第9話 光化学レーザー

 全身を、ぬるぬるとしたヘドロで覆い、虹色の重油や汚染物質を垂れ流す表皮。

 

 背中の煙突のような突起と、その根元の孔から真っ黒な煙を上げるそのシルエット。


 両指から伸びた長い爪の都合、両肘を横に突っ張って、指先を地面に向ける、独特の姿勢。


 人間を見下ろし、ぐりんぐりんと不安定に、長い首を揺らすその様態。


 それらの上半身を支える頑強な足腰。攻撃を避けたり、追撃するために走ることすら放棄し、ゆっくりと、だが確実に前進する、災害のような下半身。


 そして、そんな体に追従する、第三の足でもある尻尾は、すでに破壊されつくした土地を、なめるように抉っていく。


 これが、化学怪獣ラジュードだった。人間が生み出した、汚染と、破壊されつくした自然の絶叫。人間へ仇討ちする悲劇の亡霊! 人の宿業が生んだ、いずれ受けるべき罰。


 特撮映画『化学怪獣ラジュード』の主役中の主役が、距離にして六百メートル前方、まさに目の前にいる!


 ラジュードが吼えた。目の前に現れた、小さな蝿に向かっての威嚇かどうかはわからない。


「前に視察した時は寝ていたのに」


 エアが焦ったように言う。


「しょうがない。とにかくラジュードの真上に行こう」


「わかってる、作戦通りだ。だけど……」


 距離、四百メートル。だが、ラジュードは確かに、ゴドー達を見据えていた。


 十メートル以上ある長く鋭い爪をぶら下げた右腕を、怪獣は振り上げた。


『奥さんがてんぷら油をこぼしたとき、手をべたべたにしていたのを参考にした、ってなかやんは言っていましたよ』


 桐戸聖也著作『化学怪獣ラジュードを作った益荒男よ』より。ラジュードの長い爪は、油を滴らせた指先をイメージしているという。テリジノサウルスを参考にしたともいわれていて、資料や証言者によって由来は異なる。そんな長い爪が、まさに今、汚れを払うかのように振り回された。まだぎりぎり距離はある、そう思っていた二人へ、その爪先から飛ばされたヘドロが、降り注ぐ!


「ワルワル!」


 エアの叫びにワルワルが緊張し、羽ばたいてヘドロ群を回避する。その塊の大きさは十メートルを超えている。直撃すれば、当然、撃ち落されて死ぬしかない。


「すごい臭いだ。結界でも防げない!」


 そのヘドロは、腐敗臭に混ざったつんとくる酸性の洗剤に似たもの、或いはガソリン、加えて硫黄など。様々な害悪以外にない強烈な汚臭も散布する。二人は急いで、事前に用意した防毒マスクとゴーグルを装備する。ワルワルの頭部にはすでにそれらがつけられていた。


「また来る! ワルワル!」


 ワルワルは上昇を続けつつ、怪獣の爪の動きを見て微細に風を調整する。怪獣の左腕が空を切り、遅れてヘドロをまき散らす。ワルワルはそれらを躱しながら、より高い空へ上って怪獣に接近する。


 距離、百メートル。ヘドロを避けきり、いよいよ風をまとって天に上る。ラジュードが司会に入る最後の距離を過ぎる。


 距離、五十メートル、急上昇中。怪獣眼前。その分厚いヘドロのような表皮の奥、その瞳と目が合った、とゴドーは思った。


「……」


 そのとき、怪獣はだばだばとヘドロと油を溢し、真っ白な薬剤を牙の隙間から噴き上げながら、大きく口を開けた。


「まずい、光化学レーザーが来る!」


 ゴドーは絶叫した。彼の視線は、怪獣の背中、黙々と上がる煙に注がれていた。


「急旋回! いけるか?!」


 エアの言葉に従ったのか、それともワイバーンの本能か、二人が振り落とされそうな勢いで怪獣の頭上をワルワルが旋回する。


 それとほぼ同時に、視界が閃光に染まった。事前に光化学レーザーの眩さを想定して作ったゴーグルだったが、それでも一瞬脳が焼かれるような痛みが走った。


 加えて、レーザーを避けるワルワルの急旋回は強烈な遠心力を生み、二人の全身を引き千切ろうとする。


 早く終わってくれ、いくらそう祈っても、ワルワルの回避運動は終わらない。ラジュードは首を真後ろにまで倒しこんでワルワルを追尾する。


「追いつかれる!」


 ワルワルが反射的に、尻尾をより強く丸めるの感じる。すでに、首は正面、左横、真後ろ、そして右横にまで捻りこみ、やがて正面に戻って、停止した。


『監督は、ビームをバンバン出して、街を焼きたいっていうんだよ。でも、着ぐるみって大分重いだろう。だから、首を長くして振り回したらどうだって言ってやったんだ』


 桐戸聖也著作『化学怪獣ラジュードを作った益荒男よ』より。初めての怪獣映画に挑戦する太宝株式会社では、当然怪獣のスーツも試行錯誤の連続だった。どうしても、重量が抑えられなくなる着ぐるみでは、前方にしか光線は吐くことができない。だが、監督の要望は違った。その結果生まれたのが、それまでの怪獣にはなかった、首が長く、可動範囲の広い設計とデザインだった。三百六十度、首をぐりんぐりんと捩じって振り回し光線を吐くその姿は、観客達の胸に、可笑しさと破壊への執念、不気味さや恐れとして刻まれた。


「寝てくれれば楽だったのに……」エアはいまだに文句を言っている。


「ラジュードの光線は、どんな角度にいても飛んでくる。ラジュードは、人間を憎んでいるんだ」


「ややや、わからん。とにかく、躱し続けるのも限界があるな」


 エアは一瞬思案し、


「わたしが囮になる」


 と宣言した。


「エア、それは……」


 囮作戦は事前に交わしていた作戦の内容でも、最後の手段であった。


「わかってる。でも、そうするしかないだろう。大丈夫、わたしは死なない。ワルワル、ゴドーを頼んだ。高度を稼いでくれ」


 同時に、エアは鞄の中から、小さな塊を取り出し、投下した。エアが手を打つと、空中で塊も弾け、周辺に煙幕を敷いた。その隙に、ワルワルが再び急上昇する。時間を稼いだ、つもりだった。だが、煙幕をぶち抜いて、再び閃光が、手当たり次第に空を裂いた。光化学レーザーがぐるんぐるんと、大地も何もかもを焼き切っていく。


「限界だ、わたしがひきつける!」


「エア!」


 ワルワルの背に足を着き、エアは勢いよく飛び降りた。まとった外套が羽のように広がって、滑空する。次いで、左手の先から光球を打ち出して、怪獣を挑発する。煙幕を破って、怪獣の頭がエアに向いた。


「ワルワル、伝わるかわからないけど、急いで、あいつの頭の上に……」


 ぎい、とワルワルは鳴き、怪獣の真上に到達する。


 怪獣の頭から計算して、五十メートルほどだろうか。地上から換算したら百二十メートル。四十階建てビル相当。人も車もあったものではない高さ。一瞬、ゴドーの身が震えた。


 ぎぎ、とワルワルが鳴いた。馬鹿にしているのか、急げと言われているのか。ゴドーはこの、紐なしバンジージャンプを前に、浅く呼吸をすると〈オムニエンザイムディスラプター〉から伸びた皮の手すりを掴んだ。それを、ぐいと引っ張るのが合図だ。


「アクション!」


 鼓舞する叫びとともに、ワルワルから飛び降り、手すりを引く。すると、ワルワルが尻尾を離し、〈オムニエンザイムディスラプター〉を落とす。それに捕まっているゴドーもまた、落ちていく、怪獣の体の上に吸い込まれていく。ゴドーは手すりを握り〈オムニエンザイムディスラプター〉の四方につけられたバーニアを点火し、着地位置を調整する。可能なら、着地点は頭がいい。だが、頭はよく動く故、首でも可。エアが囮になっているおかげで、頭を狙うのは無理だと判断し、首に向かって急落下。


 着地点の調整ができた時間は、僅か一秒もない一瞬の出来事だった。だが、それでもバーニアの火が着地点を首へ正確に誘導した。


落下の衝撃はヘドロの表皮を深さ二メートルほど吹き飛ばした。それは、当然ゴドーの体も破壊しかねなかったが、エアの結界が彼の体をつないだ。だが、それで緩和しきれなかった衝撃で全身が痺れている。一息つきたい気持ちで、ゴドーの胸はいっぱいになったが、まだ、仕事は終わっていない。


〈オムニエンザイムディスラプター〉につけられた射出装置、その根元にあるハンドルを握り、その内側の火の精霊と木炭などを混ぜた爆発質を思い浮かべる。普段、〈イグニス〉は明かり代わりによく使う。あの明るさと熱を思い出す。


「爆ぜろ!」


 ばん、と爆発が起き、〈オムニエンザイムディスラプター〉の映写機でありカメラユニットが、怪獣の体奥深くに射出され、深々と突き刺さる。今度はヘドロではなく、怪獣の肉すら飛び散って、ゴドーの体に注いだ。あとは、映写がうまくいくことを祈るのみ。


「今回の薬は、飲むんじゃなくて注射で悪いな」


 果たして、効果があったのだろうか。すでに映写は始まっているはず。兎にも角にも、怪獣の動きが、ぴたりと止まっていることが不気味だ。そうなると、エアの様子が気になる。もしかしたら、エアを焼き切ったから、ラジュードが止まったのではないか――そう思ったとき、動きがあった。


 横じゃない。上でもない。下だ!


 まるで地震のような揺れを湛え、ラジュードが、どんどん崩れていく!


「やったんだ、五行博士みたいに、ラジュードを!」


 ゴドーは思わず叫んだが、同時に身の危険を感じた。このままでは、ラジュードのヘドロに巻き込まれて死んでしまう!


 慌てて這い出そうとしたとき、すでに彼の全身を覆うように、ヘドロが囲んでいた。まるで食虫植物が蝿を囲むようであった。


 ゴドー・トジオが意識を失うまでに、時間はいらなかった。

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