07.それだけが残る《お題:ゆずの香り》
「いーい匂い」
カーディガンから伸びる、彼女の白魚のような手を取った。仄かに柑橘系の香りがする。
「セクハラですよ。ま、今更ですけど」
涼しげな目から送られる視線が、こちらを糾弾する。気にする必要はない。仕事中の彼女は何もしなくたって厳しいから。
ただセクハラは本当に今更だと思う。僕にとって彼女は会社の同僚であり、そして元カノ。
例えばその昔、僕と彼女がどれだけ恥ずかしい行為に及んでいたか、そう揶揄ってやろうとして――やっぱり止めた。
「これ、ハンドクリームの匂い?」
「そう。ゆずの香り。使います?」
「んーん。イラナイ」
僕、手スベスベだから。両手をひらひらさせて見せると、彼女は白けた顔で「そうですか」とそっぽを向いた。いや、時計を見やったのか。
次の会議まであと15分。僕が時間潰しのつもりで立ち寄った給湯室も、お茶出しを急ぐ彼女にとっては戦場同然というワケだ。
「ゆずといえばさア」
まあ、僕は休憩したいだけなので全然雑談振るけどね。彼女、若干睨んでる気がするけど。
「ゆずってさ、味思い出せなくない?」
「は? 意味分かりませんけど」
「分かんないかなー。
オレンジはさ、オレンジの味って思い浮かぶじゃん。レモンもさ、レモンの酸っぱい味、何となく想像つくじゃん。
でもさ、ゆずの味って何故か出てこないの」
彼女は作業の手を止めない。でも僕には分かる。彼女が今、ゆずの味を思い出そうとしてくれているのだと。
けど沈黙に耐えられなかったので、僕は彼女の返事を待たなかった。
「ゆずの、あの匂いだけしか思い出せない」
「貴方が普段ゆずを口にしないだけでしょう」
「えっ、そういうこと?」
「まあ、でも、思い当たる節はあります。
私にとっては、さくら味がそうです」
「あー分かる。さくらも匂いしか出てこない」
湯気と一緒に漂ってくる、淹れたてのお茶の匂い。
お茶の味だってやっぱり思い出せるのにな。
「ま、要はさ。ちゃんと何度も味わわないと忘れちゃうってことだねきっと」
それなりに名言っぽい言葉を浮かべて、彼女の背中にそっと手を伸ばす。
ああ、すっかり忘れちゃったな彼女の味。
あんなに何度も味わったっていうのに。
「いえ、忘れる程度ならそれまでですから」
僕の手をするりと抜けて、彼女はお茶の並んだ盆を持ち上げる。
そしてこちらを見ることすらなく、給湯室をさっさと離れていってしまった。
「……つれないなぁ」
ゆずの香り。それだけを残して。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます