣さなど欠片もない様子で仕事をサボっている副社長や、膝の上でじゃれる子猫などは、ハジメにとっては忌々しい邪魔者といえた。

「げっほごほ、いやいや、こいつは失敬。しかしまるでアリストファネスだな」

 目に涙を浮かべながら、健二は子猫の鼻先に指を突きだした。猫はなぜか指先の臭いを嗅ぐと、ざらついた舌でぺろりとそれをなめてみる。そしてまた、鼻をひくひくさせる。健二はといえば、何がしたいのかわからないそんな子猫の行動を、にやにやしながら見守っている。

「アリストファネスって?」

「大昔の喜劇作家。代表作の『女の平和』ってのが、そういう話なんだ。男たちに戦争をやめさせるために、女たちはセックスを拒否するのさ。過酷なストライキだろ?」

「はあ……」

「女はずっと男の腕力に従い続けてきたが、有史以来、本当に男が女に勝ったためしはただの一度もない。僕はそう確信しているね」

「根拠のない、非科学的な確信ですね」

「そういやきみは科学畑の出身だったかな? そんなんじゃ、女の子にもてないぞ」

「大きなお世話です」

 健二はひょいと肩をすくめると、まだ指先の臭いを嗅いでいた子猫を、両手でひょいと抱き上げた。子猫は急に空中にぶらさげられて、四肢をむやみに突っ張らせ、足がかりを探そうと藻掻きだした。ようやく見つけた足場は、健二の袖口のカフスボタン。いかにも高級そうなボタンに爪がひっかき傷をつけるが、健二は意にも介さない。

「副社長」

「健二でいいよ」

 ハジメは意を決して、本題を切り出した。それを知ってか知らずか、健二はまだ猫とじゃれあっている。

「どうして、その……僕だったんですか?」

「システム・オペレータの仕事かい? いやそれが、前に雇ったのがとんでもない奴でね、ある日ふらっと行方を眩ませてしまって、ま、代わりが務まるなら誰でも良かったんだが……」

「ナルのことです」

 健二はそっと、猫を自分の膝の上に寝かせた。猫は気持ちよさそうに、ごろごろと背中を擦りつけ、甘えている。あの高級生地のスーツに毛がつくのも、健二はちっとも気にしない。

「この間、説明したことが全てさ。ナルが君を選んだ。監視役にね」

「ナルがどんな実験を受けてるのか知りませんが、どこの誰とも分からない僕に預けるなんて、会社にとってはリスクしかないはずです」

「よく分かってるじゃないか。さすが一流大学を出てるだけのことはある」

「ふざけないでください!」

 子猫が大声に驚いて、ハジメを鋭く睨み付けた。怯えに満ちたその目に気付き、ハジメは腰を浮かしかけていたことに気付く。どうもだめだ。副社長が苦手なのである。彼と話していると、ハジメはいつも冷静でなくなる。落ち着いて椅子に深く腰掛け、大きく深呼吸をした。鼓動がゆっくり収まっていくのがわかる。

「何をイライラしているのかな」

 ふっ、と健二は溜息を吐いた。

「……あなたは何か隠している」

「違うだろ?」

 健二は怯える猫をそっと抱き寄せ、優しく撫でた。猫はごつごつしたその手のひらに、背中やお腹を押し当て、気持ちよさそうに甘えている。なー、と猫が鳴くのが聞こえる。

「僕が何を隠し立てしたところで、君は知ったこっちゃないだろう」

「……じゃあ、なんだっていうんですか」

 にやりと笑ったきり、健二は何も言わない。

 しばらく無言でいた二人の元へ、女性二人が戻ってきた。スカートの裾をふわふわと揺らしているナルと、定規でも刺さっているんじゃないかと思うほどぴんと背筋をのばした恵里。患者と付き添いのお帰りだ。

「おまたせー! ハジメ、猫は? 猫は?」

 帰って来るなり第一声が猫かい。ハジメは露骨に不機嫌になって、視線で健二の膝の上を指す。有無を言わさずナルは膝の上で丸まる猫を抱き上げ、

「猫ちゃーん! ただいま超ただいま!」

「なー」

 ついていけないハイテンションだ。ハジメはそっと溜息をつく。

 そんな二人には構わず、恵里はツカツカと健二に歩み寄った。

「副社長、サボり中に悪いのですが、給料分働いてください」

「……きみはもう少し優しい言い方を身につけるべきだと思うんだ」

「お耳を拝借します」

 健二の耳元に口を寄せ、恵里は何事かを耳打ちする。隣のハジメにも全く聞き取れない何かを聞いて、健二は目を細めた。

「……分かった、すぐに行こう。ナル」

 椅子から立ち上がった健二の目は、さっきまでとは打って変わって、刃のように研ぎ澄まされた殺気を放っていた。その視線が横目にナルを捕らえ、

「仕事があるかもしれない。社内にいてくれ」

「はーい」

 仕事?

 訝るハジメの手に、猫が押しつけられる。半ば反射的に猫を胸に抱きながら、ハジメがナルを見つめると……彼女はハジメの不安を振り払おうとしてか、にっこりと、屈託のないいつもの笑顔を浮かべた。

「だいじょうぶだよ! そんな顔してたら猫に嫌われちゃうぞっ」



(つづく)

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