12話 あおい先輩は順調にデレている、けど。

 燎がほたると出会って、そこから絵の修行を始めて……三週間近くが経った。

 そんなある週末の放課後、恒例となった漫研部室にて。


「……正直なところを言うと……」


 夏代燎を──正確には彼の目の前に広がるケント紙の列を見て。

 対面の桜羽蒼が、驚きを声にのせて呟いた。


「……ここまで頑張るとは思ってなかったわ」

「ありがとうございます先輩」


 それを受けて燎自身も、目の前の光景を我ながらの驚きと共に見やる。

 そこに広がる──二十枚近くの、ここまで毎日繰り返したデッサンを見て。


「我がことながら壮観ですね……こんだけ描いたんだ」

「並べてみると結構楽しいでしょう? 自分がここまで頑張ったことが視覚的に分かるし──最初期と比べることで成長も実感できる」

「はい、俺超上手くなってません?」

「ま、その上で私のデッサンがこれなんだけど」

「毎回上げてから落としてきますねぇ! どんぐりの背比べを上から踏み潰して楽しいですか!? どんぐりだって頑張ってるんですよ!!」

「若干喩えが違う気がするけど何故か言わんとするところは分かるわね。ともあれそういうわけで──今日もしっかり指摘していくから、覚悟なさい」


 期限の二ヶ月まで、もうすぐ半分に迫った現状。

 燎のイラスト修行は──順調に進んでいた。




 ここ三週間のルーティンはある程度決まっていた。

 家に帰ってひたすらデッサンと作品を仕上げ、次の日の放課後蒼に見てもらって問題点の指摘、そして蒼の絵柄をコピーする上でわからない部分、『どうしてそう描いているのか』が理解しきれなかった部分の疑問をぶつけてその解消。

 そこから、次の課題をもらった上でキャラデザインやイラスト制作における基本的な技法の授業。その課題と知識を持ち帰った上で次のデッサンと作品──という繰り返しだ。


 ……けれど、最近になって。そのいつもの流れにとあるやりとりが追加された。それが、


「それで──あなたのお仲間の様子はどう?」


 このように、蒼が燎と周りの人々の近況を聞いてくるようになったのである。

 これまで、絵に関してはしっかり教えてくれるもののそれ以外の部分には興味を持たなかった──と言うより、意図的に距離を取ろうとしていた節のある蒼が。

 僅かながらにも、燎たちへと興味を持ってくれた。それがなんとなく嬉しくて……無論それに応えない選択肢などなく、燎は最近の周りの人間──つまりはほたるのVTuber活動準備に関することを話し始める。


「そうですね……まず作曲担当予定の赤星ですが、変わらず忙しいみたいです。中学までやってたバンド活動をやってない分暇ができそうだと最初は思ったんですが、それを補うくらいに軽音部その他から作曲依頼が舞い込みまくってるとか」

「でしょうね。私も去年経験したけど、特別入試組ってだけでこの高校ではネームバリューがすごいのよ。需要もあるし、依頼を厳選するまでがこの時期の鉄板ね」

「みたいっすね。でももうちょっとで落ち着くらしいんで、そこからは天瀬の曲制作に取り掛かるみたいです。昨日それ話してくれたのと──あ、あと昨日ついに差し入れの飲み物受け取ってくれたんですよ! 順調に懐いてくれてると思いません!?」

「猫か何か?」


 あながち間違ってもいないかもしれない。

 あれからも燎はほたる共々隙あらば雪哉に話しかけており、相変わらず反応は冷たいものの完全に拒絶はされていないし、徐々に受け入れてくれている感覚はある。まさしく、中々人に懐かない野生の猫を相手にしている感じだ。


「そんで天瀬の方は、今は技術担当してくれるらしい先輩と諸々詰めて、絵と音以外の部分を先に仕上げてるとか。並行してボイトレも進めてて、予定通り二ヶ月後──あと一月後には準備が完了するって言ってました」

「本当に単身でパソコン部と交渉してたのね……行動力がすごいわねその子」

「はい。それ以外の部分でも暴れてて……この前なんかは有志主催の球技大会に全競技参加したいとか言い出しました。愉快そうなとこには脊髄反射で突っ込んでくんですよね」

「犬か何か?」


 あながち間違ってもいないかもしれない。

 行動を共にするようになって分かったが、彼女はとにかく『やってみたい』から『やってみる』までのレスポンスが異様に早い。迷う間もなく興味のある場所に突撃する無尽蔵のバイタリティはその手の犬種を彷彿とさせる。


「…………まぁ、でも」


 そんなやり取りののち、蒼が苦笑気味にこう締めくくる。


「二人とも、真っ直ぐでいい子なのね」

「それは間違いないです」




 そんな雑談を挟みつつも、蒼のイラスト講座は続いていった。

 三週間彼女の話を聞いて思うのは──蒼の『理論派』としての凄まじさだ。

 彼女の絵や漫画には、無意味な部分が一つもない。線の引き方、色の使い方全てにちゃんと意図や狙いがあり、そこに何を込めているのか聞けばすぐに返ってくる──どころか、予想した以上の深い狙いが教えられることも多々あるのだ。


 そうして今日の一通りの講座が終わり……改めて、燎は呟く。

 

「……すごいっすね、この練習法」


 ……正直なところを言うと、最初は若干不安だった。デッサンと作品、やるのが本当にこの二つだけでいいのか、もっと様々な特訓を行った方が良いんじゃないか、と。

 けれど、実際にやってみたからこそ分かる。この二つが、最も無駄がないのだと。


「数学の勉強みたいな感覚です。デッサンで公式を学んで、作品でそれを実際の問題に応用するみたいな。例えば──俺、服のシワとかイラストでどう描けばいいか前まで全然分かんなかったんですけど」

「初心者あるあるね」

「でもそんな時、実際に布のデッサンをしたらよく分かりました。どういう風に絵に落とし込めば布の質感、服の立体感をそれっぽく描けるか。そんでそれが、実際のイラストにどうデフォルメされて描かれているのか」

「なんだってそうよ。イラストってものはそもそもが『デフォルメ』の賜物なの。『リアルな絵』からどの要素を抽出して強調するか、それをどう省略して落とし込むか。それを知るためには、一度リアルな絵を、つまりはデッサンを描くのが一番分かりやすい」


 よく、簡単なイラストを見て『これなら自分でも描けそう』と思う人がいるが。

 あれは大きな誤りだ。むしろあれは、実際のリアルな絵からどの要素を残せばちゃんと見えるかを理解し限界まで削った結果──言うなれば、極限の取捨選択の賜物。下手にリアル寄りの絵よりも余程超絶技巧なのである。


 それを理解した上で改めて『イラスト』を見てみると、見え方が全然違う。

 その感覚を、隠しきれない高揚と共に燎は語る。


「デッサンでモチーフの絵への落とし込み方、要素を発見して、その上で先輩の絵を見てそれらのうちどの要素をどう使っているかの技法を教えてもらう。ひたすらそれを繰り返して、どんどんイラストを描く上での技と使い方を自分のものにできてる感覚で」

「……」

「なんていうか、RPGでレベルを上げてどんどん新しい技を覚えてる感じに近いというか……とにかくそれが超楽しいです」

「へぇ、私の絵をゲームに喩えるとはいい度胸じゃない」

「え、あ、すみません! 軽く見るつもりは一切なくてですねその」

「冗談よ。……むしろ、こんな早くその感覚に辿り着いたことに感心してるわ」


 思わぬ言葉に、燎が軽く目を見開く。


「そうね。それが分かったなら……そろそろ次のステップに進んでもいいかも」

「次、ですか?」

「ええ。と言っても大枠は今までと変わらないわ。デッサンと作品を引き続き進めつつ──今までよりも少しだけ『作品』を重視しなさい。一通りの王道なモチーフはやったことだし、もう今のあなたなら、今の自分に何が必要かも自分で分かるんじゃない?」

「……はい。基礎能力もですが、よりイラスト的な技法の取得に集中したいです。それともう一つ……」

「『色』よね?」

「!」

「まずはモノクロでしっかり描ける方が優先度が高いからこれまではデッサンに集中してもらったけど、もう解禁して良いでしょう。そろそろだと思って水彩画セットも用意しておいたから、まずはデッサンと同じくモチーフをこれで描いてみなさい」


 そう言って、てきぱきと蒼が絵の具を取り出していく。


「基本的なことはデッサンの時みたいに今日教える。それでモチーフを描いてみれば……きっと発見がいっぱいよ。これまで赤だと思って見てた部分が実は青で描かれていた、みたいなことがザラにあるし、なんでそうなるのかを理解して自分に落とし込めれば──」


 そこで、蒼が燎の方を振り向いて……珍しく、無邪気さを含ませた愛らしい笑みで。


「──すっごく楽しいわよ?」

「──」


 それを見て。改めて、燎は思う。


「……ほんと、ありがとうございます先輩」

「? ど、どうしたのいきなり」

「いや、だって正直なとこ……ここまで丁寧に教えてもらえるとは最初全然思ってませんでしたから。まず初対面では超絶塩対応されましたし」

「それに関しては実のところあんまり後悔してないわ」

「でしょうね! でも……それでも頼み込んだらちゃんと教えてくれて、おかげでもうここまで上手くなれて。ほんと、良かったなと」


 我ながら大分こっ恥ずかしいことを言っている気がする。

 蒼も黙っている。これはあれか、いつものチョロい先輩が顔を出す感じか──と思って顔を上げて、そこで。


「…………えっと、本当に?」


 予想より、大きく違う。

 戸惑い、困惑を多分に含んだ顔で、そう告げる蒼と目が合った。


「先輩?」

「本当、かしら。……今の私、ちゃんとあなたの師匠できてる?」

「それは、当たり前です。いや、なんでそんな自信が無いように」

「だって……いえ、そもそも違和感はあったでしょう? 多分あなたは気を遣って聞かないでくれたんでしょうけど、なんで私が連日ここに居るのかとか──」


 そのまま、蒼は。

 微かに苦さの滲んだ笑みと共に、手を広げて。




「──そもそも・・・・なんで・・・ここに・・・私以外・・・誰も・・居なかった・・・・・のか・・、とか」




 ……それは、確かに、疑問に思ってはいた。

 だって、漫画研究会というからには最低限活動できるだけの人数は居る──少なくとも過去には居たはずである。いくら蒼が特待生でも、彼女のためだけに会の発足を認めるほどこの高校は甘くない。

 なのに、今ここには彼女一人。ここ三週間通って、彼女以外を見かけた試しもない。

 それが、意味するところは。


「……あなたの推測している通りよ」


 心中を読んだかのようなタイミングで、蒼が告げる。


「かつては……去年までは、ここにも人が居たわ。私がお世話になった、今はもう卒業している人以外にも。数は多くなかったけど……一つ上にも、同学年にも」

「……」

「みんな絵や漫画が上手くなりたくて頑張ってて……自慢になっちゃうけど、その中では一応私が一番上手かったから。頑張って教えたわ、連載の時間の合間を縫って、私の持つ知識や技術をできる限り伝えて、私なりにその人に寄り添って一生懸命にやって──」


 そうして、静かに。


「──それで、いつの間にかみんな居なくなってた」

「……」


 そこに何があったのか、居なくなった人が何を思っていたのか。

 燎は知らない、いや──きっと蒼も知らないのだろう。


「お恥ずかしながら、私の何が悪かったのか今でもはっきりとは分かっていないわ。ただあの時は私も連載中で余裕がなくて、色々やらかしてしまったんだろうなっていうのは分かる。……だからね」


 その上で、淡々と、蒼は告げる。


「一つ、決めたの。今度は──寄り添いすぎないようにする、って」

「……え」

「多分だけど、前の失敗の一つはね。親身になりすぎたことなんじゃないかって思うのよ。きっと踏み込まれたくない部分もあるだろうに、私はそれが分かってなかったって」


 だから、と続けて。


「今度はちゃんと弁えるわ。あなたはちゃんとやる気があって優秀だから、技術的な面はしっかり教える。けど、それ以上は踏み込まない。あくまで同じ部の先輩と後輩で、それ以上には変な詮索もしないし、無理に引き止めるような真似もしない」

「……」

「最初に言ったこと、覚えてる? あれは私の本心だから」


 そうして、締めくくりに──出会った初日に言ったことを、もう一度。


「──辞めたくなったらいつでも辞めていいわよ?」


 何も言わず、そこまで聞き届けた、けれど。

 ……確かに、その在り方は一つの正解ではある。自分と蒼の関係はあくまで部活の先輩後輩であり、ただそれだけ。縛り付けたり強制したりする権利はどこにもない以上、蒼の態度は何一つ間違っていない、理想的ですらある。


 でも……それは、上手く言えないけれど。

 あまりにも、悲しいんじゃないかと、思って。


(……いや)


 心の中で首を振る。

 たとえそう思ったとしても、今の燎に否定する権利はない。蒼が考えた末に導き出した結論なのだから、増してや当事者でない燎が口を出して良いわけがない。

 だから──今自分が言えるのは、この一言だけだ。


「辞めませんよ」


 今の本心を、揺るぎなく告げる。


「少なくとも今は、辞めるなんて考えられません。そりゃデッサンも絵柄似せて描くのもしんどいですけど、せっかく面白くなってきたところなんです。レベル上がってできることが増えて、しかも今度は水彩でまた新しいスキルツリー教えてくれるんでしょ? そんなん絶対楽しいじゃないですか」


 そうだ、ここからじゃないか。

 なんでもなかった自分が今、間違いなく過去最高に全力でやれていることを手放すなんて考えられない。何より、ここまでしっかり教えてくれる先輩から逃げるなどそんなの誰がどう見ても天罰ものである。

 だから。


「だから、辞める気なんて今はありません。昔何があったのは知りませんけど──少なくとも今は先輩は、俺にとってはちゃんとすげぇ師匠です。キツくてもいいんで、この先もガンガン教えてくださいよ」

「……ん、そ、そう。そこまで言うなら仕方ないわね楽しみにしてるわ!」

「もうちょっと誤魔化せませんでした?」


 そう告げた燎に、蒼は少しの驚きののち、目を逸らしつつ告げる。辛うじて誤魔化せているような雰囲気を出しているが口元は緩みっぱなしだった。

 うん、今日もこの先輩はちょろい。



「…………そう、ね」



 ……そう、思っていたからか。

 蒼の表情。安堵したような、照れたような──けれど、それ以外の何かも含まれた。

 ……まるで、燎の言う『この先』に何が待つか知っているような。そんな表情の違和感に、気づくことも指摘することもその時はできなかった。


「……少し真面目な話をしすぎたかしら、というわけで空気を変えたいわね」


 それに気づかないまま、照れ隠し八割の様子で場を切り替えるように手を叩いて──蒼が真面目な表情で告げる。




「──何か面白いことを言いなさい後輩」

「世界で一番目上に言われて困る振りを容赦なくぶち込みましたね先輩!!」




 女子生徒でなければ手が出ていたところだった。


「なんでもいいのよ? そうね……それこそさっき話していた天瀬さんの話が聞きたいわ、絶対まだまだ愉快なエピソード隠していそうじゃない」

「それは分かりますけど! そこまで言うならもう直接天瀬と話せばどうです?」

「何言ってんの。まぁ会いたくないってわけじゃないけど……聞く限りどう考えても陽の権化みたいな性格でしょその子。私と直接会ったら何が起こると思ってるの?」

「最悪先輩が消滅しますね」

「面白いこと言うわね後輩!」


 ……我ながら、随分蒼とも打ち解けたと思う。


 いや、蒼だけではない。ほたるも雪哉も、ここまでの交流を通して──みな良い奴ですごい奴だというのはよく分かった。

 だから、燎も。そんな人たちに刺激を受け、かつて宣誓した通り二ヶ月後、今までにないすごいものを作り上げるんだと。

 そう、無邪気に信じていた。



 そのまま、各々のやることを一生懸命に続け、更に二週間が経過したその時。

 ──あの出来事が、起こったのである。

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