第6話「カニみたい」
大陸中央部の池での事を振り返る——
あの時、水面上でスキュートは怯えていた。
この時点で心の中は〈助けて〉という思いで一杯だった。
昨日までと何も変わらない……
だが、彼がふと池の辺を見た。
そこの地面だけが赤黒い。
オオカミ共がゴブリンの死骸を分解した跡だ。
酷い……
けれどもその酷さを誰も咎めはしない。
そこに人間は一人もいないのだから。
大陸中央部とはそういう場所なのだ。
いくら願っても、助っ人は現れない……
やっと弱虫にも理解できた。
その時だった。
彼の中で別の思いが大きくなっていった。
嘴に咥えられたままの左腕を見つめ、強く意識を集中したのだ。
〈離れろ!〉と。
すると嘴の中で突然魔力の壁が現れ、禽獣グリフォンの口を強引に開いた。
これによってスキュートは解き放たれた。
間違いない。
障壁の魔法だ。
でも……なぜ?
なぜ失敗しなかった?
成功ではなく失敗しなかったという消極的な表現で彼に申し訳なくは思う。
思うが、仕方ないではないか。
毎回魔力不足で失敗続きだったのだから。
だが今回は違う。
心で念じたのは〈助けて〉ではなく〈離れろ〉だった。
それこそが正解だったのだ。
〈おまじない〉は今日、本物の魔法になった。
ただ……
残念に思う。
魔法が成功したのは偶然なのだ。
もう一度やるのは無理だろう……
ところで池に落ちたスキュートはどうなったか?
彼はミスリル装備が重たくて、池の底から浮上できずにいた。
「ん、んんんっ——!」
まだ息を口一杯に含んでいるが、長くはもたない。
人間は陸の生物なのだ。
早く水面へ上がらなければならない。
急いで大盾を放棄し、腕足の装備を外す。
兜も捨てた。
後は鎧だけだが、これが困難だった。
鎧の板を革紐で装着しているのだが、ここは水中だ。
一本ずつ丁寧に外していく余裕はない。
腰から剣を抜き、革紐を手当たり次第に切断していく。
一本、二本、三本……!
腰の剣もミスリル製だ。
切断が乱暴でも刃毀れしないのは頼もしい。
そうは言うものの、楽に切れたわけではなかった。
交換したばかりの新しい革紐に手こずった。
「んんっ! ん、ん、ん〜っ!」
呼吸は苦しくなっていくばかりだ。
苦悶は着々と増えていくが、逆に革紐は遅々として切れていかない。
それでもやるしかないのだ。
ギコギコギコ——!
(まだか⁉︎)と思ってもなかなか進まない。
なのに焦るから、
「ゴポッ!」
切断作業の間に口から息が少し漏れてしまった。
水中で息を吐いてしまったら息苦しさが増すだけだ。
それでも切り続けるしかない。
ギコギコギコギコ‼︎
切れない!
切れない!
切れないいいいぃっ‼︎
ギコギコギコギコギ……ブツン。
(切れた!)とスキュートの表情が明るくなった。
革紐の切断を全て完了した。
後は鎧を脱ぐだけ、しかしうっかりとまた焦ってしまった。
こういう時だからこそ、冷静でいるべきなのだが……
「ガボッ⁉︎」
うっかり残りの息を吐き出してしまった。
あわてて周囲の水を掻く。
「〜〜っ!」
もう浮上出来る。
もう何も考えられない。
もう肺に吸い込む空気の事しか考えられない。
身軽になったスキュートは水面に向かって全力で泳いだ。
大陸中央部の池——
禽獣グリフォンとスキュートが墜落した池で、大小二つの水飛沫が起きた。
魔力の壁で禽獣がその場でせき止められて落ちた。
スキュートも解放された途端、放物線を描きながら落ちた。
果たして、どちらが先に上がってくるのか。
と、見ているとすぐにわかった。
禽獣が先だ。
水の中から禽獣の上半身が飛び出してきた。
「ケエエエエッ!」
禽獣は羽ばたこうとしているのたが、右翼しか動かない。
左翼は未だ水中にあった。
なぜなら、
「キシャアアアッ!」
左翼と下半身に多頭竜ヒドラが絡みついていたからだ。
二頭の大型モンスターによる乱闘は、池に大きな水飛沫をいくつも起こした。
だからその外側で起きた小さな水飛沫には気がつかなかった。
「ブハッ! ハッ、ハッ、ハッ——!」
水から飛び出してきたのはスキュートだった。
重い装備を脱いで浮上してきたばかりで、呼吸がまだ荒い。
いまはその事だけで精一杯だ。
でも落ち着いてくれば、自分以外の事にも関心が湧いてくる。
彼の背後、少し離れた位置から「ザバザバ!」という大きな水音がする。
それらが何なのかを確かめたくて、つい振り返ってしまった。
「ああああああっ! ひひヒヒど、ヒド、ひド!」
彼の悲鳴にどう突っ込めば良いのか?
正しくは「ヒドラ」だ。
それともヒドラではなく「酷い」と連呼したかったのだろうか。
よくわからない悲鳴だ。
多頭竜ヒドラ——
竜の一種であり、民家に巻き付く程大きい。
ヒドラの個体差は大きく、分岐した首が何本あるかは決まっていない。
多頭竜の文字通り、頭が五個や八個、百個という場合もある。
能力は竜らしく火を吐くものや、邪竜らしく毒を撒き散らすものもいる。
生息地は荒野や湿地帯であり、今回は池に住んでいる水棲の個体だった。
水に落ちてきたのは大小二つだったので、ヒドラは〈大〉に襲いかかった。
〈小〉の人間ではなく〈大〉の禽獣を仕留めれば大量の肉が手に入る。
要するに、食い意地が〈大〉を選んだ理由だった。
おかげでスキュートは助かった–—と安心するのはまだ早かった。
すぐ近くで二大モンスターが乱闘しているのだ。
人間が巻き込まれたらひとたまりもない。
彼は懸命に泳いで乱闘の現場から離れた。
「ヒヒヒド、ヒド、ヒド、グリ、グリ!」
ヒドラとグリフォンのことはもうわかったから……
しかも報告としては不足していた。
〈奴〉についての報告が抜けている。
池に住んでいるのはヒドラだけではないのだ。
〈奴〉も水底から二つの落水を目撃しており、彼に狙いを定めていた。
姿はワニに似ている。
大きさは禽獣と同じ位あり、全身が鉄の様な硬い鱗に覆われている。
冒険者が斬りつけても傷付かず、逆に剣が折れたとか。
ワニは元から恐ろしいが、こんな奴は自然界の生物ではない。
やはりこいつはモンスターなのだ。
水陸両用の鎧鰐(よろいわに)ダイルフロコという。
水上ではスキュートが必死に泳いでいるが、多頭竜と禽獣の乱闘を避けたいだけた。
水底から浮上中の鎧鰐に気付いてはいない。
ぬーっと下から近付いて一気に!
ザバアアアァッ!
「⁉︎」
振り向いた彼が見たものは、いまにも喰らいつきそうな大口だった。
ところが、
ザバアアアァッ!
二つ目の水飛沫が同じ場所で起きた。
それは二頭目の鎧鰐だった。
一頭目はスキュートを狙い、二頭目もさらに下から狙っていたのだ。
そのせいで獲物への狙いがハズレ、鎧鰐同士で顎(あご)の噛み合いになってしまった。
こいつらは噛む力がとても強く、狩りの時は相手が力尽きるまで顎を開かない。
二頭はそれぞれの上顎と下顎を噛んでしまい、そのまま離せなくなってしまった。
彼は噛まれずに済んだ。
それは良かったのだが、連続する水柱に呑まれてしまった。
「ガボガボガボ——ッ!」
少し溺れてはいる。
でも大丈夫だ。
巻き込まれて水底まで沈んでいっているわけではない。
夢中で泳ぎ、水柱から離脱することができた。
水上に顔を出す。
「ブハァッ! ハァ、ハァ、ハァ——!」
息が苦しかった。
さっきだけでなくいまもだ。
それは確かだ。
第一に思うのは空気のことだった。
でも空気の欲求はすぐに満たされる。
何度か呼吸すれば済むのだ。
一〇秒か五秒もあれば落ち着く。
すると第二のことが気になってきた。
危険についてだ。
多頭竜と禽獣はどうなったのか?
いや、その後に下から何かが襲いかかってきたが、あれは何だ?
知りたい欲求を抑えられず、また振り返った。
そこには互いの顎を噛み合っている二頭の鎧鰐がいた。
どちらも顎を離す気はなく、さりとて人間を見逃すつもりもない。
例えるなら、
「あの獲物は我のだ!」
「いいや、我のだ!」
と一切譲らず、二頭が同時に追いかけてきているかの様に。
もうすぐスキュートに追いつきそうだ。
「ああああっ! わわわわわにワニわに!」
違う。
動物のワニではない。
正しくは鎧鰐ダイルフロコという大型モンスターだ。
と、正式名称を叫ぶ余裕はなかったか……
彼は一塊と化している二頭から必死に逃げていた。
でも、
「わにワニわにワ——ガボガボゴボボッ!」
泳ぎながら悲鳴を叫んでいるが、再び溺れて水を飲んでしまう。
彼は船乗りではなく、泳ぎが遅い。
その上、溺れながら逃げているのでさらに遅くなる。
これでも捕まらずに済んでいるのは、鎧鰐二頭が一塊で本来の速度が出ないからだった。
幸運な弱虫だ。
しかし、その幸運は続かなかった。
水深が浅くなってきたのだ。
泳げるのはここまで。
あとは歩いて上陸しなければならない。
また、下半身が水に浸かっているので、余計に速度が落ちる。
「ハッ、ハッ、ハッ——!」
ジャブジャブと浅瀬を駆けながらスキュートは振り向いた。
振り向くのは一体何度目になろうか。
どうしても後ろを見てしまうのだ。
危険はどこまで迫っているのか?
それを確認せずにはいられなかった。
だから彼の目は二個なのに、合計四個の目と視線が合ってしまった。
?
合計四個の目とは——
至近で鎧鰐共が振り向いた彼に注目している。
即ち、二頭合計四個の目玉なのだ。
「ぎぃやあああ@#&%÷〒☆!」
意味がわかったスキュートの恐怖は極まってしまった。
もう正気を保っていられない。
いや、正気ではなく意識か。
彼は岸で倒れ、そのまま意識を失ってしまった。
池のほとりにて、スキュートは鎧鰐二頭に追いかけられ、泡を吹いて気絶している。
まるでカニみたいに。
「ブクブクブク——」
静かだ。
気を失った彼がいままでの様に泣き叫ぶことはない。
鎧鰐共にとって、あとは喰うだけなのだが……
「グルルルッ!」
「グロロロロッ!」
習性上、どちらも噛み合いを終えることができずにいた。
考えていることはわかる。
あいつが放したらこちらも放してやる、ということだろう。
故にいつまでも終わらないのだ。
あとは相手の顎を噛み砕くしかない。
どちらも顎の力を強めていくばかりなので「ミシミシ、メキメキ」と嫌な音を立てている。
その時だった。
ブゥン——ドゴンッ!
一方の鎧鰐目掛けて大木が落ちてきた。
いや、幹が折れて倒れてきたのではなく、叩きつけてきたのだ。
あれは特大の棍棒による打撃だ。
鎧鰐の鱗が硬いので斬撃や鋭い牙には強いが、打撃には弱かった。
脳天に強烈な一撃を受け、一頭は失神した。
よって顎の力も抜けたので残る一頭は自由になれた。
これで獲物を喰える、ところなのだがそうはいかなかった。
鎧鰐が弱いのは打撃だけでないのだ。
火にも弱かった。
ボウウゥゥッ!
丁度、残る一頭がスキュートに向き直った時に右目で爆発が起きた。
火球の魔法だ。
「〜〜っ⁉︎」
直撃により右目がつぶれ、流血と煙が止まらない。
煙が出ているということは傷口の火がおさまっていないということだ。
右目は未だ燃え続けていた。
「ガァロロロッ!」
たぶん、痛みと熱さを訴えている叫びかと。
たまらず池に飛び込んだ。
ザバァァァッ!
水陸両用のモンスターに似合わない大きな水飛沫だ。
でも、すぐに池は静けさを取り戻すだろう。
鎧鰐はしばらくほとりに上がってくるまい。
静かなのはスキュートもだ。
彼も失神している鎧鰐の隣で眠っている。
すぐには起きないはずだ。
それにしても、彼を助けたのは棍棒と火球だったのだが、この二つは一体……
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