第8話 探索
空木が石山田とともに、奥多摩警察署の捜査本部の会議室に入ったのは、午前十時を回っていた。
捜査本部は、先週の木曜日に塚水康夫を重要参考人として指名手配したものの、その行方は
空木は、課長の岡田、飯坂、そして石山田の四人で塚水の行方、潜伏先について協議を始めた。
「空木さん、また今日もご協力ありがとうございます。石山田から話は聞かれていると思いますが、塚水の行方の目星を立てたいのです。ついては、空木さんのご意見を伺いたいのですが、いかがですか」。岡田が協議の口火を切るように空木に訊いた。
「正直に言って、捜査に当たっている皆さんに確信を持って言えることはありませんが、塚水が山へ行くと言って家を出てから二週間が経過しました。当初は風呂があるテント場、ないし山小屋という情報しかありませんでしたが、それに長期滞在という条件が加わったと思っています。あとは塚水の所持金によりますが、口座からの引き出し情報などが入れば、より目星はつけやすくなると思います」
空木の話に、岡田は大きく頷き、飯坂の方に顔を向けた。
「その塚水の所持金についての情報ですが、松本市内のコンビニで、五月十九日の日曜日に五十万円引き出していました。それ以後は今日までありません」飯坂が手帳を開きながら言った。
空木は、松本市内と聞いて、想定した場所を絞り込んだ。
空木は塚水の行き先を風呂のある山小屋、テント場としていくつかの候補地を考えていた。北は那須の三斗小屋から、近場の三条の湯、黒部の仙人温泉小屋、阿曽原温泉小屋、
そして、この候補の中で、松本から入山するとしたら北アルプスの上高地から槍ヶ岳までの四つの場所が考えられた。その四つの場所のうち、槍沢ロッジと横尾山荘はテント泊者の入浴、外来入浴は不可となっているが、テント泊をしながらも三、四日に一回だけ小屋に泊まって、風呂に入ることも考えられる。
「松本から入山する山域で、塚水がこだわった風呂に入れる小屋、テント場に絞って探してみてはどうでしょう。塚水が本名で泊まっているとは思えませんから、目視での捜索になりますが‥‥‥」
「空木さん、それはどの辺りになるんですか」岡田が身を乗り出して訊いた。
「上高地から入っていくテント場と小屋です。具体的には、河童橋から近い小梨平のキャンプ場から徳沢園、徳沢ロッジのある徳沢のテント場、横尾山荘のテント場と槍沢ロッジとそこから三十分ほど登ったババ平のテント場の四つの場所ですが、中でも外来者の入浴が出来る、つまりはテント泊者も入浴料を払えば入浴出来る、小梨平と徳沢のテント場を重点的に捜索してみたらどうでしょう」
「さすが健ちゃん、いや空木さんだ」石山田は得意顔だ。
「とは言え、絶対的な確信がある訳ではないので、無駄足になることも覚悟してください」
「たとえ、身柄の確保が出来なかったにしても、塚水の潜伏場所の候補が絞られる訳ですから、無駄足ではないですよ」岡田の言葉に、石山田も頷いた。
「ところで、そこは車で入れるところなんですか」飯坂だ。
「緊急車両なら横尾山荘の先までは入れると思いますが、そこから先のババ平までは歩きで二時間半ぐらいかかると思います」
「上高地はどこの警察の管轄なんだ。協力を頼もう」岡田が飯坂に指示をした。
「空木さんの言うように、その地域を捜索してみることにしましょう。午後からの捜査会議で捜査方針として伝えます」
「課長さん、上高地に場所は絞りましたが、くどいようですが、そこに塚水が潜んでいるとは限りません。そこは承知して下さい」空木は、捜査方針という岡田の言葉を聞いて、改めて不安になった。
「空木さん、さっきもお話しした通りです。心配しないでください。逆に、空木さんの推理が一発で当たったりしたら、我々警察の存在価値が問われてしまいますからね。捜索する地域に塚水がいることを期待はしていますが、そううまくいくとは思っていませんよ。それより空木さん、我々と一緒に上高地に行っていただけませんか。山を良く知っているあなたが一緒なら心強い」
岡田の依頼に、空木は石山田を見た。石山田が頷いたのを見て、
「分かりました。役に立つかどうか分かりませんが、行かせていただきます」と返答した。
午後の捜査会議で岡田から捜査方針が伝達された。
塚水康夫の行方の捜索は、安曇野警察署の協力を得て上高地の四地点を中心に行う。塚水の自宅の張り込み、畑上の行動の見張りは継続することが確認された。
翌日、空木は、飯坂の運転する奥多摩署の車に、石山田とともに乗車し上高地へ向かった。
中央道を松本インターで降り、国道一五八号線を梓川沿いに西へ走り、
釜トンネルを越えると左手に大正池が見えて来る。石山田が「神秘的な池だな」と小声で言っている。
帝国ホテルを過ぎて上高地のバスターミナルに到着した。ここから先は、明日合流する予定の安曇野署のジープでなければ通れない。
陽は既に穂高の峰のシルエットの向こうにあって、ここには陽は当たっていない。石山田と飯坂は、逆光で黒く見える前穂高岳から奥穂高岳にかけてのシルエットと、奥穂高岳から西穂高岳の岩稜を見て感嘆の声を上げた。
空木も上高地に立つのは五年ぶりだろうか、久し振りだ。六月初旬の夕刻の上高地は肌寒かった。三人は予約してあった河童橋近くのホテルに入った。
三人は、翌日からの捜索のための段取りを相談した。初日は安曇野署の四駆車で横尾山荘まで入り、そこからは、二組に別れて捜索する。一組は横尾山荘とテント場を、もう一組は二時間半歩いて槍沢ロッジとその上のババ平のテント場を捜索する。テント泊者が不在の時は警察権限でテント内部を確認し、単独行の可能性があると判断した際は、テント泊者が戻るまで待機することとした。二日目は初日同様に小梨平と徳沢のテント場での捜索を二組に別れて行うこととした。
翌早朝、安曇野署の四駆車が、空木たちの宿泊しているホテルの前に停車していた。空木たちがホテルを出ると、眼鏡をかけた筋肉質の中年の男が、敬礼をしながら、「おはようございます」と挨拶した。石山田と飯坂は同様に敬礼して、「おはようございます」と返礼した。
その眼鏡の男は
板長の運転する安曇野署の四駆車に同乗した三人は、狭い比較的平坦な遊歩道を揺られながら横尾山荘に向かった。夏の時期なら多くの登山者と観光客で混雑するこの遊歩道もこの時期では人はまばらだった。小梨平の広いテント場には見える限りでは四、五張りのテントが張られ、徳沢には二張りしかなかった。
横尾に到着した四人は、予定通り二組に別れた。
空木と石山田は、横尾から歩いて二時間先にある槍沢ロッジとその先のババ平のテント場へ、飯坂と板長は、ここ横尾の横尾山荘とテント場で、それぞれ聞き込みと捜索をすることとしたが、見る限り横尾のテント場には、テントは無かったことから予定を変更し、四人で行動を共にすることとし、槍沢まで車で行けるところまで行くことにした。
横尾は、
四人はここで、五月十九日、日曜日からの横尾山荘の宿泊名簿とテント泊申込書を確認した。予想通り塚水康夫の名前は無かったが、石山田が名簿をめくっていて、「あれ」と声を出した。
「健ちゃん、飯坂、これを見てくれ」と言って石山田が差し出した名簿の名前は「小谷原康夫」で住所は国立と書かれていた。
「‥‥‥小谷原さんと塚水康夫の合体か。日付は五月二十二日だね」
空木も石山田が直感したのと同様に、塚水が偽名を使ったと直感した。
「空木さんの推理通り、塚水はこの地域にいるようですね。確認のためこの名簿の名前を筆跡鑑定に送りましょう」
飯坂は小屋の主人に依頼し、山荘のファックスで奥多摩署に送信した。
「厳ちゃん、塚水はここでは小屋に泊まって、食事と風呂に入ったみたいだね。ベースのテントは別のところにあったかも知れないな。とは言え、もうかなりの日数が経っているし、まだこのエリアに居るのかどうか‥‥‥」
「そうだな、五月二十二日からはもう十日以上経っているからな。別のところに移っている可能性もあるね」
「まあ、焦っても仕方ありませんよ。ここは計画通り捜索を続けましょう」板長はそう言って車に乗り込んだ。
四駆車は十分ほど走ったところで、道が狭くなり前には進めなくなった。
四人は車を歩道の端に駐車して歩き始めた。槍見河原、一ノ俣と歩き、一時間余りで槍沢ロッジに到着した。時刻は十時を過ぎたところだった。
ここ槍沢から見る槍沢カールと槍ヶ岳は、その斜面の角度を見てうんざりするところだが、今日はガスがかかって上部は見えない。しかし、まだ六月初旬で、雪が多く残っているのはわかる。
ここからババ平のテント場までは三十分ほど歩くことになるが、トイレも新しくなり槍ヶ岳登山のベースキャンプ地として利便性の高いテント場となっている。ババ平のテント場を管理するのは槍沢ロッジだ。今日のババ平のテントは二組二張りとなっている。確認のため、飯坂と板長の二人はババ平のテント場へ向かった。
空木と石山田は横尾山荘と同様に、五月十九日以降の槍沢ロッジの宿泊者名簿とテント泊申し込み者の確認をした。ここでも塚水康夫の名前は無かったが、今度は空木がロッジの名簿をめくっていた時に、「あ‥‥」と
名簿を見た石山田は、手帳を取り出した。
「‥‥‥森川朋彦はマルス製薬の社員で、一度聞き取りをした男じゃないか」手帳から顔を上げて空木に答えた。
「そう。その森川と同じ名前だよ。森川と塚水は同じ営業所にいた筈だから、塚水が偽名で使う可能性はあると思うよ」
「この筆跡も鑑定する必要があるな」石山田はそう言って、その名簿もロッジからファックスで奥多摩署に送信した。
飯坂と板長は午前十一時半ごろ槍沢ロッジに戻ってきた。
ババ平の二張りのテントは留守だった。警察権限でテント内を確認したところ、二つのテントともにシュラフ等で二名であることが確認できた。
四人はロッジで昼食のメニューからカレーを食べ、明日の捜索の予定だった徳沢に向かうことにした。
四人は車を停めた槍見河原の先まで歩き、徳沢に到着したのは午後三時近かった。
徳沢は、蝶が岳への分岐で、氷壁の宿、と言われる徳沢園と徳沢ロッジの二軒の宿があり、外来入浴も可能だ。つまりテント泊のハイカーも入浴料を払えば風呂に入れるという立地だった。
ここで四人はまた二組に別れ、テント場を管理している徳沢園組は、宿泊者名簿とテント泊申し込み者の確認を、徳沢ロッジ組は宿泊者名簿を確認した。
両方の宿ともに、五月十九日以降の名簿に塚水康夫の名前は無く、気になる名前も無かった。テント場には、朝見ていた二張りのテントがあったが、二つのテントともに二人パーティーであった。四人は横尾山荘、槍沢ロッジ同様、ここでもコピーを入手し、今日の捜索を終えて宿舎である河童橋近くのホテルに戻った。戻る途中、大きなザックを背負った登山者が徳沢に向かって歩いて行くのとすれ違った。空木はザックの大きさからテント泊の単独行で、今日は時間的にも徳沢でのテント泊で、明日、蝶が岳にでも登るんだろうなと思った。
空木も蝶が岳にテントを担いで登った記憶が蘇る。自分もまたここに来るぞ、と独り言を言った。
捜索二日目は、低く雲が垂れ込めて、今にも雨が降りそうな寒い朝だった。
四人は小梨平のキャンプ管理事務所に向かい、五月十九日以降のテント泊申し込み者を確認した。その中に、五月二十日から昨日までの十七日間という長期滞在の単独行がいた。名前は山田克之と書かれていた。
石山田は、空木と顔を見合わせて、「しまった、一日遅かったか」と唸るように言った。
管理事務所の事務員に塚水の顔写真を見せたが、本人の確認は取れなかった。
「取り敢えず、この筆跡も東京へ送って鑑定してもらいましょう。それとテントの確認もしっかりやっておきましょう」飯坂はそう言って、ここでも管理事務所のファックスで奥多摩署に送信した。
広い小梨平のキャンプ場にテントは三張りだけだった。明日の金曜日には、ここだけでなくいくつかのテント場も色とりどりのテントで賑わうのだろう。三張りのテントは全て単独行の男性で、天気が良くないためか三人ともテントに沈殿していて、三人とも確認ができた。
管理事務所に戻った四人は、これからの捜索をどうするか協議した。
石山田と飯坂は、一旦捜査本部に戻って今後の捜査方針を考えたらどうかと言った。空木は、小梨平からさらに奥に入った可能性もゼロではない。しかし、この山域に留まるべきかどうかは、判断出来ないと言った。
三人の話を聞きながらテント泊申込書を見ていた板長が、「あれ、この字よく似ているな」と言って空木たち三人に三枚の申込書を見せた。
それは、それぞれ五月の二十日、二十三日、三十日の日付の申込書だった。名前は全て違うものの、字体は良く似ているように思えた。ただ、五月三十日の申込書は昨日までの使用予定となっていた。これも鑑定に出すことになり、飯坂が管理事務所のファックスで奥多摩署に送信した。
空木は申込書のコピーを見ながら、石山田と飯坂に話しかけた。
「この筆跡鑑定の結果が出るまでここに留まるべきだと思う。僕のあくまでも推理だけど、昨日の横尾山荘と槍沢ロッジの筆跡と、それにこれも塚水のものと一致したら、塚水はまだこのエリアにいると思うんだ。それは、五月二十二日の横尾と二十九日の槍沢の間隔がちょうど一週間で、昨日までの期間も一週間の間が空いている。塚水は一週間間隔で変化をつけているように思う。恐らく長期滞在でも目立たなくする意図があるんだろう。但し、横尾と槍沢は小屋泊まりじゃないと風呂には入れないからテント泊はせずに翌日には小梨平まで戻ったんだろう。小梨平のテント泊申込書の日付とも符合している。途中に徳沢のテント場があるのに小梨平まで戻ったのは、塚水が登りたい山の都合があったんじゃないかと思う」
「‥‥空木さんは、塚水はどこにいると考えているんですか」板長が聞く。
「徳沢です」
「え、徳沢。徳沢は昨日捜索したところだよ」石山田は疑いの目だった。
空木は、疑問符の付く言葉をかける石山田に顔を向けた。
「‥‥塚水にとって、残っているのは徳沢なんだ。残っていると言うより、残していたのかも知れない。これは俺の第六感というやつだけど、
「そうか‥‥‥。そういうことなら健ちゃん、鑑定結果は後追いで構わないんじゃないか。その推理はそんなに突拍子もない推理じゃないと思う。昨日すれ違った登山者も無精髭が凄かった。長い期間このエリアにいて伸びたとも考えられる。今から行くべきだよ」
「行きましょう。推理が外れたらまた考えましょう」
飯坂がそう言って立ち上がり四駆車に向かって歩き出した。他の三人も車に向かった。
徳沢に四人が向かう途中から雨が降り始めた。明神岳はガスに覆われ真っ白い景色に変わりつつあった。
徳沢に着いた四人はテント場に張られているテントを見た。三張りだった。運転していた板長は「あれ」と言い、飯坂は「増えている」と呟いた。
石山田は「塚水か‥‥」と呟き、空木は「やっと‥‥」と言葉にならない声を出した。
四人は合羽を身に着け、昨日に比べて増えている一張りの青いテントに近づいた。時刻は午前十時を回ったところだった。石山田が青いテントの前で、立ち止まり声をかけた。
「おはようございます。どなたかいますか」
「はい」という声がして、テントの出入り口用のファスナーが上がり「なんでしょう」と言って顔が覗いた。無精髭が伸びているが写真で見た塚水だった。
石山田が、「塚水さん、塚水康夫さんですね。警視庁奥多摩警察署のものです。赤城太さん死体遺棄容疑の重要参考人としてご同行願います」
警察証を示しながら、テントに当たる雨音に負けないぐらいはっきりした口調で言った。
塚水は
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