2:「ただいま」と「おかえり」のまにまに
2-1:「ただいま」を言いたくて
何年ぶりだろう、早く家に帰りたいなんて思ったのは。
ハジメは、私鉄の駅から家までの、たった十分の道のりを、ほとんど駆け足に近い歩調でいそいそと歩いていた。履き慣れない革靴の踵が靴擦れを起こしているのも気にならなかった。会社の書類で膨らんだ黒い鞄も、何の重荷にもならなかった。
鼻歌なんて歌いながら。
星よりも目映いマンション群の灯りの下を、ハジメは薄暗い街灯を頼りに突っ切っていく。
そしてとうとう走り出す。
一刻も早く。
ただそれだけを、浮ついた頭の中に念じながら。
*
ぺちっ。
やる気のない音を立てながら、ナルの親指がボタンを叩く。
画面の中の巨大ロボットが、ちゅーん、と間抜けなギア音を響かせながら、左手の剣を振り回した。敵のロボットが素早く身をかわす。バカにしてるのか、とでも言いたげに、敵ロボットがナルを睨みつける。
「だってつまんないんだもん」
ぷー、とほっぺた膨らませ、ナルがコントローラーを投げると同時に、ナルの分身である巨大ロボットは哀れ鉄屑と化す。
CONTINUE? と画面が聞いてくる。ナルは応えもせず、カーペットの上に背中からばったりと倒れ込んだ。
「ふー……」
溜息が出る。
つまらなかった。
朝はとてもわくわくしていたのに。家中……といっても狭い1Kだが、隅々まで綺麗に掃除して。洗濯物をてきぱきと干して。晩ご飯のお買い物に行って、レシピ首っ引きで慣れない料理に挑戦して、失敗して、再挑戦して、うんと頷いて……
「まだかなー……」
首を絞められた鶏みたいな声で言いながら、ナルはごろりと寝返りを打つ。本棚の上の時計が、チッカチッカと時を刻む。今、午後七時三十分。
気の遠くなるような静寂に、無情な秒針の音だけが響き渡る。
――と。
微かな物音に、ナルは弾かれたように飛び起きた。確かに今聞こえた。足音。外のスチールの螺旋階段を上る足音だ! コントローラーを蹴っ飛ばし、ドタドタ床を踏みしめて、ナルは転がるように玄関へ向かった。
あんまり急ぎすぎたのが良くなかったのか。ドアを目前にしてナルは足を縺れさせ、そのままドアへと倒れ込む――
だが、ナルがおでこをぶつけるより一瞬早く、ドアが音もなく引き開けられた。その向こうに立っていた、よれた背広姿の男性が、驚きながらも、突っ込んできたナルを優しく抱き留める。
ふわっ……と、背広の臭いがナルの鼻先に広がった。
「あ……」
手触りの良い綿生地を撫でながら、ナルは慌てて顔を上げる。
彼女の顔が、くちゃくちゃになった。
「お……おかえり! ハジメっ!」
「た……ただいま」
ハジメは顔を真っ赤にしながら、そのまま玄関先で、ナルの感触を味わっていた。
*
おかえり、という一言が、こんなに気持ちよいものだなんて。
ただいま、という一言が、こんなに気恥ずかしいものだなんて。
ハジメは知らなかった。始めから知らなかったのか、あるいは、長い一人暮らしの中で忘れてしまっていたのか……いずれにせよ、ハジメはかつてないほどの興奮を味わっていた。
帰れば、迎えてくれる人がいる。
冷めてしまった夕食を、温め直す時間さえ――もうハジメにとっては、無情な冷たい時間ではない。時計の針が刻む冷淡な連続音は、自分以外の誰かが立てる衣擦れの音に掻き消される。
寂しさは温もりの中に消えていく。ちゃぶ台のそばに寄り添うように座り、二人はただ、じっとしていた。
じっとしていることが、一番幸せだった。
肩に、腕に、股に触れる温もり。
レンジが、チンッと抗議の声を挙げる。
二人して、無視した。
*
食事の後は遊びに出かけた。
といっても、この二人のことだ。行き先は近所のゲームセンターに決まっている。モノレールの線路をくぐり、煌びやかな高層ビルの下、人混みの中を、二人は手を繋いで駆け抜けた。惹かれ合う素粒子のように、鮮やかなスピンを描きながら……
ゲーセンの防音ドアが開くなり、音は洪水のように溢れ出す。ホログラム筐体の香しいオゾン臭に、ナルは鼻をひくつかせる。体中に浴びる色とりどりのスペクトルは「ロータスペタル」が放つもの。「タンクバトル」の轟音が耳から耳へ突き抜けた。
「何やる?」
「なんか言ったぁー?」
ハジメが尋ねると、ナルはててっ、と一人奥へ走って行ってしまった。
聞こえなかったのか、聞く必要もないということなのか。果たして彼女が飛び込んだのは、「キャリオンクロウ」の人だかりだった。四つのパイロットブースの左二つから、頭をくらくらさせた少年たちが這いだしてくる。
余程手ひどくやられたな、お気の毒に。ハジメはこっそり、意地悪い笑みを浮かべた。
ナルはというと、人混みを掻き分け掻き分け、勝者のブースに歩み寄ると、やおらそのハッチを引っ張り開けた。
「こおら、少年っ」
「あ?」
……何やってんだ、何を。
「子供は家に帰らなきゃいけない時間でしょ! いつまでも連コしてないで席譲んなさい!」
人のことを言えた年ではないと思うのだが。
ハジメが頭を掻きながら寄っていくと、なるほど、ナルよりもさらに若く見える少年たち二人が、不機嫌そうな顔をブースから覗かせていた。話して聞いてくれそうな顔には見えない。
「あンだよ。うぜーし」
「あーよろしい。そんじゃこうしよう。二対二で対戦して、わたしたちが勝ったら後ろの人に席譲る。どお?」
「あのー」
ハジメがそっと手を挙げた。
「二対二って、ひょっとして僕も?」
「もちろん」
「だよね……」
ハジメは溜息を吐いた。ナルときたら、ただのゲームを遊ぶにも、なにやら大げさな勝負をふっかけて、すぐに舞台を大きく大きくしてしまうのだ。目立つのが嫌いなハジメにとっては、少々困ったクセである。
ブースの中の少年は、にやあっ、と笑みを浮かべて、
「いいぜ。後悔すんな。言っとくけど、オレは近畿の
百番以内といえば、そんじょそこらのゲームセンターでは、ほとんど無敵の強さだろう。なるほど、自信があるわけだ。
「ふぅぅぅん?」
ナルの目が、すぅっと細くなった。こっちの笑みのほうが悪魔のようだ。
「お手柔らかに、ね♪」
そして今、ナルはハジメの腕の中にいる。
みなれた1Kの天井を見上げ、月明かりしかない闇の中、ハジメは体中の触覚に意識をこらす。一糸まとわぬ白い肌が、ハジメのそれと触れ合っている。ナルが寝息をたてるたび、肌と肌が擦れ合うのを感じて、ハジメは小さく身震いする。
ハジメは、ナルの恋人になった。
もちろん、就職口と引き替えに、なんていう下品な理由でそうなったわけではない。
ハジメの心は、もっと単純で、素直で、根元的な――本能的なと言い換えてもいい、そんな思いで満たされていた。
ナルのそばにいたい。ナルを抱いていたい。
腕の中の、もう少女とは呼べなくなった女性を、ハジメはそっと抱き寄せた。安らかに眠るナルが、寝息で、微かに抗議の声をあげた。謝る代わりに、背中まで伸びてきた栗色の髪を撫でる。艶やかな髪が、雫のように流れ、指の隙間からこぼれ落ちた。
「ずっとそばにいたいんだ。きみが――」
そこから先は、言葉にならなかった。
だがハジメは、ナルへの純粋な愛情を感じながら、一方で奇妙な違和感にも苛まれていた。自分の腕の中で眠るナルの、思ったよりも柔らかな体。日に日に少女の面影が消えていく可愛らしい寝顔――
一足飛びどころか、十段も二十段も飛び越えて、ナルは大人になっていく。
そんな印象を、ハジメはどうしても拭いきれなかった。
(つづく)
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