15話 過去は大体、忘れたい頃にやってくる

 ……人生で最初に何かを諦めたのは、いつだっただろうか。


 小さい頃は、どこにだってできるしなんだってできると本気で思っていた。

 それが崩れた最初の出来事は、果たしてなんだっただろうか。


 燎は、それをなんとなく覚えている。

 練習ののち補助輪を外せるようになって、親に立派な自転車を買ってもらった時だ。


 世界が、一気に広がった気がした。

 これがあれば、なんだってできる。どこまでだって、世界の果てまでだって冒険できる。

 そんな万能感を無邪気にも覚えて、一日中自転車を乗り回した。


 そして……すぐに気づいたのだ。

 世界は、想像よりずっと広かった。そして自分は思った以上に小さかった。あっという間に息が切れて、その割に全然進めていなくて。

 どれだけ頑張っても──世界の果てには行けないんだと理解させられた。


 それが、きっと燎にとって自覚できる初めての。

 同時に、その後何度も味わうことになる、当たり前の挫折の記憶だ。




 ◆




 家に戻った。


 半ば無意識に、本棚からデザインの参考資料を取り出し机に置き、タブレットを取り出して描画ソフトを起動。

 そうして、ペンを片手に考える。この一週間、当たり前のように繰り返してきたルーティン。そこから、ひたすらほたるに似合うキャラデザを考えて。


 そして──何も思いつかないところまで、ずっと同じ。


「……っ、はは」


 でも、一つ違うところがある。

 皮肉にも……思いつかない原因だけは、先ほどの出来事で自覚してしまった。



 曲がりなりにも何かを作り出す経験をしてきた中で、燎にも分かったことが一つある。


 それは、何かを生み出す──つまり『アウトプット』をする際には必ず『インプット』が必要だということだ。


 言われてみれば、当然の真理。けれど、創作においてはとりわけそれが顕著だ。

 全くの無から何かを生み出せる人間などいない。だから人は何かを創作する際には、自分の中にあるものを参照する。

 それは知識であり、経験であり。様々なことを通して自分の中に積み重ねてきたものが、自分だけの何かを創造する助けとなるのだ。


 そのことを踏まえた上で、燎自身を振り返ってみよう。


「………………」


 何もしてこなかった。


 雪哉の言う通りだ。自分は十五年間、ただ生きてきただけだった。

『本気になれるものを見つけたい』『自分の全てを懸けて良いと思えるものに出会いたい』。そんなことを嘯きながら、手を出したものは軒並み三日坊主。本物を見ては心が折れ、覚悟を知らされては賢しらぶって見切りを付け。

 そんな自分にうんざりしつつ……でも、変えられなかった。


 それでも、変われると思ったのだ。

 あの日、ほたるに出会って。こんな自分に懸けてくれる人が見つかって。彼女に背中を押される形で、今までにないくらいに頑張った。ただひたすらに頑張った。

 その果てに──自分でも、素敵なものが生み出せると思ったのだ。


 ……でも。

 なぁ夏代燎、ここで一つ簡単な質問をしよう。十五年も生きたお前なら分かるだろう。

 ほたるに背中を押され、一月半前から必死に努力を重ねてきた。心を入れ替え目標に向かって、ひたすら邁進し続けてきた。

 それは素晴らしいことだろう。紛れもなくここ一月半のお前は誇るべきことをやってきた。その事実だけは、我がことながら認めてやってもいい。

 じゃあ、その上で。



 ──それで・・・無為に・・・過ごしてきた・・・・・・十五年が・・・・チャラに・・・・なるとでも・・・・・思ったか・・・・



「…………ッ」


 答えは当然──なるわけねぇだろバカか、である。

 そうだ、バカだ。バカでも分かる……でも愚かにも自分は、心のどこかでなってほしいと思っていた。空虚で辛かった今までが、何かの形で報われて・・・・くれる・・・と思っていた。

 ……『報われる』ほどの何かなんて、一切やってこなかった分際で。



 ひたすら、燎は机の前で考える。

 自分一人で生み出す何かを。ほたるのアバターデザイン、彼女に相応しいキャラデザを。

 考えて、考えて、ただひたすらに考える。頭が痛くなるほどに考える。


 ……でも、思いつかない。

 何もない。彼女に似合うものを作り上げられない。手がかりを求めてひたすら探っても返ってくるのは虚しい手応えばかりで、その度にひどく耳に残る風音が強くなる。


 それも、当然のこと。

 だってほら、見てみろ。これまで『気付きたくない』と目を逸らしていた光景──自分の内側をちゃんと見ろ。


 空っぽだ。

 ただ無為に時間を過ごし、与えられる知識も技術もエンタメも自分の中に吸収するでもなくいたずらに消費し、経験と言えるほど何かを頑張ってもこなかった。

 何もなく、なんでもなく。ただただ虚しい風が吹くだけの白い空間。

 そんな場所に手を伸ばして、お前は何を持ってこれる気でいたんだ?



 単純な話である。

 今の自分を変えたいと思って本気で努力し、何かを生み出そうとした自分の前に最後に立ちはだかったのは、紛れもなく空虚で怠慢だった過去の自分。変えようのないもの。


 何も頑張ってこなかった、何も積み上げてこなかった。

 そのくせ『今から始めてもなんとかなる』と烏滸がましくも思い込もうとしていた自分に降りかかった、十五年分のツケを当然のように払わされただけだ。


 そんな自分が──何か素敵なものを生み出せるなんて、本気で思っていたのか?



「…………、なんで…………」


 そんな自分。バカな自分。どうしようもなく覚悟の甘かった自分を完膚なきまでに理解させられて、燎は。

 


「なんで俺は──何もやってこなかったんだよッ!!」



 今までで一番の悔恨を、叫んだ。


「もっと早く気づけただろ! いつか絶対こういうことになるってさぁ! なんで……こんなことになるまで分かんなかったんだよバカか俺はッ!!」


 折れそうになる程ペンを握り締め、死ぬほど歯を食いしばってなのに情けない涙を止められずに。

 心の底から、今までで一番の後悔を吐き出す。


「もっとやりようはあったんじゃないのか! もう少し頑張ることはできなかったのかよ!! 根性なしが、ふざけんな!」


 出てくる言葉は、あまりにも稚拙で。

 ……そうだよ。こんな稚拙な罵倒でしか表現できない程度の存在が、自分なんだ。


 時間を巻き戻せるなら巻き戻したい。

 過去、できるだけ過去の自分に今の自分を見せて、『何もしなければ将来お前はこんな情けない奴になるぞ』と徹底的に言い聞かせ、目を覚まさせてやりたい。


 ……でも、そんな都合の良いことは起こらない。いや、もし出来たとしても怪しいが。

 その結果が、今の自分。変わらない自分。一番頑張りたいと思った目標を達成しきれず、今まで最も応えたいと思った期待に応えられない、そんな……そんな。


「……くっ、そ……ッ」


 雪哉の言うことが、改めて身に染みた。

 ああ、その通りだ。自分はどうしようもなく、覚悟のない素人でしかなかった。

 だって、ちゃんと本気なら、ちゃんと覚悟があるなら。こんな自分のように遅いタイミングではなくもっと早く、そして自分のように誰かに背中を押されるまでもなく自分一人の力で、とっくに走り出しているはずなんだから。

 それこそ雪哉や、蒼や……後はきっと、ほたるのように。


 ……最初から、自分は、ダメだったのだ。

 あんなすごい人たちに並び立とうなんて、烏滸がましいにも程があって。自分なんかが同じステージに立とうとすること自体が無理な話で。

 特別じゃない、ただ憧れるだけで何も出来ない、自分も有象無象でしかなかったのだ。




 そこからもうしばらく──まるで最後の悪あがきのように、何かを決める時間のように、負けを悟った棋士の投了準備のように、デザイン考案を続け。

 その果てに……やっぱり、何も思いつけないことを確認してから。


「………………、無理だ」


 辞めよう、と。

 ずっと頭の隅にあったその考えに、天秤を傾けた。


 これ以上は、何をやっても無理だ。

 だって原因が分かってしまった。自分の圧倒的なインプット不足。彼女に相応しいくらい素晴らしいものをアウトプットする土台がそもそも無い、空っぽだ。

 それは、どう足掻いても変えられない自分の過去の怠慢に起因するものであるために、解決策が存在しない。


 これ以上は、彼女にも迷惑をかける。

 雪哉と同じ結論なのが彼に悪いが……それ以外に言いようがない。ほたるはきっと自分を信じて待ってしまう、だからその前に──彼女の期待が彼女自身を縛り付けてしまう前に、自分が終わらせるべきだろう。ほたるが、より高く飛べるために。


 …………いや。多分、それも取り繕った綺麗事だ。

 単純に、自分が疲れたのだ。

 辛いし、苦しいのだ。何日も何日もひたすら考えて、でも何も出てこなくて。

 出口のない暗闇の迷路を彷徨い続けるのに、もう、耐えられないのだろう。


(……本当に、どこまで)


 自嘲の表情を浮かべ、心を決める。


「……よし」


 ぱたり、とタブレットを閉じ、広げていた資料を丁寧にしまい、一つにまとめて箱の中に押し込む。

 これでもう描画アプリを開くことも、箱を開けることもない。


 辞めると決めれば──重荷から解放されて、心は晴れやかだ。

 もう出口のない思考に悩まされることもない、毎日毎日モチーフを睨みつけて手を動かす凄まじい疲労を味わうこともない。

 時間の不足に悩まされることも、遥か遠くの目標を見て心が軋むことも。



 会心のデッサンを最後まで描き終え、自作を何度も見返す達成感を味わうことも。

 尊敬する人たちの感情や信念を目の当たりにし、影響を受けて心が震えることも。

 一心に目標へと歩みを進める、眩しくて熱かった日々が戻ってくることも、ない。



「…………これで、良いんだよ」


 熾火のような感情を、誤魔化すように覆い隠して。

 電気を消し、ベットに潜り込んで──ひどく苦労して、眠りについた。




 ◆




 翌日、放課後。

 彼が訪れたのは、漫研部室。


 辞めると決めたが──それでも、せめて自分の手でけじめはつけたい、しっかりと終わらせたい。その決意のもと、まずは彼女の居場所を訪れた。


 ノックをして返答はないが……今日は部室にいるはずだし、本当に入ってはいけないタイミングならば彼女はちゃんと鍵をかける。

 開いているのならば、単純に聞こえていないだけだろう。一月以上の付き合いでその辺りも分かっていた燎は、扉を開ける。


 部室に入って周囲を見ると、案の定。彼女は部屋の奥で作業をしていて──



 ──思わず、目を奪われた。

 彼女は……蒼は、タブレットに向かっていた。恐らくは次作のネームや構想を練っているのだろう。それ自体は、特段珍しいことでもない。


 特筆すべきは、彼女の表情。

 年齢の割に幼さを残すその可憐な顔は、その面影を残しつつも真剣な色を宿し。

 きっと、上手くいっているわけではないのだろう。燎と同じく『生みの苦しみ』を彼女も味わっているのは顔を見ればすぐに分かる。

 けれど──それでも、絶対にペンは離すものかとばかりに。

 強く握りしめ、必死に頭を回しながら、純粋に『創作』に向き合う顔をしていた。


 ……綺麗だ、と思った。

 格好良いな、と思った。


 そうだよ。彼女は、桜羽蒼は。入学直後に、涙を流しながらも訓練を続けていたあの様子を見た時から──ずっと、すごくて格好良い先輩だった。

 ……あんな風に、なりたかった。


 そして……それを見て、もう一段決意を深める。


「ん……夏代くん?」


 そこで、蒼も燎の気配に気づいたようだ。

 作業を中断し手を止めて。驚きと、後は微かな期待を宿して顔を上げ──


 ──そして、燎の顔を見て。

 何かを察したように、表情を変えた。


「……話があるみたいね。いいわ、言ってみなさい」


 その、察せられた通りの言葉を。

 燎も静かに、告げるのだった。


「……辞めます」




「──そ」


 簡単な辞める理由──先日のほたるや雪哉との件も絡めてのそれを、聞き終えた後。

 蒼は、端的に素っ気ない肯定を返した。


「まぁ、あなたも折れるとしたらそこだろうとは思っていたわ」

「っ」


 きっと、口ぶり的に同じステージで創作を辞める人を多く見てきたのだろう。

 さもありなん。きっとこれが、何かを作る上での最大の壁なのだから。

 それを聞き届けた上で──蒼の返答は、案の定。


「それで、私としても結論は前々から言っていた通り、『辞めたいならいつでも辞めて良いわよ』。だからあなたが辞めたくなったのなら辞めれば良い、この分野でやる気のない人を引き止めても意味がないしね」


 淡々と語られる言葉は、どこまでも静かで落ち着いて。

 ……ああ、そうだ。彼女の態度は、一貫してそうだった。


「好きにすれば良いわ、辞める上で私の許可も必要ないし。まぁ……」


 そうして蒼は、少しだけ表情を緩めて。


「今まで見てきた中では、一番頑張ってたとは思うわよ。……お疲れ様」


 締めくくりの言葉を聞いてしまえば──もう、これ以上ここに居る意味は見出せず。


「…………今まで、ありがとうございました」


 最後の礼儀としての言葉を、それでも過去一番心から告げて。

 燎は、踵を返す。


 これで、おしまいだ。

 もうここに戻ってくることはない、蒼と関わることもない。

 そう考えつつ、燎は歩みを進め、ドアノブに向けて手を伸ばして──



「────」



 そこで、ふっと。

 微かな、本当に微かな。ともすれば気づかないほどのささやかな力で。

 後ろに引っ張られるような、感覚がした。


 思わず振り向く。すると、そこには。


「…………」


 静かに、燎の後ろまで歩み寄って。

 俯きながらも、手を伸ばして。その細指で、燎の制服の袖を。

 普段の彼女からは想像もつかないほどに控えめにつまんでいる、蒼の姿があった。


「……先輩? あの……何、してるんですか」

「……そうね。本当、何してるのかしらね、私」


 困惑と共に問いかける燎に返ってきたのは、同量以上の困惑を含んだ声。

 けれどそれはやがて徐々に……熱をもつものに変わっていく。


「やる気のない人間を引き止めてもお互い幸せにならない。深く関わりすぎても、絶対ろくなことにはならない。そう知ってる……嫌ってほど学んだ、はずなのに」


 きゅっ、と袖にかけた指に力を込めて。


「なのに……なんでまた、懲りずにこんなことしてるのよ。なんで……あなたや・・・・ことを・・・聞いちゃった・・・・・・のよ……ッ」

「!」


 思い返す。


『──あなたのお仲間はどう?』


 修行を続けていた時、本当に初期は技術的なことを教授するだけだった蒼が、いつからかそれ以外の近況も聞いてくるようになったことを。

 その時の蒼は……確かに、いつもより楽しげで。


「…………なんで」


 続けての声、震えながらの『なんで』は、燎に向けられたものだということが分かった。


「なんで、辞めるの?」

「……先輩」

「これからじゃない。今は苦しいかもしれないけど、あと一歩じゃない! あなただけじゃない──天瀬さんと赤星くんだって、すごく真っ直ぐで良い子じゃないの! なんでそんなことになってるの、なんであなたたちみたいにみんな頑張ってるすごい子達が、そんな風にならないといけないのよッ!!」


 そこで、蒼は顔を上げて。


 ──ここ最近、誰かの見たことのない表情を多く見る、と場違いにも思った。

 それくらいに、今の彼女は……端正な顔に、悲しみと、何かを願うような色を浮かべ。


「……いやだ」


 出会ってから一番、感情のこもった震え声で、告げる。


「だめ、辞めないで。……辞めないでよ……!」



 ……隠したはずの、熾火のような感情が。

 また微かに、炎を発したような気がした。

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