1-2 ダメ男と家出娘



 目を開くなり、ハジメは息を詰まらせた。

 水色カーテンの隙間から、差し込んでくる朝日。まるで寝起きの瞳を突き刺すようだ。ハジメは目を細め、もじもじと体を動かす。外から聞こえてくるのは、すぐ向かいの小学校へ登校してくる、子供たちのはしゃぎ声か。幼さが放つ無尽蔵の元気が、ハジメの半分眠った意識を容赦なく揺さぶっている。

 ハジメはたまらなくなって起きあがった。自分の臭いが染みついたベッドの上で、あぐらをかき、大きく背伸びをする。その瞬間、猛烈な頭痛に襲われて、ハジメは小さく呻いた。

 これは「二日酔い」だ。といっても酒を飲んだわけではない。脳波リンクへの長時間の接続は、脳に重大な混乱を引き起こす。ちょうど、車や酒に酔ったときのように、嘔吐や頭痛を伴う不快感を味わわされるわけだ。それがいわゆる「接続酔い」というやつだが、程度が激しければ翌日以降も症状が――

「優子」

 ハジメははっとして、小さく彼女の名前を呟いた。そうだ。全てを思い出した。昨日の夜、ハジメは恵美須のゲームセンターで、優子を巡ってトラブルを起こし、近藤……トップランカーの近藤に……

 負けて、そして。

 ハジメはようやく、そばで安らかな寝息を立てる、少女の存在に気付いた。

 少女は昨日とおなじ、ありふれた淡い色のブラウスにプリーツスカートという格好をしていた。ソックスは、脱いで床に放り投げてある。少女の荷物らしい大きなボストンバッグは部屋の隅だ。少女はハジメのベッドのそばに座り込み、ベッドに突っ伏せて、かわいらしい寝顔を晒している。裸足が意味ありげにぴくぴくと動いた。

 そうだった。昨日は、倒れているところをこの少女に助けられたんだ。

 記憶は少女と出会ったところから飛んでいる。ちっとも覚えていないが、この二日酔いの具合からして……かなりの醜態を晒したに違いない。見ず知らずの、年の頃ならまだ十四五の、少女にだ。

 情けないったらありゃしない。

 ハジメは痛む頭を抱えながら、そっとベッドから立ちあがった。そして自分がくるまっていた毛布を少女の肩に掛けてやる。気持ちよく眠っているのを邪魔しないように、飽くまでも優しく、ゆっくりと。

 それにしても――かわいい。

 こうして近くでまじまじと見ると、抱きしめたくなるような衝動に駆られる。思わず手を伸ばしかけた自分に驚いて、ハジメは慌てて手を引っ込めた。顔が紅潮しているのが分かる。心臓の鼓動もいつもより早く、そして強い。一体何を考えてるんだ。相手は見たところ中学生、どう大きめに見積もっても高校生くらいだというのに。

 邪念霧散邪念霧散。心の中で唱えながら、ハジメはぶんぶん頭を振る。おかげで頭痛がますますひどくなり、ハジメはよろけて、漫画だのゲームの攻略本だのでいっぱいの本棚へ寄りかかった。

 ふと目にはいるのは、本棚の一番上の段を陣取った、エロ本の背表紙の群れ。

 ……これはまずい。

 月並みだが押入の中にでも放り込んでおこう。少女が目を覚ます前に、とハジメが慌ただしく部屋の片付けに勤しみ、最後のエロ本を押し入れにぶちこんだ、ちょうどその時。

「んー!」

 背後で女の子の声がする。振り返ると、あの少女が目を覚まし、気持ちよさそうに背伸びをしているところだった。

 ……ギリギリセーフか。ハジメは胸を撫で下ろした。

 ハジメがかけた毛布が、少女の肩からずり落ちる。それを不思議そうに見下ろしてから、少女は立ちすくむハジメの姿にようやく気付いた。

「あ」

 そのたった一音節の声が、矢のようにハジメの胸に突き刺さる。

 心臓が一際高く、脈打つ。

「だいじょうぶっ!?」

 少女は立ち上がり、すがりつくようにハジメににじり寄った。少女の身長は、ハジメの胸ほどまでしかない。必死の目で、下からじっと、ハジメの瞳を見つめてくる。ハジメはできるだけ優しく、と心がけながら微笑むと、穏やかな声で応えた。

「え、あ、いや……平気、です。ありがとう」

「そっか、よかった! ……ん」

 ぐぎゅうぅぅぅぅ。

 少女のお腹が元気よく声を挙げた。

 ほんのり頬を赤くして、少女は目をパチパチさせている。

「あ……うん。ご、ごはん食べてく?」

 一も二もなく、少女は頷いた。



   *



「昨日は、ごめん」

 向かい合わせに座ったちゃぶ台の上には、トーストと目玉焼きと、紙パックの麦茶が一リットル。ハジメたちの朝食はそれだけだった。

 一人暮らしのハジメは食器もろくに揃えてはいないので、トースト用の平皿も一枚きりしかない。しかたがないのでハジメのぶんは、底の深いスープ皿に盛っている。少々不格好だが、悪くはあるまい。

 少女――ナルと名乗った少女は、目玉焼きを乗せたトーストの角にかじりつくと、しばらくもごもごと噛みしめていた。不思議そうにしばたたかせる目が、窓から差し込む朝日に照らされ、きれいに輝いている。ひとしきり見つめて、ハジメをどぎまぎさせた後、ナルはトーストをごくりと飲み込んだ。

「んーん。いいの。わたしも寝る所がなかったから……泊めてもらって助かっちゃった」

「寝る所がないって……」

 訝しがるハジメに、ナルはまたにっこり微笑んで見せた。それ以上聞かないで、とかいう意味合いだろうか。深入りするのを諦めてハジメがトーストをぱくつきはじめると、ナルはずい、と身を乗り出した。吸い込まれそうな深い色の瞳が、ますますハジメに近付いてくる。

「ね、それよりさ」

「え?」

「何してたの? あんなところで寝っ転がって」

「……別に好きで寝てたわけじゃないよ」

「じゃ、なに?」

 ハジメはうつむき、琥珀色をした麦茶の水面に視線を落とす。ゆったりと揺れるその水面に、奴らの顔が映っているようにさえ思える。近藤。優子。たくさんの嘲笑。汚物にまみれた自分。

「負けたんだ。近藤に。『キャリオンクロウ』で」

 キャリオンクロウというのは、未来都市大阪で戦う飛行傭兵をモチーフにした、脳波リンク方式のシューティング・ゲームである。しかし、たかがゲームと侮ってはいけない。ひとたび脳波リンク・ヘルメットをかぶれば、まるで本当に未来世界へ入り込んだかのような、臨場感溢れる世界が広がる。脳が負荷に耐えきれず接続酔いを起こすほどなのだから、その情報量たるや推して知るべし、である。

 恵美須、新世界あたりのいかがわしいゲームセンターでは、ヤクザやチンピラたちがこいつを使って賭けゲームまでやっている。つい昨夜、ハジメと近藤がやったように。

 ナルの目がまるまると見開かれる。彼女も、そのあたりの事は知っているらしい。

「近藤って……近藤五郎? 近畿のトップランカー?」

 ……というより、やけに詳しい。彼女も筋金入りのゲーマーか。

「そう、その近藤」

「有名人だ! ねね、どうだったの? 勝負」

 ハジメはぽりぽり頭を掻く。だから負けたと言っているのに。

「三回勝負で……一本目だけは取ったよ」

「すごーいっ!」

 ナルの腕が伸びてきて、ハジメの手のひらを包み込む。ぎゅっと握りしめられた手を通じて、ナルの温もりが伝わってくる。僅かに擦れる肌と肌。押しつけられた柔らかさ。ハジメは思わず硬直する。ナルの放つ嵐のような感情に、一瞬身をすくめる。

「すごいじゃない! トップランカーから一本取るなんてすごいすごいっ!」

「いや……その……」

 一通り面食らった後、ハジメは照れくさくなってそっぽを向いた。

「すごくなんかないよ。僕は……負けたんだ。優子をとられて、かっとなってつっかかって、そのくせ完璧に負けて、あのていたらくさ。かっこわるいよ、ほんと」

 ぼそぼそと独り言のようにつぶやくハジメに、ナルは小首を傾げる。

「優子って?」

「女の子」

「彼女?」

「……っていうか、僕が勝手にそう思ってただけっていうか……」

 ますます落ち込むハジメを、ナルは優しい視線で見つめた。笑っている。嘲っているのではない。心の底から、ハジメを祝福して、笑っている。

「かっこいいよ」

 ハジメは弾かれたように顔をあげた。

「女の子のために、あんなになるくらいまで、真剣になれるのって。かっこいいよ」

 打ちのめされた気がした。昨日ハジメを打ちのめした、あの冷たい雨とは違う。ハジメ自身が、恥ずかしさや自己嫌悪から認めようとしない自分自身を、あっさりと認めるその言葉。怒りや哀しみや悔しさで曇っていた視界が、きれいに開けたような気がした。

 ハジメは大きく深呼吸して、息を吐いた。トーストに目玉焼きを乗せて、大口あけてかぶりつく。ナルは満足げにそれを見ると、

「ね、再挑戦してみたら?」

 再挑戦。もう一度、近藤と戦う。そんなことに意味があるわけではない。いまさら勝ったところで、優子が戻ってくるわけではない。そうではなくて、ただ――

 負けた自分に勝つために。

 矜持、のために。

 ハジメは口の中のトーストを、麦茶で胃に流し込んだ。決意はもうできていた。ハジメは握り拳を作ると、力を込めたそれをじっと見つめた。

「次は勝つ」

「その意気その意気! じゃ、食べ終わったらさっそく……」

 と、その時だった。部屋の隅で、電話が小さく音を立てる。だれかからかかってきた電話に応対するのは、録音されたメッセージ。昨日から留守電をオンにしたままだったのだ。慌ててハジメは立ち上がり、受話器を取

『もしもし? 母さんじゃけえど!』

 ……ろうと伸ばした手が止まる。

 ハジメの額に冷や汗が滲む。年齢を重ねて少し疲れた女性の声。子供の頃からさんざん聞き慣れた声だ。

『就職決まったん? あんたももう二十二なんじゃけえ、いつまでも親の脛かじりょうらんと、しっかりせられえよ。お父さんの会社も色々大変なんじゃけえ……これ聞いたら電話ちょうだい。じゃあね』

 ぴーっ。三月五日月曜日午前八時三十六分です。

 沈黙。

 体中の筋肉を軋ませながら、ハジメは振り返った。澄まし顔のナルに、引きつった笑顔を向ける。

「はは……実家から……」

 ナルはにっこり微笑んでそれに応えた。この微笑みはどういう意味だろうか。あまり深く考えたくはないが。

「いやあ、なかなか仕事みつかんなくてさ……こないだもEMO社の面接落ちちゃって。今はバイトと仕送りで暮らしてるんだけど……かっこわるいよね、ほんと」

「うん。ちょーかっこわるいね」

 ハジメはがっくりうなだれた。



(つづく)

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