1-5 ナルって呼ぶ声、優しい声



「ハジメの勝利を祈って!」

「かんぱーい!」

 仁井光弘の音頭に合わせて、みんなのグラスがかちりと音を立てた。

 どこかのまっとうな企業に就職が内定した仁井は、がっしりした背の高い体育会系の男。宝塚マニアの美月みつきみそのは、途中で転科したせいで単位が足りなくなり、まだ史学科の学部生をやっている。

 ハジメにとっては、数少ないが大切な友人たちだった。

 ハジメの狭い1Kは、たった二人に押しかけられただけで、すし詰めのような状態になった。ちゃぶ台一つでは机が足りないので、ゲーム機を置いてある机まで引っ張り出して、酒の缶とつまみを山と詰んでいる状況である。四人もいれば、空き缶が増えるスピードも並大抵ではない。

「いやーしっかし意外だったな」

 仁井が、グラスのビールを飲み干すなりハジメをつついた。

「こんな女の子を連れ込んでるなんざ思いもよらなかったぜ」

「つっ、連れ込むとか言うな! ナルは……その、コーチだよ、ちょっとした」

「ええー」

 ベッドの上にちょこんと腰掛けて、ナルはにやにや笑っている。手元のグラスをくるくる回しながら、

「ゆうべはあんなに激しかったのにぃ。きゃ」

 三人組の視線が一気にハジメに集まった。ハジメはずりずり後ずさり、

「してないっ! 何にもしてないぞ! 冗談で言ってるんだから本気にするなよ!」

「ま、そういうことにしとこうか」

 これで当面、特に仁井にはロリコンロリコンとおちょくられ続けるハメになるだろう。ハジメはがっくりうなだれると、手元のチューハイをちびちびすすった。

「ねーねーそれでさ」

 美月が横から話に割り込んだ。もうそうとう酒が進んでいるらしい。ほんのり頬を赤く染めながら、宝塚女優を意識した大げさな身振りで、ハジメに擦り寄ってくる。どうもハジメは、美月に見つめられるのが苦手である。まるで射抜くかのように丸まると目を見開いて、じっとハジメから目を離さないのだ。

「特訓してどうだったの? 必殺技とかできた?」

「必殺技っていうか……近藤の必殺技を破る方法は見つけた」

 おおっ、と二人がどよめく。近藤の強さを知らない者はいないのだ。

「近藤の必殺技っていうのは、こう、近藤が逃げてて、僕がそれを追いかけてる時に……」

 と、ハジメは手のひらを水平にして掲げ、左手の指先が、右手の手首を追いかけている形を作る。左がハジメ、右が近藤を表している。突然、右手――近藤が、ハジメの頭の上まで急上昇した。

「こんなふうに、いきなり上昇する。すると僕のほうも、追いかけようとして慌てて上昇軌道を取る」

 斜め上に指先を向けて上昇する左手。

「ところがこの時、僕は斜め上を向いてるから、前方に少しだけ死角ができるんだ。そこで近藤は、僕の死角に入った瞬間、MAFを切る」

「MAFって?」

 美月が小首を傾げた。仁井はアメリカ人みたいに肩をすくめて、

「空を飛ぶ魔法」

「おー、なるほど」

 ハジメはこほんとせき払いすると、気を取り直して再び手を掲げた。近藤が上昇して、ハジメもそれを追って上昇したところまでをもう一度再現する。

「それで……MAFを切ると、近藤は空が飛べなくなって、こう落ちる」

 近藤を表す右手が、すとんとハジメの膝の上まで落ちていった。

「これで完全に僕の足元……死角に入り込めるわけだ。僕が水平飛行に戻った時には、近藤の姿も見えないし、MAFを切って下降しているから航跡ウェーキも残さない。近藤は戸惑ってる僕の背中側に上昇して、攻撃」

「じゃあじゃあ、そこまでわかってるなら、次は大丈夫だよね?」

「うん。相手の動き方さえわかっていれば、見失わないよ」

 と、そのとき。

「うりゃー!」

 さっきから黙りこくっていたナルが、背中からハジメに向かってダイブした。バランスを崩したハジメは壁の柱に頭をぶつけて小さく呻く。ナルは体をくねらせながら、ハジメのふとももに頬をなすりつけ、

「かーいじゅーヒーザマークラー」

「か、怪獣?」

 どうも様子がおかしい。ハジメははっと気付くと、ナルの持っている空のグラスをひったくる。鼻を近づけ臭いを嗅げば、鼻腔をつんと突くアルコールの香り。

「ちなみにナル酔ってないからねー?」

「酔っぱらいはみんなそう言うんだ! 誰だよナルに酒飲ませたの!」

「俺だ!」

 仁井が元気よく右手をあげた。ぴんと一直線に伸ばして二の腕を耳にくっつけ、角度は斜め45度。完璧だ。

「ちなみにあたしも飲ませました!」

「二人して何考えてんだよ!? この子は未成年だぞ! ……だよね?」

 と、尋ねてみてもナルの返事は返ってこない。一人慌てるハジメの膝の上で、ナルは気持ちよさそうに寝返りを打つ。仁井は、ナルのよだれがハジメの膝にしたたるのを見下ろしながら、

「そういやこの子何歳なんだ? 若く見えるだけで二十歳こえてるかもしれんだろうが」

「いくらなんでも、そんなことは……」

「おーいナルちゃーん、おとしいくちゅー?」

 ナルは目を瞬かせると、やおら指を三本にゅっと突きだし、

「みっちゅー!」

「ホラ見ろ!」

「何がだ!?」

 ぴんぽーん。

 その時、玄関のベルが鳴った。ハジメはナルの頭を持ち上げ、ベッドから引っ張ってきた枕の上に優しく乗せると、席を外して玄関に向かう。一体こんな時間に誰だろうか。他の友達が、話を聞きつけて押し掛けてきたのかもしれない。

 ハジメは玄関のドアを押し開けた。

 隣の家のおじさんが般若の形相で立っていた。

「……今何時だと思ってるんですか! 少し静かになさい!」

「す、すいませんすいません……」

 ハジメはぺこぺこ頭を下げた。



   *



 仁井たちは、終電ギリギリの時間まで騒ぐと、名残惜しそうに帰っていった。

 アパートの前まで二人を見送ったハジメは、一人、とぼとぼと自分の部屋へ続く螺旋階段を上る。ゴムの靴底とアルミの階段が触れ合い、夜空にか細い音を響かせる。ハジメが見上げた空は、月もなく、暗い。

 雲もないのに、暗い。

 ハジメは身震いして、部屋へ急いだ。

 部屋の中では、ナルが一人で待っていた。まだ酒が抜けない、火照った頬。ベランダのガラス戸を開けて、じっと、月のない空を見つめる瞳。微かに震える指。ハジメが帰ってきたことに気付くと、ナルはそっと、ハジメの方に指を伸ばした。

「ハジメ」

「ん?」

「触って」

 心臓が大きく鼓動するのがわかった。

 それを悟られまいと、ハジメは息を止める。息を止めて、血が上った頭を冷まそうとする。ナルがどうして、何を考えて、こんなことを言うのかは分からない。しかし――従いたかった。ナルの肌に触れたかった。

 でもハジメには、できなかった。

 ハジメの心にはタガが嵌っていた。優子という名のタガ。

 裏切られてもなお、優子はハジメを縛っている。ハジメの心を規定している。

 ハジメは目をそらした。ナルの真っ直ぐな視線に、耐えきれず。

「変なの。いまごろ怖くなってきて……勝負の約束したときのこと、思い出して……危ない橋、渡ってたね」

「そうだよ。だから言ったじゃないか」

「うん……大声だしたりして、ごめんね?」

「いや……」

 言葉も満足に出てきやしない。

 ナルは立ちあがった。有無も言わせなかった。ただ、流れるようにハジメに歩み寄ると、その胸の中に体を埋めた。ナルの細い腕が、ハジメの背に回される。指先がハジメを撫でる。雪のように白い指先。目には見えないのに、なぜかその色がわかった。

「なっ」

 声が上擦る。再び大きく鼓動する心臓。今度こそ、聞かれたに違いなかった。

「ナル、なにを……」

「触られてると、安心する」

 ナルが小さく呟く。

 ハジメは、はっとして、目を見開いた。

 不安。痛み。苦しみ。自分を打ちのめす冷たいもの。そこから――

「あったかい」

 ――救い出してくれたもの。

 あの時自分を護ってくれた、あの時自分に優しくしてくれた、ナル。彼女はハジメが求めていたものそのものだった。そしてなんのことはない、彼女の求めているものも――

 ハジメはできるだけ優しく、できるだけ温もりが伝わるように、そっとナルの背を抱いた。ナルが腕にいっそう力を込めるのがわかった。お互いの温もりが、最も直接的な手段で、お互いの肌に伝わる。自分が融けていく感覚。流れ出して、どこかへ消えてしまいそうな感覚。

 しばらく互いに抱き合った後、ハジメはぽつりと呟いた。

「ナル」

「それ、いいね」

 ナルの声には、心なしか元気が戻ったようだった。勢いをつけてハジメの胸から離れると、少し乱れた髪を手櫛でほどく。ハジメを見上げて浮かべる笑顔は、いつものナルと同じだ。

「ハジメの、ナルって呼ぶ声、すごく優しくて、うれしい」

「そう……かな」

 照れ笑いを浮かべると、ナルは背伸びしてから、くるりとハジメに背を向けた。ベランダに出ると、物干し竿にかけっぱなしになっていたバスタオルを取ってくる。ナルが来てから一枚新調した、白地に小さな花柄がついたやつだ。

「今日は疲れちゃった。シャワー浴びてくるね」

「あ、うん」

「のぞいちゃだめよー?」

「のぞかないよ」

 リビングから出ていくナルを見送り、ハジメは小さく溜息をついた。まだ、腕の中にナルの感触が残っている。背筋を悪寒が走る。自分の心をごまかすように、座布団の上にあぐらをかき、仁井たちが残していった発泡酒の缶を開ける。

 喉を過ぎていく泡の感触を楽しみながら、ハジメはふと、リビングから出るナルの姿を思い起こした。

 あの時、ナルの後ろにあった本棚――エロ本はすっかり片づけてしまったが、その一番上の段より、ナルの背丈の方がすこし高かったような……

 たしか初めて会った次の朝は、ちょうど本棚と同じくらいの背丈だった気がしたのだが。

「成長期かな?」

 と、適当に結論づけると、それっきりハジメはそのことを思い出さなかった。



(つづく)

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