第32話 それぞれの思い(透子・芽衣)
何をするにも許可が必要で、間違いを犯せば暴力をふるった。
間違いと言っても、遅刻や忘れ物、その程度だ。だが父には許せなかったらしい。
(……違う。あの人は自分の日ごろの鬱憤を私や母で晴らしていたんだ)
「ママ、どうしてあの人と結婚したの?」
幼い頃、透子はそんな風に母親に訊ねたことがあった。
すると、母親の答えは決まって夢見がちなものだった。
「あの人は……本当はとても優しい人なのよ」
そう言った母こそ、とても優しかったが、とても弱かった。
(父は嫌い。男は嫌い。だって、暴力をふるうから)
だが
「優斗くんの目を覚まさせるなら、やっぱりあの子を殺さなくちゃ」
そう、いらないものは全部排除すればいい。父親の教えのひとつだ。
父親の唯一良いところは、どんな事も揉み消すことができる強い繋がり。
それは透子の力となった。
「
蒼が入院している病院で、蒼の父親と優斗の話を偶然聞いた透子は不敵に笑う。
蒼の父親——
だが、物理的に遠ざかっても、優斗は蒼のことを想い続けるだろう。ならば、蒼を消す以外に、優斗を自由にする方法はないと考える。
「ようやく優斗くんが私の物になるんだわ」
こうして優斗を手に入れる覚悟を決めた透子は、スタッフステーションに向かった。
***
「優斗くん、おはよう」
遅刻気味の早朝。
教室で芽衣が声をかけると、優斗はまるで誰もいないように通り過ぎていった。
「え? 優斗くん?」
静かに去った優斗の背中を眺めながら、芽衣はしばらくその場で呆ける。
すると、そんな芽衣の元に
「どうしたの、芽衣。
「うん……きっと、蒼のことで、優斗くんは思いつめてるんだと思う」
「仲間くん、優しいもんね」
「こういう時は、そばにいたいんだけど」
「芽衣こそ、大丈夫? 蒼くん、まだ目を覚まさないんでしょ?」
「大丈夫。蒼ならきっと目を覚ますと思うから」
「強がりもほどほどにね」
「はは」
何も知らずに励ます千晶に、芽衣は力なく笑った。
***
「優斗くん」
廊下を早足で歩く優斗に、芽衣も小走りで声をかける。
だが優斗が振り向くことはなかった。
————が。
「無視しないで、優斗くん。お願い……」
芽衣が両手で顔を覆ってしゃくりあげると、とうとう優斗が振り返った。
「……山路」
そして心配そうに芽衣の顔を覗き込む優斗の腕を、芽衣はすかさず捕まえる。
「捕まえた」
「泣いてるふりだったの?」
「ふふ、だってこうでもしないと優斗くん、捕まらないから」
甘え上手な蒼の幼馴染だけあって、芽衣も人を欺くが上手く、優斗は大きなため息を吐く。
「……山路はさすがだね」
「それで、どうして私を無視するの?」
芽衣が腕を離しても、優斗はもう逃げたりしなかった。
だが答えることもなく、ただ黙って俯いていた。
「蒼も優斗くんも、肝心なことは言わないんだから」
「……俺がいると、二人に迷惑かかるから」
「迷惑? なんで?」
「……蛍原のお父さんに言われたんだ。俺がいると迷惑だって」
「
「だから俺は、蛍原や山路から離れるよ」
「待って。……間違ってるよ、そんなの」
「え?」
「優斗くんは何も悪いことしてないじゃない。悪いのは全部天久先生でしょ?」
「……山路」
「いいよ、私が栄一さんに言ってあげる」
「山路は、蛍原がこんなことになって、怖くないの?」
「どうして?」
「俺といたら、殺されるかもしれないんだよ?」
「そのために蒼は動いていたんだよ。その気持ちを無駄にしないで」
「でもやっぱり、俺は蛍原を犠牲にしたくない」
「犠牲なんて、そんなこと思わないよ。蒼が聞いたら、きっと怒ると思うよ? ものすごく頑張ってるのに、犠牲の一言で片づけられるなんて」
「……蛍原が本当に死んでも、そんな風に言える?」
「……わからない。けど、私も蒼も、優斗くんを助けたいんだ」
「どうして……山路は……」
「だって友達だもん」
「山路」
「いいから、私が栄一さんに言ってあげるから! このままにはさせないよ」
意気込む芽衣に、優斗は狼狽えた顔をしていた。
***
陽が高くなった爽やかな土曜日の午後。
総合病院の廊下に、蒼の父親——
「こんにちは……芽衣ちゃん。今日はどうしたんだい?」
「栄一さんは……優斗くんに離れるように言ったんですよね?」
「……ああ、言ったよ」
「どうしてそんなことを?」
「普通の親なら当然のことを言ったまでだよ」
「でも、私は優斗くんを一人にしたくありません」
「だったら、芽衣ちゃんにも離れてもらうしかないね」
「……蒼がそれで納得しますか?」
「蒼が納得しなくても、言い聞かせるまでだよ。考えてもごらん? 優斗くんがいると、蒼が死ぬかもしれないんだよ? 天久透子という教師が危険だということは、私の耳にも入っているんだ」
「蒼は死にません」
「どうしてそう思うの?」
「蒼は私や優斗くんや蒼の家族を置いて、死にたくないと思うから」
「おかしなことを言うね」
「おかしいことじゃないです。当たり前のことです」
「芽衣ちゃん、君の言いたいことはわかるけど——」
—————キャアアアアア!
栄一が言いかけた時、突然、近くの病室からけたたましい叫び声が聞こえた。
「——え? なに?」
芽衣が瞠目していると、栄一がそんな芽衣の肩を軽く叩く。
「ああ、やっと来たか。 ――行こう、芽衣ちゃん」
「え?」
それから蒼の病室に向かった芽衣だが——数メートル先にあった彼の病室内には、複数の看護師が駆けつけており、その中心には蒼の姿があった。
しかもいつの間に目を覚ましたのか、蒼は立ち上がって一人の看護師の腕を捕まえていた。
「え? 蒼!?」
芽衣が駆けつけると、蒼は心底嬉しそうな顔で破顔する。
「ああ、おはよう芽衣」
「いつ起きたの?」
「さあ、いつだろう。それより、捕まえたよ父さん」
蒼は企むような笑みを浮かべると、芽衣の後ろからやってきた栄一に告げた。
すると栄一は腕を組んでソックリな笑みを浮かべる。
「よくやった息子よ」
彼らの視線の先には、蒼が捕まえた看護師の姿が。
「あなたたち……」
短髪の女性看護師は蒼や栄一を見比べながら、苦々しい顔をしていた。
そして蒼は看護師の腕を決して離さぬよう、きつく握りながら吐き捨てる。
「これでもう、あの女は逃げられないはずだ」
蒼の視線は、ドアの外に向いていた。
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