第3話 ルテイムの街

 僕はぬるいお風呂に入ると、部屋に戻った。そして夜風を取り入れるために窓を開けて、リュックの中を整理をした。旅に必要なものは揃えていた。いつでも旅立てるようにするなんて、元の世界では考えもしなかった。実際は旅に出されていたことも気づいていなかった。この世界では常に気にしていなければならないことになった。次にオイルを染み込ませた革帯をベッドに置いて、武骨な二本のハンドアックスを小さなテーブルに並べた。質の悪い麻のシャツ、頑丈なデニム、革のブーツを身に着けた。ブーツの紐はきちんと結ぶことにしていた。靴擦れは命を落とすことにもなる。

 隣にはレイがいるだろうが、静かだ。もう隣にはウラカがいるが、今は入浴中に違いない。廊下に出た僕はレイの部屋の扉に耳を押しつけて音を聞いた後、そのままウラカの部屋の扉をノックした。返答がないところは、やはり風呂だな。

 僕は部屋に戻った。窓際のロッキングチェアに腰を掛けて少しの間寝ることにした。こういう椅子に座ると意味もなく揺らしてみたくなるのだが、まったく意味もないことに気づいて恥ずかしくてやめた。

 しばらくして開いた窓に人の気配を感じた。この世界の窓は分厚くて透明度が低く、ところどころに気泡が入っていることも多かった。

 覗くと、旅支度を整えたレイがしがみついていた。爪先がわずかに花崗岩の隙間に引っ掛かっているくらいで、腕の力で支えていた。

「何をしてる」

 僕が笑いを堪えて尋ねると、

「行く」

 レイは笑わずに答えた。落ちそうになってはいるが、下には瓦屋根が続いているので大丈夫だ。

「どこへ行くんだ」

「シンの世界へ戻れるところへ」

「教会じゃなくて?」

「教会へは行かない。奴らは信じられない」

「わからないでもない。でもウラカは悪い人じゃないよ。僕はそこだけは信じてあげてほしいんだ」

「ウラカは悪くない。でもウラカ一人ではどうしようもできないこともあると思うの。早くして。落ちそう」

 僕は革帯をしてハンドアックスを差し込んで、巻いた外套を載せたリュックを担いだ。二人とも宿の窓から瓦に飛び降りると、急いで隣の家に飛び移り、他人の家のベランダ伝いに路地まで降りた。路地の淀んだ空気には潮と魚の生臭い匂いが混ざっていた。僕たちは入り組んだ路地へと逃げ込んで埠頭まで走った。

「船には乗るの?」

「乗るよ。ハイデルからの峠越えは厳しいし、追いかけられたら捕まるかもしれない。でも乗るのは教会の船じゃない。もっと小さい船に待ってもらってるの。まずは隣の港まで行く。そして海から離れる。そっちから行けばハイデルからの峠越えよりもぜんぜん楽らしい」

「よく調べたな」

 風呂から上がった後、宿屋に近くの街まで行くにはどうすればいいのか聞いたということだった。それでは探されたらおしまいだろ?ここまで海を見に来たが、峠を越えてコロブツに戻ると話したということだった。船なら塔の街付近までも戻れるらしいが、まだ戻れない。

 やけに荷物が増えていた。僕たち二人とも教会側の持ち物で使えそうな物を詰め込んできた 必要なものは食い物と飲み物とお金だ。

 僕たちは夜の港に降りた。レイから前に見える帆掛けの荷船に乗るように言われた。歩み板を恐る恐る踏んで、何とか落ちないように船に乗った。女の船頭が一人、舵取りが二人、帆を操るのが二人、すべて五人家族で商売をしているらしい。

「そろそろ出るところだ。本当にガラルでいいかい?」

 レイは銀二枚を渡した。

 船頭は華奢な女だ。顔は日に焼けて浅黒くて、積荷を積んでいる腕は鋼のように筋肉が出ていた。

「後ろにいてくれ。風を捕まえるまでは櫓を漕ぐからね。あの岩の左くらいに行けば風は拾える」

 二人の若者が櫂で岸から船を押した。船は後ろから進んで、しばらくして頭を旋回させた。一人が櫓べそというところに櫓をはめた。それは継ぎ足して人が二人分以上の長さがある。もう一人が来て二人で漕ぎ始めた。船頭は手伝うわけてもなく煙をくゆらせていた。

「母ちゃん、本当に風が来た」

「もうかい?今日は風の精霊様が来てくれたようだね。帆を広げな」

 帆が風をはらんだ。

 レイは船頭に言われたところにあぐらをかくと、近づいてきた白と茶トラの猫を抱き締めていた。

 潮風が夕闇を流した。

 まだ眠っているハイデルの街が遠ざかる。

 船頭の女がこれならガラルまですぐに行けると喜んでいた。他人よりも早く行ければ、他人よりも荷物が運べるという単純な話だが、なかなか思うようにいかないらしい。雨待ち風待ちで食いしのぐには日ごろ働けるときに貯めておくことだ。

「うちら小さい荷船は数を運んでなんぼだからね。こうしてこっちの港、あっちの港へ行くのさ。ライバルも多い。しかし賭けて正解だ」

「無理を頼んだみたいで」

「無理でもないさ。銭も支払ってくれたし。お嬢さんは風の精霊の眷属が見えているようだ」

「風の精霊が騒いでる」

 舵を持つ子供がはしゃいだ。

「精霊様が驚く。おまえがはしゃぐんじゃないよ」

 女船頭はレイに向いた。

「一人かもしれないと聞いてたんだが、ちゃんと来てくれたんだね」

「そんなこと話してたのか」

 すると、

「教会の本部へ行けば、シンはわたしを置いてどこかへ行く」

 レイが呟いた。その腕からモガモガと離れた猫が僕に近づいてきてきて差し出した指に鼻をつけた。白にキジ色のぶち柄の猫だった。

「やっぱり聞こえてたのか」

「うん」

「もっと後の話だ」

「後でも嫌だ。シンがこの世界にいるうちはわたしは一緒にいる」

「もちろんだよ」

「でも!」

「じゃ聞くけど、教会とやらにレイの幸せがあるのか?」

「わからない」

「まあわからない。でも今んところ僕はそうは思わないね。さっきも話したように、教会はウラカみたいな人だけじゃないだろうし」

「教会がわたしを幸せにしてくれるかもしれない」

「幸せなんてのは、誰かに与えられるもんじゃない。少しずつ積み重ねてきたもんを見返したときに気づくもんだと思うよ」

 僕は女がキセルが船べりを叩くのを聞いた。女船頭は何も言わないが、僕たちの会話を聞いていた。

「僕は教会なんてところを信じる気はないんだ。どこもしょせん人の集まりにすぎないからね」

 僕は猫の前足を抱き上げた。

「僕は見てないところで起きたことなんて信じにゃいのだ」

「わたしから離れない?」

「そんときは相談する」

「うん」

「お、いい潮の流れだね。お嬢さんの気持ちが晴れたみたいだね」


 ガラルは倉庫の村だ。

 僕の感想。

 やけに荷降ろしが多いな。こんな商売をしている連中は目つきが鋭いのかな。船から降ろした荷物を改める動きも筆もキビキビしていた。

 埠頭に降ろした荷物は、荷馬車に積まれて内陸地へと運ばれる。内陸地から来たものは、船で他の港へと運ばれる。だからいつもは荷船で混雑しているが、今回は僕たちを乗せてくれた船が次の荷物も手に入れた。ただ内陸地からの荷物が少ないとこぼしていた。ここの荷は他の連中に任せて、彼女はボノルの港へ行くと決断した。倉庫の持ち主がボノルで積荷が積めないと話しているのを聞いて、今から出航して夕暮れに戻れれば代金を上げると交渉したようだ。レイは風を見てくれと頼まれたので、マストを見た。そしてまだいると答えた。船頭はボノルの積荷に賭けた。彼女の腕に信頼があるからこそだが、荷主も彼女に賭けていた。船頭一家を乗せた船は、力を込めて埠頭から離れると、すぐに風を捉えて入り江の陰に消えた。

 僕たちは女船頭から荷主に頼んでくれたことで、街までの荷馬車に乗せてもらうことができた。荷物に気持ちがあるのなら、やっていられないだろうなと思った。

「なぜ旅の支度してたの?」

「レイが来るかなと」

「一人で行く気じゃなくて?」

「来なければ寝てた。僕にしてみればどこでも同じだしね。それに」

「それに?」

「逃がしてくれたんだよ」

「ウラカが?」

「何となくね」

「そか」

 やがて森を抜けたところで、僕たちは荷物の間から入ってきた夕日の眩しさに目を覚ました。すぐに丘陵地が広がっていた。収穫を控えた麦は風に揺られていた。

 荷馬車は揺れながら下る。

 岩山を背にした城が見えた。石垣が尖塔が一つ、二つ、三つの尖塔をつないでいた。

「ヒルダルの館みたいだね」

 と、レイが言った。

 火はついてないけどね。

 丘陵地を抜けた荷馬車は土塁の間の道を通り抜けた。土塁は空堀を含めて高さが十メートルほど、土台の幅は二十メートルほどある。上は雑木林で埋め尽くされていた。

 荷馬車は二つ目の土塁の前で右へと曲がり、そこにある広場で荷物を降ろした。ここからは街の業者が引き継ぐということだった。

 荷馬車と別れた僕たちは内の土塁沿いに歩いてみることにした。ここまで来たからには、もう街は逃げないということで、ゴリゴリに凝った体をほぐす意味も兼ねて、寄り道をすることに決めた。砂利の多い歩きにくい道だったが、誰もが忙しそうに行き交っていた。

「これが街?」

 レイが首を傾げた。

 僕は急いでいる男に、

「ルテイムの街ですか?」

 と尋ねた。男は土塁の内がルテイムだと走りながらも答えてくれた。 

「だって」

 土塁と土塁の間には、板きれに石を置いた屋根の家が十数軒、また十数軒と建っていた。土塁のせいで丘陵地からは見えなかったのだ。

 こうして歩いてみるものだな。

 これは野宿だな。

 そしてどこかでラッパが鳴るのが聞こえた。これは閉門を報せるラッパだな。今日中に僕たちは内の土塁を越えることはできそうにない。

「人いるの?」

 レイは板葺きの家を覗いた。

 いたらどうするんだ。

 レイは勝手に入ると、

「夕暮れなのにごはんの気配ないもんね。ほら、誰もいない」

 と、僕を見返した。他の家からも誰も出てこない。僕も隣の家を覗いた。レイが人にするなと言うくせにと肩越しに覗いた。薄暗い家のカマドには火もなかった。器などもなさそうだ。外ではレイがつるべ井戸から桶を引き上げてみた。

「飲めそう」

 僕たちは適当な風除け場所を探して野宿をすることにした。教会から盗んできた干し肉を食べると、二人とも贅沢な気持ちになれた。こんなことならもっと持ってきたらよかったと言うが、いつの間にどこから盗んできたんだ。チーズをナイフでスライスした。食べようとしてやめた。これは石けんだ。他に布巾や着替えも盗んできていた。

「それは宿から盗んだんだ」

「シンは?」

「んなもんこれだよ」

 金貨と銀貨を見せた。

「何枚?」

「革帯に金の板が三枚、ブーツには棒が一、二、三本だね。財布の中には銀粒十粒と銅粒八粒」

「誰の?」

「ウラカの部屋だね」

「なぜ入れた」

「そりゃ彼女が風呂に入ってたときを狙ったからだよ」

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