第3話 オオカミ少年

 そんな中において、一人の男性が、都市伝説に怯えていた。

 それは、

「自分のドッペルゲンガーを見た」

 といって騒いでいるのであったが、それは、あくまでも、まわりから言わせれば、

「ただの妄想にしかすぎない」

 といって、誰も打て遭わなかった。

 なんといっても、その男は、

「オオカミ少年」

 であったり、

「ほら吹き男」

 などという、ありがたくない謂れを頂いていたのだ。

 というのも、いつも大げさに騒ぐのだが、それが当たった試しがないからだった。

 最初の頃は、それでも、

「ウソかも知れない」

 と思いながらも、

「本当だったら、まずい」

 と思ったのだ。

 そもそも、オオカミ少年という話を、寓話として、自分たちは知っている。

 そして、子供の頃に、

「オオカミ少年」

 というと、デマばかりを流していて、

「オオカミが来た」

 と言い続けたのだ。

 それに対して、

「どうせ、いつものデマではないか?」

 といって誰も信じなくなったところで、今度は本当にオオカミが来たことで、その村は全滅し、確か。少年も一緒に食べられたということではなかったか?

 この話において、

「では一体誰が悪い」

 というのか?

 つまりは、寓話なのだから、

「誰に対しての戒めか?」

 ということであるが、

 この話においては、まずは、

「オオカミ少年が悪い」

 ということは分かっている。

 完全な愉快犯で、世間を騙しているのだから、一番の戦犯は、この主人公の少年であることに間違いはない。

 しかし、寓話とすれば、

「浦島太郎」

 のような例もあるが、

「最後は悪い人間がバツを受け、いい人間は報われる」

 ということでなければいけないだろう。

 浦島太郎の場合は、

「カメを助けた」

 といういいことをしたにも関わらず、結果として、

「玉手箱をあけたことで、お爺さんになってしまった」

 というものであった。

 本来の話には、実は続きがあったというのが、本当のようで、最後はハッピーエンドだという。

 というのは、

「浦島太郎の話というと、竜宮城の楽しい生活から我に返った浦島太郎が、故郷を懐かしんで、帰りたいというと、お土産に玉手箱を貰い、カメに乗って地上に帰ってみると、そこは、自分の知らない未来の世界で、自分の知っている人が死に絶えてしまい、誰もいない世界だった」

 ということから、

「太郎は、悲観してしまい、乙姫に貰った、決して開けてはいけないと言われた玉手箱をあけてしまったということで、お爺さんになってしまった」

 というところで終わるのが、一般的な浦島太郎のお話だった。

 しかし、実際には、その続きがあるのだ。

 これではあまりにも、中途半端であり、どうしてこうなってしまったのか?

 ということが分からない。

 ただ、これは、浦島太郎が、

「開けてはいけないと言われた玉手箱をあけてしまったことでバツを受ける」

 という、おとぎ話や神話にはよくある、

「見るなのタブー」

 と言われるものを破ったことへの戒めだったのだ。

 同じおとぎ話でも、

「鶴の恩返し」

 などの話があったり、

「聖書」

 の中には、

「ソドムとゴモラ」

 の話であったり、または、ギリシャ神話では、

「パンドラの匣」

 などいろいろある。

 浦島太郎の話もその中の一つとして、

「禁を破ったことに対しての戒め」

 というものが存在しているということである。

 それを考えると、浦島太郎の話が途中で中途半端ではあるが終わってしまったというのも分かる気がする、

 本当の話は、

「お爺さんになった浦島太郎であったが、太郎を愛していて、忘れることができない乙姫が、カメの姿になって、地上にやってきて、さらに、太郎は、お爺さんから鶴の姿に変わり、二人は、鶴亀として、末永く、幸せに暮らした」

 というのが、本当の話だということであった。

 おとぎ話というのは、そもそもが、地方に伝わっていて、

「口伝」

 という形で、口から口を通して伝わってきたことが、纏められ、

「おとぎ草子」

 という形で編纂されたものが多いということなので、それぞれにパターンがあったりするというものであった。

 それを考えると、

「浦島太郎」

 という話も、おかしなことになっているといっても過言ではないだろう。

 そういう意味でも、浦島太郎の話のように、

「戒め」

 という形で伝わる方が多いのかも知れない。

 教育という意味では、

「ハッピーエンドというよりも、戒め」

 と言った方が、話を伝えていくという意味では、このような

「見るなのタブー」

 と言われるようなものは、

「あってしかるべきだ」

 と言ってもいいだろう。

 そういう意味で、オオカミ少年の話というのは、ここでいうような、戒めが、

「もう一つ存在する」

 というのだ。

 というのは、前述のように、

「オオカミ少年」

 と呼ばれる少年が悪いというのは当たり前のことなのだが、実際に問題なのは、

「オオカミが来ない」

 ということが自然に慣れてきて、

「どうせ、オオカミなんか来ないんだ」

 という、

「お花畑的な発想」

 というものを持ってしまったことで、もう誰も、

「オオカミが来た」

 と言われても、その言葉を信じるという人がいなくなるということだ。

 最初の頃は、

「もしかして」

 ということで、

「石橋を叩いて渡る」

 という感覚で、逃げていただろうが、そのうちに、

「石橋を叩かなくなってしまう」

 という発想に見舞われるのだ。

 それが、一種の、

「戒め」

 であろうか。

 さすがに、全員食べられてしまうというのは、残酷な気がするが、寓話ということであれば、逆にこれくらいのインパクトがないと、せっかくの戒めが、戒めではなくなってしまうともいえるだろう。

 つまり、ここでいう戒めとは、

「石橋は、叩いてでも渡らない」

 というくらいの精神を持っていないと、いざという時、判断を見誤るといってもいいのではないだろうか?

 このように、オオカミ少年の話のように、

「一つの物語の中に、戒めがいくつも含まれている」

 というのも、他にもあるかも知れない。

 それが、

「故意に仕組まれたものなのか?」

 それとも、

「偶然できあがった戒めなのか?」

 ということであるが、

「実際にはどっちなのか?」

 という判断は難しいものである。

 特に、

「オオカミ少年」

 の場合は、最初から仕組まれていたというよりも、どちらか、

「たぶん、オオカミ少年に対してであろうが」

 こちらの方が仕組まれていた可能性は高い、だから、この話のタイトルを

「オオカミ少年」

 というのであり、何よりも、この物語から派生した形で、

「絶えずウソをつきまくっていて、そこに罪悪感などがまったくない」

 というような人間のことを、総称して、

「オオカミ少年」

 というではないか。

 それは、別に少年である必王はない。

「老若男女、そんな人間であってもかまわない」

 というわけだ。

 この話をいろいろ考えてみた。

 まず、

「この少年は、精神が正常だったのだろうか?」

 ということである。

 もし、彼を法律で裁くということが行われた場合。まず問題になるのは、

「精神が正常だったのかどうか?」

 ということである。

 というのは、

「何かの犯罪事件があった場合に、無罪となる可能性が一番高いのは、犯人が精神耗弱状態であったのかどうか?」

 ということである。

 犯罪がどんなに残酷なものであっても、被告が精神異常であれば、

「責任能力を問うことができない」

 ということになるのだ。

 そうなると、いくら原告側が、犯罪の残酷性を訴えたとしても、裁判でひっくり返ることはない。

 だから、まずは、

「犯罪が残酷であればあるほど、精神鑑定が行われるのは当たり前だ」

 ということである。

 そして、その次は、

「違法性阻却の事由」

 というものであるが、これは、

「相手からの攻撃を、防衛するためにやむを得ない場合に相手を殺害してしまった場合である」

 ということで、いわゆる、

「正当防衛」

 と言われるもの、さらには、

「生き残るためには、誰かが犠牲にならなければならない」

 という状態になった時、人間の神経として、

「生き残りたい」

 と思うことで、こちらも、やむを得ず、相手の命を奪ってしまったという、いわゆる、

「緊急避難」

 と呼ばれるもの、この二つは、罪に問われないということである。

 たとえば、

「豪華客船で旅行をしていて、たまたま、船がどこかに座礁し、沈没を余儀なくされたとして、その時、救命ボートで難を逃れた人がいるとする。その人たちのボートは4人乗りで、四人ちょうど乗っているところに、もう一人が泳ぎついて、ボートに乗ろうとする場合、彼を助けると、低位のーバーで、全員が死んでしまうということになると、その場合は、自分たちが助かるために、ボートに乗ろうとする行為を必死に邪魔をし、自分たちだけが助かったとしても、その場合は、罪に問われない」

 というものだ。

 この場合は、一人を助けたことで犠牲になるのが、一人であっても、全員であっても関係ない。自分の命を守ろうとする行為に変わりはないからだ。

 このような、

「違法性阻却の事由」

 と呼ばれるものは、その証明がなかなか難しい。

 まさかと思うが、

「殺意を持っていても、違法性阻却の事由だからということで、殺意よりも、その時の緊急性が問題になる」

 何といっても、

「これが犯罪だとすると、犯罪を計画した方も、命の危険に陥るわけなので、一歩間違えると、一緒に死ぬことになるし、それどころか、相手が自分の代わりに生き残る」

 ということだってあるだろう。

 そうなると、

「計画犯罪」

 というのは、まずありえないといえるだろう。それだけこれが計画的な犯罪であれば、

「諸刃の剣である」

 ということになってしまう。

 この

「オオカミ少年」

 という話は、犯罪だといえるだろうか?

 そもそも、発端は、

「子供のいたずら」

 といってもいいような、他愛もないことだったはずだ。

 しかも、最初のうちは、オオカミも出てこなかったのだから、

「ただの人騒がせな少年」

 ということで、

「刑法で裁くことはできるのかどうか?」

 というのが、微妙ではないだろうか?

 一種の、

「狂言壁」

 というのか、イメージとしては、

「詐欺のようなもの」

 といってもいいだろう。

 たとえは少し違うかも知れないが、最近の異常気象と言われる中で、天気予報の中で、

「今回の台風は、数十年に一度の大災害を及ぼす、最大級のものだ」

 ということになるだろうと言われていたとする。

 しかし、

「蓋を開けてみれば、台風は、当初の予想を外れ、ほとんど被害がなかった」

 ということが、その一回だけではなく、何度もあったとすれば、それこそ、

「くるくる詐欺」

 などと言われ、次第に、誰も警戒しなくなるという、それこそ、この、

「オオカミ少年」

 のような話と同じことになる。

「ひょっとすると、オオカミ少年の話というのは、この手の、自然現象がヒントになっているのかも知れない」

 と言える。

 童話の世界では、

「北風と太陽」

 の話のように、自然であったり、自然現象が及ぼす話というのも、少なくはないだろう。

 それを思うと。

「オオカミ少年」

 というのは、一種の、

「自然現象と同じではないか?」

 と言えるのではないだろうか?

 だとすると、同じようなことは、

「どの時代のどこで起こったとしても、不思議なことではない」

 と言えるのではないだろうか?

 つまりは、

「このお話は、故意の部分よりも、自然発生的な部分が大きいと思うと、

「戒め」

 というものは、

「最初から一つではなかったのか?」

 ということになる。

 つまりは、

「オオカミ少年というのは、あくまでも自然現象であり、その自然現象に対する備えというものを戒めている」

 と考えると、

「戒めはオオカミ少年に対してではなく、油断大敵ということでの、村人に対してのものだ」

 ということになるのではないだろうか?

 それが、

「オオカミ少年」

 という話の本質だと思うと、他の寓話やおとぎ話の中で、

「戒め」

 というものは、一つでなければいけないということになるのではないだろうか?

「もし、戒めが複数に感じられれば、本質以外は、すべてが自然現象であり、それに抗うことはできない」

 ということになるのではないだろうか?

 そんなオオカミ少年という話が、どのように広がっていくかと思うと、少し、前述の、

「ドッペルゲンガー」

 のお話に、結びついてくるということも考えられるような気がしてきた、

「ドッペルゲンガー」

 の場合は、分からないことも結構あって、一番の謎は、

「なぜ、もう一人の自分を見ると、死んでしまうと言われるのか?」

 ということである。

 そもそも、

「もう一人の自分というのが、存在するのか?」

 というところからが問題であり、

 この二つの共通の考え方として、

「そもそも、ドッペルゲンガーを見るということ自体が、脳の病気か何かで、幻影のようなものを見た」

 ということではないかと言われる。

 もし、そうなのだとすれば、

「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死んでしまう」

 という理屈も分かるというものだ。

 というのは、

「ドッペルゲンガーという幻影を見る病気が、そもそも、末期の状態であればどうだというのか?」

 つまりは、

「末期の患者が、たまたま、幻影としてドッペルゲンガーを見た」

 ということで、

「死んだのは、病気によるものであって、ドッペルゲンガーを見たからではなかった」

 ということになるのだろう。

 まるで、

「アナフィラキシーショック」

 のようではないか?

「アナフィラキシーショック」

 というものを考えた時、最初に思い浮かべるたとえとして、

「ハチに二度刺されると死んでしまう」

 ということである。

 この、

「死んでしまう」

 というのは、

「ドッペルゲンガーを見たから死んでしまった」

 というのとは、そもそもが違っている。

 アナフィラキシーショックの場合は、明らかな理由があるのであった。

 ハチに限らず、毒をもったものに接触し、身体にその毒が侵入してくると、身体の中で、毒と戦うために、抗体というものができる。

 それは、助かった後、もう一度同じ毒が侵入してくれば、それに対して立ち向かうという本能のようなものが働くというものである。

 だから、もう一尾ハチに刺されると、今度はその抗体が、侵入してきた毒と戦おうと、抗うのであるが、その時に、身体の中で、アレルギー性のショック状態を引き起こすのだ。

 それが、生命の維持の限界に達することにより、死に至るということになるのだ。

 だから、死因としては、

「アナフィラキシーショックによる、ショック死」

 ということになるのだ。

 だから、決して、

「ハチの毒によるもの」

 ということにはならない。

 ただ、アレルギー性のショックを引き起こすのに、ハチの毒というものが影響しているといえるのではないだろうか?

「じゃあ、抗体など作らなければいいじゃないか?」

 ということになるのだろうが、そういうわけにはいかない。

 身体に抗体ができることで、人間は、伝染病などの、危険なものから絶えず守ってくれているのだ。

 特に、抗体を持っていると、

「一度罹った病気に、罹りにくくなる」

 と言われていて、

「はしか」

「水疱瘡」

「おたふくかぜ」

 などは、

「一度罹ってしまうと、二度と罹らない」

 と言われるほど、抗体の力は強いのであった。

 そんな抗体があることで、風邪を引いた時など、

「ただの風邪」

 ということで済んでいるのかも知れない。

 風邪を引いたりすると、まず、身体に震えを感じ、悪寒を感じる。

 つまり、寒気を覚え、痙攣にも似た震えが止まらなくなってしまうだろう。

 しかし、そんな震えが襲ってくるにも関わらず、熱が上がってくる。

 表から触ったりすると、身体が熱くてたまらない状態になっているのだが、本人は、寒気と気持ち悪さ、さらには、身体の痛みや、頭痛などの、さまざまな症状に襲われるという。

 ただ、それだけ熱い状態なのに、汗をまったく掻かないのだ。

 熱が出てくると、

「これだけ熱いと冷やさなければいけない」

 といって、冷凍枕などを使って冷やそうとするだろう。

 ただ、それは頭を冷やすだけで、決して身体を冷やすということはしない。

 そんな状態になると、本当は、身体を徹底的に温める必要がある。

「なぜなら、本人が寒がっているからだ」

 ということと、

「熱が上がるところまで上げてしまう」

 ということである。

 身体が、熱が上がるまで上がったかどうかを分かるバロメーターがある。

 それが、

「発汗作用は起こるかどうか?」

 ということである。

 それまでは、どんなに熱い状態であっても、汗を掻くことはなかったが、汗を掻き始めるというのは、熱が上がり切った証拠ということで、解熱剤を呑んだりして、身体を冷やそうとするのだ。

「汗に混じって、毒素がからだから流れ出る」

 と言われるが、まさにその通りなのだ。

 下着が、絞れるくらいの汗を掻いてくると、次第に、熱も下がっていって、気持ち悪かったものも、楽になってくる。

 これは、人間の、

「自己治癒能力」

 のようなもので、その一端を担っているのが、

「抗体」

 というものの存在だといえるのではないだろうか?

 抗体というものが、人間にとって、

「どれほど大切なものなのか?」

 というのは、少し前に流行った、

「世界的なパンデミック」

 にも言えるのだった。

 ただ、あの伝染病は、

「ウイルス」

 というものだったので、幾度も変異を繰り返した。

 だから、

「一度罹ったのに、もう一度罹ったり、人によっては、何度も罹ってしまう」

 という人もいたりするのであった。

 それでも、

「一度罹ると、抗体ができるので、罹りにくくなる」

 というのは、言えることで、政府が推奨する、まったくあてにならないワクチンに比べれば、人間の抗体ほどあてになるものもないということであった。

 だから、ハチの毒に反応して、

「アナフィラキシーショックを引き起こす」

 ということも、ある意味、仕方のないことではないかと言えるのかも知れない。

 できるだけ、ハチに一度刺された人は、二度刺されないように、ハチが近くにいるようなところには近寄らないということが必須である。

 もっとも、

「この性質を使って、殺人を企てる」

 ということも、小説の上ではあったことで、

「実際に可能かどうか?」

 ということは、難しいといってもいいだろう。

 昔から探偵小説で、

「毒殺」

 というのは、結構あっただろう。

 実際に、使われる特というのは、

「青酸カリ」

 などの、シアン化化合物であったり、天然にそのあたりに生えている、

「トリカブト」

 のような毒であったり、食物の茎や葉から採る、例えば、

「ストリキニーネ」

 などの猛毒は、よく食べ物に混入させて、食べさせるというようなことを小説などで、描かれてきた。

 実際の事件では、

「ヒ素入りカレー事件」

 などというものがあったり、保険金詐欺に利用するものとして、

「じわじわと弱らせて死に至らしめる」

 というものもあったりしたであろう。

 他には、意外と今まで知られていなかったが。最近話題になっているというのが、

「アレルギーショックによっての殺害方法である。

 たとえば、

「スズランなどの花や茎には、コンパラトキシンという猛毒が入っていて、いけている水を飲んだだけでも、死に至るというほどの毒性のあるものだったりする」

 これも一種のアレルギーの一種と言われているが、考えてみれば、独で死ぬということ自体、

「身体に毒素が回る」

 ということで、ショック死だといってもいいのではないだろうか?

 また、最近は、食品に、

「アレルゲン表記」

 ということで、アレルギーによる、アナフィラキシーショックを起こさないように、

「卵、乳、ナッツ」

 などの、アレルギーを引き起こしかねないものの表記が、必須となっている。

 それを破れば、一定期間、営業停止になったり、悪質な場合は、ニュースになって、会社名が明るみに出ることで、会社の信用がガタ落ちになってしまうではないか?

 そんなことにならないように、会社もシビアになっていることから、最近では、キチンと守っているようだが、あれは5年ほど前であったが、

「どこか一か所の会社で守られていないとおいところが明るみに出ると、あそこも、ここも」

 という感じで、次から次へと不正が出てきたのだ。

 これは、

「それだけ、企業側の認識が甘かったとも言えるだろうが、それ以上に、見張る側の行政の監視が、まったく機能していないということになるのだろう」

 それを考えれば、

「いかに、ひどい状態たのか?」

 ということで、

「食の安全」

 という、

「当たり前といえば、これ以上の当たり前ということはない」

 ということになるのだろう。

 食の安全が保障されないということであれば、

「アナフィラキシーショックを引き起こすという事故が多発することになり、それが事件に発展し、ショック死を逆手に取った、殺人事件が起こらないとも限らない」

 と言えるのではないだろうか?

 そういえばm昭和の終わりのことに起こった事件として、

「食品会社への脅迫事件」

 というのがあった。

 会社社長を誘拐してみたり、会社の商品で、すでにスーパーに陳列されているものに、青酸カリを入れるなどという、無差別殺人を企てた犯罪グループがあった。

 そのグループのせいで、そのあと、食品にビニールの包装紙が施されたりと、いろいろ策が練られたが、結局、どうしようもないというのが、本音であった。

 当時は、青酸カリが見つかったかどうかわからないまま、毒に当たったという話も聞かないことで、事件は未解決のまま、お蔵入りしたことから、今では時効も成立し、

「すでに忘れられた事件のようになったが、ある意味、これほど衝撃的な事件もなかった」

 といってもいいだろう。


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