愛の保険
「今日もお疲れ、
バックルームで、渡辺さんは今日も可愛らしい笑顔を向けてけれた。
「お疲れ様です。今日は上がる時間同じですね!」
今日は平日。忙しい土日とは違い、家電屋は比較的穏やかなものであった。
「今日は授業もないし、暇なんだ。…よかったら、お茶でもしない?」
「え?!」
思いもしていなかった言葉に、俺は動揺した。
『ほう?この女、君をお茶へ誘ったのか?』
ここぞとばかりに、興味津々な声色で相棒は語りかけてくる。
(…今は黙ってろ!)
心の中でそう叫んだが、恐らく相棒には伝わってはいないだろう。
「ちょっと、驚きすぎ!最近出来たカフェがあって。せっかくだからどうかなと思って。」
渡辺さんは肩で揃えた黒髪を揺らしながら、いたずらっぽく笑う。その姿は楽しそうなのに、何処か儚げであった。
「…そういうことなら、是非。」
何か引っかかりながらも、俺は笑顔で答えた。
こんなチャンス、恐らく二度とない。
『…なるほど。』
相棒がそう呟いた気がしたが、俺は片思いしている女性に夢中で、さほど気にかけなかった。
桜も散り、夏の始まりが見える青々とした葉の街路樹の側。真新しい看板のカフェがあった。
「ああここ、雑貨屋だった処ですね!」
「そうそう!何になるのかなと目を光らせてたんだよね!」
仕事中よりも活き活きとした表情に、俺は心を射抜かれる。…やっぱり、渡辺さんのことが好きだ。
店内に入ると、コーヒーとシナモンの匂いが鼻をかすめる。店内は平日の15時頃ということもあり、マダム達がお茶会をしていた。
俺達はお洒落な絵が飾られた、壁沿いの二人席へ案内される。
「これめっちゃ美味しそう!」
メニュー表を見ながら彼女が指さしたのは、レタスとチーズのハムサンド。
てっきり隣の限定ケーキを頼むのだと思っていたので、俺はギャップに惹かれた。
「じゃあ、俺もそれにしようかな。」
「あと、こっちのシーフードパスタと…デザートはこっちの限定ケーキと苺パフェにしよ!」
「え、よく食べますね?!」
次々と指差す渡辺さんを見て、俺は驚く。
小柄な見た目に反して、意外と大食いなのだろうか?
「…今日はいいの!」
渡辺さんは、先程も見せた儚げな表情で、俺の方を見た。
『ふはははは!!!やはりな。』
「うわっ?!」
突然相棒が高笑いを上げたものだから、思わず声を出してしまった。
「どうしたの、二口さん?」
「いや、ちょっと蝿の音がした気がしたんですけど、気の所為でした!」
俺はどうにか誤魔化して、席を立ち上がる。
「ちょっとお手洗い行ってきますね!」
「わかった。メニュー頼んどくね?セットのコーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「すみません…コーヒーでお願いします!」
『誰が蝿だ!!!俺は神だぞ?』
「黙ってろよ…」
運良く誰も使用していなかった男子トイレへ逃げ込み、囁き声で相棒に話しかける。
『まぁ聞け。彼女は、どうやら恋をしている』
「ええ?!」
『うるさいぞ!!!』
俺の声より遥かに大きな理不尽な大声が、俺の心の中に響き渡る。
『…俺に代われ!』
「は…?」
徐々に意識は薄れ、感覚が鈍る。
この感覚には、覚えがある。
テレビのリモコンを押したように、俺の意識はプツリと切れた。
「おかえり。コーヒー届いたよ?」
「俺は紅茶派だ。覚えておけ。」
「…え?」
先ほどとは様子が変わった青年に、彼女は唖然とした表情を浮かべた。
「俺を保険にかけて、安心しようとしているな?」
「…っ?!」
青年の言葉に、彼女は心を見抜かれたように動揺する。その修羅場じみた空気に、周囲の客は視線を向ける。
「お前には、恋人がいるな?しかしそいつとの愛は冷め、別れを告げようとしている。…独り身の期間を恐れ、別れを告げる前に俺を誘ったのだろう?」
青年は怯える彼女に容赦なく言葉を指す。
しかし彼女は、どうしてだか青年から目を背くことができない。
…その姿がまるで、神のように観えたからだ。
「そんなに一人が怖いのか?」
「…怖いよ。だってこのまま一生一人のままだったらと思うと、不安で仕方無い。」
彼女の綺麗な瞳には、涙が浮かんでいた。それはけして心を見透かされた怒りではなく、苦しみと、悲しみの涙であった。
「何故そんなにも、周囲からの愛にこだわる?自分を愛せる一番の人物は、いつだって自分だ。」
「そんな、ありふれた言葉…」
彼女は絞り出したような声で、青年に反論しようとした。
「そう。お前はありふれた人間だ。たった一人のヒロインでもなんでもないし、別にお前のキスで物語が動くわけでもない。何を勘違いしている?」
「…!」
彼女はハッとした表情をして、青年の自信に満ちた瞳を見つめる。
「周囲からの愛は、安心のためだけにわざわざ得るほどの価値はないのだよ。」
そう言うと、青年は砂糖もミルクもまだ入れていないコーヒーを一口啜る。
「ふむ。やはり紅茶の方が好みだ。」
「…ありがとう。二口さん。」
___目をはらした渡辺さんが、俺に感謝を告げてきた。目の前には、自分が追加で頼んだのであろう紅茶と、一口も手がついていないハムサンドがあった。
翌日、渡辺さんはアルバイトを辞めた。
それはそれは、とても満足そうな表情だったから、俺は引き止めることができなかった。
渡辺さんは最後に俺にもう一度感謝を告げ、軽い足取りで去っていった。
「…なぁ相棒。渡辺さんに何をした?」
『俺は神だ!一人の女性の運命を変えることなど、容易いのだよ。』
「…まぁ、渡辺さんかつてないほど幸せそうだったからいいけどさ。俺もバイト先変えるか…」
実際一人の女性の運命は、きっと変わった。
…俺の相棒は本当に、神なのかも知れない。
俺の心の相棒は、神を名乗っている 朝星りゃう @Rya_usagi
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