05.アリスになりたかった《お題:落ちていく》

 覚束ない浮遊感。灯りもないのに、やけに明るい穴の中を落ちていく。

 顔に張り付く髪の毛が不快でしょうがなくて、とにかく梳かそうと、壁に掛かっていた櫛を咄嗟に手に取る。

 持ち手に剝げかかった猫のシールが見えて、一気に自覚した。


 これは、夢だ。


 分かってみれば、ちぐはぐ過ぎて笑えてくる。大穴を落ち続けている状況すら変なのに、その壁に実家の櫛が掛かっているなんて、めちゃくちゃだ。

 おまけに、夢の解像度も決して高くない。周りの景色も、自分が着ている服さえ判然としない。ただ、穴を落ち続けている。


 『不思議の国のアリス』だ、とふと思った。

 脈絡のない思考だ。まあ、夢の中の思考なんて脈絡のないものだろう。

 それにしても、アリスか。旧友の名を聞いたような、感慨深い気持ちだ。


 確か幼い頃に読んだ。少女が兎を追って、穴に落ちて、不思議の国で冒険を……。

 いや、そうだ。アリスなら、もっといろいろあるだろう。身体が大きくなったり、縮んだり。お茶会やら裁判だってあったはずだ。

 夢に出てくるシーンが、よりにもよってここなのか。


 まあアンタの夢なんて、そんなもんだろうね。


 母親が突然横に現れ、平然とした顔で言う。夢にまで出てこないで欲しい。

 文句を言おうとしたが、口を開いても声が出せない。

 記憶よりも妙に若い母親が、薄笑いを浮かべている。


 それなりに生きてきたつもりだろうが、アンタは結局鬱屈としたヤツなんだよ。

 だから、夢もこんなになっちまうんだ。


 嫌なことを言う。母親はこんな悪意に満ちたことを言う人では無かったはずだ。

 いや、果たしてそうだっただろうか。足元がぐらぐらする。そういえば、落ちているんだった。


 心配しなくても、すぐ目は覚めますよ。ほら、もう朝だ。


 今度は帽子を被った男が現れた。もしや、あの帽子屋だろうか。よく顔を見ると、しばらく会っていない同期の顔だった。

 気味が悪い。所詮この夢は記憶の切り貼りなのだと見せつけられた気分だった。

 帽子屋の男がまた、何かを言おうとしている気がする。やめてくれ。早く目を覚ますから、それでいいだろう。そもそも、何だってアリスの夢なんか見たんだ。


「俺は、男だろう」


 階段を踏み外すような、がくっとした感覚で目を覚ます。

 薄暗い天井。時計を見ると、朝の4時半だった。ついさっきまで見ていた夢の内容がもう思い出せない。思い出せないのに、心臓が痛くてしょうがなかった。


 アリスになりたかった、のかもしれない。

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