第9話「魔法の盾」

 ギニ族の集落、早朝——

 夜が明けて、晴れの集落に薄い霧が立ち込めていた。

 水場として小川の近くを集落にしているので、霧はよくあることだ。

 そうはいっても濃霧は珍しい。

 せいぜい今朝くらいの奴に包まれるくらいだ。

 しかも、どうせ長続きはしない。

 もう少しすると午前の日差しになり、早朝の霧は退散する。

 霧が晴れる光景が、この集落での一日の始まりだった。

 ハリムも目を覚まし、テントから出てきた。

「ふわあああぁ……」

 長く大きなあくびを一発。

 寝ぼけている頭に朝の空気が染み込んでいく。

 意識が多少ハッキリしてきたが、まだ完全ではなかった。

 だから彼はテントを出ると、真っ直ぐ小川へ向かった。

 朝の小川はひんやりしているので、洗顔してスッキリ起きるのだ。

 小川に近づいていくと、先に誰かが洗顔していた。

 スキュートだった。

「よっ、おはよう」

「……おはよう」

 朝の空気は軽やかなのに、彼の返した挨拶だけがどこか重たい。

 それも仕方がないことだった。

 昨晩——

「俺、ミスリル歩兵をやめようと思う」

 と、歩兵引退を告げた彼は背中を丸めて眠ってしまい、ハリムが声をかけても起きることはなかった。

 起きたのは今朝、ついさっきのこと。

 きっと相当疲れていたのだ。

 モンスターが連続し、心身ともに疲れただろうが、これは恐怖による疲労だ。

 歩兵引退を自ら告げたことは挫折の疲労なのだ。

 一日の中で、種類が異なる二つの疲労が彼に襲いかかった。

 一晩眠っただけで取れる疲労ではなかった。

 ハリムも洗顔しようと、彼の隣で片膝をついた。

 両手で水をすくう。

 しかしその水をすぐには顔へ持っていかず、スキュートの方を向いた。

「本当に辞めるのか? その……」

 ミスリル歩兵引退のことだ。

 フェイエルム人にとってミスリル装備は誇り、盾は魂だ。

 その両方を池に捨ててしまった彼に「ミスリル歩兵を辞めるのか?」なんてズケズケと尋ねることはできなかった。

 スキュートの返事は、

「…………うん」

 即答とはいかない。

 沈黙が長く、やっと出た返事は短かった。

 これ以上、何かを語る必要はないからだ。

 勇者に憧れていた小兵は、誇りも魂も捨て、怖くて泣き叫んでいた恥さらしだったのだ。

 わざわざ語る必要はない。

「うん」で十分。

 とはいえ、ハリムがそれでは困る。

「いや、そんな『うん』て……」

 まるで一切意見無用と一言で断じられたみたいだ。

 彼はスキュートを励まそうとしていたのだ。

 同じフェイエルム人だから?

 それもあるが、同じ細身で小柄だからだ。

 ハリムも幼子らしく歩兵に憧れたときはあった。

 ところが幼子から少年になると、両親によって魔法の道を進まされてしまった。

 他の子より体力が劣っていたからだ。

 当時、親を憎む気持ちはあった。

 でも現在はない。

 成長に伴って筋力の差は開いていくばかりだった。

 いまでは魔法使いで良かったと思っている。

 もし〈主役〉にこだわっていたら、何者でもない中途半端な存在になっていただろう。

 スキュートという歩兵は、その中途半端になりかけていた。

 職人でも、商人でもない。

 何者でもない。

 すべてをこれから始めなければならないのだ。

 故にハリムは励ましていた。

 同じフェイエルム人として〈主役〉を辞める苦しみは理解できる。

 だから、引退なんて撤回してしまえと力説していた。

 小柄だからといって不利とは決まっていないのだ。

 去年、ケイクロイを訪れた旅の剣士がそうだった。

 細身で小柄で、しかし技が凄かった。

 剣技が凄いのはもちろんだが、いま伝えたいのは盾の技だ。

 敵の攻撃を力で受け止めるのではなく、左右へ受け流して敵の体勢を崩す。

 これなら力不足が不利にならない。

 怪力が必須の〈力の盾〉ではなく〈技の盾〉を目指すというのはどうだろう?

 力説するハリムの拳に力が入っていた。

 だが……

「ダメだよ。だって、それじゃ——」

 スキュートは首を横に振った。

 去年の旅の剣士なら彼も見た。

 技の盾を目指そうかとも思った。

 でも彼の中で芽生えた目標を、歩兵隊の隊長によって打ち消された。

 隊長曰く——

 一対一なら技の盾は強いかもしれないが、集団戦でもやるつもりなのか、と。

 言われて、スキュートはすぐに気付いた。

 フェイエルム軍の歩兵が単独で戦うことはない。

 集団で陣形を組み、隙間なく皆で大盾を並べるのだ。

 皆で、だ。

 彼も加わっている。

 その彼が、身につけた技の盾で陣形に加わるというが……

 鮮やかに捌いた敵の攻撃を、誰が受け止めるのか。

 右に並んでいる仲間がか?

 あるいは左の仲間がか?

 いつも助けてもらっておきながら、技のために誰かの負担を増やす。

 それは、卑怯ではないだろうか。

 やはり皆と同じ攻撃を、自分も受け止めなければ。

 故に、力の盾で強くなろうと頑張ってきたのだが……

「——というわけで、技の盾にも力の盾にもなれなかったんだよ」

「〜〜〜〜っ」

 ハリムは歯がみしながらも、言っていることの正しさを認めざるをえなかった。

 小柄は非力であると同時に身軽でもある。

 身軽さを回避で活かせればと思ったのだ。

 でも、スキュートの言う通りだ。

 密集した陣形の中で回避した攻撃は必ず誰かに向かっていく。

 技の盾を皆がやり始めたら、陣形はすぐに乱れてしまうだろう。

 団結心を重んじるミスリル歩兵らしくなかった。

「…………」

 ハリムは黙ってしまった。

 励ましの言葉は、もうなくなってしまった。

 次はスキュートの番だ。

「ハリムに会ったばかりだけど、お願いがあるんだ」

「?」

 技の盾はダメ。

 力の盾もダメ。

 もはや引退は覆らない。

 だから同じフェイエルム人の彼に頼みたい。

「俺に魔法を教えてくれないか?」


 ギニ族の集落、午前——

 集落では皆、朝食の時間になっていた。

 炙った川魚と豆のスープ。

 そして穀物を丸くこねて焼いた——パン?

 ケイクロイの物とは少し味が違う。

 製法は同じらしいので、材料が違うのだ。

 誤解しないでほしい。

 まずいという意味ではない。

 普段のものとは材料が違うと言っているだけだ。

 スキュートはおいしかった。

 おいしいので今朝はおかわりしてしまった。

 昨晩は何も食べずに眠ってしまったので。

 食べ終えると、ハリムがすでに待っていた。

「ごめん。つい、おかわりしちゃって」

「いや、いいんだよ」

 二人は集落の外れへ向かった。

 これからスキュートに魔法を指導するのだ。

 外れなら、魔法を発動しても誰の邪魔にもならない。

(指導……か)

 ハリムは歩きながら、こめかみを掻いていた。

 少々照れ臭い。

 一人前とはいっても、まだなったばかりであり、魔法使いとしての経験は浅かった。

 弟子をとって導けるような腕前ではないのだ。

 そんな腕前で、今日は師匠の真似事をするのだ。

 これは確かに照れ臭い。

 では、なぜスキュートの指導を引き受けたのかというと〈脇役〉転向の意思が強そうだからだ。

 意思——

 フェイエルムで時々、その意思が弱い者を見かける。

 歩兵が辛いので他の仕事に就くが「やっぱり〈主役〉がいい!」とその仕事を放り出して歩兵に戻ろうとする奴。

 でもやっぱり歩兵が辛くて……

 主役なのか、脇役なのかよくわからない奴だ。

 そういう奴を好きになれなかった。

 スキュートは歩兵と魔法使いをぐるぐる繰り返したりはしないようだ。

 彼からは、魔法使いに必要な意思の強さが感じられた。

 だから指導を引き受けた。

「この辺りでいいかな」

 ハリムは周囲を見渡し、最後にスキュートを振り返った。

 ここは小川を挟んだ集落の反対側だ。

 もしモンスターが現れたら、傭術師に気付いてもらえるだろう。

 スキュートもこの地点で賛同した。

「さて、何から始めようか」

 ハリムは顎に手をやって考えた。

 まずは〈火球〉の魔法から?

 いやいや、草木のあるところで火は危険だ。

 引火してしまう。

〈雷球〉の魔法も同じ危険はある。

〈氷の矢〉の魔法なら引火の心配はなさそうだが……

 木を狙ったつもりが眠っていたモンスターに当ててしまい、起こしてしまうかもしれない。

 本格的に魔法を学ぶのはケイクロイに帰ってからだが、今日は攻撃魔法をやめて〈眠りの雲〉にしようか、と考えていたときだった。

 スキュートが挙手した。

「一つ知っている魔法があるんだけど」

「え?」

 それは障壁の呪文だった。

 暗唱も完璧だ。

 けれどもこれだけでは魔法にならないのだ。

 ハリムはそのことに気が付いていた。

「じゃあ、呪文を唱えながら魔力を高めて」

「ま、魔力⁉︎」

 やっぱり、スキュートは魔力のことをわかっていなかった。

 魔法には呪文の詠唱と魔力が必要だったのだ。

 道理で必死に唱えても障壁が現れなかったわけだ……と彼は今日までの魔法失敗が納得できた。

「いいかい? 魔力というのは——」

 ハリムによって説明してもらえたが、思いの力とか、強く念じるとか、スキュートには難しくてよくわからなかった。

 要するに透明な壁があるところを思い浮かべる——ということなのだろう。

 たぶん。

 ミスリル歩兵から転向したばかりの彼は、魔力をそのように理解した。

 本当はもっと難しいものなのだが……

 あとは実践あるのみだ。

 二人は向き合い、十分間合いを取った。

 手本として、ハリムの〈障壁〉を見せてもらうのだ。

「石を拾ったか?」

「本当にこれでいいのかい? 少々大きいような……」

 スキュートの手には猫の頭ほどの石があった。

 さっき歩きながら拾っておいたものだ。

「もっと大きい方が見やすかったと思うが、まあいいか」

 ハリムは素早く呪文を詠唱し、掌をスキュートへ向けた。

〈障壁〉が発動した。

 つまり、石を障壁にぶつけるところを見ようという手本だった。

「いいぞ」

「え? でも……本当に」

 本当に大丈夫なのだろうか。

 スキュートは指示通りに石を構えるが、不安を隠せなかった。

 なぜなら彼の魔法が成功したことはないからだ。

 ……記憶する中では。

 目の前の障壁は本当に展開できているのか?

 彼には知りようがなかった。

 だが、ハリムにやめる気配はない。

「…………」

 魔法に集中し、沈黙してはいるが表情は語っているようだった。

「早くやれ!」と。

 スキュートは迷いを捨てた。

 考えてみれば失礼だった。

 障壁の手本を心配するということは、指導役の能力を疑っているということだ。

 自分は初心者のくせに。

「じゃあ、いくよ!」

 石を振りかぶり、掌に狙いを定めると勢い良く投げた。


 ブンッ!


 手から石が離れた途端、スキュートから「あ……!」という声が漏れた。

 狙っていたのは掌だったのだが、実際に飛んでいったのはハリムの顔目がけてだった。

 いまからでは石の勢いを止められない!

 確実に命中する、という時だった。


 ボンッ!


 石が、顔の前から弾き飛ばされた。

 何の心配もいらなかったのだ。

 透明な魔力の壁〈障壁〉は見事に成功していた。

「いまのが……でも」

 でも、不可解な点があった。

 障壁に弾かれた石は足元に落ちるのではなく、遠くへ飛んでいった。

 石の軌道が変だ。

 スキュートは首を傾げているが、ハリムは平然としていた。

 これは当たり前のことなのだ。

 フェイエルムの魔法使いにとって〈障壁〉はミスリルの大盾代わりのものだ。

 歩兵が大盾で敵を跳ね返すように、魔法使いも〈衝撃波〉で跳ね返す。

 一人前の魔法使いなら当たり前のことだった。

 ハリムは掌を下げた。

「いまのが障壁——と〈衝撃波〉の合わせ技だよ」

「あ、合わせ技……」

 スキュートの言葉はそれ以上続かなかった。

〈衝撃波〉は初歩的な魔法であり、呪文が短いので他の魔法と合わせやすい。

「まずは障壁からやっていこう」

 合わせ技を見せたのは目標のためだ。

 障壁だけで終わりではないのだ。

 一人前を目指すならば。

 もちろんスキュートも目指してはいるのだが、

「…………」

 彼の不安はどうしても消えなかった。

〈障壁〉と〈衝撃波〉の合わせ技なんて自分にできるのだろうか……と。

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