-余談・とんち-
杞憂ばかりしてしまうのは、悪い癖だと自負するのは篠崎雛乃である。
青海学園の高等部に進学してからというもの、自身にかかるプレッシャーは変わらない。
青海学園の元生徒会長であり、信州国立大学に進学し、大和撫子と謳われた外柔内剛な五歳年上の長女・
一方で、雛乃はといえば、期待されることはないが、その肩身はかなり狭い。
だが、それ以上に雛乃の心を重くすることがある。
恋心か憧憬の念かわからぬものを抱き続けていた姉と同年代の先輩・横山慶太と、まさか一つ屋根の下で暮らすとは思わなかったことだ。それも、便宜上とはいえ家族として。
雛乃の動悸は常に穏やかではなかった。毎日顔を合わせれば赤面してしまい、食卓の席では慶太の顔など見れず、一緒に登校するなど心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つ。
中等部にいた頃は、ただ顔だけ見れればよかった。遠くから眺め、時々は隣くらいの曖昧な距離で。
だが、同時に知らなかった一面を垣間見るのは、誰も見つけたことのない入江を進むように心を弾ませるものがあった。
変わる一日一日に、生まれてくる彩りは雛乃を幸福にさせると同時に、これがいつかは絶えてしまうのではないかと不安にさせるのだ。
だが、変わらぬものはある。姉・風音と慶太の仲が非常に悪いということだ。
姉は同年代に近い男性を毛嫌う癖があり――これに関して自身の過去に付随するのだが――「男という生物は女性に対して下心を持ち、言葉にするのも躊躇する下卑た行いをしたいが故に近づいてくるのだ」と常に口にしている。
しかし、横山慶太は姉の口にする偏った理論とはかけ離れており、どこか俯瞰的で大人びた態度をしていて、同年代の男子のどれとも違った。とはいっても姉は相変わらず心を許してはいないのだが。
そんな姉が珍しく慶太と肩を並べて客間の卓に座っていた。雛乃もその輪に入ってみたが、どうにもつい先日行われたテストの反省会のよう。
風音ははぁ~と深いため息を吐く。
「この間の事件のせいで散々だったわ。おかげで、物理は89点なんて情けない点数を取るし」
「だが、赤点を取らなかったんだ。悪いことではないはずだ。物事は考えようだと俺は思う」
「いいわけないでしょっ!? 私は青海学園高等部の生徒会長なのよっ! おまけになんであんたの方が点数高いのよ」
「貸したノートの持ち主だぞ? 差が出るのは仕方ないだろう」
「……ムカツク言い方ね。事件を解決してくれたし、ノートを貸してくれたのは感謝してるけど……!」
雛乃は少し前に起きた事件を思い出した。姉のノートが破かれ、校庭にばら撒かれるという陰湿な事件だ。普段は野原で佇むウサギのように穏やかな雛乃であったが、この時ばかりは胸のうちで小さな怒りを燃やした。
しかし、家に帰るとどうだろう。姉は事件に対してとやかく言うことはなかった。気になって夕食の食卓で尋ねてみたが、「それはもう解決したから大丈夫」の一点張り。姉の顔色を伺う義兄の様子を見て、雛乃は察した。
あぁ、慶太さんが解決されたんだ、と。
こうして雛乃は、より義兄のことが好きになるのだ。
「……まったく、トラブルを解決してくれたのは感謝してるけど、一休さんみたいにどこか可愛げあればいいのにね」
「
小首を傾げる慶太。ここぞとばかりに風音は得意げな顔を浮かべ、すぐに呆れ顔を作った。
「あんた、一休さんも知らないの?」
コクリ、と頷く慶太。
「あれだけ屁理屈染みた謎解きしてるのに?」
とんちと謎解きは違うと思う、と雛乃は考えるが口にはせず、「あ、あの。一休さんはですね、室町時代にいたとされるお坊さんです」と説明をした。
「人々の悩みや意地悪な人が出した問題をとんちで解決したとされています」
「とんち?」
「……あんた、とんちも知らないわけ?」
本気の呆れ顔を浮かべる風音。慶太は恥ずかしげもなく頷いた。こればかりは仕方がないが、慶太がアメリカから来日したのは三年前のことだ。そのさらに三年前にカリキュラムで日本のことは学んだが、一休さんのことなど、どの教本にもなかったことをふたりは知らない。
ここぞとばかりに得意げな顔になり、風音はいう。
「いいわ、一休さんの有名なとんち話を教えてあげる。あるところに意地悪な桔梗屋さんがいてね──」
「キキョウ屋?」
ガクリと肩を落とす風音。
「桔梗屋というのは、今でいうところのお菓子屋さんです」と補足をいれる雛乃。
「んん」と咳払いする風音。「ある日のこと、桔梗屋は一休さんを呼び出したの。でも、桔梗屋は意地悪なことに、自分の屋敷に繋がる橋の前に『このはし渡るべからず』という立札を立てたの。道と屋敷は川で隔たれている。その橋を渡らないと桔梗屋には行けない」
「はあ」
「慶太がもし一休だとして、この問題をどうやって解決する?」
「橋が使えないなら、川を泳いで渡ればいいじゃないか」
自分はそうするし、そうしてきたと言わんばかりの勢いで答えた。風音も雛乃も同時に困惑する。
「あのねぇ……。それじゃあ、とんちでもなんでもないの」
「違うのか」
風音はそうだ、と閃き、メモ帳とペンを引っ張りだし、『このはし渡るべからず』と、丁寧に書き記した。
「はい、これをよく見て。これがその立札に書いてあったとされる文ね」
「はあ」
「はしのところ、漢字じゃあないでしょ?」
「たしかに」
「つまり、はしとは、川にかかる"橋"とは示してないの。正解はね、一休さんは堂々と橋の真ん中を渡ったの。つまり、はしっこの‟端”として捉えたのよ」
もう正解を話してるよ、と口にしたくなる雛乃。だが、慶太は真剣な眼差しで頷いてみせた。
「なるほど、屁理屈だ。つまり、とんちとは歪曲した屁理屈のことをいうのか」
たしかにそうだけど……。考えあぐねる篠崎姉妹。こういう出来事の説明は非常に難しい。
「あーもう。そういうことじゃなくて……」
風音は長い髪を指でかき乱したあと、「あっ」と思い出した素振りをした。
「じゃあ、次の問題ね。ある日、いじわるな殿様が一休さんを屋敷に呼び出したの。殿様は招くなり、一枚の屏風を指差してい――」
「……ビョーブ?」
「あ、あの。屏風っていうのは仕切り板のことです。身分の高い人はその仕切り板に絵を描いてもらったりしてるんです。ウチの蔵にもありますが……」
小首を傾げる慶太に雛乃はいう。出鼻をくじかれた風音はまたため息を吐くなり、大きな咳払いをして仕切り直す。
「エッホン。殿様はビ・ョ・ウ・ブを指差していいました。『一休や、この屏風に描かれた虎が、夜な夜な抜け出して暴れ出しているんじゃ。なんとかしてくれんか』と」
風音は小芝居をしながら、身振り手振りで慶太に説明してやる。小芝居など、普段からしない姉に物珍しさと同時に、あとで後悔するのだろうなぁと雛乃は思う。
「実に荒唐無稽な話よね。──けど、そこは賢く立ち回りの良い一休さん。一休さんはその場を見事にとんちで切り抜けました。さて……あんたが一休なら、どうする?」
慶太は顎に指を当て、数秒ほど考えた素振りをしたあと、
「その屏風とやらを燃やせばいいんじゃないか?」
「あ・の・ねぇっ! ……たしかにそうだけどっ!! 答えはそうじゃないのっ!!!」
当然、しっくりとこない顔をする。でも、慶太お義兄さんの答えは間違ってはないと思う雛乃。
「……正解は、一休さんはその場で縄を持って、『捕まえますから虎を屏風から出してください』というの。当然、屏風から虎なんて出てくるわけがないから、殿様は『これは参った』と感服して褒美を与えたの」
「なんだ、それ」
腑に落ちないと言いたげな顔をする慶太。
「一休さんはファンタジーの話じゃないのか」
「まっっっったく違うわっ!! あくまでちゃんとした歴史なのよっ!!」
風音はすっかり呆れ返っていた。一方の慶太は納得できないといわんばかりに拍子抜けた様子でいった。
「日本の昔話はどれも空想めいたファンタジーだと思っていた。金持ちの縁談を蹴って月に帰るプリンセスに、亀を助けた末に老人になってしまう哀れで親切な男に、ペットを仲間にして鬼とかいうモンスターを倒しにいく男に……」
「なんでそれは知ってんのよっ!!」
「前に図書室で読んだ。漢字もなく、挿絵もあってわかりやすいストーリーだった」
「そりゃあそうでしょ。児童図書なんだから。……というか、私はこんな児童図書読んでる男にテストの点数で負けたの?」
「児童図書がそんなに悪いのか? 俺は日本の風土信仰や迷信が学べると思って参考になると思っているが……」
そういって慶太は足元に置いていた本を二人に見せた。ポップな字体で書かれたタイトルは『にほんの名作』。表紙の帯には収録内容があり、『かちかち山』や『三枚のお札』などなど。呆気にとられて言葉を失うふたりに慶太はいう。
「日本の歴史は面白いな鬼にこの……やまんばというのか? それとタヌキやウサギというのはやはりなにかの暗喩なのか?」
冗談とは思えない口調で淡々という慶太に、これまでにない
「……あんたのそういうとこ、本当に嫌いっ!!」
姉の響き渡る怒声に、雛乃の杞憂など風のように去っていた。
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