1-4 特訓開始!!



 特訓は過酷を極めた。

 近所の神社の石段は、空の果てまで続いているかのように見える。新緑の向こうにかすんで見える青空。憎たらしいくらいの青空。ハジメは汗だくになりながら、駆け足で石段を登っていく。

 一体どこから持ち出したのか、竹刀を振り回しつつその後をちょこちょこついて来るナルは、

「特訓そのいち! 『過酷! 地獄っ、のっ、石だ……げふっ、おえっ」

 ……コーチの方が息切れしてどうする。




 万博記念公園そばの遊園地。

「特訓そのにわああああああああああああああああ!?」

 二人の乗ったジェットコースターは錐揉み回転しつつ空の彼方へ消えていく――




「とどめの特訓そのさん!」

 二人並んでパイロットブースに潜り込み、ゲームの世界に没入する。

 積み上げたコインの山は、見る見るうちに塵と消えた。




「そして一日の終わりには……あっ、あぁん……いぃ」

 紅潮した頬。しっとりと濡れた肌。ナルの口から漏れるのは、暖かい吐息。

「あっ、き、効くー! もーちょい右ね」

 ハジメは風呂上がりのナルの背中をマッサージしているのだった。なんで自分がこんなことしてるんだか疑問に思いつつも、指示通り右に親指をずらす律儀なハジメであった。

「……ナル」

「んー?」

「このトレーニングの効果は?」

 しばらく無言で考え込んでから、ナルは静かにこうこう言った。

「主に肩こりと背中のこりに」

 ぐいっ。

「ぃぅわいたたたたたたいたいいたいいたいー!」



   *



 既視感。

 ハジメは背筋を走る悪寒に、神経を研ぎ澄ます。淀川上空をモチーフにした仮想空間の中、ハジメの前を逃げ続けているのは、「闇御津羽クラミツハ」。トップスピードを重視した、近藤の愛機である。

 「近藤ミラー」。

 「ミラー」は、日本各地域のトップランカーの行動パターンを正確にコピーした、疑似人格AIである。最新版のキャリオンクロウに、話題作りの新要素として組み込まれているものだ。これに勝つことは、近藤本人に勝つこととほとんど等しい。

 近藤ミラーが動かす闇御津羽クラミツハの機動は、小回り重視のはずの「ヴィクセン・アクティヴ」にも劣らない。ハジメは必死にコマンドを飛ばして追いすがり、近藤ミラーが疲れに一瞬意識を飛ばしたその時を狙って、推進器を全開する。

 淀川の煌めく水面を切って、ハジメの体が闇御津羽クラミツハを追いつめる。振りかざした右の拳。手甲ガントレットの金属ピストンの起動をコマンド。

 しかし次の瞬間、闇御津羽クラミツハがハジメの眼前で急上昇した。

 既視感。

 同じだ。あの時と。近藤に破れたあの時と!

 闇御津羽クラミツハを追ってハジメも急上昇。そして闇御津羽クラミツハのほうに視線を落とす。ハジメの予想が当たっているなら、闇御津羽クラミツハは――

 いない!

 予想通り、敵の姿はどこにも見えない。フロートドレスの動きを示すMAF航跡ウェーキも見あたらない。慌てるな。ハジメは自分に言い聞かせる。全ては予想通り。何もかもうまく行く。

 ――下よ!

 仮想世界の外から、ナルの声が聞こえてくる。そう、下だ。

 コマンド、《重心移動/(0・―8)》!

 脛に重心を移動させ、ハジメは前に倒れるように宙返りする。そして捉えた真下の光景。そこには、停止していた推進器を再びふかして、ハジメの背後を取ろうと上昇してくる闇御津羽クラミツハの姿があった。

 ――捉えた!

 ナルの歓声。

「《アクティヴ》!」

 高機動型増加推進器アクティヴ・ブースターが起動する。こちらに気付かれたことを悟ると、闇御津羽クラミツハは慌ててSMGの弾をばらまく。しかし電撃にも似たハジメの高機動が、そのことごとくを回避する。

 こんどこそ。右腕を振りかぶる。手甲ガントレットにコマンド。

「《インパクト》ォッ!」

 こんどこそ。

 ハジメの右腕のピストンが、闇御津羽クラミツハのボディを正面から貫いていた。



   *



 しばらく実感がなかった。

 パイロットブースのなかで、脳波リンク・ヘルメットもかぶりっぱなしで、ハジメはじっと明滅する画面を見ていた。あの時と同じに。あの時と同じ非現実を感じながら。

 あの時と一つだけ違ったのは、勝利を告げる画面の表示だけ。

 「近藤ミラー」、撃破。

「やったぁーっ!」

 パイロットブースの扉を開けて、ナルが中に飛び込んできた。呆然とシートに座り続けるハジメに、ナルは力強く抱きつく。その体の柔らかさが、暖かさが、少しずつハジメに現実感を取り戻させる。そうだ。耳を澄ませば――

 聞こえてくる。パイロットブースの外のざわめきが。

「すっげぇー、ミラーに勝ったぜ!?」

「見たかよ今のマニューバ……」

「本職かなんかじゃねえの?」

 ハジメはメットを脱いで、パイロットブースから歩み出た。いつのまにか筐体ハードの後ろに集まっていた観衆ギャラリーが、一際大きな歓声でハジメを迎えてくれる。

 そばに寄りそうナルの顔を見つめる。ナルはにっこり微笑み、ハジメを促す。ハジメはおずおずと手を持ち上げると、観客たちに応えて見せた。



   *



「一週間ぶり……か」

 恵美須アーケードのゲームセンターに、近藤と……そして優子は、いた。

 いつもどおり、「キャリオンクロウ」の賭ゲームで、荒稼ぎをしていたんだろう。近藤の隣のパイロットブースから、真っ青な顔で這いだしてきたのは、その哀れな被害者。一週間前のハジメそのものだ。もうだれも彼に見向きしない。敗者だから。一文無しだとわかっているから。

 ハジメは歯を食いしばった。ハジメには見向きもせず、ブラックアウトした画面を鏡代わりにリップを塗り直している優子を見つめながら。

「新しい彼女のお披露目か、ハジメ」

 近藤の視線が、ハジメの後ろのナルに注がれる。当のナルは近藤の言葉など意にも介さず、ただひたすら、むせかえるような煙草の臭いに鼻をひくひくさせている。

「お前に勝負を申し込みに来た」

 近藤の眉がぴくりと動いた。彼を取り囲むちんぴらたちの薄ら笑いが、波紋のように広がっていく。

「いやだね。面倒なだけだ」

「逃げるのか?」

「やだねェ、いつの時代の煽り文句だよ……どうせ賭ける金もありゃしないんだろ。おれは得にならないことはしないんだ」

 言われてハジメは言葉に詰まる。財布の中身はほとんどからっけつ。銀行にも最低限の生活費しか残っていない。どんなに訓練して強くなっても、近藤を土俵に引っ張り上げられなけりゃ、何にもならない。サラ金にでも飛び込んでなんとかするか、それとも……

「いいじゃない」

 優子が横から、涼しげな声を挟んだ。

 真っ赤な口紅が、空気圧でケースの中に引っ込んでいく。見覚えのある金色のケース。ハジメが有り金はたいてプレゼントした、どこだかのブランドの口紅だ。かつて自分の手から希望と欲望にまみれて放れていったその口紅が、優子の胸元にしまい込まれるのを見て、ハジメの背筋に微かな悪寒が走る。

 優子。心の中で名を呼んでも、彼女はこちらを向いてはくれない。

「勝負してあげなよ」

「でもなあ」

「もし勝ったら、あの子がここで裸になる、っていうのはどう?」

 息が詰まる。

 周囲の視線が一斉にハジメに――いや、ハジメの後ろのナルに注がれた。ナルは事情を理解しているのかしてないのか、きょときょとと周囲を見回し、目を瞬かせている。

 まずい。ナルを巻き込むわけにはいかない。ここは一度引き下がって――

 と、ハジメの脳が焦りに支配されはじめたその時。

「いいよ」

 事も無げにナルが言い放った。

「そんな、ナルっ」

「黙ってて」

 浮き足立つハジメを、ナルの冷たい呟きが抑えた。

「そのかわり、ハジメが勝ったらあなたが裸になる。これで、条件は平等、ね」

 水を打ったように、あたりはしんと静まりかえった。

 誰一人声を発する物はない。ただ、ゲームの音声だけが虚しく響くだけ。

 異様な雰囲気に、ようやくハジメは気付いた。言い出した当の優子がまた、目を丸く見開いて動揺している。ハジメの性格を知り尽くしている優子は、ハジメを引き下がらせるために、適当でバカな条件を提示したのだ。

 なんてことだ。ずっと年下のナルのほうが、よほどハジメより根性が座っている。

「なぁに、その顔? まさか自分から言い出しといてイヤだとか言わないよね。トップランカーの色女イロだもん、そのくらいの分別はあるよね。ねー、近藤さん」

 成り行きを見守っていた近藤が、突然にやりと笑みを浮かべる。その視線は、まさぐるような粘っこい視線は、ナルに釘付けだった。気に入られたというわけか。近藤に。

「面白い、それでいこう。明後日なら予定が空いてる。ただし一本勝負だ。時間が惜しいからな」

「ちょっと、五郎!」

 抗議する優子の腰をぐいと抱き寄せ、近藤は改めてハジメを睨み付ける。

「負けやしないから大丈夫さ。お互いに……な、ハジメ」

 拳を握りしめることしかできない。

 ハジメには、それしかできない。



   *



 アーケードを出て、地下鉄の駅へ向かう道を行きながら、ハジメはずっと無言だった。

 歩幅を広げて、一人で先に歩いていこうとするハジメ。それをちょこまかと追いかけるナル。ゲームセンターを出てからずっとこの調子だ。ハジメの放つ、怒りだか何だかの気配が、ナルに声をかけることをためらわせる。

「……ねー」

 ナルはとうとう、痺れを切らして、おそるおそる声をかけた。

「なに怒ってるの? うまくいったのに」

 ハジメの脚が止まった。

 ハジメは鬼気迫る勢いで振り返り、ナルの肩を強く掴んだ。その目にいつもの穏やかさはない。

「なんであんな勝手なことを言ったんだ!」

 頭ごなしのその言い方で、ナルの心にも火がついた。ハジメに負けじと爪先立って、なるたけ自分を大きく見せると、ありったけの大声を振り絞ってつっかかる。

「勝手? 勝手ってなによ! ああでも言わなきゃ勝負できなかったのよ! あのまま引き下がればよかったっていうの!?」

「優子は口からでまかせを言ってただけだ! あそこは一旦引き下がるべきだったんだ! それに近藤は本物のヤクザなんだぞ、いざとなりゃ……」

 はっとして、ハジメは声のトーンを落とす。周囲の視線はハジメ達に集まっていた。こんな往来の真ん中で大声を出せば当然だ。ハジメはナルの腕を乱暴に引っ張って、裏路地に連れ込んだ。

「いざとなりゃ……脱がされるくらいじゃ、その……わかるだろ?」

 言葉を選びながら、しどろもどろになりながら、それでもナルを聡そうとするハジメの顔を、ナルは両手で優しく包み込んだ。ハジメの体が一瞬、固く硬直する。頬を擦る手のひらの感触。自分の瞳を、自分の瞳だけをじっと見つめている、ナルの黒くて深い瞳。

「わかってる」

「ならどうして」

「ハジメが勝つってことも、わかってるから」

 ハジメを激励するための出任せには、聞こえなかった。

「ハジメががんばったってこと……強くなったってこと、わたし、知ってるから」

 心からそう思っているのだと、ハジメには感じられた。

 ハジメはナルの手を握ると、優しくそれを降ろした。ハジメの目は、もうナルを見てはいない。暗闇の中に浮かぶ、地上の灯りに掻き消されそうな月を、じっと見上げている。

「僕は勝つ」

 握りしめた拳に力を込める。

「絶対に」

 それを奴に、叩き込むために。



(つづく)

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