第2話 カプグラ症候群
「死神」
というものがどういうものなのか?
どうしても、妖怪マンガの最初の頃に描かれたものを思い出す。
確かに顔は、骸骨のような顔なのだが、その表情は、当時のサラリーマンを描いた顔に似ていた。
それも、キリっとしたサラリーマンではなく、明らかにコミカルで、それでも、当時のサラリーマンの悲哀を描いていたのだ。
その様子は、コミカルではあるが、悲哀の方が印象が強く。その強さをごまかすための、コミカルさということで、
「どちらも、目立たないようにする」
ということを目指したところの、
「お互いを打ち消すことで、見かけ部分を目立たないようにするというやり方だ」
ということは、どちらかに絞ってみると、
「これほど、目立つものはない」
ということで、
「片方が目立つのであれば、もう片方も目立つ」
という形での、まるで隠れ蓑と思えるような感じだったのだ。
そんな死神を見ていると、
「ドッペルゲンガー」
というのは、自分によく似ていると言われるが、性格面ではどうなのだえおう?
あくまでも、
「行動範囲は同じだが、会話をすることはない」
というではないか?
何といっても、声を発しないということは、何を考えているのか分からない。表情お無表情だという話もあるので、それこそ、不気味でしかないのだ。
だから、
「もう一人の自分」
がそこにいるのを、
「見えている人物を、普通なら、本人だとしか思わないはずなのに、ドッペルゲンガーではないか?」
と思うとすれば、会話の中で、
「あの時、あの時間、お前、あの場所にいただろう?」
と言われて、
「いや、そんなところになんか行ってないよ」
ということを聞いて、初めて。ドッペルゲンガーを疑うのではないだろうか?
本人と同じ行動範囲の場所にしか出没しないのだから、そこにいてもおかしくはないはずだ。
「今の時間は、絶対に事務所で仕事をしているはずだ」
あるいは、
「出張で、遠くに行っているはずだ」
ということが。間違いない場合には、最初から疑うのだろうが、普通であれば疑う余地もないだろう。
それだけ、似ている、
「いや、もう一人の自分なんだ」
ということなのだから、疑いようがないはずなのに。
「あれは、ドッペルゲンガーだった」
とその人を見た相手が、ハッキリとそう感じるのは、それだけ、違和感万歳だったということなのか、
「その人は絶対にしない行動をしている」
という場合に感じるのだろう。
しかも、ドッペルゲンガーだと思った人も、
「どこが違っているのか?」
あるいは、
「どうして自分がその違いに気づいたというのか、なぜ分かったのか、まったく気にしていない」
のである。
あくまでも、
「そこにいるはずがない」
という、信憑性のまったくない気持ちの現れなのだが、それこそ、
「ドッペルゲンガー」
というものの恐ろしさなのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「ドッペルゲンガー」
というものとは、似ているが、少し違う発想が、
「心理現象としての、精神疾患ではないか?」
という症候群があるという。
「ドッペルゲンガー」
というのは、昔から言われていることであるが、この現象や思い込みは、今から半世紀ほど前から言われるようになったもので、おそらくは、
「SF小説」
などというものが流行るようになってから、言われるようになったのかも知れない。
特に、SF小説を映像化する時など、特撮を駆使することで、アニメや映画になったことで、リアルな雰囲気を醸し出せるようになったのだろう。
この発想は、
「カプグラ症候群」
と呼ばれるもので、一種の精神疾患の類だと言われる。
「自分の身近な、近しい人、つまりは、親、兄弟、旦那、奥さん、恋人などが、次第に、よく似た人間と入れ替わっている」
という発想である。
しかも、入れ替わっているのは、人間ではなく、改造人間であったり、宇宙生物であったりという、今の科学では解明できないものだというのだ。
だからこそ、
「嘘だ」
とハッキリと言い切れるわけもなく、当時の子供は、そんな不気味な存在を半信半疑で意識することで大人になってくると、自分の常識では判断できないことが起こると、昔の、特撮やアニメを思い出し、
「その時に理解できなかったことが、今現実のこととして、怒っているのではないか?」
と考えてしまうのだった。
そのことは、たぶん、本人の中で、
「心理的に信じてしまう」
という、異常な感情なのではないか?
とはわかっているのだろうが、それに対して。科学的な根拠がないと、どうしても、
「自分がおかしい」
とは思わないし、そもそも、
「こんな変なことを考えるのは、自分だけなのだ」
と考えてしまうのだろう。
そして、自分を孤立させ、
「自分が他の人とは違うんだ」
と思って、一人で殻に閉じこもってしまうことだろう。
しかし、
「異常な感情であり、病気なんだ」
ということを宣告されると、ショックを受け、
「ああ、精神病なんだ」
と思うと、まわりから差別を受けたり、
「バカとして、扱われてしまう運命」
というものしか見えなくなり、ますます、自分を閉じ込めてしまうことになる。
しかし、最近では、
「精神疾患」
というものに、明らかに世間の関心が向いていて、社会問題になってきている。
今まで、そういうものは、
「一部の限られた人がなるもので、個別対応しかできないのではないか?」
ということであったが、今では、精神疾患もいろいろ研究されてきて、無数の薬も、治療を受けている人もたくさんいるのだ。
しかも、昔であれば、
「精神病を患っている」
ということになれば、子供の頃から差別を受けて、
「俺たちは、特別なんだ」
ということで、健常者よりも、下に見られているということになり、
「差別を受けて当たり前なんだ」
という時代があった。
そのうちに、学校でも、
「同和問題」
などというものを、道徳の時間に教えるようになり、道徳教育の充実が、親世代ではありえなかった、精神疾患や障碍者に対する認識の変化が、叫ばれるようになったのだ。
昭和の頃などは、
「放送禁止」
となっている言葉を平気で、口にしていた。
もっとも、放送禁止用語と呼ばれるものは、基本的にその言葉をしゃべったというだけでは罪になるものではない。
放送倫理に引っかかるということで、
「放送事故」
というものが発生し、
「放送事故を起こしたということで、放送界から叩かれる」
ということで、
「懲戒解雇」
にまでなるかどうかは分からないが、その人物の、
「社会的な地位は、まったくなくなってしまう」
といってもいいだろう。
だが、放送業界以外では、
「ただ、口にした」
というだけでは、裁かれることはない。
もし、それを、
「侮辱罪」
として捉えるとするならば、
「相手があってしかるべき」
ということであり、
「ただ、口にした」
というだけでは、罪となる罪名が何になるか、まずはそこからの問題となるのであった。
そんな差別用語とは、
「人間の肉体的、精神的な疾患」
であったり、
その人の身分的な差別、つまりは、昔であれば、
「部落問題」
であったり、昔からの家系の問題などが、
「敗戦から2、30年以上も経って、すでに、民主主義として、日本国憲法も発布されてかなり経つ」
というのに、今だ、
「生まれがどうの、家系がどうの」
というのは、おかしなことだと、誰も気付かなかったということなのだろうか?
何といっても、日本国憲法には、それらを差別してはいけないという条文があるではないか?
「基本的人権の尊重」
「法の下の平等」
ということである。
ただ、二つ目の、
「法の下の平等」
というのが曲者で、
「すべてにおいて、平等」
ということにしてしまうと、優劣を付けなければいけないというものができなくなってしまうということになるだろう。
それを考えると、
「人権の尊重」
ということにしても、そうである。
当たり前のように書かれているが、
「基本的な人権であって、何もすべての人権だとは書いていないではないか?」
そうしてしまえないのが、民主主義であり、その理念が、
「多数決だ」
ということになるわけだから、絶対的に、
「少数派は切り捨てられる」
ということになる。
これが、
「民主主義の限界」
であり、社会主義、共産主義という考えが生まれてくるのも当たり前だということだ。
そんな中において、民法などで、個人間で優劣を付けられない場合は、
「公共の福祉」
というものが優先されるということになる。
どんなに正しいかも知れないが、公共の福祉にはかなわないという場合もある。それが、「民法」
というもので、
「憲法の理念を守った形で作られた私法」
ということになるのだ。
だから、憲法では、どうしても曖昧な言い方になる。
「基本的人権」
という言葉における。
「基本的」
という言葉、
「法の下の平等」
ということで、
「平等の前に、法というものが優先する」
ということを言っているのだ。
「基本的人権の尊重」
というのも、
「法の下の平等」
というのも、それだけ、曖昧なことだといえるだろう。
そう考えれば、
「基本的人権の尊重」
と、最後に、尊重で結んでいる。
つまりは、
「尊重はするが、そうでない場合も存在する」
というのを、あくまでも、説明しているだけだということになるのではないだろうか?
そういう意味で、
「法律というのは、実にうまく、そして曖昧に作られている」
ということで、
三権分立の中で、最後の砦となる、司法に、
「ある程度任される」
ということにあるだろう。
国会という立法で、国会議員が、
「曖昧な法律」
を作る。
そして、政府という行政が、それを取り締まる。
そして、法律違反を行った人間を、警察が捜査し、検事が起訴することで、裁判となるのだ。
そこには、
「訴える原告」
がいて、検事が捜査を進める。そして、
「訴えられる被告」
がいて、そちらは、弁護士が、被告を守ることになる。
弁護士というのは、ある意味因果な商売で、
「弁護士の仕事は、正義を守るという、勧善懲悪ではないのだ」
というのは、弁護士というのは、
「依頼人の名誉や財産を守る」
というのが、仕事であり、もしそれが正義に反することであっても、依頼人に不利益が被られるようになるのであれば、
「悪いことだとは思っていても、被告を守らなければならない」
というものだ。
明らかに、
「人を殺した」
ということが状況証拠だけで、十分すぎるくらいあっても、
「物的証拠がない」
ということで、
「無罪」
を主張することになるだろう。
弁護士は、依頼人が、殺人者だということを分かっている場合においても同じである。
もちろん、状況が圧倒的に不利だとしても、たとえば、
「被告は精神耗弱者だ」
ということで無罪を訴えたり、罪にならない、
「正当防衛」
であったり、
「緊急避難を持ち出す」
ということもあるだろう。
ただ、有罪は動かしようがないと分かると、今度は、情状酌量に訴えて、いかに罪状を軽くするかということに終始する。もちろん、そのために、被告との二人三脚は当然のことであり、
「被告が弁護士に秘密にしていることがあったり、協力的でなかったりすれば、弁護などできるわけもなく、被告の有罪は決定してしまい、弁護士としては不本意ながら、敗北を認めざるを得ない」
ということになるに違いない。
そうなってしまうと、弁護士も、
「なるべくしてなった判決」
ということで、諦めざるを得ないというしかないだろう。
そんな事件は結構多いのかも知れない。
ただ、これこそが、
「正当な裁判」
ということであり、
「誰が見ても、納得する」
と言われることになるだろう。
有罪は確定しているといっても、罪状がどれほどのものかというのは、いろいろな証拠を元に、裁判官が決定する。
最近では、
「裁判員裁判」
ということで、
「ランダムに選ばれた国民の代表である、数名の裁判員がいるので、彼らの考え方というのも、大いに影響している。何しろ彼らは、法律、特に裁判に関しては、まったくの無知なのだからである」
ということになるのだ。
裁判員裁判に関しては、賛否両論はあるだろうが、導入されているのであるから、それが問題にならないように運用しなければいけないということで、
「裁判官たちの責任というものは、重大だ」
と言えるであろう。
実際に、よくいえば、
「汎用性を持たせた法律」
であり、悪くいえば、
「曖昧で、何とでも捉えることができるため、時と場合、あるいは、裁く人であるところの裁判官の裁量で、その判決も変わってくる」
というのが法律で、それを取り仕切る、
「司法」
というのは、本当に大変であろう。
ただ、
「立法がもっとしっかりと、法律を作ればいい」
というものではないだろう、
世の中には、
「冤罪」
であったりして、その問題が大きくなったことで、判例というものを、後から見た時、「ただ、迷うわけになってしまう」
ということが言いかねないといえるのではないだろうか?
日本において、最近では、
「コンプライアンス違反」
ということであったり、
いくつかの、
「ハラスメント」
というものが大きな問題となっているということもあって、最近では、いろいろな問題が言われるようになった。
特に、
「男女雇用均等法」
であったり、
「個人情報の保護」
というものも問題になってきている。
それぞれに、問題点が違ったところから波及してきたものであるので、一概に、同じ土俵で語るということはできないが、それぞれに、問題としては大きなものだといえるだろう。
「男女雇用均等法」
というのは、昔から言われていた、
「男尊女卑」
というものに対して、先進国で盛り上がった。
「女性の権利」
というものが、参政権などを中心に話ができてくるのだが、
そんな中で、いろいろな弊害が起こっているのも事実だ。
賛否両論あるのだろうが、今まで女性の職業で、
「女性だから」
ということで特別な言い方をしてきたものがあった。
たとえば、
「スチュワーデス」
であったり、
「婦人警官」
「看護婦」
などと呼ばれるものが、
「男女差別だ」
というように言われるようになり、まるで、
「放送禁止用語」
にでも指定されたかのように言われているが、作者とすれば、
「気にしすぎだ」
と思えるのだ。
「別に言葉で、差別されているわけではないので、被害妄想も甚だしい」
と感じるのだ。
それよりも、冤罪という問題の方が大きい。
今までは泣き寝入りしてきた痴漢問題なども、男性の方も、
「間違えられては怖い」
ということで気を付けていたにも関わらず、今度は、女性が、
「この人、痴漢です」
などといって、手を掴まれでもすれば、もうその時点で、犯罪者扱いが決定である。
もし、罪にならなかったとしても、社会的地位はなくなり、会社は退職を余儀なくされ、人生は崩壊に帰するだろう。
実際には、
「電車の揺れで、ただ手が触れただけかも知れないのに、いきなりの痴漢扱いというものであれば、それは、明らかに、女性の立場が、男性より上」
ということで、まるで、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
というような、本末転倒なことになってしまうのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「男女平等」
というのも、行き過ぎてしまうと、結果、
「法律というものの、片手落ち」
と言えるのではないかということであった。
それが、男女の問題だけではなく、最近では個人情報の問題にも絡んでくるが、こちらは、まったく違うところから派生してきたものだった。
先ほどの、男女雇用均等法と違って、
「個人情報保護法」
というのは、男女雇用均等法というのが、
「以前から問題になっていることの解決方法」
ということが問題であったが、今度の、
「個人情報保護」
というのは、最近問題になっていることの、
「一種の派生型」
といってもいいだろう。
ここ、30年くらいで、コンピュータ関係の普及が爆発的になり、パソコンでなくとも、ケイタイ電話機能と一緒に、ネットを駆使できる、
「スマートホン」
というものが開発されて、時代は便利になり、簡単に情報を得ることもできるようになった。
その分、多種多様なサービスが使えるようになったわけだが、そんな中において、スマホを使った、新手の
「詐欺集団」
というのが出てきたのだ。
コンピュータが普及した時は、
「コンピュータウイルス」
というものが、インストールをすることで、
「勝手に、パソコンに入り込み、知らない間に、個人情報が抜けれる」
ということが横行した。
だから、ウイルス対策ソフトが開発され、
「サイバーテロ」
と言われるような集団と、まるでいたちごっこのような状況で、
「絶えず、相手よりも先に、高度なものを」
ということになり、
「勝手に個人情報が抜かれないようにしないといけない」
ということが急務になった。
だから、コンピュータい限らず、個人情報を扱うことに関しては、かなり神経質になってきた。
今までは、
「家に仕事を持って帰ってやっていた」
という人も、
「会社の情報を勝手に家に持って帰り、それが漏れる可能性がないとはいえない」
会社では、セキュリティがしっかりしていて、個人宅では、それも限界がある。
そうなると、
「会社から、何も持ち出せない」
ということになり、会社のネット環境も、決して表からは見られないような、暗号化したりと、実に神経質になるのだ。
だから、どこかの会社が、個人情報数十万人分流出したなどというと、大企業であればあるほど、大きなニュースになり、被害が起きないように捜査されるのだ。
個人宅に対しても、最近横行している。
「オレオレ詐欺」
「振り込め詐欺」
などというものも、スマホを介しての詐欺ということになる。
老人をターゲットにするのは、昭和最後の頃の事件であったことで、証明されているではないか。
つまり、詐欺の横行は、まず、
「個人情報に流出から始まる」
と言えるだろう。
「基本的には、皆用心をしているが、まさか自分にそんな詐欺が来るわけがない」
と思っている人の心理を巧みに利用して、詐欺を働くということは、そもそも、個人情報が洩れなければ、不特定多数に対しての、
「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」
ということになりはしないだろうか。
だから、
「個人情報の漏洩」
というのは、恐ろしいことなのだ。
つまり、
「女性蔑視、男尊女卑」
というような、
「昔からあったことで、今回問題になっている」
というものもあれば、
「個人情報保護」
というのは、最近になってから、コンピュータウイルスなどによる、
「情報漏洩」
などで、それを使った詐欺行為が横行してしまうことを防がなければいけないということから、
「個人情報の保護の法律」
ができたのだ。
事情が違っているというのは、そういうことである。
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