第11話「カエルみたい」

 ギニ族の集落から東へしばらく進むと大陸中央部に入る。

 もちろん危険地帯なので、並の人間は近付かない。

 ということは……

 並でない者は近付くということだ。

 化け物を退治して〈スレイヤー〉の称号を手に入れたい冒険者一行。

 化け物退治が目的ではなく、牙や角などの〈お宝〉を採取したい冒険者一行。

 どちらにしても命知らずな連中だ。

 退治も採取も失敗してしまうから、中央部の化け物と恐れられているのに。

 それでもここへ来るのは、わからず屋の冒険者と——

 傭術師くらいだった。

 彼らは冒険者と違っていた。

 実力を誇示するために、あえて危険を冒したりはしない。

 ここへ来るのは狩りのためだ。

 生活のためだ。

 狩りで手に入った肉がおいしくて、鱗や皮革もたくさん取れれば最高だ。

 だから狩るのは大型モンスターまでで良く、化け物と戦う気はなかった。

 化け物は戦闘力だけでなく心も強い。

 傭術が効かないこともありえた。

 よって化け物より格下の大型モンスターを狙う。

 とはいえ、これも楽ではないのだが……

 傭術師が術を掛ける時、できれば敵を正面に捉えたい。

 それが最も集中できる。

 でも、正面の敵に集中していたら、横の草むらから中型モンスターが飛び出してきたら?

 彼らでもモンスターに敗れる場合があるのだ。

 そのような傭術師にとって便利な地形があった。

〈ぼっち峠〉という。

 大陸西部からの低山地帯は緩やかなのだが、中央部に入ると途端に傾斜が急になる。

 鹿や馬が楽に通れる斜面ではなく、得意としているのは山羊くらいだ。

 その険しい山々の中で例外の地点が件の峠だった。

 おそらく獣やモンスターが山間の谷を通っている内に偶然の道ができ、この山の峠道もそうやってできたのだろう。

 道幅は二エールトほどしかなく、例えばモンスターが単独なら余裕だが、複数では窮屈だ。

 道の左右は森が深いし、無理に通ろうとすれば傾斜が急なので転落するかも。

 先人の傭術師は、ここに目をつけた。

 この山頂なら、獲物に正面から術を掛けることができる。

 大きな獲物はどうしても単独で通るしかない。

 だから先人たちは名付けたのだ。

 ぼっち峠、と。

 大型の獲物よ、独り〈ぼっち〉で峠を上ってこい、という意味だ。


 大陸中央部、ぼっち峠、午後——

 リッサ、ハリム、スキュートは、ぼっち峠にやって来た。

 ここまで来るのに、結構掛かった。

 ……掛かった?

 要するに、時間と手間のことだ。

 集落での昼食を終えた三人は東へ出発した。

 峠までは遠い。

 本当は朝に出発すべきなのだ。

 リッサはなるべく足の速いモンスターを支配してひた走らせた。

 疲れてきたら次のモンスターを見つけて乗り換える。

 これを繰り返すことで、午後に到着できた。

 いまは日差しがまだ明るい。

 けれども日が沈んで暗くなるのは早いだろう。

 夜の中央部なんて、ゾッとする……

 リッサは急いで傭術の指導を開始した。

 まず、ここまで走らせた〈従者〉の獣、虎とスキュートを向き合わせた。

 向き合う距離は約五エールト。

 スキュートは嫌な予感がしていた。

「……まさかね」

 振り返ると、後ろでリッサとハリムが話していた。

「ハリム、アンタは道の横に退いていて」

「わかった」

 これは傭術の初訓練だ。

 部外者の魔法使いハリムが後ろに退くというのはわかる。

 わからないのが位置だ。

 なぜ〈道の横〉なのだ?

 彼の正しい位置は後ろじゃなくて横なのか?

 そしてもっと気になるのが虎だ。

 朝の集落で見た。

 狩りに出かける傭術師は、モンスターや獣を身近な横に従えていた。

 なのに、なぜいまは虎と向き合っているのだろう?

 五エールトの距離の意味は?

 しかし、スキュートの疑問など構わずに、リッサは始めた。

「それじゃ始めわ。スキュート」

「な、何?」

 嫌な予感は増幅するばかりだ……

 横とは?

 五エールトとは?

 せめてこれらの疑問が明らかになれば、修行に迷いなく取り組めるだろうに。

 けれども、リッサは疑問に細かく答える気はなかった。

 厳しい師匠、というわけではない。

 いざ修行が始まれば、説明されなくてもわかることばかりなのだ。

 だから彼女はスキュートに告げた。

「前を向いて」

「?」

 後ろを向いていた彼が指示に従うと、正面の五エールト先に虎が控えている。

「ここはぼっち峠なのだから直進するしかなく、変則な動きをするのは無理」

「うん……」

 うん。

 ここがぼっち峠という名であることはわかった。

 地形についての説明もわかった。

 わかったけれど……それで?

 彼女が重要な点に答えていない気がするのだ。

 どうして〈従者〉の虎と向き合わなければならないのか?

 そして彼女とハリムはなぜ道の横を後ずさりしているのか?

「私はハリムのように石を投げないわ。だから——」

 だから、何?

 何なのだ⁉︎

 不安すぎて、スキュートの心臓が「ドクン、ドクン」から「バクン! バクン!」へと鼓動を変えて口から飛び出そうだ。

 でもこれで謎が明らかになるに違いない。

 彼女は「だから」の続きを語った。

 わかりやすく手短に。

「だからあの虎を支配してね」

「……支配?」

 手短すぎたか。

 却ってわかりにくい。

「支配じゃ難しい? 相手を従属させるの」

「??」

 従属……

 支配より難しい言葉になってしまった。

「心で(我に従え)って強く念じて——」

「???」

 念じる、なんてできるはずがない。

 できないから午前の魔法練習が失敗に終わったのだ。

 次第に、リッサはイライラしてきた。

 傭術も魔法の一つだ。

 念とは?

 支配とは?

 すべてを説明してはいられない。

 この部分は、ハリムたち魔法使いと同じだ。

 自分で〈魔法の感覚〉に目覚めるしかない。

 彼女もそうやって傭術師になった。

 ところがスキュートときたら!

 いまや彼の「?」が三個になってしまった。

 さらなる疑問に答えていたら「????」と四個になってしまう。

 イライラをこれ以上我慢することはできない!

 リッサは虎に向かって右手をかざした。

「いいからやって!」

「だから、支配ってどうやるの⁉︎」

 素人にとって、支配は難しい。

 だが難しくても直感でできるしかないのだ。

 それが魔法の感覚というもの。

 その感覚が鈍いまま「?」ばかり連発しているから、

「ガオオオオオオッ‼︎」

 虎が怒った。

「ととととら⁉︎ りりりりさ、あれ⁉︎ あれ⁉︎」

 またスキュートの言葉がおかしくなったので訳する。

 正しくは「虎⁉︎ リッサ、あれ? あれ?」だ。

 彼女が術をやめたので、虎は正気を取り戻した。

 あとはいつも通りだ。

 いつも通り、虎は背を向けて逃げている人間を——

 捕食する!

 獲物と見做される態度を取ったスキュートが悪いのだ。

 と、冷静に思考している場合ではなかった。

「ゴオアアアッ!」

 虎が獲物の彼を追いかけ、

「うぎゃあああああっ!」

 その彼は泣き叫びながら全速で逃げた。

 両者の思考はシンプルだった。

 虎の思考は(オマエ食ワセロ!)

 いきなり傭術で支配され、ぼっち峠まで走らされ、腹ペコなのだ。

 スキュートの思考は(死にたくない!)

 ただそれだけだった……

 傭術の支配?

 さあ?

 傭術師にとって支配対象を正面で捉えるのが有利なので、初心者の彼にもそうさせた。

 五エールト離れていたのは……

 今朝、彼女も「助けて!」という悲鳴を聞いていた。

 あまり虎との距離が近いと、支配より恐怖が上回ってしまうかもしれない。

 これはリッサなりの思いやりだったのだ。

 彼女の初訓練ではもっと近かったくらいだ。

 それに比べたら五エールトはやさしい。

 ……そのやさしさ、虎の速力をもってすれば瞬時に間合いを詰められるのだが……

 だからスキュートは必死に逃げていた。

 ——たった五エールトでは安全が確保できない!

 フェイエルム軍随一の弱虫として逃げてきた本能は確かだった。

 振り返った後方には峠の下り道があるだけ。

 妨げになるものは何もない。

 リッサとハリムが道の横に退いていたのはこのためだったのだ……と思うのは間違いだった。

 これは傭術の訓練のはずだ。

 猛獣やモンスターから逃げやすく退路を空けておいたら訓練にならない。

 道を空けていた理由はちゃんとある。

 あるが、その理由を説明する前に逃げてくるスキュートを何とかするのが先だ。

 ハリムは素早く呪文を唱え、掌をかざした。


 ボンッ!


「っ⁉︎」

 二人の横を通り過ぎようとした時、透明な壁によって止められてしまった。

 ハリムの〈障壁〉だ。

「ハリム⁉︎ えっ⁉︎ えええええっ⁉︎」

「だって、これじゃ訓練に——」

 訓練にならない、という最後の部分まで聞いている余裕はなかった。

 虎が来る——それがすべてだった。

「うわあああああっ!」

 もう追いつかれてしまった。

 そう悟ったスキュートは蹲った。

 この後すぐ、爪で引っ掻かれ、牙を突き立てられるのだ。

 力一杯目をつぶり、歯を食いしばった。

「〜〜〜〜っ」

 おそらく首辺りを食いちぎられるまであと一秒、あと二秒、あと三秒……

 ……

 …?

 七秒経っても何も起きない。

 恐る恐る振り返ると、至近距離で虎が控えていた。

 前脚が彼に触れる寸前で、リッサが〈支配〉したのだった。

「やり直し! 位置に戻って!」

 彼女は最初の位置を指し示した。

「え……あ……」

 彼の反応がまだ鈍い。

 あと少しで虎に食われるところだったのだ。

 放心状態が続くのも無理はない。

 けれども正気に戻るまで待てる彼女ではなかった。

 時間がないのだ。

 ぐずぐずしていると、夕方の中央部になってしまう。

 だからこそ、早く傭術に開眼してもらわなければならないのに……

〈従者〉の虎が後ろ襟を噛んで放心のスキュートを運ぶ。

 それぞれが初期位置についたので、虎への支配を解除する。

 同時に、咆哮によって活が入り、彼も正気に戻る。

 あとは同じだ。

 虎が襲いかかり、彼が逃げ、ハリムが障壁で止める。

 再び〈従者〉に戻った虎が、再び放心してしまった彼を初期位置へ運ぶ。

 あ、一文中に〈再び〉が二回登場してしまった。

 一体、何回繰り返しただろうか……

 スキュートが首を傾げる必要はなかった。

 その点についてリッサも同感なのだから。

 こんなものは傭術の訓練ではない!

「ああ、もう! じれったい!」

 苛立つ彼女の前で咆哮と放心が繰り返し、日は刻々と傾いていった。

 モタモタ。

 イライラ!

 モタモタ。

 イライラ‼︎

 一方、ハリムにはどうしようもなかった。

 傭術の指導を言い出したのは彼なのだ。

 立場が弱かった。

 余計なことは言わず、ただ呪文を唱えて障壁を展開しているしかなかった。

 ところが、

「……ハリム、障壁はもういいわ」

「え? それじゃ峠を降りて行ってしまうぞ?」

 でもリッサは何も気にせず、スキュートと虎に背を向けてしまった。

「後ろ?」

 彼女は後ろに向かって手をかざしていた。

 同じ方向を見たハリムは「あ……」と言葉を失った。

 その時、スキュートが二人の横を走り抜けた。

「わあああああっ!」

 彼は気付いていないが、障壁の展開をやめているので逃走の妨げはなくなっている。

 普段なら不思議に思うところだがいまの彼にその余裕はなく、峠を駆け降りて行った。

 だが、

「ひ、ひゃあああああっ⁉︎」

 降りて行ったばかりなのに、全速で戻ってきた。

 後ろから虎に追いかけられていたが、前からも来ていたからだ。

「グルルル……ガオオオォォォッ!」

 蜘蛛虎アラクタイガーが……

 これが道を空けていた理由だ。

 リッサの思いやりだったのだ。

 虎か蜘蛛虎、どちらかを支配して相打ちにできれば成功だ。

 初心者にいきなり両方支配しろとは言わない。

 思いやりだろう?

 たぶん。

 彼女は叫んだ。

「さあ、スキュート! いまこそ成功するのよ!」

 ここは険しいぼっち峠、細い道が一本しかない。

 前からは虎が、

「ガアオオオッ!」

 後ろからは蜘蛛虎が、

「ゴォアアアッ!」

 二頭に挟まれたスキュートは、

「ブクブクブクブク——」

 泡を吹きながら仰向けに倒れた。

 まるで、カニのように。

 否。

 カエルのように、か……

 リッサは二頭を支配し、大きな溜め息を漏らした。

「弱虫……か」

 フェイエルム兵は皆体格が優れている。

 では、優れていないハリムを弱虫と呼ぶかというと、そんなことはない。

 彼は魔法使いとして一人前だ。

 細身であっても弱虫ではない。

 弱虫とは、体格のことではなく、心が弱い者のことなのだ。

 スキュートには魔法も傭術も、他の術も無理だろう。

 過去を振り返ってみれば、最初からそうだったのだ。

 怖いことからは逃げれば安全が手に入る。

 心の強さは必要なかった……

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