第5話 捜査本部

 殺された神崎には、殺害されるという動機が見当たらない。だから、犯人が見えてこない。

 最初は三角関係のもつれのように思えたが、どうもそうではないようだ。

 それを考えてみると、何ともいえない状態になり、この時、筆記の刑事も、最初は言葉を濁していたが、言いたいことがあるようで、探りを入れながら、言葉を発するタイミングを見計らっていると、

「どうも、ああいう神崎というような男は、僕は嫌いなんですよ」

 と言い始めた。

 まるで、

「虫唾が走る」

 とでもいいたいかのような感じであった。

「虫唾が走るとは?」

 というと、

「口で勧善懲悪と言っていたり、言わないまでも、そんな状態になる精神状態の人間を、まともに信用すると、騙されることになると思うんですよね」

 というのだ。

「どういうことなんだい?」

 と聞くと、

「これは、僕が、まだ中学生の頃なんですが、友達とよく推理小説を読んでは、その話に花が咲いていたんです。僕らは、ネタバレはそんなに気にしていなかったので、読んでいない小説のトリックなどを聞かされても、別に何とも思わなかった、なぜならm小説を読むのは、謎解きを楽しむというよりも、最初に聞いたことが、文章でどのように描かれているかということに興味をもつからですね」

 というのだ。

「それで?」

 と聞くと、

「それをいいことに、わざと謎解きをネタバレになるけどといちいち断って話すやつがいたんですが、それも悪いこおとではないでしょう、だけど、あまりにもあざといと、今度はうっとおしくなってくる。それを相手は分かっているんでしょうね、言いたいことを言ってくるんですよ。それは挑発のように言われるんだけど、それでも、こっちが我慢していると、さらに、煽ってくる」

 黙って聴いていたが、

「それは、お前も悪いのではないか?」

 と言いたいのを堪えていた。

「そっか、今の彼の感情は、それを言いたいのか?」

 と思うと、彼のいう、

「あざとい」

 という言葉の意味が分かってきた。

「決して相手の態度が嫌なわけではなく、完全に、相手のペースにさせられているが、ネタバレは大丈夫といっている以上、ここで苛立ちを見せると、負けを認めることになるというのだろう」

 と考えているに違いない。

 それを思うと、

「困ったものだ」

 と言えるのだが、それに文句が言えないのは、

「自分を否定していることになる」

 ということを分かっていて、相手もそれを攻撃してくることからの、

「あざとさ」

 なのではないだろうか?

「相手のあざとさが動機になる?」

 ということを、考えていたのだ。

 そして、その動機というのは、誰もが持っているというもので、人の残虐性というものを引き出すことができるのであれば、何も自分が行動することはない、

 そんな風に考えるやつもいて、それが、この時に聞き込みをした、

「自称、友達」

 ということになるのかも知れない、

 そんなことを考えていると、

「俺は、動機を知っているんだぞ」

 ということで、警察に、協力するというよりも、

「どこで警察が分かるか?」

 ということを楽しんでいるように思えた。

「あいつは、警察を舐めている」

 という感情を、この刑事は持ったのだろう。

 そう、

「彼も、勧善懲悪」

 という意味では誰にも負けない警察官ではないだろうか。

 ただ、警察官において、

「勧善懲悪」

 というのが、どこまで正しいのかというのは難しい。

 犯罪捜査において、

「刑事の仕事」

 というのは、実に難しいものである。

 それは、あくまでも、

「感情を入れてはいけない」

 ということであり、

「必要以上に、感情を入れてしまうと、前が見えなくなる」

 とうことだ。

 一ついえることは、

「警察の仕事は、事実から、犯人を導き出すことで、それは、真相であり、真実である必要はない」

 ということだ。

 つまりは、

「真実と事実」

 ということの比較ということなのだろうが、

「事実」

 というのは、動かしがたいというものであり、

「真相」

 というものは、その事実をつなぎ合わせたものだ。

 つまり、

「事実は点であり、それをつなげ手線となれば、それは、真相ということになるのであろう」

 ということなのだ。

 これが、真実ということになると、そこには、心理や感情が含まれてくるが、それは、事実に裏付けられるものではない、逆に、

「真実があって、そこから派生したものの結果として事実がある」

 というもので、

「真相」

 というものは、警察が深く掘り下げるものなのかどうか微妙である。

 刑事が逮捕し、事実を立件できるだけの証拠として検察側に提出すると、そこから先は、起訴するかどうかで、裁判にいたるかどうかが決まってくる。

 だから、警察の仕事はここまでで、後は、裁判における、検事や弁護側の証人として出廷することがあるだろうというくらいのことであった。

 そこでは、当然、真実が明らかになり、事実との関係が分かってくる。

 そこまですることで、被告の、

「罪状認否が行われ、判決にいたる」

 ということになる。

 その判決を言い渡すためには、

「真相と事実」

 そして、裁判で明らかになった、

「真実」

 それらが、一つになって、判決という結果を出すのだろう。

 この二人の刑事であるが、聞き込みをした刑事を、門倉刑事といい、冷静沈着で有名で、

「すぐに出世するだろう」

 と言われている。

 ただ、キャリア組ではないので、どうしても、出世のスピードは遅いだろうが、部下は、皆、

「あの人の下でなら、働ける」

 と考えているのであった。

 そして、もう一人の刑事、書記をしていた刑事であるが、彼は名前を三浦という。前述のとおりの、勧善懲悪な性格で、それがゆえに、奇抜な発想を持っているので、門倉刑事は、相棒として、結構期待していたりするのだった。

 二人は、事件に対して、お互いに違う視点から見ているようだったが、

「結局は同じところに行きつくのではないか?」

 とお互いに考えている。

 門倉刑事の方は、考え方としては、

「加算法」

 という考え方であった。

 何もないところから、情報を集めていって。そこから、ピースを埋めていく。そして、見えている-ものと組みあわせて、

「限りなく満点に近く」

 していこうという考え方であった。

 この考え方は、最初から真剣にやっていないと、最後のピースに辻褄が合わない時は、見つける答えが難しい。

 というのは、

「双六において、残りのマスとまったく同じ数字の賽の目が出ないと、オーバーした分だけ、後戻りをするという場合に、意外と難しかったりする」

 ということを考えたり、

「簿記の帳票を作る時、左右で数字が合わない時、それを合わせようとする場合、数字が大きいほど、何とかなる」

 という考え方である。

 数字が小さいと、その分、プラスマイナスが複雑に入り組んでいるという場合があるので、その数字がピッタリと合わせるには、下手をすると、また頭からということになる。

 しかし、逆に、三浦刑事の場合は、

「減算法」

 という考え方だったのだ。

 この考え方は、最初が百で、そこから、少しずつ、

「余分な部分」

 であったり、

「辻褄の合わない部分を削る」

 ということになる。

 また二人の関係性を示すものとして、貸借勘定帳というものがあるが、左右で、

「マイナスとプラスが入り組んでいる」

 だから、余計に数字を合せるのが難しいのだが、この二人のコンビはまるで、この貸借勘定帳というものの、左右のような関係になるのだった。

 ある意味、お互いに、

「凸凹コンビ」

 といってもいいだろう。

 門倉刑事はそんな風に感じていたが、三浦刑事は、そんなことは思っていない。

 やはり、三浦刑事の勧善懲悪性というものは、融通の利かない性格のようで、その、

「抑え」

 として、門倉刑事を当てたのは、正解だったといえるだろう。

 この署での捜査権を握テイルのは、桜井警部で、大体事件が起こると最初にできる捜査本部では、本部長と勤めることになるのだった。

 桜井警部もキャリア組ではない。地道に刑事畑を歩んできて、やっと最近、警部に昇進し、あっという間に、捜査本部長に就任するようになった。

 そこには、管理官の強い薦めがあったのだが、桜井警部は、それに十分に答えているといってもいいだろう。

「K警察の刑事課」

 では、今回の捜査本部もできていて、今回の事件の初動捜査で分かったことが、話し合われていたのだ。

「今回の事件というと、まず、被害者の死因は、ナイフによる刺殺で、出血多量によるショック死ということでいいんですか?」

 と、門倉刑事が聴いた。

 捜査本部の会議となると、積極的になるのが門倉刑事で、三浦刑事の方は、普段と同じで、

「書記役」

 に徹底していたのだ。

 というのは、

「最初の捜査本部というのは、まずは、状況報告がほとんどで、そこではまだわかっていることが少ないので、その情報だけを忘れずにメモしておくことが先決だ」

 と、意外と冷静にその状況を捉えていたのだった。

 それを考えると、門倉刑事も、何も言わない。逆に、

「キチンとメモを取ってくれているのはありがたい」

 と考えていたのだった。

 桜井警部も、初動捜査は、

「今後の捜査の足掛かりだ」

 という風に思っているだけで、それ以上でも、それ以下でもないと思っている。

「あのあたりはよく通り魔が出没するところだと言われているけど、通り魔の犯行ではないのかね?」

 と、桜井警部は聴いた。

 桜井警部としても、事前に、

「通り魔のようにも一見見えますが、どうも違うようですね」

 と聞いていたのだ、

 その理由を、門倉刑事は、

「我々の見解では、通り魔は、左利きではないか?」

 と言われていることを桜井警部にいうと、

「いかにも」

 と桜井警部は答えたが、

「鑑識がいうには、確かに、左手で刺したようではあるけど、それは、右手を添えたか何かをしてわざと左利きであることをアピールしているようなところがあるんですよ」

 というのだ。

 それを聞いた桜井警部は、

「それはどういうことだい?」

 と聞かれて門倉刑事は、

「どうも、犯人が左利きということにこだわっているのが気になるんですよ」

 という。

 桜井警部補は、なぜそんなに門倉刑事がこだわっているのかは、分かっているような気がした。それでも、

「どうしてなのかな?」

 と聞くと、

「今回の通り魔犯の共通点に、左利きの男というのが、キーワードになっているということは、まだ公表されていないことなんですよ。週刊誌にも新聞にも発表されていないことで、それを今回の犯人が知っていて、まるで、自分が右利きのくせに、左利きに見せかけようというのは、どこかがおかしいと思うんですよね?」

 と門倉刑事が言った。

「なるほど」

 という桜井警部に対してそういうと、

「ええ、そうなんですよ。私は、初動捜査の中で、他のどのことよりも、このことに対しての方が興味をそそるんですよ。犯人が一体何を考えているのか。そして、犯人は何がしたいのか? ただの殺人ではないのか? ということですね」

 と、門倉刑事は、不謹慎ではあるが、目を輝かせていたのだ。

 ただ、その気持ちは桜井警部にも分かるというもの。

 お互いに、刑事畑を歩んできて、出世を願っているわけではないが、上にいくほど増してくる責任であったり、さらに、キャリア組との確執などを考えると、自分がどうしていいのかということを考えさせられる。

 警察という組織と、官僚という組織は、他の会社とは違う。

 まずは、公務員であるということ、

「国民の税金で食っている職業」

 ということで、しかも、公務の間は、他の自由な権利を持っているはずの人の権利を、捜査上のことということで制限できる権利がある。

 逮捕、拘留、さらに、家宅捜索と、裁判所に申請することで、その権利を得ることができ、逮捕拘留している一定期間、自由を拘束して、取り調べができるのだ。

 昔とは、かなり様変わりしたようだ。

 大日本帝国時代の、特高警察というのは、本当にひどかったようだ。

 何といっても、その時代には、

「治安維持法」

 というものがあり、

「政府にとって、反対の意見を持った組織を取り締まったりできた」

 というものだ。

「社会主義であったり、アナキストなどの、無政府主義であったり、天皇制を否定する」

 というような主義主張と言っている人間を拘束し、拷問に掛け、そういう組織を、まるで、国家に対する反逆として捉え、検挙に邁進したものであった。

 さらには、戦時中などでは、

「戦争反対」

 という意見を徹底的に、

「非国民」

 として弾圧するのだ、

 時代としては、

「仕方のないものだった」

 と言えるかも知れない。

 何しろ、大日本帝国というのは、

「立憲君主国」

 であり、憲法では、

「主権者は、天皇」

 ということになっていて、確かに、

「君臨すれど統治せず」

 という言葉があるが、

「主権者としての特権があるが、自分からの統治ではなく、政府であったり、軍、さらには警察組織というのが、統治のために、国民を取り締まることができるというのが、

「治安維持法」

 だったのだ。

 何といっても、戦争中というと、

「戦争がこれからという時、一致団結して、目的完遂を目指す」

 というのが、そもそもの、

「宣戦布告の詔」

 ではないか、

 これは天皇によって起草され、発表されたものであり、そこには、

「臣民」

 という文字が書かれている。

 今の時代には、馴染みのない、

「臣民」

 という言葉であるが、この言葉は、

「平時には憲法で認められる自由や権利であるが、これが、戦争などの有事ということになると、その権利が一部制限され、戦争であれば、大本営というものを中心に、戦争を勝利に導くために、国民が一丸となってことに当たる」

 というのが、臣民という意味である。

 一種の、

「戒厳令」

 のようなものである。

 戒厳令というと、一つの都市に対しての、クーデターであったり、地震などの災害時であったりと、

「自治体の機能がそれらによって失われた時、中央から、それらを統治するための任務を負って、天皇に任命された戒厳司令部というのが、その土地の治安を守る」

 ということになる。

 その治安を守るためには、時と場合によって、自由を制限しなければならない。それが、権利の抑圧になるのだろうが、これも、

「公共の福祉」

 ということでは、当然のことなのだ。

 それを思うと、

「立憲君主における治安維持は、力によるものだ」

 といってもいいだろう。

 今の民主主義では、何といってもm

「基本的人権の尊重」

 であり、

「法の下の平等」

 ということになる。

 しかし、その時らも、

「基本的」

 であり、

「法の下」

 という但し書きが書かれているのだ。

「法の抜け穴」

 ということにならなければいいといってもいいだろう。

 そういう意味で、法律もそうだが、警察内のマニュアルや、政府におけるマニュアルもも見たことがないので分からないが、ひょっとすると、

「抜け穴のようなものがあり、曖昧さを醸し出しているのかも知れない」

 と感じるのだった。

 大日本帝国の戦時中における、

「反政府主義」

 としての、

「社会主義」

「共産主義」

 と言った、あくまでも、治安維持を壊す団体は、徹底的に排除していき、戦時中の非国民といわれる、

「戦争反対論者」

 というのは、

「国民の士気を低下させる」

 ということで、一番の罪に価するといわれ、警察に逮捕され、

「ひどい拷問に掛けられ、中には、死んでしまう人もいたかも知れない」

 ということであった。

 そんな状態になると、

「警察というところは、特に特高警察というのは恐ろしい」

 と言われていた。

 それは、政治家であっても同じことであった。

 たとえば、軍や政府内部で、

「実は社会主義の分子ではないか?」

 と、当時存在下、

「諜報部」

 のようなところで内偵が行われ、

「社会主義者」

 としての烙印が推されると、今度はその証拠固めということで、当時の通信省という政府の機関が、秘密裡に、その家の電信電話を傍受できるということになったのだ。

 それが、

「治安維持のため」

 ということになり、

「民主主義における自由というものは、まったくない」

 といってもいいだろう。

 つまり、当時の、

「自由」

 というのは、

「国民のため」

 というわけではなく。国家のため、

 ひいては、

「天皇陛下のため」

 ということになるのであった。

 今では本当に信じられるであろうか?

「政府や、警察が、個人の家を法律に守られて、電信電話を傍受できるのである」

 しかも、それが公然と行われているというのであるから、おそろしいといっておいいだろう、

 今であれば、

「個人情報保護」

 という法律があり、

「それに違反している」

 ということになるのだろうが、そもそも、もっといえば、

「憲法で人権と、平等が認められている」

 ということで、ありえないのだ。

 しかも、どんなに有事に近い形になったとしても、

「憲法では、人権と自由が認められているということで、戒厳令のようなものを行使することはできないのだ」

 つまりは、違憲ということになり、

「本当にそんなことで、一番大切とされる、生命を守ることができる」

 というのだろうか?

 国民というものをいかに守るかというのが本来の国家の責任のはずなのに、国家を守るために、国民がどうなってもいいというのであれば、まさに、

「国破れて山河あり」

 ということになってしまう。

 そもそも、日本という国は、

「個人情報が守られている」

 と言えるだろうか?

 一つは、日本は、

「独立国であって、独立国ではない」

 ということだ。

 いつまでも、

「地位協定」

 などというものがあって、それに縛られているではないか。

「ウソか本当か分からないが」

 ということで、

「どうやら、日本はその国の国債を強引に買わされているという。しかも、それは、相手からすれば、返さなくてもいいというもので、完全に、奪い取られているということになるのだ」

 というものであった。

 国債を買わされているだけではなく。

「国家の威信というものも何もない状態で、政府首脳が、まったく頭が上がらないのだから、たまったものではない」

 と言えるだろう。

 相手が、

「戦争をするから」

 ということで、軍を出せない我が国は、金だけを出すことになる、

 確かに、

「平和憲法が守ってくれている」

 ということであったが、敗戦国である我が国は、結局、70年以上が経っても、いまだに敗戦国として、

「隷属している」

 といってもいいだろう。

 そう、

「我が国は、属国」

 なのである。

 向こうから、無理難題を言われても、憲法の範囲内であれば、いくらでも金を出したり、兵器を供与したりなど、兵器でするのだ。

 考えてみれば、

「平和憲法」

 を持っている国に対して、

「武器を買え」

 あるいは、

「後方支援くらいはできるだろう」

 ということで、攻撃されない限り抵抗できない中で、同胞国が本当に守ってくれるかどうか分からないくせに、

「なんということを言うんだ」

 と思っても、従わなければならない。

 それが、今の日本という国であった。


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