第2話「百たたき」
午後——
農村において、フェイエルム軍の歩兵隊とコボルト共は戦った。
結果は歩兵隊の勝利だ。
残存コボルトは尻尾を巻いて退散した。
村が農民達の手に返ってくるのだ。
それまで奴らが占拠していた家々が、本来の持ち主の下へ戻ったのは良い事なのだが、
「こりゃ、ひでぇ……」
「うわぁ……」
自宅へ入った農民が呟いたり、呻いたり。
食器は悉く割られ、机にはコボルトの足跡がびっしりと付いている。
更には糞尿も……
これを捨て置く事は出来ず、歩兵隊は農民達を手伝う事にした。
泥で汚れている机は綺麗にしてやるが、脚が折られている物は修理するしかない。
だが、彼らは木工職人ではないので、脚を綺麗に修復する事は出来ない。
仕方ないので、棒や細い板で補強しておくしかなかった。
彼らは力強い兵士なので、力仕事は得意だ。
破壊された家具は後日新しい物を入れるとして、今日は外へ運び出すしかない。
その作業が早かった。
バラバラにされた椅子やベッドを、次々に運び出していく。
一方、農民は壁や床を掃除していた。
糞尿で汚れている箇所も……
清掃作業に参加している兵士達もいるが、その一人、スキュートがぼやいた。
「臭い……」
聞こえた途端、周囲で同じく清掃していた同僚達から怒声が噴き出す。
「やかましい!」
「黙って手を動かせ!」
皆、敵前逃亡について、まだ怒っていた。
ひ弱で、敵からの攻撃を大盾で防げない。
弱虫だから、すぐ逃げようとする。
それがスキュートだ。
ならばせめて掃除位は黙ってやってほしいのに、ぼやくから皆怒るのだった。
一体、何だったら弱虫でも満足にやりこなせるのか……
そして翌朝になった。
歩兵隊は壊れた家具の廃棄と清掃を終え、農村を後にした。
もうすぐケイクロイに帰還する。
しかし、これで終わりではなかった。
皆怒っているのだ。
対コボルト戦について、同僚だけでなく隊長も怒っていた。
しかも怒っているだけではなく、隊の規律を正さなければならなかった。
ミスリル歩兵が臆病風に吹かれて逃げてしまったなんて、あってはならない。
それでは陣形が乱れてしまう。
スキュートには罰が必要だ。
そこで——
「走れ! 走るんだ、スキュート!」
「ゼェ、ゼェ、ゆ、許して……」
ここはケイクロイ歩兵隊兵舎の外にある運動場。
コボルト討伐から帰還した隊は運動場で訓練となった。
隊〈が〉というより、弱虫一人〈が〉だ。
時刻は午後、天気は晴れ。
前を走るスキュートに、馬に乗った隊長が後ろから付いて行く。
……いや、必死に逃げているスキュートを隊長が追いかけているというのが正しい。
農村から帰還した歩兵隊は休息になったが、スキュートだけは特訓だった。
特訓は、運動場一〇〇周。
馬の速さはそれほどではないのだが、スキュートの速度が落ちると、その背に馬上から鞭が飛ぶ。
嫌なら、鞭の距離から逃げ続けるしかない。
これはそういう特訓だった。
「もっと速く走らんか!」
「痛い! 痛い!」
脚力で鞭の距離から逃げ果せていたのは、最初の一周目のみ。
二周目からは次第に鞭が増えていき、三周目はただの鞭打ちの刑の様になってしまった。
運動場一〇〇周の特訓だったはずなのに……
「まったく、仕様がない奴だ!」
隊長は鞭で打つのをやめた。
スキュートがずっと蹲ってしまい、地面で背中を丸めて動かなくなってしまった。
これ以上続けても無意味だ。
今日は終わりにするしかなかった。
「三周目は途中で止まってしまったから、残りの九八周は明日からだ!」
何日かかろうと、彼か一〇〇周をやり遂げるのは無理だ。
それはわかっている。
わかっているが、だからといって勘弁するわけにはいかない。
三日、少なくとも二日は続ける。
敵が怖くて、すぐに逃げ出す弱虫の根性を治さなければ。
それが隊長の考えだった。
倒れている弱虫を放置して、運動場を後にした。
「た、助かった……いてて」
後に残されたスキュートは、ゆっくりと身体を起こした。
鞭で打たれた背中がまだ痛い。
顔を顰めつつ、立ち上がった。
ここは運動場だ。
他の隊も訓練する。
だからいつまでも寝そべっているわけにはいかなかった。
「でも、明日こそはもっと頑張らないと」
明日の決意を述べながら、一人で歩いていった。
彼の決意は素晴らしい。
決意だけは。
だが、気合いが足りない。
どうせ明日も二周位しか走れず、背中を何発か鞭打たれて蹲ってしまうのだ。
これでは弱虫と言われても仕方がない。
彼がフェイエルム軍の歩兵をやっていくには、力が弱い。
気合いも弱い。
つまり向いてないのだ。
どうして、わざわざ向いてないミスリル歩兵を?
それは……
***
ケイクロイから東へ海岸に沿って旅すると漁村に辿り着く。
この漁村でスキュートは生まれた。
父の名はナビト。
この村の出身で、若い漁師だった。
同時に、ミスリル歩兵でもあった。
普段は小船で近海に出漁しているが、村に危険が迫れば武装して戦うのだ。
母の名はエミリア。
この村の者ではなく、とある宿屋の酒場で働いていた若い給仕だった。
ある時、その酒場で二人は出会い、恋に落ちた。
二人は結婚し、一緒に彼の漁村で暮らす事になった。
一年後には男の子を生まれる。
この子がスキュートだ。
父は母に負けず、息子を可愛がり「もう少し大きくなったら、海に連れて行ってやるぞ」という約束が口癖になっていた。
ところが……
スキュートが五歳の時だった。
東の彼方、国境にブレシア帝国の征西軍が現れた。
今年、住人達に姿を見せたのはモンスターではなく、敵も城も踏み潰すブレシア騎兵だった。
これに対し、ケイクロイから正規軍が救援に出るが、騎兵共に相対した時には、すでに街や村をいくつか滅ぼした後だ。
残念だが、フェイエルム東部地域の救援は間に合わないのだ。
状況を理解した民衆は立ち上がった。
作物を育てている者。
綺麗な布を織っている者。
等々。
皆、ミスリル歩兵に姿を変え、集まって大盾を構えた。
そこへ征西軍が突撃!
たとえブレシア騎兵の突撃でも、フェイエルム軍の陣形はビクともしない……だったら良かったのに……
実際は、そう上手くはいかなかった。
ミスリルで武装し、征西軍に対抗しようとしたのは民衆達だ。
正規軍ではない。
騎兵の衝突を受ける度に、大盾の列に隙間が空いてしまう。
その隙間に槍や矢が撃ち込まれた。
民衆達が一人、また一人と犠牲になっていく。
それでも怯まず抵抗を続けた結果、民衆達は征西軍をその場に足止めする事に成功した。
やがて正規軍が到着。
民衆達と正規軍が共同し、征西軍を退却に追い込んだのだった。
フェイエルム側の勝利だ。
大勢の者達は、家族のところへと生還していった。
そう、生還出来たのは大勢の者達だけだ。
全員ではないのだ。
エミリアとスキュートがいくら待っても、ナビトは帰ってこなかった……
以来、幼かった息子が、母の前で語る誓いが変わった。
いや、約束と言い換えても良い。
父は海に連れて行くという約束を果たせなかったが、息子である彼は約束を果たしてみせると言った。
必ずや、父の様に勇敢なミスリル歩兵になってみせる、と。
故に、スキュートはミスリル歩兵を続けていた。
年齢が一〇代後半になっても力が強くならず、同僚から弱虫と蔑まれてもやめるわけにはいかないのだ。
明日こそは逃げない。
悲鳴を上げない。
それが、父ナビトの様に立派なミスリル歩兵になりたいと願う、スキュートの決意だった。
***
翌日、ケイクロイ兵舎の運動場で、スキュートは——
鞭打たれて蹲っていた。
昨日から始まった一〇〇周の特訓は、九六周目で止まってしまった。
ちなみに、九六周目というのは二日間の合計だ。
一日目は運動場を二周半走り、九八周目で終わった。
二日目は九八周目の残り半分から再開し、一周半しか走れなかった。
すると、丁度九七周なのではないかと思うが、倒れて蹲った地点が運動場の開始地点を僅かに越えていたのだ。
だから九六周目というのが正しい、と言うが……昨日より悪い結果ではないか。
今日も特訓の指導を務めるのは、馬に乗っている隊長だった。
馬上より弱虫スキュートを叱責する。
「また今日もか? 立て! 走るんだスキュート!」
今日も怒鳴り声だけで済むはずがない。
蹲る弱虫の背中を鞭で打つ。
ビシィッ! ビシィッ! バシィッ!
「ひいぃっ! 痛い、痛い!」
昨日の決意は、どこかへ飛んでいってしまった様だ。
鞭の痛みに耐えられず、慌てて立ち上がり、その場から走って逃れようとする。
隊長の目論見通りだった。
鞭を上半身に当てる場合、通常通りの強さだったが、下半身には軽く触れる程度だった。
そうしないと、足が傷付き、走れなくなってしまう。
「さあ、走れ! 走らないと鞭が追い着くぞ!」
「ハァ、ハァ、ハァ——」
こうしてスキュートは再び走り出した。
でも……
走者が駆けるのを馬で追いかけ、速度が落ちてきたら鞭で打つ。
鞭が痛いので走力は一応回復したかに見える。
しばらくは馬から距離を取れるが、やがて力尽きる。
後は昨日と同じだ。
蹲っている背中に何発も鞭が飛んでくる。
一〇〇周の特訓というより、百たたきの刑というのが正しいのではないだろうか……
「丸くなっていても許さんぞ! 走らないと鞭が止まんからな!」
「——っ!」
また昨日と同じだ。
どうせ悲鳴を上げているのだ。
…………
……様子がおかしい。
隊長は、特訓を今日で終わりにするつもりだった。
一〇〇周など、最初から無理に決まっている。
だから二日目は、精一杯走らせるために厳しいのだ。
しかしスキュートにとって、その厳しさが限界だった。
馬上の隊長には背中しか見えなかったが、蹲っている内側では何か呟いていた。
鞭をやめてくれという、隊長への嘆願なのか?
「——っ!」
違う。
それは呪文だった。
鞭で打たれる度に途切れるが、それでも必死に唱えている。
繋ぎ合わせると、唱えているのが障壁の魔法だと気付く。
障壁——
この魔法が完成すると、透明な魔力の壁が現れる。
術者を様々な攻撃から守るのだ。
とはいえ、フェイエルムでは多くが屈強なミスリル歩兵を目指すものであり、魔法使いになろうという者は少ない。
魔法使いは、強くなれなかった者がなるものなのだ。
この国で弱い者は殆どおらず、皆強くなろうと努力する者ばかりだ。
スキュートもミスリル歩兵を目指しており、魔法については素人のはずだ。
なのに、なぜ障壁の魔法を?
それは——
母、エミリアの教えだった。
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