俺にだけ視える学友が成仏してくれない
み(もざ)
俺にだけ視える学友が成仏してくれない
645年。この年の6月は、中臣鎌足にとって人生を左右する大きな意味を持つ月になった。
青春時代、大陸に渡って広く深く知識を学んだ高僧・旻先生の元でともに学んだ学友であった蘇我入鹿を、鎌足は、帝の御前で斃した。
斃す...と言っても、トドメを刺したのは彼ではない。彼がその将来性を見抜いて仕えた主君・中大兄皇子である。
これでも鎌足は政治家だ。人の生死は幾度となく見てきているし、いつか自分に葬られる時が来たら仕方がないという覚悟もできている。しかし、長年付き合いのある男を見送った彼の心の中に、一抹の寂しさが無いわけではなかった。
学友の最期は凄惨な暗殺現場となった。雨の中で決行されたその政変は、一瞬でカタがついた。かつて超えてやろうと羨望の眼差しを向けていたその背中は赤黒く染まり、胴体だけになった男の身体は、しばらく降り頻る雨の中に晒された。
その遺体を片付けたその日から、鎌足の手には、血の匂いが染み付いている。
今日も政務を終えた鎌足は、床に着こうと自分の居所を訪れた。調度品も最低限しか揃えていない鎌足の居所。その寝室も、いくつかの書物と、布団を敷いた寝台しかない。
「最近、良く手を洗っていらっしゃいますね」
侍従に声をかけられた。寝る前の一幕である。
「匂いが取れなくてね。血の匂いが。」
侍従の鼻の前に手を突き出してみる。クンクンと律儀に匂いを嗅いだ侍従は、
「ん...鎌足様の匂いしかしませんけど...」
と言った。なんだ?鎌足様の匂いって。
「俺の匂い?え?臭かった?」
「香木臭い感じです」
「それ、良い匂いってこと?」
「まあ、そうですね」
侍従は微妙な反応をしながら一礼をして去っていった。
微かに残る彼の匂いを敏感に感じ取っているのは、別に鎌足の鼻がよく効くという訳ではない。
「静止を振り解いてあいつの“お片づけ”しなきゃよかったな...」
鎌足は独り言を言いながら、床についた。
その夜は梅雨には珍しく雨の降らない新月の晩だった。灯りを消すとあたりは真っ暗でほとんど何も見えない。明日は朝から中大兄皇子のお供と、政務の手伝い、重臣たちとの会議などなど、やることがてんこ盛りだ。ここ数年休んだ日は1日も無いというほど多忙な日々を送っている。
でも皇子様はもっと忙しいし重責を担っているのだから、俺がへこたれていてはいけないのだ...と考え事をしながら、鎌足は布団の中でウトウトし始めた。
一刻ほど経った頃。
部屋の隅から何かの音がして、浅く眠っていた鎌足は目を覚ました。
ピタ...ピタ...ピタ...
雨垂れの音がする。
雨が降ってきたのか?とも思ったが、これが外からではなく、内側から聞こえるのだ。
(雨漏りしてる...?)
きっと雨漏りだろうと思って鎌足は再び寝ようとしたのだが、どうもそのピタピタ音はこちらに近づいてきているような気がした。
まるで、ずぶ濡れの人間が歩いているかのように。
「...誰かいるんだろ、そこ。」
鎌足が暗闇に話しかけると、ピタピタという音は一瞬止んだ。あ、やっぱり誰かいると思って、鎌足は枕元にあった刀を引き寄せて密かに抜刀の準備をした。
その“気配”が鎌足の腰ぐらいにまで近づいてきた時、生暖かい吐息が頬をかすめ、びしょ濡れの何かが鎌足の首元をフワッと撫でた。
鎌足は刀を抜く暇もなく
「ぎやぁああああああああああああああああ!!!!!!」
と叫ぶと、暗闇の中に薄ら見える黒い塊も
「うわああああああああああ?!?!??」
と人間の叫び声を出したのだった。
そして鎌足はその懐かしい、親の声よりも聞いた叫び声の主に向かって
「おいお前!!!脅かす側がビビってどうすんだよ!!!」
と、安眠妨害されたことへの怒りをぶつけた。
「いやだってぇ?!鎌足がここまで叫ぶとか初体験なんだもん!!!」
黒い何か...いや、6月12日に確実に死んだはずの彼_________蘇我入鹿の声は、そのように答えた。
この世の者ではないだろうに、どうして入鹿の声がするんだ...という疑問で頭がいっぱいになった鎌足であったが、夜明けまであと数刻というこの貴重な時間に起こされた苛立ちの方が勝ったため、怖さはあまり感じていない。
鎌足は黒いボヤァっとしたシルエットに手を伸ばした。水の滴る音はするが、実体を掴むことは出来なかった。仕方ないので虚空を弄っていると
「もお!やめてよお!くすぐったい〜!」
という情けない声が聞こえてくる。
鎌足は暗闇に向かって話しかけた。
「あのなあ、明日...というか今日は朝から皇子様の付き添いで忙しいの。寝かせろ。おやすみ。」
鎌足が寝息を立て始めると、黒い塊もとい入鹿は、寝ている鎌足のお腹にドンッと座ってみる。
「ヴェッ?!?!?!なんだっ、急に腹が重くなったんだが」
入鹿は足をぶらぶらさせているらしく、鎌足のお腹に振動が響く。
「今日とか明日とか、生きている人間はいいよね!!!未来の話ができるんだからね!!!」
「そだねぇ、お前の見れなかった未来を生きてんだから仕方ない...てか重い!!!俺から降りて!!!」
「鎌足と皇子様のせいで〜、あれ本当に痛かったんだから!首スパーーンって。」
「お、俺に言われても...」
「どうしてこうなっちゃったんだろうね。思えば昔は___________」
「ねぇ、その話長いでしょ?」
「旻先生に学堂で」
「おい、お前俺が朝から忙しいって知ってるよな」
「僕の成績は常に1番で」
「なぁ、寝かせてくれない?」
「え、嫌だよ。暇なんだもん」
「お願いだから!!!な!!!あとで相手してやるから!!!今は寝かせて!!!」
鎌足が姿の見えない入鹿に懇願していると、部屋の扉を開ける音がした。
「あの...鎌足様。お部屋に誰かいらっしゃるのでしょうか。え?お一人?うるさ...いえ、騒がしいなと思いまして。」
痺れを切らした侍従が灯りを持って部屋に入ってきたらしい。たしかに夜中に1人で喋っていたら、その声も周りに響くよなぁ...と鎌足は思ったが、いやしかし、悪いのは文字通り化けて出てきたアイツである。
「あー、ごめんな。入鹿が話しかけてきてさ...」
「えっ、大臣様ですか?」
(死んだ大臣を悔やんでいるんだろうか。きっと近年の激務と最近の政務で疲れてるんだ...それで、幻覚を...)
侍従は主の支離滅裂な言動を聞いて、しばらく考えたのち、
「白湯をお持ちします。」
とだけ言って、部屋を去った。
運ばれてきた白湯を飲んで、再び布団をかぶった鎌足だったが、布団の上や寝台周りがぐっしょり濡れていて、休める状態でもなかった。
結局日が昇るまでうとうとしながら、なんとも目覚めの悪い朝を迎えたのだった。
そのような日が、7日ほど続いた。
普段から浅い睡眠の鎌足は、ここしばらくは一睡もできない状況になっていた。
床に着くと入鹿が話しかけてくるし、別に何か話しかけて来ない日でも、無言で枕元に佇んでいるのが気配で分かるため、なんとなく気持ち悪くて眠れない。
いつまで経っても成仏してくれない彼が鬱陶しくなっていた頃、久しぶりに皇子様こと中大兄皇子と2人でゆっくり話す時間ができた。皇子の居所にいた鎌足は、突然皇子からおでこに手を当てられた。
「なんですか皇子様」
「いやー、最近鎌足の顔色があまりにも悪いし...目の下も隈がすごいし...熱でもあるんじゃないかなと思ってさ...」
「ああ。皇子様にご心配をおかけしてしまいましたね。すみません。」
「謝るな。どうしたんだ。」
「いえ...最近眠れなくて。」
「眠れない?」
「その...入鹿が寝せてくれなくて。」
うんうん、と頷きながら話を聞いていた皇子は、
「“いるか”って女がお前を寝せてくれなかったか。(笑)」
と、とんでもない解釈をした。
「ち、違いますよ!!!何言ってるんですか、文字通り蘇我入鹿ですよ...」
「我が斬ったではないか。もしかして、化けて出てきているのか?」
「そうなんですよ...」
『そうなんですよ...』
鎌足は自分の返答「そうなんですよ」以外に、もうひとつ『そうなんですよ』という声を聴いた。
「そうか。手厚く葬りたいのは山々なんだけどなぁ」
「いやちょっと待って首触んないでくれる」
「鎌足?」
「ええ、はい。」
「話聞いてる?」
「はい、聞いております。ん...ええ、はい。おい、耳元で囁くなよッ」
鎌足は首元に手をあてて肩をすぼめたり、首周りを手で払ったりして、時折独り言を呟いている。皇子はとうとう鎌足の気がおかしくなったのではないかと思って
「鎌足。お前ちょっと本当に大丈夫か?」
と、肩に手を置いた。すると、鎌足は飛び上がってその手を払いのけた。
「うわぁっ皇子様、入鹿が手を握って離さないとか言っておりました!!!今私に触れてはダメですよ!!!」
「は?入鹿?(こやつ、本当に幻覚が見えてるみたいだな...)」
鎌足はというと、自分の背後にピッタリくっついた入鹿が定期的にチャチャを入れてくるせいで皇子とろくに会話もできない。常に吐息を吹きかけられるし、しまいには
『僕は全て聞いているんだからね...もし僕の悪口を言おうものなら...呪...』
と脅してくるので、喋ろうにも言葉が出て来なかった。
「いや、ええあの、はい...」
ただならぬ雰囲気の鎌足を見て、(最近休ませてあげていなかったもんな...反省。)と思った皇子は、
「鎌足、お前疲れてそうだから今日は帰って休め。」
と言って、鎌足を無理矢理居所から追い出した。
「待ってください皇子様、今日は2人でやることがたくさn」
「亡霊と会話しているような不健全な状況の奴と仕事できるわけが無かろう」
「皇子様〜、言い方!」
「とにかく今日は休んで回復に努めるんだな。これもお前の仕事だよ鎌足。そんで我も今日は早く上がって寝るわ」
(皇子様も休みたかったんじゃん...)
せっかく政変を起こしたのに、そのせいで過労死するのは入鹿にも申し訳ないことだしな。と言うと、皇子は居所の扉を閉め、鎌足を締め出した。
「はぁ...お前のせいで散々だよ...最近...」
いつのまにか首元に悪さをして来なくなった入鹿は、どこに消えたのか分からない。今になって消えやがってと少々怒りを感じつつ、鎌足は自分の居所へと向かい、やることもないので寝台に寝転がった。
昼間に寝転がるのは何年ぶりだろう。旻先生の学堂で学んでいた頃、休憩がてらこんなふうに寝転がっていたっけ。
天井に黒いシミが見える。あの頃見ていたのとそっくりだなと思い始めると、鎌足の脳裏には昔の思い出が次々と蘇った。
俺は、いつまで経っても彼を超えることはできない。
「鎌足、一緒に厠に行かないか?」
「は?そんなもんひとりで行きなよ。こっちは漢詩の勉強で忙しいの。」
「へぇ、漢詩ねぇ...」
「兵法は得意なんだが漢詩はどうもね。」
真昼間の学堂で、鎌足と入鹿はよく2人で勉強をしていた。大豪族の蘇我氏の、しかも嫡流筋という高貴な家柄に生まれた入鹿は、朗らかなお坊っちゃまであったが、同時に頭脳明晰で、学堂での成績は常に1番。おまけに容姿端麗で身長も高いんだから非の打ち所がない奴だった。
それに比べると鎌足は、家柄は祭官を輩出する中堅豪族出身。気が利き頭の回転がとても良い秀才だったが、成績の面では何をどうしても入鹿に勝てなかった。読んでは書いてを繰り返して暗記する努力型の鎌足を横目に、さらさらっと四書五経に目を通している入鹿の方が、成績が良かったのである。鎌足が秀才なら、入鹿は天才だった。
けれど鎌足は少しだけ入鹿に勝てると思っていたことがあった。それは、度胸である。
先ほど厠に行こうと誘ってきた入鹿は、とても臆病だった。なぜひとりで厠に行きたがらないかも、臆病故である。
「最近噂で学堂の厠に“何か”がいるって言うからひとりじゃ行きたくない...」
きっと今すぐにでも用を足したいのであろう。入鹿はクネクネと動いている。
「いつも帯刀してるんだし、何か出たらご自慢の刀さばきをお見舞いしてやればいいだろ?何をそんなに怖がる必要が。」
「だって!!!刀で斬れないモノは全て信じたくないもん!!!もし何かに遭遇して刀で斬っても斬れない何かが目の前にいたのなら、僕は1人では対処できないね」
「そんなに頭いいのに?」
「それとこれとは違う話よ...」
結局、入鹿がうるさいので一緒に着いて行ってあげると、その”何か“はネズミが厠の近くを走り散らかす音だと判明したのだが。
その後も何かと怖がりな入鹿は、鎌足を頼ってきていたのだった。
「道が暗すぎる、一緒に帰れ」に始まり「あの人に悪口を言われていないか心配だからなんとなく聞いてきて」「学堂を休みたいんだけど旻先生や南淵請安先生に怒られないような言い訳を考えてほしい」など...まあ、しょうもないことである。
けれどそのしょうもないことのおかげで、助かっている面もある。
言い訳を考えたり、バレないように相手から情報を探ったりするのは、政治の荒波を乗り切る術としては非常に有用な方法のひとつであった。入鹿が頼ってきたことによって、奇しくも鎌足の政治スキルは上がってしまったのだった。
入鹿も入鹿で臆病なのが幸いして、若くして大臣という朝廷の最高職にまで上り詰め、その才能を、真価を遺憾なく発揮していた。遠巻きに見つめる彼の背中は、とても大きく、越えられるはずがない壁のように思えた。
昔を思い出してしんみりとなっていた鎌足がふと起き上がると、彼がそこに立っていた。今まで実体として見えることのなかった彼が、目の前にとうとう現れたのである。
「ああ...幻聴に加えてとうとう幻覚まで視えるように...」
鎌足は頭を抱えて膝から崩れ落ちた。
「こら鎌足、幻覚ではありません!正真正銘の僕です!ほら、ちゃんと見て。首の縫合痕、刀疵、そしてびしょ濡れの身体。どうりで風邪ひくわけだよね!ひっくしょん!」
「...幽霊って風邪ひくの?」
「...ひくみたいね。」
入鹿は鼻を啜った。
死んだ時のままの彼の姿は痛々しかった。首は繋がっていたが首にはきちんと切れ目が入っていて、止めどなく赤い液体が流れているように見えた。
寝不足で虚な目をした鎌足は、立ったまま鎌足を見下ろす入鹿を見上げた。そして手を合わせた。
「お願いだから俺の前に現れないでくれないか。成仏してくれ...」
「...僕はこの世に未練はないのよ。」
手を合わせる鎌足の手を上から包み込んで、入鹿は言った。
「どうして現世に留まっている...いや、留まらされているのか、僕にもわからないの。」
「そんなわけ...」
「もしかして、僕に未練があるの、鎌足だったりしない?」
「俺がか」
「誰かの強い想いによってこの世に繋ぎ止められているとしたら、鎌足。君しかいないかなって。」
ずっと心に留めておいた、無視していた気持ちが、鎌足にはある。
結局、入鹿を越えるために、入鹿を斃すしかなかったという敗北感と、罪悪感__________
「俺は、お前を越えたかった。」
声を、振り絞る。
「お前のような最高の頭脳と一緒にこの国を動かすことが出来たのならば、良かった。しかし、そうするには担ぎ上げる皇子様たちも違えば、味方になる豪族たちは複雑怪奇で、ひとつにまとまることはできない...だから俺たちはお前を利用した。」
中大兄皇子に仕えると決めた時から、こうなることは薄々気づいていた。しかし、多くの時を過ごしてきた学友の屍を越えていく茨の道がこれほど辛いとは、思わなかった。
「鎌足...鎌足は十分僕を越えているよ。政変の勝者でしょ。僕は敗者。勝者になった時点で君はもう僕を越えてるの。だから、斃された僕に対して何も抱くことなく政務を遂行したらいい。」
「そういう言葉を言わせている時点で...」
たまらず、鎌足の目から涙が溢れる。
「敗者は悪役。これから作る歴史では、僕は悪役として語られるんだろうな...愚昧な3代目。ふふっ。」
「ああ。帝位を脅かす奸臣としてだな。」
「それで結構。そうして皇子様方の御世が守れるのであれば。」
だんだん日が沈んできているのか、西陽が鎌足の顔を橙色に染めている。
神々しい後光を浴びて、入鹿の霊は鎌足の近くからスッと離れた。
「おい、何処へ行く」
「真っ暗になったら1人で出歩けないからさ。じゃあね鎌足。僕、先に黄泉で待ってるから。あ、早く来ちゃダメだよ?僕をこんなことにしておいて、次の勝負で早々に負けて黄泉送り...とか、本当に許さないからね」
「俺は」
「そうなったら、呪うから!」
「あの」
「じゃあ、お達者で。」
言いたいことだけ言って、入鹿の姿は消えていった。きちんと外が明るいうちに。
「...ありがとう、って言いたかったのに。」
その言葉はまた逢う日にとっておいて、という声が聞こえた気がした。言いそびれた言葉を彼に言う日がくるまで、きっと鎌足はこれから、天命を全うしなければならないのだ。
「すみません...鎌足様。奥方様がお呼びですが...あっ」
すっかりあたりが暗くなった頃、侍従が鎌足の部屋に訪れると、久しぶりにスヤスヤと寝息を立てる鎌足が、寝台に横たわっていた。枕には泣き腫らしたのか、涙のような跡も見える。
「ようやく、安息の夜を迎えられたのですね。」
侍従はそっと部屋を出た。
いつのまにか梅雨は明けていた。
____________「え、あの天下の奸臣と同じ学堂に通っていただなんて、そんな記録を残すんですか?」
時代は下って、孝謙女帝の御世である。
死の間際に中大兄皇子、いや天智天皇から頂いた藤原という氏を冠した藤原鎌足は、のちに日本で最も繁栄した大貴族・藤原氏の始祖となるのだが、この孝謙女帝の時代は、そんな鎌足から見ると曾孫世代が活躍していた時期である。
藤原氏に伝わる話「家伝」を編纂中の僧侶・延慶は、同じく編纂中の藤原仲麻呂の書いた項を読みながら少し驚いて尋ねたのだった。
「割と赤裸々なんですね」
「それほど、蘇我入鹿という政治家は優秀だったってことよ。そう思うと、あんな死に方をして勿体無いとは思うけどねぇ。」
「ああはなりたくないものですよね。」
「本当にねぇ。」
仲麻呂は足りなくなった墨を足すために墨を擦り始めた。延慶は仲麻呂の父である武智麻呂の伝記を書いている最中である。
「人の記録を残すって、それだけで弔いになる気がして、私は結構好きなんですよね。この仕事。」
延慶が背伸びをしながら言う。
「そうだな...私も入鹿の呪いは受けたくないし...わざわざ書き残しておかねばと思うわけよ。」
「の、呪い?」
「ひいおじいさまがね、入鹿のことはちゃんと書き残しておかないと呪われるぞ...って。言っていたような」
「言っていたようなって、あなた会ったこともないでしょうに」
「いや、そうなんだけど。なんだか、そんな気がするんだ。なんとなく。」
仲麻呂が外を見ると、俄かに空が曇り始め、シトシトと雨が降り始めたかと思えば、たちまちあたりには雨の匂いが立ち込めた。
その雨音を聞きながら、彼らは家伝を編纂し続ける。遠い昔の、あの日に想いを馳せながら。
俺にだけ視える学友が成仏してくれない み(もざ) @soga_no_irk
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