可能を不可能にする犯罪

森本 晃次

第1話 ドッペルゲンガー

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年7月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。


「ドッペルゲンガー」

 という言葉、大体、皆さんは、どこかでお聞きになったことがあるというものである。

「もう一人の自分」

 という表現が一番ふさわしいというものであろう。

 もう一人の自分が、どこにいるというのか?

 普通であれば、同じ次元の同じ時間、いくらまったく離れているところであっても、

「存在してはいけない」

 ということは分かりきっているだろう。

 それなのに、

「ドッペルゲンガーと遭遇することは許されない」

 ということで、それは、

「ドッペルゲンガーを見ると、死ぬ」

 という迷信なのか、都市伝説の類なのか、そう信じられているのだという。

 しかし、考えてみれば、

「なぜ、見ると死ぬ」

 というのだろうか?

 確かに昔から、

「見てはいけない」

 というものを見てしまうと、

「その人は死ぬ」

 と言われるが、

「もう一人の自分の場合はどうなのだろう?」

 と考える、

「もう一人の自分」

 というのがどういうものなのか?

「一蓮托生」

 ともいうべき、分身のようなものであれば、

「相手が死ぬと、自分も死んでしまう」

 ということになり、逆に、

「自分が死ぬと、相手も死んでしまう」

 ということになる。

 ということは、もう一人の自分である、ドッペルゲンガーも、死にたくないだろうから、相手も自分を見ないように計画していることだろう。

 お互いが、絶対に行かない場所にいけば、会わずに済むだろうが、そもそも、ドッペルゲンガーというのは、

「その本人と行動パターンは同じだというではないか」

 という話を聞いたことがある。

 ドッペルゲンガーというのが、

「実は、もう一人の自分だ」

 ということであったとしても、

「本当に自分だ」

 と言えなくはないだろうか?

 つまりは、二重人格性の中の、

「もう一人の自分」

 つまり、昔の小説にあったような、

「ジキルとハイド」

 のような話である。

 この話は、

「ジキル博士が、自分の中にいると思われる、もう一人の自分であるハイド氏を、薬によって覚醒させる。自分が眠っている間に、覚醒したハイド氏は、ジキル博士の潜在意識を操作するのか、それとも、ハイド氏の特殊能力で、最初から分かっているのか、ジキル博士の困るようなことばかりする」

 というのだ。

 さすがに、ハイド氏を作り出したことに、恐怖を感じたジキル博士は、何とかハイド氏を排除する計画を立てる。

 ジキル博士は、ハイド氏が自分自身であるということに途中で気づくと、

「俺が死んでしまうではないか」

 ということが分かり、

「そう簡単に、殺せるということはできないだろう」

 相手が自分であるわけだし、お互いに、

「死にたくない」

 という気持ちに変わりはないだろう。

 ジキル博士は、ハイド氏の存在は、自分が生きている限り排除できないことが分かっえいた。

「元々、そんな薬を作ったのは自分である。だから、排除しなければいけないのだろうが、自分だけが、どうして、そんなことにならなければいけないのか?」

 と感じなかったのだろうか?

 人間は、

「できれば助かりたい」

 と思うはずだ。

 そう思うから、まわりの人に迷惑を掛けてはいけないと考えるわけで、

「自分が犠牲になっても」

 などという考えは、本当は誰も持っているはずではないはずなのに、なぜ、物語になると、そういう発想を、作家がどうして思い浮かぶというのだろう?

「フィクションというのは、あくまでもフィクションであり、それ以上でも、それ以下でもない」

 ということであった。

 人間の中には、

「自分が犠牲になるのをいとわない」

 と思っている人もいるだろう。

 それは、自分が、

「悪いことをした」

 という意識があるわけで、その悪いことをしたことから、

「逃れられない」

 という思いがあるからだろう。

 別に、

「勧善懲悪」

 の考えから、そんな感情になるわけではない。

 もし、勧善懲悪であれば、自分が悪を懲らしめるということで、なるべく自分は、

「勧善懲悪のため、この世に残っていなければいけない」

 と感じるはずだ。

 だが、生き残りたいと考えないとするならば、

「生き残った場合のことを、最初から計算しているのではないだろうか?」

 例えば、ジキルとハイドの場合のように、自分が、ハイド氏を作ってしまい、それが原因で、

「このような悪魔を作ってしまったということが、他の人に、絶対にバレない」

 ということであれば、何も死ぬことはないのだ。

「私には関係ない」

 という顔をして、まわりを欺けるだけの、強い気持ちがあれば、何も、

「自分が犠牲になっても」

 などということは考えない。

 人によっては、

「なんとしてでも助かりたい」

 と思っている人が多いだろう。

 むしろ、

「そんな連中ばっかりだ」

 といってもいい。

 しかし、助かろうと思った場合に、あまりにも、そのリスクの大きさを考えてしまうと、考えることとしては、

「苦しみに耐えられるか?」

 というマイナス面だけである。

 少なくとも、その時に命を取られないだけで、生きていれば、ハイド氏が、警察などに射殺されれば、自分も死んでしまう。

 いや、その瞬間に、薬が切れて、近寄ってみると、怪物ではなく、そこに横たわっているのは、自分という科学者ではないか?

 そうなると、警察も事情がやっと分かり、

「こいつが、余計な発明などするから、世間を騒がせることになるんだ」

 ということになって、死んでからも、自分はさらし者になるわけだ。

 ということになると、

「俺が、今ここで、ハイド氏を道連れにすれば、ハイド氏が、世間を騒がせることもないし、自分の名誉が地に落ちることもない」

 ということだ。

 そして、今度の自殺も、何か適当に、もっともらしい理由を書いておけば、

「どうして死を選んだのか分からないが、気の毒だ」

 と思ってくれるだろう。

 それだけ、自分が、この世に残してきた、実績と信用は、ゆるぎないものだったはずだ。

 だから、自分の中で、ハイド氏のことを証拠として残しさえしなければ、自分が自殺をしたことになり、平和に終わるかも知れない。

 これが一番いいのだが、じゃあ、何とか生き残ろうと考えた場合、本当に大丈夫なのだろうか?

 何とか、ハイド氏が二度と出てこないような薬を開発するしかないが、

「もし、うまく行かなかった」

 ということになると、どうなるというのだろう?

 そんなことを考えてみると、

「どうしても、生きているというだけで、いかに、自分が生き残ろうという意識が無意識にでも働いてしまうのか?」

 ということだった。

「ドッペルゲンガー」

 というものを考えた時、普通であれば、

「自分とはまったく違う人物を思い浮べるだろう」

 というのは、

「まったくソックリな人間が、同じ時間、自分が存在している同一時間に存在し、他の人に見られた」

 という例が、一番多いだろう。

 しかも、中には、

「自分のドッペルゲンガーを見た」

 という場合である。

 そのどちらの場合も、

「近い将来に死がおとずれる」

 ということである。

 それだけドッペルゲンガーには、説得力があり、実際にその現象に遭遇したことで死んでしまったという実例が多いともいえるだろう。

 ドッペルゲンガーの特徴としては、

「自分の行動範囲にしか現れない」

 ということ、そして、

「決してドッペルゲンガーは、人と会話をしない」

 ということが、言われている。

 そう考えると、ドッペルゲンガーが、

「似ている人間ではなく、もう一人の自分である」

 ということを証明しているに違いない。

 そして、会話をしないわけだから、ドッペルゲンガーというものが、何を考えていて、どういう性格なのか分からないということを考えると、もう一人の自分が、性格的にも、本人と同じなのかどうかは分からない。

 ただ、

「会話をしない」

 というだけで、見ているだけで、孤高な性格であることは分かるので、何をどう考えていいのか、実際には分からない。

 そう思うと前述の、

「他人が、ドッペルゲンガーを見た」

 というのと、

「本人が自分のドッペルゲンガーを見た」

 ということで、同じドッペルゲンガーでも、

「違うものではないか?」

 と考えられるといっても過言ではないだろう。

 本人が見る場合は、それなりに考えられることがある。

 それは、本人が、

「元々、精神疾患の持ち主であり、見えてはいけないものが見えたということで、それが末期症状として、必然のように、死を迎えた」

 という考えである。

 しかし、それは、前者の、

「他人が自分のドッペルゲンガーを見た」

 と考えるのとでは、違ってくる。

 ただ、これが、

「死ぬのは、見た人間だ」

 ということであれば、理屈は通らなくもないが、あくまでも、

「他人のドッペルゲンガーを見た人が死ぬ」

 と考えた場合のことであった。

 この場合は、見た人が死ぬということであり、それは、自分のドッペルゲンガーを見た人が死ぬという理屈に合うので、これはこれで当たり前のことであろう。

 この、ドッペルゲンガーというものを、

「他人が自分を見た」

 ということと、同じようにも見えるのだが、実際には、

「まったく別の現象だ」

 と考えれば、

「ジキルとハイド」

 のお話のような、

「極端な二重人格者が、徘徊している」

 と考えることもできるだろう。

 そういう意味で、

「ドッペルゲンガーを見た」

 といっている人が、

「本人と、ドッペルゲンガーの二人が一緒にいるところを見た」

 という人を見たことがない。

 もし、見かけたとしても、それを怪しいとは思わない。なぜなら、その場合は、ドッペルゲンガーではなく、

「世の中に3人はいる」

 と言われる、

「ただのよく似た人」

 ということで、あくまでも、

「他人の空似だ」

 ということになるだろう。

 もっといえば、

「ドッペルゲンガーというものは、自分の中に潜んでいる、もう一つの人格が表に出てきているものだ」

 という、

「ハイド説」

 が成り立つのではないだろうか?

 そういえば、ドッペルゲンガーを見ると死んでしまうという説として、

「魂のシルバーコードが不安定になったから」

 と言われている。

「「シルバーコード」とは、人間の魂と魂の器となる体を繋ぐ糸のことを言います。

人間が死を迎えると、このシルバーコードが切れて、魂が体から分離します。つまり、シルバーコードが一度切れてしまうと、魂は体に戻れなくなってしまうということです。

ドッペルゲンガーは、一説では、シルバーコードが不安定になって抜け出した魂である、と考えられています。つまり、ドッペルゲンガーが存在する時間が長くなればなるほど、魂と体の分離が進んでしまい、最終的に、シルバーコードが切れて死に至ることになります」

 ということが言われていたりする。

 さらに、いわゆる、

「タイムパラドックスへのルール違反として、同じ人間が同一時間の同一次元に存在してはいけないということで、抹殺を図る」

 という考えである。

 そして、もう一つが、前述の、

「精神疾患によるもの」

 という説があるが、筆者は、この説に、もう一つを考えることになるのだが、

 というのは、

「人間は、脳の能力を一部しか使ったことがない」

 と言われている。

 だから、その伸びしろのようなもので、誰もが、超能力というものを有しているという考え方である。

 そして、人間の中には、二重ところか、多重の人格を持った人もたくさんいるだろう。

 そんな人間が、たとえば、

「死に直面している」

 ということに気付いたとして、その時、それまで考えたこともなかったことが思い浮かび、

「死への恐怖」

 という潜在意識から、

「自分を覚醒させてしまう」

 ということだって、考えられなくもない。

 それが、ジキル博士が作った薬と相まって、

「もう一人の自分を覚醒させることができたのだ」

 と考えると、

「結局、自分を抹殺させなければならない」

 と言えるのだろうが、

「どうせ、放っておいても、自分は死ぬんだ」

 ということを考えれば、何もしない自分がいるだろう。

 しかし、ハイド氏の方はどうだろう?

「彼だって、自分なのだから、自分の死が迫っている」

 ということは分かっているはずだ。

「俺はもうすぐ死ぬ」

 と思うと、

「今まで、影となって表に出てこなかった自分に嫌悪を感じていて、このまま死を待つことを思えば、何も怖くないと思い、恐ろしいことを平気で行い、まわりを皆巻き込んでやる」

 というくらいに思うだろう。

 人間が、

「悪いことをしてはいけない」

 という心理にいたるのは、何も、

「正義感」

 であったり、

「勧善懲悪」

 のようなものがあるからなのだろうか?

 いわゆる、宗教で言われるところの、

「この世で、いいことをすれば、極楽に行けたり、いずれ、生まれ変わることができるが、悪いことをしていれば、その魂は、地獄に落ちて、二度と、輪廻ができない」

 ということになる。

 という言い伝えからだろう、

 しかし、考えてみれば、それもおかしなことであり。

「極楽に行って、神様になる人」

 もいて、

「地獄に落ちて、生まれ変わることができない」

 ということであれば、輪廻転生ということを考えれば。

「人間は、時系列で、減っていくことはあっても、決して増えることはない」

 と言えないだろうか?

 生き物にはすべからく一生というものがあり、そこには、寿命がある。

 つまり、不老不死の人間がいない限り、世界の人口は減り続けるということだ。

 しかし、実際には、人口は増えている。

 これは、ドッペルゲンガーによって、増えているように見えるだけではないか?

 ともいえないだろうか?

 それとも、輪廻転生というのは、一部のことであり、生まれてくる中には、まったくの新規で生まれてきた人間も、一定数含まれているということになるのだろうか。

 どちらにしても、輪廻転生というものが、一部でしかないということであれば、

「宗教というもの、教えのためには、少なからずつじつまの合わないことでも、信者を信じ込ませなければならない」

 という、宿命のようなものを持っているのではないだろうか?

「ドッペルゲンガーを見たら死ぬ」

 という意味で、このような

「死を目前にしたことで、覚醒したもう一人の自分が、一定期間存在した」

 と考えれば、人口が減らないというのも、理屈に合う。

「ひょっとして、人間というのは、死を迎えるまでのどこかで、必ず、覚醒というものをするのではないだろうか?」

 ということが言えるのかも知れない。

 それを考えると、

「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」

 というのは、精神疾患ではなく、

「最初から、死というものが分かっているから、本人には、ドッペルゲンガーというものを知らなくても、その理屈は分かっているということになるのだ」

 死を意識するということは、自分を覚醒させ、薬を使わずとも、

「もう一人の自分」

 つまり、

「ドッペルゲンガー」

 を覚醒させることができる。

 つまり、

「ドッペルゲンガーというのは、覚醒するということが、必要ではないか?」

 ということである。

 だから、死を迎えた時、どのように立ち向かえばいいのかということが、分かっているということであろう。

 普通、人間は、自分の死を目の前にして、冷静になれるものではない。

 神経の弱い人であれば、それこそ、

「他人を巻き込んで、一緒に死んでもらおう」

 と考えるのも、無理もないだろう。

 中には、

「致死率の高い伝染病に罹った人が、自分だけが死ぬのは寂しいということで、多淫を撒き沿いにして、罪となり、被疑者死亡で、書類送検された」

 という話だってあるではないか、

 さらには、昔の王の陵墓だって同じではないか?

 というのも、

「王様が亡くなると、墓に一緒に家来を埋められた」

 ということで、死後の世界にまで、自分の家来を連れていこうというのだから、これほど理不尽なこともないだろう。

 ただ、これは、

「民主主義」

 という教育を受けたから感じることであり、昔の人の考えがどのようなものであったのか、はかり知ることができないのを考えると、

「俺たちは、どう考えればいいのか?」

 というだけで分からなくなるのだから、

「ドッペルゲンガーの存在」

 というものを、いかに正当性をつけて考えればいいのかなど、分かったものではないというものである。

「ジキルとハイド」

 という話は、そういう意味で、

「ドッペルゲンガー」

 という発想、いや、現象に、立ち向かっている作品だといえるだろう。

 この、ジキルとハイドという話が書かれた時、

「ドッペルゲンガー」

 という考え方はすでい存在していて、

「どういうことなのか?」:

 ということを、いろいろ皆が考えていたのかも知れない。

 その中の一つがこの作品であり、違った観点から、つまり、

「二重人格」

 という、一種の、

「精神疾患」

 ともいえるものを、書き出し、その中で覚醒させてみせるということで、結局生まれたものは、

「ドッペルゲンガー」

 というものの、存在理由と、

「どうして死ぬと言われているのか?」

 ということの、考え方が生まれてくるのだが、

「ジキルとハイド側」

 からと、

 正当派として考えられたこととは、

「結局、同じところに着地するのだ」

 といってもいいかも知れない。

 この場合のキーワードは、

「覚醒」

 というもので、

「覚醒がなければ、ドッペルゲンガーは存在しえない」

 と考えると、今度は、人間の精神面を調べる必要がある。

 すると、またここで、

「自分の中の自分」

 ということで、まるで、合わせ鏡でもあるかのような、スパイラルが存在しているということになるのではないだろうか?

 ただ、ドッペルゲンガーにおいて、

「見ると死ぬ」

 ということを言われ出したのがいつのことなのか分からないが、

 その信憑性には、

「有名人や著名人と言われる人が、ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」

 と言われているからだということであるが、

「では、ドッペルゲンガーを見た」

 ということが歴史に残るくらいの逸話となるのは、そもそもが、

「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」

 という言い伝えがないちと、成り立たないだろう。

 そうなると、元々、このお話は、

「まるで、迷信か、都市伝説の類で言われていたものが、本当に現実になったかのように、しかも、それが著名人によって言われてきたことで、都市伝説が、本当の学説になったかのように、昇格した」

 といってもいいだろう。

 しかも、

「ジキルとハイド」

 のような、センセーショナルな作品が生まれたのも、そこから来ているのかも知れない。

 そもそも、このお話をドッペルゲンガーと結びつけて考える人は少ないかも知れない。

 誰だって、

「もう一人の自分」

 と、自分の中の、覚醒されるべき、人格である。

「二重人格性」

 というものが結びついてくるとは思わないだろうからである。

 だからこそ、

「自分に似た人が、世の中には3人はいる」

 ということで、ドッペルゲンガーの存在を、ぼかして言われてきたかのように思わせることで、故意に、

「ジキルとハイド」

 のような二重人格と、

「ドッペルゲンガー」

 とでは、まったく違うものではないか?

 と考えさせることになるのだろう。

 そんなことを考えると、

「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来に死んでしまう」

 ということを、

「言いふらしている人がいる」

 ということも成り立つのではないだろうか?

 それは、まるで、

「地獄の伝道師」

 と言われるものではないか。

 その発想が、いわゆる、

「死神」

 という発想に結びつくというのは、

「少し過激なことではないか?」

 といってもいいかも知れない。

 しかも、

「死神」

 などというのは、ただでさえ、おっかないものなので、少し、コミカルに描かれている作品もある、

「妖怪や幽霊をテーマにした漫画やアニメでは、意外と死神をコミカルに描いている作品も少なくない」

 と言えるだろう。

 それはきっと、誰か一人がコミカルに描いたことで、

「そっか、コミカルな死神を描くことで、死に対しての、恐怖を和らげることができるのかも知れない」

 という考えにいたることもできるだろう。

 そう思うと、

「ドッペルゲンガー」

 というものも、

「もう少しコミカルであってもいいのではないか?」

 という発想から、

「ジキルとハイド」

 のような関係を結びつけないように、今までの都市伝説では、迷信であるかのように自然と考えられるようにしたのではないだろうか?

 どちらにしても、過去の人間の考えることは、我々よりも、しっかりしていたのかも知れない。


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