第7話 反撃

 空木が山形へ行っている間に、奥多摩署の捜査本部は、マルス製薬東京支店に再び出向き、塚水の自宅に置かれていた社有車アクアを調べることとなった。

 車は既に定期点検のため契約修理工場に移されていたが、トランクから黒くなったシミが認められ、鑑識によりルミノール反応陽性と出た。さらに血液型の鑑定結果はO型で被害者の赤城と同じであり、DNA鑑定にも出されていた。

 また、捜査本部でのコンビニの防犯カメラの探索捜査で、新青梅街道沿いの瑞穂のコンビニの防犯カメラに、五月十六日木曜日の夜十一時頃、マルス製薬の社有車アクアと同車種同ナンバーの車が停車、さらにドライバーがコンビニに入店している画像が見つかった。そのドライバーは入手していた写真から塚水康夫と酷似していた。

 これにより捜査本部は、赤城太はいずれかで殺害され、死体を鋸山に遺棄されたと断定し、塚水康夫を重要参考人として指名手配することとなった。


 東京に戻った空木は、本村久美から教えられた仲純子の携帯電話に電話を入れた。

 空木は、面会することを快く承諾してくれた仲純子と、明日金曜の午前十一時にJR本八幡駅の改札口で待ち合わせることとなった。

 その日の夜、空木は平寿司の暖簾をくぐった。

 「良子ちゃん、『おまつ』の予約ありがとう。『おまつ』の女将さんも元気だったよ」空木は店員の坂井良子に声を掛けた。

「お帰りなさい。叔母さんも元気でしたか、良かったです」坂井良子が嬉しそうに答えた。

「『おまつ』って何のことなんだ」常連客の金澤が坂井良子に聞いた。

「私の叔母さんが山形でやっている鳥鍋屋の店の名前です。空木さん行ってきたんです、その『おまつ』に」

「へー、そうなんだ。空木さん、羨ましいですね」

「仕事だったんですよ。久し振りの山形だったんですけど、とんぼ帰りでした」

 空木が鉄火巻きを食べ、ビールを空け焼酎のボトルを女将に注文した時、店の引き戸が開き、石山田が「よっ」、と顔を覗かせた。

 女将と主人が「いらっしゃいませ」、と声を揃えた。

 「健ちゃん山形はどうだった。収穫はあったかい」

「おう、収穫ありだよ。塚水と畑上の因縁が見えてきたよ。やっぱり名古屋当時からの因縁だった。巌ちゃんの方はどうなっているんだい。進んでいるのかい」

 石山田は、「進んだぞ」と弾んだ声で応じた。そして、昨日の動きを空木に話した。

「巌ちゃん、畑上の動きはどうなんだ」

「捜査員二人が張り付いているけど、昨日も今日も西新宿五丁目のマンションの部屋と会社の往復だけで動きはないようだ」

「もし俺の予想通りだとしたら、今となっては畑上にとって塚水は最も生きていてほしくない存在の筈だよ。塚水が自殺してくれるのを望んでいるだろう。逆に、塚水が警察に捕まることを最も恐れているだろう。そういう意味では畑上は、塚水を殺すかも知れないな。居場所さえ分かればだけどね」

「その塚水の居所だよ。健ちゃん大体の見当はついたのかい」

 石山田はビールを空け、焼酎の水割りを作りながら、今日は腹が減ったと言ってちらし寿司を注文した。ちらし寿司のネタをつまみにしながら、シャリで腹を膨らませる作戦のようだった。

 「見当はつきつつある、というところだけど、巌ちゃんに言えるほどの自信はない」

 空木は焼酎の水割りを飲んで、そのグラスをジッと眺めた。居場所の仮説を、確信に変えることが出来るだろうか。

「ところで、コンビニの防犯カメラに、塚水らしき男が映っていたらしいけど、一人だけしか映っていなかったのかな。車が映っていたなら、助手席に誰か座っていたかどうかぐらいは見えなかったのかな」

 空木は、塚水一人で赤城の遺体を鋸山まで運ぶのは至難の業だと思っている。必ず誰かがいた筈だ、その誰かは畑上の筈だと言いたかった。

 「そうなんだ、捜査本部も、もう一人いるのではと思っているけど、後部シートに座っていたのか姿が見えないんだ」

 空木は、畑上の用心深さと、塚水に全てを背負わせようとする狡猾こうかつさを強く感じていた。


 金曜日、JR本八幡駅に午前十一時少し前に着いた空木は、仲純子の携帯に電話し、改札口を出たところで会うことが出来た。二人は簡単な挨拶をして駅近くのコーヒーショップに入った。空木は改めて名刺を渡しながら挨拶をし、今日の面会の礼を言った。

 「本村さんからの電話で、空木さんの目的が畑上支店長の身辺調査だということは聞きました。それで私に聞きたいというのはどんなことでしょう」仲純子は少し冷めた言い方だった。

「仲さんには、嫌な思いをしたことを思い出させることになってしまうかも知れませんが、私は畑上という男が、名古屋から現在までやってきたことを調べることで、ある事故の遠因が掴めるのではないかと思っています。仲さんが畑上からどんなことをされ、言われ、どうして辞めることになったのか聞かせていただきたいのです」

「‥‥‥ある事故というのが、何のことか私には分かりませんけど、畑上という男がどんな人間かはお話しします」純子は、淡々とした口調で、視線を少し下に向けたまま続けて話した。

「畑上が支店長として東京支店に来た時、私は派遣として既に一年近く経っていました。数か月のうちに私は、何回も畑上から食事に誘われましたが、全て断っていました。去年の九月でしたか、畑上から派遣の契約のことで話があるから夜時間を空けるようにと、半ば強制的に言われました。そしてあるホテルのロビーで待ち合わせて、ホテルのレストランに連れて行かれました。私は、話は何なのか聞きました。畑上は、私を派遣から正社員にする力を自分は持っているが、正社員になる気はないか、と言いましたが、私は派遣のままで良いと返事をしました。それから食事をしましたが、私が席を離れて戻ってきた後です。ワインを飲んで三十分ほどして私は帰ろうとしたんですが、恐ろしいほどの眠気が襲ってきて記憶が無くなるほどでした。気が付いたら、夜中の一時ぐらいだったと思います。ホテルの部屋のベッドに一人で服を着たまま寝ていました。でも下半身に強い違和感がありました。涙が、悔し涙が止まりませんでした。きっとワインの中に畑上が何かを入れたに違いない、絶対に許せないと思い、後日辞める覚悟で畑上に訴えると詰め寄りました‥‥‥」

純子の目は真っ赤に充血していた。

「‥‥畑上は何と言いましたか」

「君は何を言っているんだ。酔って前後不覚になった君に、ホテルの部屋を取ってあげて泊めてあげたんじゃないか。帰れない君を助けたのに何を言っているんだ。私が君に何かしたという証拠でもあるのかと言われたんです。私はまた悔し涙を流しました」。

 悔しさを我慢して話す、純子の真っ赤に充血した目からは、涙が一筋零れた。

 空木も純子の話を聞くうちに歯ぎしりしそうな思いになっていた。純子の言う通り、何かを飲まされたに違いないと確信した。何という卑劣な人間なのか、何と恥ずかしい男なんだ。

 「それでマルス製薬の派遣勤務を辞められたんですね」

「はい、こんな目に遭って、こんな思いで勤務できる筈はありませんから、派遣会社に全て話して替えてもらいました。今は、麹町の鉄道事業会社の関連会社で働いています」

「辛い話をさせてしまい申し訳ありませんでした。そんな酷い目に遭われていたとは信じられません。仲さんの後任の方は大丈夫なんでしょうか」

「今の会社は気持ち良く働くことが出来ていますし、前を向いて歩くしかないと割り切りました。私の後は、同じ派遣会社から島岡さんという私より若い子が行きましたが、その島岡さんはマルス製薬に行きたいと言って手を挙げたんです」

「え、そういう支店長がいるのを承知して手を挙げたということですか」

純子は静かに頷いて、「仲さんのかたき討ちをして来るって言うんです。私はそんなことしなくていいから、行くのは止めなさいって言ったんですけど、マルス製薬には私の母親違いの兄がいるんだと打ち明けられて、どうしても行くと言って聞かなかったんです」

「‥‥‥母親違いの兄ですか。それは誰なのか仲さんはご存じなんでしょうか」

「いえ、それは言ってはくれませんでした」

 空木は、本村久美の言った女性の敵という言葉を思い出しながら、純子の後任が言った敵討ちとはどういう意味なのか、そして母親違いの兄とは誰なのか、後任の女性に会ってみる必要があると思った。いや会いたかった。

 空木が純子に今日の面会の礼を言い、コーヒーショップを出たところで、純子が言った。

 「あの男をこの世の中から抹殺することは出来ないのでしょうか」

 純子の悔しさがこもった言葉が、空木の耳の奥に残った。


 仲純子と別れた空木は、本村久美の携帯に電話を入れた。仲純子の後任、つまり現在の派遣勤務の女性である島岡という女性に会うためだった。

 空木は、今しがた終えた仲純子との面会の礼を言い、島岡という今の派遣勤務の女性に会いたいが、お願いしてもいいか聞いた。本村は喜んで協力すると言い、折り返しの連絡を待つように言って電話を切った。

 二十分程で本村久美からの折り返しの電話が鳴った。空木が乗換駅のお茶の水に降り立った時だった。

 島岡という女性は今日会うのは無理だが、明日なら大丈夫とのことだった。待ち合わせ場所を彼女の通勤路線である西武新宿線の新宿駅近くのプリンスホテルのロビーにし、時間は午後三時、目印は空木が赤いポロシャツを着ていくこととした。

 土曜日の午後の新宿は人でごった返していた。

 久し振りに着た赤いポロシャツは、空木には似合っているとは思えなかった。ホテルの入り口から階段を下りてロビーに出た。ジーンズに赤いポロシャツを着た若い女性が、空木を見て近づいて来た。

 「空木さんですか、島岡です」と言って会釈した。

 島岡も赤いポロシャツを着て来ていた。空木は、自分だけが赤いポロシャツを着ていくつもりで目印にと言ったが、島岡には赤いポロシャツを着てくるようにと伝わってしまったようだ。

 コーヒーラウンジに座った空木と島岡は、改めて初対面の挨拶をした。島岡は、名前は多恵と言った。

 「島岡さん、今日はわざわざ時間を作っていただきありがとうございます。おまけに赤いポロシャツのペアルックなんかになってしまって、言葉足らずですいませんでした」

空木は半袖のポロシャツの両袖を持ちながら言ったが、顔は嬉しそうだった。

「いえ、私も赤色が好きですから着て来たんです。それにおじさんとのペアルックもたまにはOKですよ。人によりますけどね」島岡はそう言ってニコッと笑顔を見せた。

 空木は明るい、いい子だと思う反面、この子のどこに敵討ちという一面が潜んでいるのか、不思議に思えた。

「それで空木さん、私に聞きたいことって何ですか。本村さんからは、支店長の身辺調査に協力してあげてほしい、とだけ言われましたけど」

 空木は仲純子との面会の時と同様、畑上という男を調べることが、ある事故の遠因に繋がっていくのではないかと思い、仲純子に会い、そして今日貴女に会いに来たと話した。

 島岡多恵は、空木の探偵の名刺に目を落として、「空木さんは探偵ですから、どなたかに調査を依頼されて調べられているのだと思います。畑上支店長のことをお話しするのは構いませんが、その前に空木さんが言われた、ある事故というのを教えていただけませんか。空木さんに調査依頼されたのは、その事故に関係がある方なんですよね」と驚くほど淡々と訊いてきた。

 空木は、この島岡多恵という若い女性は、聡明な女性だと思いながら、

「四月に発生した山岳転落事故です。マルス製薬の社員の方が亡くなった事故ですが、調査依頼者についてのお話は出来ません」と答えた。

 二人はコーヒーに口をつけた。

 島岡多恵は空木を睨みつけるように見つめていた。空木には、その眼は私から目を逸らすな、と言わんばかりの鋭さと力が感じられた。じっと見つめる多恵の目から、急に涙が溢れそしてこぼれ落ちた。空木には何が起こったのか全く分からない。呆然として、ただ驚くだけで声も出ず、多恵の涙を拭くハンカチも差し出せなかった。何が起こったのかと。

 「すみません。泣いたりして‥‥‥。その社員というのは、私の兄です」

 多恵の言葉に、空木はさっきの涙を見た時以上に驚き、言葉を失った。この女性は何を言ってるのかと。

 「兄と言っても母親違いの異母兄です。優しい兄でした‥‥」

「‥‥‥横山さんの妹さんだったんですか‥‥。それは、横山さんの奥さんはご存じだったんですか」

「私の存在は知っていたかもしれませんが、お会いしたことはありません。私がマルス製薬に派遣で勤めていることも、兄は言っていないと言っていましたから知らないと思います。兄の葬儀に私も参列しましたが、挨拶はしませんでした」多恵は寂しげに言った。

 多恵は、異母兄である横山忠から聞かされた、忠自身の生い立ちを話した。

 忠は父、島岡文俊と母、美江の間に室蘭市の母恋ぼこいで生まれた。忠が六歳の時父母は離婚し、忠は薬剤師だった母、美江に引き取られ、母型の姓である横山を選択した。父、文俊は北海道を離れ、本州へ渡った。その後再婚し、忠と九歳違いの多恵が生まれた。多恵が初めて忠と会ったのは、多恵が小学五年生の時、大学生の忠が島岡家を訪ねて来た時だった。その後何回か会ったが、忠が就職して京都に赴任してからは会うことはなかった。一昨年の四月に、忠が名古屋から東京に転勤してきて久し振りに会い、以来四、五か月に一回程度、一緒に食事をした、と話した。

 空木は、横山忠という異母兄の存在が、多恵の敵討ちという言葉の裏にあったのではないかと想像した。もしかしたら、仲純子の敵討ち、だけではない敵討ちが存在していたのではないかと。

 「‥‥島岡さん、畑上支店長のことで横山さんに、いやお兄さんに相談しませんでしたか」

「相談しました。仲さんの悔しい思いと言うか、女性全ての思いを晴らすための相談をしました」

「横山さんは何と言われましたか」

「兄は、お前は毎日顔を合わせているから何とかしたいと思うだろうし、何か出来そうに思うかも知れないが、相手は支店長だ。お前が変な動きをしたらすぐに契約解除、辞めさせられるのが落ちだからチャンスを待てと言われました」

「チャンスですか‥‥‥」

「はい、支店長は仲さんの時と同じ様に必ずお前を食事に誘う筈だ。あいつの目的はただ一つ。そこがチャンスだと言って、支店長の女癖の悪さを利用して、セクハラで訴えてあいつの出世の芽を潰す、どころか降格の憂き目に遭わせるのが最良の敵討ちになる筈だ、と言いました」

「それでお二人で、チャンスが来た時のための計画を立てられたんですか」

 空木の問いに、多恵が返答を一瞬躊躇ためらったように空木には見えた。

「島岡さん、あなたはまだこれからもマルス製薬で仕事をされる訳ですから、話したくないこともあるでしょう。無理にお話しいただかなくても結構ですよ」空木はそう言うと、ぬるくなったコーヒーを飲んだ。

「いえ、そんなことはありません。支店長の顔は見るのも嫌ですけど、派遣の仕事は一年契約ですから私はあと四か月辛抱すれば良いだけですから良いんです。でも、計画を立てて上手くいって、兄は本社にも内部通報して、これで畑上も終わったと言っていたのに、兄は亡くなって、支店長は何事も無かったかのように支店長の席に座っている。‥‥‥何故なんでしょう。空木さん、もしかしたら兄は畑上に殺されたのではないでしょうか」

多恵はそう訴えると、横山忠と立てた計画を空木に話し始めた。

 その計画は、畑上の食事の誘いを何度か断わった後、誘いを受けることにする。但し、食事の場所は帰りが便利だからと言って、吉祥寺の井之頭公園付近を指定する。食事のあと酔ったふりをしながら吉祥寺のラブホテル街をわざと歩く。畑上は欲望を押えられる人間ではないことから、多恵を必ずホテルに連れ込もうとする。そこで多恵は入口までついて行って、入る寸前に大声で「止めて下さい」と言って走って逃げる。その一部始終を、横山がスマホ動画で撮影する。という計画だった。

 空木は、この計画で畑上を社内的に潰せるのか疑問にも思えたが、単純だからこそ、それにハマった畑上の人間としての破廉恥さと、愚かさが際立つかも知れないと思った。

 「計画はうまく行って、スマホの動画撮影は出来たんですね。それはいつ頃の話か分かりませんが、その後畑上から嫌がらせのようなことは受けませんでしたか」

「それは三月の下旬でした。その後の支店長は、私を全く無視するようになりましたが、私も無視しましたからどうってことありませんでした。でもそのスマホがあれば、畑上支店長ものんびりと支店長席に座って居られない筈なのに、兄のスマホはどこにいってしまったのか、悔しいです」

 多恵の話を聞いて、空木はハッとした。もしかしたら、横山のスマホは誰かにザックから持ち去られたのではないだろうか。

 仮に、畑上がスマホの存在を知っていたとすれば、そのスマホを手に入れたいと思う一番は畑上だろう。然しながら、畑上は山に登っていないし、山登りの経験もなさそうだ。登ったのは塚水だ。塚水は畑上に弱みを握られている。横山と一緒に山に登ってスマホを奪ってこいと命じられ、奪おうとして横山を転落させてしまった。だから名乗り出られない。その塚水は偽名を使った。ということは最初から転落させるつもりだったか、死んでしまっても仕方がない。その時のために偽名を使ったのか。

 塚水が横山と一緒にテント泊をした推理はできるが、では赤城は何故テント場にいたのか。偶然に一緒のテント場に泊まっていただけで殺害されるとは思えない。赤城は塚水が横山を転落させる現場を目撃したのではないか。そして、何らかの方法で塚水の名前と所在を調べ、金を脅し取ることを考えた。その脅しの際に塚水に殺されてしまった。

この仮説に沿えば、畑上は塚水に横山のスマホを奪ってこいと命じただけで、何の責も罪にも問われないことになる。本当にそうなんだろうか。空木の推理の結論は出なかった。

 「島岡さん、支店長は横山さんのスマホの存在を知っていたんでしょうか」

空木は自分の推理のポイントはここだと思い訊いてみた。

「‥‥知らなかったと思いますが、兄が本社の営業本部に内部通報したと言っていましたから、そこから支店長に伝わることもあるかも知れません。でもそれじゃあ、コンプライアンスも何もありませんよね」

「その通りですね。横山さんは、その動画を本社に送信したんでしょうか」

「いえ、兄は送っていないと思います。最後の切り札はすぐに使ったらだめだ、と言っていましたし、私にも、お前はこの動画の存在を知らないことにしなければならない、と言って送信してくれませんでした」そう言って多恵は冷めたコーヒーを飲んだ。

「空木さん、もし支店長がスマホの存在を知っていたとしたら、兄は本当に畑上に殺されたんではないでしょうか」

 面会を終えた空木の胸中、脳裏には島岡多恵の涙と、「兄は畑上に殺された」という言葉が刻まれた。

 そして、空木の心には、仲純子、島岡多恵、の敵討ちの役に立ちたい、という思いも刻まれた。


 島岡多恵との面会を終えて、事務所兼自宅に戻った空木は、冷蔵庫から缶ビールを出し、ベランダに出て煙草に火をつけた。

 今日もベランダからは御岳山、大岳山を前面にした奥多摩の山々のスカイラインが望めた。

 空木は、畑上が横山のスマホの存在を知ったことが、全てのスタートなのではないかと考えていた。そして塚水は、そのスマホのことは、畑上から聞かされていなかったのではないだろうかと考えた。それは、畑上のその性格から社内の人間で、横山以外に弱みを握られることを嫌い、その存在を言わなかったのではないかと考えたからだ。だとすれば、偽名まで使った塚水の役割は何だろう。何を畑上から命じられたのか、それが判れば、赤城が何故七ツ石のテント場にいたのかも見えてくるように思えた。塚水の探索は、石山田たち警察にゆだねるとしても、畑上が横山のスマホの存在を知っていたのか、知ったとしたらどのように知ったのかを、空木は調べる必要があった。それが横山の未亡人、晴美の依頼に応えることになると考えた。

 空木はベランダから事務所に戻り、万永製薬仙台支店当時の後輩で、山形の『おまつ』で久し振りに飲んだ杉谷の携帯に電話をした。

 山形で杉谷に聞いていた、マルス製薬の本社にいる知り合いという人物に、連絡を取ってもらうためだった。空木は、杉谷に対しその知り合いに自分と会ってくれるように頼んでほしいと依頼した。しばらくして、杉谷から折返しの電話があった。知り合いと連絡が取れ、今からでも電話してくれれば大丈夫だということだった。その知り合いは花川といった。

 空木は、杉谷に聞いた花川という人物の携帯に電話を入れた。

 空木は、横山忠の転落事故を調べている中で、参考として営業本部の方の話を聞いておきたいと思い、連絡を入れさせてもらったが、会ってもらえるか聞いた。

 花川は、空木がどんな話を自分から聞きたいのか分からないが、明日は休日出勤する予定なので、もし日本橋本町の本社に来てもらえれば、午後一時半には退社するので会える、という返答だった。

 日曜日の神田駅界隈は閑散として人はまばらだった。

 日本橋本町のマルス製薬の本社ビル前で待ち合わせた空木と花川は、JR神田駅近くのコーヒーショップに入った。二人は改めてお互いに名刺交換し、挨拶した。

 花川は花川秀之といい、営業本部業務課課長代理の肩書で、杉谷とは仙台での高校の同級生ということだった。

 花川は、空木の名刺を見ながら、「探偵事務所の所長さんですか。私では全然お役には立たないと思いますが、杉谷からの頼みでもありましたからお会いしましたけど、横山の転落事故と本社の関連とは、どんなことをお聞きになりたいんですか」

花川はアイスコーヒーのストローを吸った。

「お聞きしたいことは、営業本部内での、コンプライアンス上の内部通報の伝達の仕組みをお聞きしたいのです。支店からの内部通報の第一報というのか、最初の通報はどこに入って、上にはどのように伝わるのか教えてください」

「‥‥内部通報のシステムですか‥‥」

 花川の疑問は当然だった。

「横山さんの事故に直接関係しているとは、思えませんが、横山さんが何らかの内部通報に関わっていた可能性がある時期で、精神的に苦しんでいなかったか、を確認したいのです」

「‥‥そうですか、分かりました。内部通報のシステムとしては、いろいろですね。内部統制室のホットラインと呼ばれるところに行く物もあれば、各部のラインから上がってくるものもあります。営業本部内の場合、内勤者では私たちの業務課に上がってくると思います。MRたちからでは営業企画に上がるのが普通だと思います。そこから本部長、営業担当常務と上がって行って、内部統制室で調査、処分されるシステムですね」

「その一連の伝達システムの中で、通報者が誰なのかが、被通報者に知られることはあるんでしょうか」

「コンプライアンス上はあってはならないことですが、伝達システムの流れの中にいる誰かが、被通報者に漏らせばあり得る話だと思います。しかし、横山の転落事故と内部通報と、どんな関係があるんですか」やはり、花川の疑問符は残ったままだった。

「それを調べているのですが、実は、ある方からの情報で、横山さんはある事を営業本部に内部通報されたようですが、それが被通報者に知れたのではないかと思われるのです。それが転落事故の遠因になっている可能性があるのではないかと思っています。それを確かめたいと思い調査しています。花川さんからお話を聞いているのもそのためです」

 花川は、空木の話を聞きながら、上目遣いに何かを考えているようだった。

 「空木さん、その横山の内部通報というのは、もしかしたら三月下旬にあったんじゃないでしょうか。横山からの通報かどうかの確信はありませんが、田神という常務から「畑上のセクハラの件を受けたのは君か」と内線電話で聞かれたことがあって、何のことでしょうと言ったら、業務じゃないのか、じゃあもういい、と言って電話が切れました。それが三月下旬のことだったのを覚えています」

「常務が、ですか‥‥」空木は呟いた。

 空木は、畑上が昔から田神という常務にへつらっていたという退職者の話を思い出した。同時に、俺には常務がついているというのが口癖だという、村西が聞いてくれた森川というマルスのMR話も頭に浮かんだ。

 「霜山本部長は公平公正な方ですが、田神常務は昔から依怙贔屓えこひいきが凄かったようです。噂ですが、畑上さんは常務に可愛がられていて、支店長になったのも常務のお陰だと言われていますし、近々執行役員になるとか、ならないとか社内では言われていますよ。もしかしたら、常務が企画課長の竹井を呼び出して通報者を聞き出したかもしれませんね。竹井は常務の茶坊主と言われている男ですからね」

 空木には、畑上、田神という二つの点が、黒い線で繋がったのが見えた。

 田神は、畑上にセクハラでお前は訴えられたと伝えた。内部通報者は横山という男で、スマホに証拠のセクハラの動画がある、ということも知らせた。始まりはここからではないだろうか。そして畑上は弱みを握っている塚水にあることを命じた、塚水は何を命じられたのか、それがわかれば赤城の役割もおぼろげながら浮かんでくるのではないか。赤城を殺害した犯人の動機も見えて来る筈だ。

 空木は花川に礼を言って帰路に就いた。

 

 その日夜、空木と石山田は平寿司で会った。

 空木は、派遣社員としてマルス製薬で働いていた仲純子の話、今現在派遣社員で働いている島岡多恵が、横山忠の異母妹であること、二人で畑上をセクハラで訴える計画を立て、内部通報までしたこと、そして今日の花川との面会で得た情報から、自分がある仮説を立てて推理している内容を石山田に話した。

 石山田は、「畑上という男は人間の皮を被った獣だな」と言って、ちらし寿司のネタをつまみにしてビールを飲んだ。

「ところで健ちゃん、その派遣の女性が何かを飲まされたかも知れないというのは、何だと思っているんだ」

「飲まされた時間と、記憶が飛んだ時間、その効果の速さと、覚める時間からすると、抗不安薬と超短時間型の眠剤、睡眠薬の合剤ではないかと思う」

「因みに、それを山で飲んだら、すぐに寝られるのかな」

「そりゃすぐに寝付けるし、寝覚めも良いと思うよ。但し、そういう薬は習慣性に気を付けないと大変なことになるよ」空木はそう言って、ビール瓶を持った時、「あ、もしかしたら」と小さな声を出した。

「巌ちゃん、もしかしたら横山は、薬を飲んだか、飲まされたか、したんじゃないだろうか。俺が横山の転落死体を見た時、まるで眠っているようだと思ったんだ」

「あり得るな、それも飲んだんじゃなくて、飲まされた。‥‥飲ませたのは塚水かも知れん」

「‥‥塚水の役目はそこまでで、理由をつけて先に下りるか、別ルートで下りろと言われていた。赤城の役目はその後だ」

「赤城の役目は、横山のスマホを奪って持ち帰るのが役割で、その依頼をスナック『風雅』で畑上から受けたんだ」石山田の声に力が入った。

「巌ちゃん、塚水を探そう」

「おう、どうしても探し出さなくちゃならない。健ちゃん、明日協力人として捜査本部に来てくれないか。塚水が身を潜めている先の目星をつけるためだ。協力を頼むよ。課長には俺から言っておくから」

 石山田の頼みを空木は了解した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る