1-8(終) さよなら、そして
次の朝目覚めたら、ナルの姿はどこにもなかった。
あの大きなボストンバッグも、朝方洗濯が終わるようにタイマーを仕掛けておいた洗濯機の中身も、みんなきれいに消えていた。いつも通りの朝日が、カーテンの隙間から差し込んでくる。いつも通りにハジメは目を細める。年度末を間近に控えた子供たちのはしゃぐ声が、いつも通りにうるさく響く。
いつも通り。ナルに出会う前と同じ、いつも通りの朝だった。
ちゃぶ台の上には、かわいい丸文字で、手紙がしたためてあった。内容は簡潔なものだった。「約束通り家に帰る」と、ただそれだけ記されていた。
結局、どこの誰だったのかもわからずじまい。わかっているのはナルという名前と、あの優しい笑顔だけ。
これでまた、ハジメもいつもの自分に逆戻りだ。バイトで小銭を稼いで、足りない分は親の脛をかじって、就職活動と、ゲーセン通いに明け暮れる毎日。寂しくなったら悪い女に騙されてみたりする。そんな、堕落した自分に――
でも、少しは変われるだろうか?
少しは、真剣に生きられるだろうか?
ナルがきっかけを作ってくれた気がするから。
「色々ありがとう、ナル」
手紙を大事に握りしめ、ハジメは窓から空を見上げる。眩しい太陽は、雲一つない空に、燦々と輝いている。
「さよなら」
と、その時。電話がうるさく鳴り響いた。
*
着慣れないスーツに身を包み、ハジメは緊張気味に正面玄関の前に立った。梅田のオフィス街でも一際背の高いこのビル。玄関の上にでかでかと貼り付いているエンブレムは、世界に名だたるEMO社のものである。生化学系ではトップクラスの企業だ。
「うっへえ……」
あんまりビルが高いものだから、ハジメは天辺を見上げて溜息をついた。フロートドレスが推進器を全開にしても、上まで昇るのに三秒ちかくかかるかもしれない。
電話は、EMO社人事部からの、採用通知だったのである。前にダメもとで面接を受けてみて、あっさり不採用を喰らったのだが。その不採用通知が何かの間違いだったらしい。
世の中、不思議なこともあるものである。気分が変われば運も向いてくるのだろうか。
しかしどうも、場違いな気がしてならない。颯爽とビルに入っていくサラリーマンたちは、みんな背筋をぴんと伸ばして、堂々としている。いかにも頼れる大人の男という感じだ。それに引き替え自分はどうか。よれたスーツ……これは、一着しかないうえにクリーニングに出す暇もなかったのだから仕方がない。アイロンのあて方が下手でしわのついたシャツも、まあよかろう。しかし、落ち着かなく何度もネクタイの結び目を直している様子は、どうもよくない。慣れていませんよと宣言しているようなものだ。
ちょっと落ち着かないと。いつまでも玄関の前に立ち尽くしているので、いいかげん周囲からも不審の目で見られている。
ハジメは意を決して、靴墨のかかっていない靴で、強化ガラスの門をくぐった。
*
そして通されたのは、やけに豪華な、ビルの頂上付近に位置する部屋だった。
やたらに柔らかいソファに腰掛け、ハジメはカチカチになりながら、周囲をきょろきょろ見回していた。一体なんだこの部屋は。なんだかよくわからない絵画に、黒い木製のデスク。背の高い本棚には難しそうな本がいっぱい。そして思わず靴を脱いで正座したくなるほどふかふかの、この絨毯。
ひょっとして、ものすごく偉い人のオフィスかなにかだろうか? なんで採用されたばかりの自分がこんなところに? 新入社員と面接するのが、ここの重役のしきたりか何かなのだろうか?
ハジメの疑問をよそに、重たい樫のドアを押し開け、一人の男が入ってきた。重役にしてはまだ若い。三十台半ばといったところだろう。びしっと決まったスーツでなくて、もっとラフな服装をしていれば、ハジメと同い年といっても通じるかもしれない。
そして彼の後からついてきたのは、書類ケースを小脇にたずさえた、見事な脚線美の女性。艶やかな黒髪と、切れ長の目を、ちらりとハジメの方に向ける。美人だ。
ハジメは弾かれたように立ちあがり、固くなった筋肉をがんばって動かして、ぎこちない礼を送った。
「あ、あのっ、僕はっ」
「ああ、瀬田ハジメくんだね。待たせて悪かったね」
「え、いや、いいえ……」
涼しい声で言う男性に導かれ、ハジメはデスクの前に立つ。男性は革張りの椅子にどっかりと腰を下ろし、女性はその斜め後ろに控えた。こんな人たち、漫画でしか見たことがない。どこから見ても立派な若社長とその美人秘書だ。
「僕は小林健二。副社長をしている。こっちは秘書の飯田恵里」
やっぱり。背筋が凍るようだ。ここで少しでもヘマをすれば、彼――健二の指先一つで、せっかくの就職口がパーになるかもしれない。
「さて……突然きみを雇用することにしたのは、きみにしかできない特別な任務が発生したからなんだ」
「あ、はあ……」
「まずはきみに引き合わせたい人がいる。入りたまえ」
ぱたん。
ハジメの背中の後ろで、ドアの開く音がする。
次の瞬間。
「ハージメーっ!」
誰かが、ハジメの背中に飛びついた。
慌ててハジメは振り返る。背中から腕を回して、固く抱きついている女の子。見たところ十四五歳で、きれいな栗色の髪をした、抜群にかわいらしい女の子――
「ナル!」
ナルはにっこり微笑んだ。
「なんでここに!? え? あれ? あれ!?」
「落ち着いて落ち着いて、約束通りうちに帰るって言ったでしょ」
「彼女は、我が社の重要人物でね」
悪戯っぽくにやりと笑い、健二は頬杖つきながらハジメを見つめた。まるで値踏みされているような気分だ。実際そうだったかもしれない。
「家出中に出会った瀬田ハジメ君は非常に優秀な人材だから、是非我が社に迎え入れたい……と、こう言うんだよ。彼女は」
大げさ大げさ。
何食わぬ顔で自分にしがみつくナルを見下ろしながら、ハジメはぽりぽり頭を掻いた。
「まあ、そういうワケだから。ナルのことはヨロシク頼むよ」
「あ、はあ……」
……ん?
「はあ!?」
思わずハジメは声を裏返した。
「ちなみに、ナルの荷物は既に君の自宅に輸送しておいたから」
「はあーっ!?」
副社長、秘書のお姉さん、そしてナル。順繰りに見回すが、誰も冗談を言ってる目をしていない。呆然とするハジメに、ナルはいつもと同じ、こちらまで微笑みたくなるような、優しい笑顔を浮かべたのだった。
「よろしくね、ハジメ!」
1:ダメ男と家出娘 完
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