第20話 今住んでいるマンションの話
今住んでいるマンションに引っ越してからの話です。
結婚後、私は夫と共働きでコツコツと貯金をして、夫の実家から程近い場所にマンションを購入しました。
(貯金は使ったものの、勿論フルローンです)
私は三歳の時に祖父が家を売ってからというもの、ずっと転々と引越しをしていたので、「自分の家」にとても憧れがありました。
そうして、結婚後は安アパートに住みながら、薄給なりに買える物件を探して、とうとう夢のお城を購入したという訳です。
バブルの終わりに建ったマンションは、古いが故に大変しっかりした造りの建物で、ついでに中はほぼフルリノベーションされておりました。
大満足の夢の城。
しかし世知辛いもので、私には悩みがありました。
今は夫が会社員をしてくれていて、私は夫の希望もありフルタイムのパートで働いています。
しかし子供ができると、私はしばらく働けなくなってしまいます。
(実は弊社はパートでも産休育休をくれるらしいのですが、当時は知らなかったのです)
生活は夫のお給料だけでも何とかなりそうだったのですが、私の悩みと言うのは、
「奨学金の返済が出来なくなるかも」
という事でした。
当時はまだ、奨学金の返済が終わっていなかったのです。
自分の意思で、結婚前に借りた借金ですから、夫に払ってくれと言う訳にもいきません。
奨学金の返済が滞るとまずい。さてどうするか。
私はツテを辿って、パートの他に自宅で内職の仕事をする事にしました。
内職の内容は社外秘なので言えないのですが、かなり精密な作業でしたので、飼い猫が出入りできる部屋ではできません。
必然、私は自室に机を据えて、その仕事に取り組む事となりました。
私の私室というのはマンションの通路側で、窓一枚隔てると、結構人通りがある場所でした。
お昼間にそこに居ると、廊下で立ち話している人の声が結構聞こえます。
それは良いのですが、不思議だったのは、夜でも人の声がするどころか、
「夜中の一時二時でも結構うるさい」事でした。
仕事に追われ、夜中まで作業をしていると、殆ど毎回、外の廊下で数人が楽しくお話している声がするのです。
例えば、宅飲みをしていて、ちょっと抜けて外でタバコを吸いながら、友人と話し込む。
そういう雰囲気の楽しい会話です。男女両方の声がしました。
楽しくお話しているだけなら良いのですが、怒鳴り合いの喧嘩をしている日もありました。
「何か揉めてんな」
そう思いつつも、関わり合いにはなりたくありません。
部屋の立地的に、窓を開ければコの字型の建物の廊下はほぼほぼ見渡せます。結構声が近かったので、恐らく同じ階。開ければ誰が喋っているか分かりますが、まあ因縁を付けられても嫌なので、開けません。
もうひとつ悩みがありました。
それは、その部屋で作業をしていると、夜中の一時半頃から酷い耳鳴りがするのです。
あと、これは感覚的なものですが、何だか急にとても怖くなる。
部屋に居られなくなって、その日は切り上げて寝室に戻る事もありました。
意地でも仕事を続けていると、夜中の二時半くらいにはなんとも無くなります。
これは、私の自室だけで起きる感覚でした。
(ちなみに元々酷い不眠症ですから、二時三時まで起きているのは、そんなに苦では無かったのです)
ある日の夜中の作業中。もうとうに夜中の一時を過ぎています。
相変わらず外は賑やかです。遊びに来た人が中々帰らず、ずっと玄関前で話している様な感じでした。
私は締め切り前で、結構イライラしていました。
「うるさい……!」
季節は冬。
このクソ寒い中いつまで喋ってんだ。
昼はパートに出ますから、家に帰ってきて晩御飯の支度をして、帰ってきた夫とご飯を食べて、内職をするのはその後の時間です。
繁忙期は深夜の一時二時まで作業をしている事もザラでした。
しかし内職にしてはかなり割の良い仕事だったので、私はクビになるまいと、必死にやっておりました。
そして、その日はちょっと疲れていました。
外から聞こえる声に苛立った私は、文句は言えないまでも、せめて煩いのがどの部屋か見てやろうと思いました。
なんならちょっと迷惑そうな顔をしてやろう!
舌打ち混じりに窓を開けました。
無音でした。
真夜中のマンション。
真冬故に虫の声すらしません。
凍えるような冷気が部屋に入ります。
私は、身を乗り出して窓の外をぐるっと見ました。コの字型の建物で、人が居れば分かります。
誰も居ません。
何なら、ドアの開閉音とかもしません。
ただ廊下の明かりが明るくて、それにぼんやりと照らされるマンションの駐車場にも、誰も居ませんでした。
私はなるべく静かに窓を閉めました。
とにかく、今日のノルマを終わらせないとなりません。まだ夫の寝ている寝室に逃げ帰る事は許されません。
もしかしたら、私が窓を開けたから、慌てて黙ったのかも知れない。
きっとドアの音や足音がして、静かに出ていくか、家に入るはず。
私は仕事をしながら、人の気配を探ります。
無音。
ちなみに古いオートロックのマンションなもので、裏口からマンションを出入りする時は「ガシャン!」と結構大きい音がするのです。
唯一音が聞こえないエントランスから出るならば、必ず私の部屋の前を通らないといけません。
無音
無音
無音
キィーン…………
何時も通り、夜中の一時半頃に酷い耳鳴りがしました。
そして、物凄く怖い。
マンションの廊下ではなく、背後に誰か居る。そういう感覚です。
私は何とかノルマを終えて、寝室に逃げ帰り、猫に縋って寝ました。
その一件の後、夜中に声だけが聞こえる現象は無くなりました。
人の声がしても、それにはちゃんと足音や、ドアの開閉音が伴います。なにより、深夜に廊下で話し込む様な非常識な人は、一度も現れませんでした。
さて。
事故物件を検索できる「大島てる」というサイトをご存知ですか?
物件を探すとき、私も参考にしました。
このマンションは、自殺や殺人等の情報はありません。
しかし、マンションが建ったのはバブルが弾ける寸前です。
夢の様な好景気が一転。
建物の値段も高騰していましたから、当時このマンションの価格は、一番安い部屋でも五千万はしたそうです。
ちなみに、建材が高騰している今、同じエリアで新築を探しても半額強程度です。
集合ポストの表札を見ると、元々住んでいた人か、後から引っ越してきた人かは一目で分かります。
建築当初から住んでいた人は、表札が綺麗に統一されたデザインなのです。
半分程は、各々好きに作った表札か、元々の表札の上に、名前を打ったテプラが貼ってあったりします。
なお、人気の物件らしく、何時でもほぼ満室。今も空き室が一部屋あるだけです。
(今年丁度管理組合の役員に当たっているので、総数が分かるのです)
折角買ったマンションを売った人の事情はわかりません。
人事異動があったり、単に他の物件に住みたかったのかも知れないし、介護などでご実家に帰った人も居るでしょう。
そして中には、支払いが出来なくなり泣く泣く手放したというケースもあるでしょう。
建設された時期がバブルが弾ける直前ですから、そういう人も居ただろうと思う方が自然です。
楽しく談笑する声、玄関先で怒鳴り合うような激しい喧嘩の声。
時間帯で部屋が怖くなるのについては、正直分かりません。
しかし、深夜に響いていた声については、
「建物にこびり付いた、かつて住んでいた人の記憶の様なもの」
では無いかなと、私は勝手に考えています。
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