第3話「紅白戦」

 スキュートへの母エミリアの教えとは。

 彼が五歳の事だ。

 ナビトの戦死により妻と息子は悲しんだが、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。

 エミリアは妻であるのと同時に、母親でもある。

 彼女は涙を拭って立ち上がり、働き始めた。

 選んだ仕事は前職の給仕ではなく、宿屋の洗濯係だった。

 夫と息子の洗濯物で経験があるし、漁村では酒場がないので給仕を募集していなかったのだ。

 さっそく働くと、身体を動かした事によって悲しみが紛れたらしい。

 彼女は元気を取り戻していった。

 一方、元気にならなければならないのはスキュートも同じだった。

 父と別れてすぐの時は俯いていたが、息子も立ち上がった。

 ある日、母に告げた。

「お父さんみたいになりたい!」

 つまり、勇敢なミスリル歩兵になりたいという意志だった。

 我が子も元気を取り戻した事は嬉しく思う。

 但し、気持ちの半分ではだ。

 もう半分は別の気持ちだった。

 エミリアはしゃがみ、幼い息子を抱きしめた。

「でもね——」

 彼女の気持ちは複雑だった。

 父の勇気を継ぎたいという気持ちは立派だ。

 しかしもう半分の気持ちでは、我が子を心配していた。

 夫は確かに勇敢だった。

 でもあの日、大盾を構えていたのに、ブレシア騎兵の強烈な勢いを防ぎ切れなかった……

 たとえミスリルで武装していても、人は完全な鉄壁にはなれないのだ。

 本当は「でもね、危ないからやめなさい」と言いたい。

 一方で、子供の熱意に冷や水を掛けたくない気持ちもある。

 彼女は息子に賛成でもあるし、反対でもあった。

 そこで「でもね」の後を変える事にした。

「でもね、大盾よりもっと強くなれるおまじないを教えてあげるわ」

「おまじない?」

 それが障壁の魔法——その呪文だった。

 彼女がなぜ呪文を知っているのかはわからない。

 以前は給仕だったが、その前は魔法を学んでいたのかもしれない。

 とにかく知っているのだ。

 それから、母子のおまじないは毎日続いた。

 ちなみに、障壁が本当に発動することはなかった。

 呪文は正しかったが、精神を集中し、魔力を高める事はしていなかった。

 正式な魔法としては足りないが、親子にとってはこれでいいのだ。

 ただのおまじないなのだから。

 親子仲良く、おまじないの詠唱ごっこは五年続いた。

 五年……その先は?

 五年より先へ親子の詠唱ごっこが続く事はなかった。

 エミリアが流行り病で亡くなったからだ。

 スキュート一〇歳の時だった。

 父は既になく、そして母もいなくなってしまった。

 その寂しさを紛らわそうと、少年スキュートは一人で障壁の呪文を口ずさんだ。

 詠唱を続けていればおまじないがまだまだ終わっていないと思えて。

 その後、詠唱は続いた。

 一年、二年、もっと……

 少年は若者になり、フェイエルム軍に入隊した。

 子供の頃からずっと思い描いていた勇敢なミスリル歩兵になるのだ!

 でも実際は、

「立て! 立て!」

 一〇代後半の彼は、今日も隊長に鞭で打たれていた。

 その蹲る姿は、勇敢だった父には遠い……

 では、母との魔法は?

 毎日毎日母とおまじないを続けた結果、呪文をしっかり覚えている。

 後は精神を集中し、魔力を高めるだけだ。

 さすれば障壁は発動する。

 発動した途端、蹲るスキュートの背に魔力の壁が現れ、鞭を防ぐに違いない。

「立たんかスキュート!」

「——っ!」

 あと少しだ。

 あと少しで魔力の壁が現れる。


 バシッ! バシッ! ビシィッ!


 …………

 ……あれ?

 魔力の壁が現れない。


 バシッ! バシッ!


「——っ! ——っ!」

 詠唱は既に完了している。

 呪文の文言は正しく、内容を間違えたという事はない。

 それどころか、いまは二回目の詠唱だ。

「立て! 早く立て!」


 バシッ! バシィッ!


 怒鳴る隊長の鞭を魔力の壁が妨げる事はなかった。

 おそらく、三回目を唱えても無駄だろう。

 なぜなら、スキュートが魔法使いではないからだ。

 魔法使いにとっては魔力が大切だ。

 魔力とは、万物に宿る〈気〉という根源的な力の事でもある。

 魔法使いは精神を集中して集めた〈気〉で火球や氷の矢などを作る事が出来るのだ。

 それだけに精神の集中が大切だった。

 ところがスキュートはその精神の集中が出来なかった。

 呪文を覚えているだけでは、暗唱が出来るだけなのだ。

 障壁は発動しなかった……

 そして父の様に勇敢でもない。

 後は、

「ダメか! ハァ、ハァ、た、助けて!」

 立ち上がり、逃げるしかなかった。

「やっと立ち上がったか! そうだ、走れ! もっと速く!」

 スキュートは駆け足を再開し、隊長は馬で追う。

 また蹲るが、馬上から鞭で打って立ち上がらせる。

 これがしばらく続いた。

 結局、この百たたきの刑は七四周目で力尽きて終わった。


 ***


 ケイクロイ、兵舎——

 朝から良い天気だが、スキュートの体調は良くなかった。

 昨日までの特訓で受けた鞭の傷が痛むのだ。

 打たれたのが主に背中なので、仰向けになる事が出来ない。

 今日も俯せで休んでいた。

 休みといっても、痛くて眠れなかった。

 これでは休めない。

 少しでも痛みを紛らわそうと、俯せのまま視線を窓に向ける。

 外に見えるのは運動場だ。

 何だか、一〇〇周の刑を思い出してしまう……

 でも今日は違う。

 今日は歩兵隊の訓練だ。

 彼らの装備は普段通りだ。

 ミスリルの鎧に大盾、しかし兜は様子が違う。

 兜には紅布と白布が巻かれている。

 つまり紅白の演習だ。

 紅組と白組が互いに押し合い、相手を端まで押し込めば勝ちとなる。

「始めっ!」

 運動場に立つ隊長の声で演習が始まった。

 紅組と白組が中央に向かって突撃する。

「うおおぉぉっ!」

「突っ込めぇーっ!」

 隊長に負けず、どちらの組も声が大きい。

 そこへ大盾の激突音が混ざる。


 ガガガガンッ!


 衝突音が鳴ると両組の動きが止まった。

 だが休んでいるのではない。

 相手に押し勝とうと懸命だった。

「負けるな! 押せぇぇっ!」

「てめぇら、退きやがれっ!」

 気迫は互いに十分。

 力も互いに十分。

 並んでいる大盾の列が全く乱れない。

 故に、今日は決着し難かった。

 今日……

 そうだ。

 別の日なら、勝敗がすぐにはっきりするのだ。

 大盾の列が一枚だけ押し込まれ、陣形が崩されてしまう。

 別の日とは、スキュートが参加する日だ。

 彼が組にいるだけで敗因になるのだ。

 だが今日は寝込んでいるので、その敗因がいない。

 今日の紅白戦が決着し難いのはその為だった。

「ぬううううっ!」

「おりゃああああっ!」

 紅組と白組の実力は拮抗しており、どちらも運動場中央から退く気配がない。

 隊長の「止めっ!」という声が掛からない限り、演習が終わりそうにない。

 長期戦が続くのは良くないのだが……

 言うまでもなく、スキュートが参加すればその組が負ける。

 だからこれでは公平な紅白戦にならない。

 最初から勝敗が決まっている不利戦なのだ。

「そんな……そんな馬鹿な!」

 俯せのスキュートは、悲しくなって窓から視線を背けた。

 余りにも惨めだ。

「…………」

 彼は目を閉じた。

 直ちに紅白戦を見るのをやめて、現実を拒絶したかった。

 弱虫のせいで生じる不利、という現実を。

 だが視覚を閉じると、聴覚が冴えて逆効果だった。

 窓の外から、突進し合っている声が飛び込んでくる。

 まるで「これが本物のミスリル歩兵だ!」と弱虫に誇示しているかの様に。

 ——そんな事はない! 嘘だ! 嘘だ!

 彼はもう聞きたくなかったので耳を塞いだ。

 けれど紅白戦の騒音を遮断する事は出来なかった。

 音は、どうしても耳を塞いでいる手から伝わってくるものなのだ。

 魔法には音を遮断するものがあるが〈障壁〉とは別の魔法だ。

 専門的に修得している魔法使いでなければ無理だ。

 これは物理的に攻撃されているのではなく、単なる音を苦痛だと言っているにすぎない。

〈障壁〉で耳障りな騒音を防ぐ事は出来なかった。

 そもそも魔法は失敗しているのだ。

 ならば耐えるしかあるまい。

 紅白組は、まだまだ続きそうだ……

 スキュートは目と耳を固く閉じて心の苦痛に耐えた。


 ***


 ケイクロイは鉄の国の首都らしく、いつも金属の音がしている。

 その中でも、ミスリルの音が大きい。

 鉄より硬いミスリルを鍛えるのは大変なのだ。

 フェイエルムはミスリル鉱の産出が豊かなので、大昔からその加工が発達してきた。

 だから今日も国のあちこちで、職人達が鎚を振るう音がする。


 キン! キン! キン!


 加工の目的は、主に武器・防具だ。

 ミスリルの使い道として、これが最も正しい。

 調理用として包丁にするのも良いが、鉄製で十分だ。

 それとも「鉄の包丁だと刃毀れしてしまうが、ミスリルの包丁なら硬い肉でも切れ味抜群だ!」とでも言うつもりなのか?

 ……嫌だぞ。

 そんな硬い肉を食べるのは……

 なのでこの国の工房では注文通り武器・防具を作る。

 発注はこの国の正規軍が一番多い。

「大きな疵が見つかったので、鎧を直して欲しい」とか「攻撃を受け過ぎて、擦り減った大盾を打ち直したい」等、正規軍からの要望が多い。

 しかし、これからその軍が出撃するので、帰還後の要望が増えそうだ。

 ケイクロイ、東門にて——

「出発!」

 隊長の号令によって、正規軍の歩兵隊三〇〇人が出撃した。

 首都を離れ、街道を東へ進み、街や村を越えるとやがて街道がなくなる。

 その辺りがフェイエルムの国境であり、もう少し東へ行けば大陸西部に入る。

 国境は危険た。

 大陸中央部で沸き出たモンスターは東西に流れ、西部にもやってくる。

 西部に近いがフェイエルム領までだから人間側の領域だと考えるのは誤りだ。

 モンスターも肉食獣も隙あらば侵入してくる。

 だから民が国境付近で開拓をしていると被害に遭う。

 それを防ごうと、歩兵隊を派遣して国境を巡回していたのだが……

 先日、小隊の一つが禽獣グリフォンに襲われた。

 どうやら最近、中央部から流れ着き、国境付近の山を縄張りにしているらしい。

 小隊は空から先制攻撃を受け、重傷者が出てしまった。

 急ぎ退却したのでそれ以上の攻撃はなかったが、近くの村にも飛んでくる虞がある。

 そこでケイクロイから正規軍が出動する事になったのだ。

 隊は列を乱さず、ひたすら東へ進んだ。

 丘を越え、小川を越えて東へ、東へ……

 途中、歩兵の一人が振り返り、後ろの者に話し掛けた。

「おい、おまえは兵舎で大人しくしていた方が良かったんじゃないのか?」

「そ、そんなこと! 俺だって……!」

 後ろはスキュートだった。

 運動場での紅白戦があったのは一週間前。

 鞭の怪我は鎧を装備して動ける程に回復していた。

 ずっと兵舎のベッドで俯せになっているのは惨めだった。

 今回こそは汚名を挽回する、と拳を固く握りしめていた。

 敵はグリフォンだ。

 巡回の小隊を蹴散らした強敵だ。

 こいつを退治出来たら、誰もが認めてくれる。

 グリフォンが相手でも退かない勇敢なミスリル歩兵だ、と。

 ——今度こそ必ず!

 スキュートの胸は高鳴っていた。

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