第6話 失踪
日曜日にもかかわらず、奥多摩警察署の人の出入りは多かった。空木は受付で石山田を呼び出してもらった。石山田が小走りで出てきた。
「巌ちゃん忙しいところ申し訳ない」
空木はそう言いながら、バッグの中から晴美に借りた年賀状二通を取り出した。
「この年賀状の裏書の筆跡と、
空木は石山田に年賀状二通を手渡した。
石山田は年賀状を受け取り、年賀状に目を落とした。
「塚水康夫」か、と呟き、「わかった、特急依頼なら明日にでも結果は判ると思うから連絡する。‥‥ところで一致したらどうする、俺も飯坂も動けそうもないが‥‥」
石山田と飯坂は、死亡した赤城太の身辺、周辺の調査のため、しばらくは手が離せそうもなかった。
「そうだな、一致した時は俺が当たってみることにするよ」
空木はそう言うと、改めて筆跡鑑定を頼むと石山田に言って奥多摩署を後にした。
石山田に、自分が調べる、とは言ったものの、筆跡が一致したら石山田に動いてもらうつもりでいた空木は、どうしたものか考えなければならなかった。
横山晴美から調査依頼を受けている空木として、塚水から聞くべきことは、何故偽名を使ったのか、転落した横山忠とどこまで一緒にいたのか、朝までなのか、どこかの分岐で別れたのか。そして、転落場所で一緒でなかったのなら、何故遺族である晴美に最後に別れたのは自分だったと伝え、横山がどんな様子だったのか、何故晴美に説明に行かないのかを聞かなければならない。そして、晴美がそれを知りたいと思っていることを、伝えるつもりだ。さらには、もし転落時に一緒にいたとしたら、今からでも、警察に事情を説明しに名乗り出るべきだと進言、説得もしなければならない。
それで晴美から依頼された仕事は終わる。やはり、直接、塚水康夫に会わなければならない。
翌日の月曜日、石山田と飯坂は、四谷にあるアジリ興信所に入った。
興信所の事務所はJR四ツ谷駅から歩いて十分ほどの四谷三丁目の、新宿通りから北に入った四階建てのビルの二階にあった。
所長は、赤城に特に変わったところは見られなかったと言い、まとまったお金が入る理由はわからないが、もしかしたら赤城は競馬が好きだったので馬券が当たったか、それ位しか思いつかない。ただ、赤城は当たれば周りに言うタイプなのだが、最近そんな話は聞かなかった。山にも行っていたようだが、競馬との兼ね合いで、たまにしか行っていなかったのではないか。亡くなった時の赤城の服装は出社した時と一緒で、赤城が業務中に山に登るとはとても考えられない、と話した。
飯坂はメモを取りながら、
「赤城さんは四月二十日、二十一日と奥多摩の山に登っているのですが、所長さんはご存じでしたか」と聞いた。
「日にちまでは覚えていませんが、土、日山に行っていて馬が出来なかった、と言っていたのを覚えています。それがその辺りだったかも知れません」
所長からの聞き取りを終えて、二人は赤城の業務報告書と業務机を調べた。業務報告書は身元調査、身上調査の合間に不倫調査が入ってくるという感じだったが、珍しかったのは盗聴器の探索という業務があった位で、特段赤城の怨恨に継がるようなものはなかった。机の中も同様で、二人は業務報告書と机の中の得意先と思われる名刺のコピーを、参考品として入手し奥多摩署に戻った。
奥多摩署に戻った石山田に、空木から依頼されて鑑定に出していた筆跡鑑定の結果が届いた。
結果は一致だった。石山田は空木に鑑定結果を伝えるとともに、岡田と飯坂にも、七ツ石小屋のテント場で横山と同泊していた人間が、判明したことを伝えた。
岡田は「うーん」と小さく唸り、
「空木さん、それにしてもよくここまで調べたもんだな。しかし今はそっちに人を回せる状態じゃない。事件性がはっきりすれば別だが、困ったな」と二人に言った。
「課長、しばらくは空木に任せたらどうでしょう。彼なら、我々とのコンタクトもしっかり取ってくれますし、我々の出番も十分理解していると思います。我々から必要な情報を、空木に知らせてあげれば危険な目に遭うこともないと思います」石山田は岡田に進言した。
「‥‥‥空木さんに調査料を払う訳にもいかんが、勝手に動いてもらうということで、しばらくの間任せよう」岡田は腕組みをしながら二人に言った。
石山田から筆跡鑑定の結果を聞いた空木は、マルス製薬のホームページで東京支店中央営業所の所在地、電話番号を調べ、塚水に会うべく電話をした。
女性が電話に出た。空木は名前を名乗り、塚水康夫に取次ぎを依頼した。
「申し訳ありませんが、塚水は休みをいただいております」という返答だった。
空木はいつ出社するのか聞いた。
「今週いっぱいの休暇予定ですので、来週の月曜日には出社すると思います」という返事が返ってきた。空木は応対してくれた女性に礼を言って電話を切った。
空木は一週間の休みか、と呟いた。待つか、どうするか、空木は横山晴美から借りた塚水からの年賀状で、塚水の自宅住所と電話番号を控えていた。一週間以上の休暇となれば家族も一緒の旅行かも知れないが、自宅に電話を入れてみることにした。
塚水康夫の自宅は板橋だった。
受話器を取ったのは小学生の女の子のようだった。
「パパはいません」と言って「ママー」と呼ぶ声が電話越しに聞こえた。
しばらくして「塚水です」と塚水の妻と思われる女性が電話を替わった。空木は改めて名前を名乗り、ご主人に会いたいが、会社は休暇を取っているとのことでお宅に電話をしたが、会えないものかと、電話の趣旨を話した。
塚水の妻は「あいにく主人は、先週から急に山へ行くと言って出かけております。一週間は戻らないと言って出かけましたので、今週末までは戻らないと思います。スマホは持って出ていますので連絡は取れるかもしれませんが‥‥、お約束があったのでしょうか」と申し訳なさそうに言った。
「いえ、約束はしておりませんが、お会いしたい用件がありまして、お電話させていただきました。どちらの山に行ったかはお聞きになっていますか」空木はそれとなく聞いてみた。
「昨日主人から電話があって、山梨の塩山にいるという連絡がありましたが、またどこかに行くみたいで風呂のある山にすると言っていましたが、どこなのか私には分かりませんでした。聞いても山のことは私には分かりませんが‥‥‥」
「ご主人は車で行かれたのでしょうか」
「いえ、車は会社の車しか、うちにはありませんから電車ででかけました」
空木は、次にご主人から連絡があったら、横山忠さんのことで話が聞きたいと言って、空木という男から電話があったと伝えてほしい。その際、自分のスマホの電話番号も伝えておいてほしいと依頼し、突然電話したことの非礼を詫びて電話を終えた。
数日が経過したが、奥多摩署の捜査本部には変化はなかった。
塚水からの連絡を待つ空木にも、何も連絡はなかった。空木は、塚水の自宅に再度連絡することにした。木曜日の夜だった。
受話器を取ったのは塚水の妻だった。空木は、夜分の電話の非礼を詫びて、「ご主人からの連絡はいかがでしょうか」と尋ねた。
「昨日の昼過ぎに主人から連絡があって、先日空木さんから言付かっていたことも、空木さんの携帯の番号も伝えましたが、空木さんに連絡はなかったのでしょうか‥‥」と答える塚水の妻の声は、空木には心細そうな、不安げな声に聞こえた。
「ご主人からの連絡はまだありません。ご主人は今どちらにいるかわかりますか」
「いえ分かりません。訊きましたが、答えてくれませんでした。それに、当分の間は帰らないから会社にはお前から連絡しておいてくれと言われました。主人は一体どうしたのか、私にはどうしていいかわかりません‥‥‥」
塚水の妻は、昨日初めて電話で知ることになった、どこの誰なのかもわからない自分に、不安を訴えている。空木は、塚水の妻の動揺を電話越しとはいえ、強く感じた。
「奥さん、落ち着いてください。まず、会社に連絡して相談しましょう。ご主人は行方不明になった訳ではないと思いますから、次に連絡が入ったら奥さんは落ち着いて、ご主人と話してください。そして、ご主人に東京に戻ってくるか、今いる場所を教えてくれるようにお願いしてみることです。きっと戻って来てくれると思いますよ」と言って、少しでも落ち着くように静かに話した。
そして空木は、塚水の妻に、塚水の携帯電話の番号を聞き、次にご主人から連絡が入ったら、連絡が入ったことを自分に教えてほしいと頼んだ。
電話を切った空木は、塚水康夫はどこにいるのだろうか。そして今、何を思っているのだろうかと考えた。どこかの山で、テント泊をして過ごしているのだろう。横山忠の件で、見ず知らずの男から電話があって、連絡してくれと言っている。しかし、連絡はしてこない、したくないのは何故か、出来ないのか。そんなに後ろめたいのか。もしかしたら塚水は、横山を突き落としたのではないか。
久し振りに、空木と石山田は平寿司で会った。
石山田は、課長の岡田に空木と打合せをすると言って、開店時間の五時半に合わせて来ていた。空木は少し遅れて
「お二人さんとも久し振りですね」女将がビールとお通しを運びながら言った。
「健ちゃんも久し振りなのか、そんなに忙しかったのかい」
「忙しいわけじゃないけど、俺にも懐具合があってね、そう度々は来れないよ」
「一生懸命来ないと良子ちゃんが寂しがるよ」、石山田の声が聞こえたのか、奥の方から、「私は寂しくなんかありませーん」、と店員の坂井良子の声が響いた。
「ところで健ちゃん、塚水とはまだ連絡取れていないみたいだけど、これからどうする。しばらくこのまま連絡がくるまで待つつもりか」石山田がビールをグイっと飲んだ。
空木は、山へ行くと言って家を出た塚水と連絡がつかないこと、いつ東京へ戻るか分からないことを、石山田には既に連絡していた。
空木は、ビールを飲み、大きく溜息を吐いた。
「塚水から俺には連絡はこないだろう。塚水は、俺には会いたくないんだと思うが、山に入った日が、俺からの連絡が奥さんを経由して伝わった日よりかなり前だった、というのが腑に落ちないんだ」と、言って首を捻った。
「健ちゃん、岐阜で会った人に塚水に会うことを言わなかったか。その人が塚水に連絡したって事は、考えられないか」
「会うとは言っていないが、岐阜で寺山さんに会ったのは土曜日だから物理的にそれはあり得ない、不可能だよ。塚水は金曜の午後に出発しているんだ」
空木は鉄火巻きと烏賊刺しを二人前注文した。
「ということは、山に行く予定があって、その途中で健ちゃんからの連絡を聞いたということか」石山田は空木のグラスにビールを注いで言った。
「それが、奥さんが言うには、その山も急に行くことにしたみたいなんだ。しかも丸々一週間休んでね。おかしいと思わないか、巌ちゃん」
空木は、ビールが注がれたグラスに口をつけ、そのまま手に持ったグラスを眺めていた。
「その塚水って奴は勘が鋭いんじゃないか。危機を察知して、一足早く逃げたってことはないか」
石山田はビールを空けて、空木の焼酎ボトルを水割りセットとともに注文した。
「しかし巌ちゃん、そもそも俺から逃げる必要があるのかな。刑事でもない俺から逃げるというのは、逆に疑われることになると思うけどな。横山の転落死は、目撃者はいないんだから、何とでも言い抜けることは出来ると思うけどな」
「偽名を使ったことを追及されたら、言い逃れは出来ないと思ったか」
「‥‥それも、警察が会いに来るなら偽名がバレたかと、思うかも知れないが‥‥‥」
「健ちゃんは、塚水は別の何かから逃げているとでも思っているのかい」
「いや、それは判らないが、腑に落ちないと思っているってことさ」そう言って、空木は芋焼酎の水割りを二人分作った。
「じゃあ、しばらくはこのまま待つしかないか」石山田は空木の作った水割りを口にした。
「ああ、そうするしかないけど、塚水が行きそうな山をいくつか考えてみようかとは思っている。風呂に入れる山もたくさんあるからね」
「塚水は風呂に入れる山に行くと言っていたのか」
「そうなんだ。奥さんへの連絡で、そう言っていたって聞いているんだけど、本当にそうしているのかどうかはわからない、神のみぞ知る、だね。ところで新聞で見たけど、鋸山の死体の身元は判ったんだそうだね」
空木も烏賊刺しをつまみながら焼酎の水割りを飲んだ。
石山田は水割りグラスを持ちながら、
「それがね、偶然なんだと思うけど、赤城太という男は、横山忠がテント泊をしていた七ツ石で、単独でテント泊をしていた男なんだよ」と言った。
「‥‥そんな偶然あるものなのか」
空木は水割りグラスを額に当てながら考えていた。
「俺もこんな偶然があるのか、と思ったし気味が悪いよ」石山田はそう言って、鉄火巻きを口に放り込んだ。
「これでその赤城とか言う男がマルス製薬と繋がりでもあったら、不気味な話になるだろうけど、そんな偶然はあり得ないよな」空木は水割りを飲んだ。
「繋がりがないわけでもないんだ」そう言って、石山田は中空を見つめ始めた。
空木は驚いたように、「えっ」と小さく声を上げ、「どういうことだい、巌ちゃん」と言ってグラスを置いた。
「名刺だよ。赤城の勤め先の興信所の机の中の名刺ホルダーの中に、マルス製薬の名刺があったんだ。業務上の関連では何も出てこなかったけどね」
「名刺ね‥‥。名刺の名前は憶えているかい」
「いや、署に戻らないと分からないけど、確か、総務課長という肩書だったような気がするな」
「総務課ね‥‥、業務上の繋がりがないのに、名刺があるのというのはプライベートで会ったということだろうな。そういう名刺もたくさんあると思うけど、残してあるのは何かの役に立つと思ったからだと思う。巌ちゃん、手掛かりが特になかったんだったら、一度その総務課長とやらに会ってみたらどうだ。赤城とどこで会ったか位聞いてもいいんじゃないか」
空木は、もしそれが支店長の名刺だったら、驚くどころの話じゃなくなっていたな、と思った。
翌日の金曜日、石山田と飯坂はマルス製薬東京支店に向かった。
東京支店は日本橋本町にあってマルス製薬の本社ビルの二階と三階を使っていた。二階の受付で総務課長の山杉弘和が来るのを待った。
山杉は「山杉と申します」と挨拶し頭を下げ、二人の見せる警察証を確認して応接室へ案内した。
「警察の方が私に何の御用でしょうか」山杉は幾分緊張気味に聞いた。
「我々は、警視庁奥多摩署から伺いました。山杉さんもご存じかも知れませんが。五月十八日土曜日に奥多摩で死体が発見されました。その死体は赤城さんという興信所にお勤めの方でしたが、赤城さんはどこかで殺害されて、遺棄されたものと我々は考えています。その赤城さんの職場の名刺ホルダーの中に、名刺があった方々が赤城さんとどんな関係であったかを、聞いているところです。山杉さんには是非ご協力をお願いしたいと思います」石山田が訪問の趣旨を説明し、飯坂は手帳を取り出していた。
「先日の新聞で、興信所勤務の赤城太さんと出ているのを見て驚きました」
「山杉さんは、赤城さんとは仕事の関係でお知り合いになったんでしょうか」石山田が訊いた。
「いえ仕事では全く関係はありません。あの方は私より随分若いのですが、ある飲み屋さんで知り合いになりまして、名刺の交換をしました。何回かその店で顔を合わせることがありました。ただそれだけの関係というか、ただの知り合いですね」
「その飲み屋さんは何という名前なんでしょうか。宜しかったら教えていただけませんか」
「ええ、構いませんよ。『風雅』というスナックで歌舞伎町にあります。感じの良いママで、私はもう十年ぐらいになりますか、通っています。とは言っても週に一回も行っていませんけどね」
「赤城さんはその『風雅』にいつ頃から来るようになったんでしょう。覚えておられますか」
「覚えていますよ。二年近く前だったと思います。赤城さんは仕事で『風雅』に来たのがきっかけで通い始めたんですよ」
「仕事ですか」飯坂が訊き直した。
「ええ、盗聴器を探すとか、取り外すとかの仕事だったって聞いています」
山杉の話を聞いて石山田と飯坂は顔を見合わせた。二人は、赤城の業務報告の中の、盗聴器の探索という変わった仕事があったことを記憶していた。
「最後に山杉さん、そのスナックで、赤城さんが誰かに恨まれていたというような話は、耳にしませんでしたか」石山田が体を乗り出して、手帳を開いた。
「赤城さんは、競馬と山が好きなようでしたね。少しヤマっ気というのでしょうか、一発狙いのようなところはありましたが、人から恨まれているような話は聞きませんでしたね」
石山田と飯坂は、参考になりました、と山杉に礼を言って席を立とうとした時、山杉が二人に呼び止めるように話しかけてきた。
「あの、刑事さんに相談するような話ではないのですが、捜索願というのは、その社員が勤務している会社が最寄りの警察に出すものなのか、それとも社員の自宅の最寄りの警察に、家族が出すべきものなのか、どうなんでしょうか」
「業務中であれば、会社から出すのが妥当だと思います。例えば出張中の行方不明とかです。そうでなければご家族から出されるのが適当なのではないでしょうか。どなたか行方が分からない方がいらっしゃるんですか」飯坂が山杉の質問に答えたが、石山田はそれを聞いて、もしかしたら塚水康夫の話ではないかと想像した。
山杉は「ええ‥‥」と口ごもり、
「うちの社員が休みを取っているんですが、ご家族が心配して相談してきたものですから、どうしたものかと思いまして‥‥‥」歯切れは悪かった。
「自宅に戻らない状態で、所在が分からなかったら、あまり長く放っておくのはあまり良くないでしょう。ご家族が心配しておられるようなら、ご家族から捜索願を出されるように言ってあげたらいかがでしょう。会社としても放っておくのはまずいでしょう」
石山田が言うと、山杉はわかりましたと言って頭を下げた。
石山田と飯坂は、改めて山杉に礼を言ってマルス製薬の東京支店を後にした。
「石山田さん歌舞伎町に行きますか」飯坂が腕時計を見ながら石山田に聞いた。
「うん、行こう。それと飯坂、署に連絡して課長に、赤城の業務報告書で盗聴器の仕事のところを探してもらってくれ」
「スナックの名前の確認ですね。それと住所ですね」
飯坂は、携帯を取り出し岡田課長に連絡を入れた。
しばらくして岡田から折り返しの連絡が入った。スナック『風雅』、新宿歌舞伎町市役所通り月光ビル三階との連絡だった。
「やっぱり一緒だったですね」飯坂はそう言って、また時計を見た。
「スナックの従業員は、夕方は五時ぐらいに出てくるだろうけど、ママとなると出てくるのは七時頃かな」石山田も時計を見ながら呟いた。
時計の針はまだ午後四時半を回ったところだった。新宿に出た二人は、コーヒーショップで時間を待つことにした。
飯坂は「スナックで何か手掛かりになる話が聞けるといいですがね」と手帳を開きながら言った後、「石山田さん、赤城とマルス製薬が何らかで繋がれば、横山の転落、赤城の死、塚水の偽名が繋がると思いましたが、あの山杉という総務課長は関係なさそうですね」と言った。
「俺もマルスで繋がるかと思っていたが、関係なさそうだったな。まあ、いずれにしろスナックの聞き込みで手掛かりになる話が拾えることを期待しよう」
石山田は、飯坂も自分と同じことを考えていたのかと思った。
午後六時過ぎ、二人はコーヒーショップを出て牛丼で腹を満たしスナック『風雅』のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」の女性の声と同時に、三人の女性の視線が石山田と飯坂に向けられた。
石山田が「ママはいますか」、とカウンターの一番手前に座っている女性に声を掛けた。
「はい、私ですが」と言って、淡いピンクのノースリーブのワンピースに白の薄いカーディガンを羽織った、五十半ばと思われる綺麗な女性が、カウンターの奥の端からこちらに顔を向け、石山田たちの方に歩いてきた。
石山田と飯坂が警察証を見せると、そのママは少しだけ驚いた様子だったが、すぐに落ち着いた声で、「どんなご用件でしょう。もしかしたら赤城さんの件かしら」と、石山田たちが用件を話す前に訊いてきた。
「はい、そうです。少しだけお話を聞かせて頂きたいと思ってお邪魔しました」石山田は警察証をしまった。
「立ち話も何ですから、こちらにどうぞ」と言って、ママは奥に三つあるボックスの一つに二人を案内した。
ママは
「赤城さんがこの店に来るようになったのは、盗聴器を探す仕事がきっかけだったそうですね」石山田がママの樫本菊子に確認した。
「‥‥お調べになってここに来られたんですね。そうです、二年近く前だったと思います。前のオーナーが取り付けていたんだと思いますが、店の女の子たちが、客でもないのに店のことをよく知っている親父がいて気持ち悪いって言っていたんです。それで店のお客様から紹介していただいてアジリ興信所に調べてくれるようにお願いしたんです。その時来ていただいたのが赤城さんでした。それから、たまにお越しになられるようになりました」そう言うとママは、店の女性従業員に冷たいウーロン茶を出すように言った。
「我々は、いただく訳にはいきませんからお構いなく」と石山田は遠慮の言葉を言い、そして続けて訊いた。
「赤城さんは他のお客さんともめたり、恨まれたりするようなことはなかったでしょうか」と。
「私は聞いたことはありません。店の女の子たちからもそんな話は聞いたことはありません。あなたたち何か聞いたことある」ママは店の従業員に顔を向けて声を掛けた。
カウンターに座っていた二人の女性は首を横に振った。
「そうですか‥‥。ところで、このお店にはマルス製薬の山杉さんという方も来られているんですよね」石山田は手帳をしまいながら訊いた。
「あら、山杉さんをご存じなんですか。もう十年来のお客様です。支店長さんも時々お越しになります」
石山田と飯坂は、思わず目を合わせた。
「支店長も来られているんですか」石山田は再び手帳を取り出した。
「ええ、去年の四月から東京に来られているって仰ってましたけど、山杉さんと一緒に去年の今頃に来られたのが最初でしたか‥‥、それからはお一人で時々お越しになっていらっしゃいました。最近はあまりお顔を拝見していませんけど‥‥。そういえば畑上支店長さん、赤城さんに相談事があったようでした」
「相談事ですか‥‥‥。それはどんな事かママはご存じありませんか」
「存じ上げませんが、畑上支店長が私に、赤城さんの仕事って何、と聞いてきたんです。それで興信所のお仕事でうちもお世話になったんですと言ったら、「ふーん」と言っていましたけど。私が何でそんなこと聞くのって聞いたら、相談したいことがあるんだって言っていらしたんです。それ以上はわかりません」
「その支店長さんと赤城さんは、この店で一緒に飲んだこともあるんでしょうか」飯坂が身を乗り出すようにして訊いた。
「ええ、何度もあると思いますよ。一度はボックス席を使わせてくれって言って、お二人でお話ししていたこともありますよ」
「どんな話かわかりませんか」
「それは全然わかりません。女の子を付けましょうかって聞いたら、しばらく誰も来ないでくれって言われましたから」
「それはいつ頃の話ですか」
「あれは、四月の上旬ごろじゃなかったかと記憶していますが、畑上支店長さんに何か気になることでもおありなんですか」
「いや、そういう訳ではありません。赤城さんと親しい方と言うのがなかなか見つからないものですから、畑上さんという方が、赤城さんとどの程度の関係か気になってお聞きしただけです」飯坂はそう言うと手帳をしまった。
石山田も手帳をしまいながら、「その畑上支店長さんという方はどんな方、どんなお客ですか。お客の悪口はママ達も言えないと思いますが」と聞いた。
ママは、女性従業員の二人を見ながら、
「いいお客様ですけど、少し女性の扱いというか、女癖というか、男性は皆そうなのかも知れませんけど、刑事さんたちも男性ですからお判りでしょう」と言って微笑んだ。
ドアが開いて客らしい男性の二人連れが店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」の言葉が店内に響き、ママの樫本菊子も立ち上がった。
店が活気づく時間帯に入ったようだった。石山田と飯坂も立ち上がってママに礼を言って頭を下げた。
店を出た二人は、ネオンが眩しい歌舞伎町の雑踏を新宿駅に向かって歩いた。
交差点の信号待ちで、「飯坂、畑上という男に会いに行くぞ」、「行きましょう」二人の張りきった声に、信号待ちの通行人の何人かが振り向いた。
新宿からの帰り、石山田は平寿司に空木を誘った。時間は八時を回って、平寿司のカウンターには常連の林田と金澤が飲んでいた。
カウンターに座った二人は、石山田がビールを、空木は焼酎の水割りセットを注文した。
「驚いたよ。今日の聞き込みで、マルスの東京支店長の名前が出てきたよ」石山田はそう言ってビールの入ったグラスを一気に飲み干した。
「出てきたっていうのは、どこに出てきたんだ。赤城と関係があったという事なのか」空木もビールグラスを空にした。
「マルスの総務課長が通っていたスナックに、赤城と支店長が来ているそうだ。単なる飲み仲間、ただの知り合いかも知れないが、二人がどんな関係なのか探るための聞き込みをするっていう事だよ。スナックのママから聞いた、支店長から赤城への相談事というのが気になる。聞き出せるかは分からないが、あまり評判がよろしくないその支店長とやらの人間性を覗いてくるよ」石山田も、以前聞き取りをした派遣MRの田中勇二の話をしっかり記憶しているようだった。
「それと健ちゃん、マルスの総務課長から捜索願の話が出てきたよ。恐らく塚水の事だと思ったけど、近いうちに家族から塚水の捜索願が出されるかも知れないね」
「そうか、塚水の奥さんも心配だろうな。でも捜索願を出したからって簡単には見つかるものでもないよな。どこの山に入ったのかも見当がつかないんじゃ探しようがない」
「健ちゃん、塚水の行きそうな山の推理をするって言っていたけど、見当はついたのかい」そう言って石山田はビールをもう一本注文した。
奥のカウンターから林田の「女将、四本目のビール頂戴」の声がした。
「うん、調べたり思い出したりしているところだけど、風呂のある山小屋、山の麓の温泉小屋とか、この近辺だけでもかなりたくさんあるんだ。かなり絞って見当をつけないとどうにもならないよ」空木は焼酎の水割りを飲んだ。
「それより巌ちゃんに聞きたいんだけど、マルス製薬の女性社員で聞き込みをした人はいないかい」
「女性の聞き込みはいなかった筈だけど‥‥。聞き込みはしてないけど、横山の葬儀の時の受付の女性は確か社員だったよ。だったらどうするの」
「話が聞ける女性がいたら聞いてみたいことがあるんだ」
「支店長の女癖のことか、セクハラっていうやつだな」
「それもあるが、辞めた派遣の女子事務員のことを聞きたいのさ。女性は女性同士で案外話をしていることも多いと思ってね」
石山田は手帳を取り出して、「何て名前の女の子だったかな」と言いながらページをめくり、「あ、この子だ」と言った。
「本村という女の子だった。健ちゃんと会ってくれるように電話は入れてみるけど、来週の月曜日になるよ」
「ありがとう、来週で全然かまわないから頼むよ」空木はそう言うと、岐阜で寺山が作ってくれたリストに書かれていた、名古屋支店でマルス製薬を退職した二人のMRにも会ってみたいと思った。
翌日の土曜日、トレーニングジムから帰った空木は、岐阜で話を聞かせてくれたマルス製薬名古屋支店岐阜営業所の寺山明の携帯に電話を入れた。
目的は、三、四年前にマルス製薬名古屋支店を退職した人間、つまり空木が寺山からもらったリストにある二人の退職者の所在を知るためだった。
退職した二人は、一人が平成二十七年十二月に退職した瀬沼敬二、もう一人が平成二十八年三月に退職した藤尾弘だった。寺山はすぐには判らないが、出来るだけ早く調べてみるので、少し時間が欲しいとのことだった。空木は急な頼みを詫び、そして礼を言った。
空木はその夜、仕事を依頼してくれた小谷原幸男と平寿司で待ち合わせた。小谷原からの依頼である、小谷原の名前を
「空木さん、よく調べましたね。すごいじゃないですか。探偵として一人前ですね。ところでそいつは私と同業者なんですか」小谷原は眼鏡をかけ直しながら言った。
「ええ、どこの会社、とは言えませんが同業者でした」
「‥‥‥‥」小谷原は考え込んだ。小谷原は、誰かに恨まれていたのか、と愕然としたのかも知れなかった。空木には、そう見えた。
「小谷原さん、いずれ何故小谷原さんの名前を使ったのか、明らかになりますから、そんなに落ち込まないで下さい。飲みましょう」
二人は改めてビールで乾杯した。
「ところで小谷原さん、風呂のある山小屋を選ぶとしたら、どこの小屋を選びますか」空木は唐突に聞いた。目的は塚水の行き先の参考にするためだ。
「突然、風呂のある山小屋ですか。下山後の麓の温泉なら山ほどありますが、山小屋の風呂となると‥」小谷原は少し考えて、「‥‥槍沢ロッジですかね」と空木の質問に答えた。
「ほー、さすが小谷原さんですね、槍沢ロッジですか。槍ヶ岳から下ってきての、あの風呂は確かにいいですね。私も槍沢ロッジを選びますね」
空木はなるほどと思った。槍沢ロッジなら三十分でテント場もあるはずだと思った。
その後二人は、また今日も北海道での仕事と山の話で盛り上がった。
翌日の日曜日は雨だった。
空木はもう一人の仕事の依頼人である横山晴美に、前日の小谷原同様、亡くなった横山忠と七ツ石小屋テント場で同泊した人物が特定されたことの報告に、祖師ヶ谷大蔵駅近くのコーヒーショップで面会した。
空木は、小谷原には特定された人物の名前は伝えなかったが、晴美には昨日、石山田から返却された筆跡鑑定のための年賀状を返しながら、「この人が、ご主人と一緒にテントで泊まりました」と告げた。
晴美は、返された年賀状を手に持ちながら、「この方が‥‥」と呟いた。
空木は、この年賀状の差出人である塚水という男の行方が、分からなくなっていること、そのために会って話をすることが出来ていないため、最終報告はもう少し先になることを話した。
「空木さん、ありがとうございます。やっぱり主人は一人ではなかったんですね。でもこの方が行方不明になっているというのは、どういう事なんでしょう」晴美は年賀状を手に持ったまま真っ直ぐに空木に目を向けた。
「それは全くわかりません。この塚水という人の奥さんも心配しているようです」
空木は、コーヒーを飲み終えると、晴美との面会を終えて帰路に就いた。
事務所兼自宅に着いた夕方、空木の携帯に岐阜の寺山から連絡が入った。退職した二人のうち一人の所在が判ったとの連絡だった。それは、藤尾弘、東京都小平市津田町に在住で、今は某自動車販売会社に勤めているという連絡で、藤尾の同期が、退職後も連絡を取っていた関係で、意外と早く判ったとのことだった。ここ国分寺市からは、意外に近いところにいた。もう一人の瀬沼敬二も、判ったら連絡すると寺山は言った。
空木は、自動車販売会社なら、日曜のこの時間でも営業している筈だと思い、電話番号を調べ電話した。空木の予想通り営業しており、藤尾弘も在席していた。突然の電話にも拘わらず藤尾は空木の面会の申し込みを快く受けてくれた。空木には、好青年の印象を抱かせる電話の応対だった。
週が明けた月曜日、朝九時過ぎに石山田から携帯に連絡が入った。
「健ちゃん、マルス製薬の本村という女性が、健ちゃんに会ってくれるそうだ。了解をもらったよ。明日の朝、西新宿にある営業所に行ってくれ」
「ありがとう巌ちゃん」空木は、電話を切って、藤尾弘に会う準備をした。
空木は府中街道沿いにある自動車販売会社に藤尾を訪ねた。昼休みの時間を割いて面会してくれた藤尾に、空木は丁重にお礼を言って、近くのファミリーレストランに藤尾を誘った。
店内は混雑していたが店員に案内され二人は席に座った。空木は探偵事務所の名刺を藤尾に渡し、ある事から横山忠の転落死の調査をすることになり、調べている中でマルス製薬の名古屋支店当時の話を聞いておく必要が出てきた。ついては藤尾さんに、その当時のことをできる限り聞かせていただきたい、と訪問の趣旨を改めて話した。
「横山さんが亡くなったのは新聞で知りました。びっくりしました。名古屋では同じ営業所でしたからね。私としては、あの当時のことはあまり思い出したくはありませんが、横山さんは真面目で、目下の人間には優しい方でした。いい人は早く亡くなるんですかね」藤尾は空木から受け取った名刺を手にしながらしみじみと話した。
「藤尾さんが在籍していた当時の、中京第一営業所の様子を聞かせていただけませんか」
藤尾は一瞬中空を睨み、「一言で言ったらワンマン、パワハラ営業所でした。酷い所長でした。私もパワハラを受けて辞めました。売り上げの悪い部下には、平気で給料泥棒呼ばわりする。精算処理も気に入らない部下には、難癖をつけて遅らせたり、清算を認めなかったりしていましたね。やられるのも嫌ですけど、誰かがやられるのを見ているのは、もっと嫌だったですね。その代わり、上には思いっきり媚び
二人の前に注文したカレーが運ばれてきた。
「こんな話をしながらでは美味しくはないでしょうが、食べながらもう少しお話を聞かせて下さい。その所長と横山さんとの関係はいかがでしたか」
「横山さんは、真面目な上に、曲がったことが嫌いな方でしたから、所長と面と向かってぶつかりはしませんでしたが、かなり嫌っていましたね。いい関係ではなかったと思います。と言っても、当時の営業所で所長と良い関係の人がいたとは思えませんが」
「そうですか、そんな状態だったんですか。じゃあ、塚水さんも関係は良くなかったということですね」
「塚水さんは私が辞める半年ぐらい前に転勤したと思いますが、塚水さんのことなら辞めた瀬沼さんの方がよく知っていると思いますよ。空木さんお会いになるんでしょ」そう言うと藤尾はカレーを食べ始めた。
「ええ、お会いするつもりでいます。今、所在地などを調べてもらっているところです」空木もカレーを食べ始めた。
「瀬沼さんは、私と違ってMRを続けている筈です。聞いた話では外資系のプリンス製薬にキャリア採用で入社したと聞いていますが、今どこにいるんでしょうかね。瀬沼さんは、確か東北の出身だったと思いますが、そっち方面に赴任しているのかどうか」
「藤尾さんは、何故MRを選ばずに、今の会社を選ばれたんですか」
「MRは給料も良いですし、社会性も高くて、良い仕事だと思います。ただ私は、MRの仕事と会社の求めるものとの矛盾を感じて、ギャップを埋められなかったんです。それなら今度は、直接お客さんと接して、売り上げ評価がはっきりしているこの仕事の方が、私には向いていると思ったからなんですが、これが正解なのかどうかは分かりません。まあ、転職して結婚もしましたし、子供も生まれましたから今のところ幸せです。良かったということですね」そう言って藤尾はにっこり微笑んでカレーを頬張った。
空木は、若い藤尾も人生を「
同じ月曜日、空木への連絡を終えた石山田は、マルス製薬東京支店長の畑上に面会しようとしていた。
金のフレームのフチなし眼鏡をかけた畑上は、不機嫌そうに応接室のソファに座り、「この後会議がありますので十一時までしか時間がありませんので、お願いします」と名刺を出しながら言い、ロレックスと
石山田も飯坂も時計を見た。午前十時二十分だった。約束の十時から二十分待たされたが、畑上から何の言葉も無かった。
「では早速ですが、スナックの『風雅』でお知り合いになった赤城さんとはどういうご関係だったんでしょうか」石山田が手帳を手に聞いた。
「亡くなった赤城さんですね。可哀そうに酷いことをする人間がいるものですね。赤城さんとはスナックで知り合ったただの飲み友達です」
「立ち入ったことをお聞きしますが、畑上さんは、赤城さんを興信所に勤めていることを知った上で、何か相談事があったのではありませんか。かなり親しくされていたのではありませんか」
「刑事さん、どこでお聞きになったのか分かりませんが、確かに相談はしていました。それは、私は単身赴任でして、名古屋に残した妻の身辺調査のことで相談しましたよ。それが何か」
「その仕事は赤城さんに依頼されたんですか」
「ええ、悩みましたが、結局依頼しました」
「それは興信所を通じて依頼されているんですよね」
「私はそのつもりで依頼しましたが、興信所には行ったことはありません」
「その仕事は、赤城さんの業務報告書にはありませんでしたよ」
「それは私には分かりません。赤城さんが事務所でどう処理していたかは知りませんが、赤城さんに前金も渡して調査依頼していたのは事実です」
「領収書はお持ちですね」
「領収書は、すべての調査が終わって、調査料すべてを払うときにもらうことになっていましたからありません」
石山田は飯坂を見て、聞くことはないかと目で合図した。
「では、畑上さん、赤城さんに最後にお会いになったのはいつ頃ですか」飯坂も手帳を手にしながら訊いた。
「三月、いや四月の下旬ですかね」畑上はロレックスの腕時計を見た。
「畑上さんから見て、赤城さんと親しくしていた方に心当たりはありませんか」
畑上は腕組みをしながら考えて、「親しいかどうか分かりませんが、赤城さんは山好きでうちの会社の塚水という男と一緒に山に行くとか、行かないとかの話をしているのを聞きましたけど、どうなんでしょう」そう言うとまた腕時計を見た。
石山田と飯坂は顔を見合わせた。
「それはいつ頃の話ですか」今度は石山田が訊いた。
「四月の初旬だったと思いますよ」
石山田が「塚水さんは今‥‥」と言いかけた時、畑上が、「塚水は今、休みを取って山へ行っているらしいのですが、行方が分からないようなんです。今日あたり、うちの総務課長が社有車の点検と、奥さんとの相談に塚水の自宅に行くことになっていると思いますよ」と言って立ち上がり、ロレックスを見た。「申し訳ありません、この辺で失礼させていただきますよ」と二人を睨むように目を向けた。
石山田と飯坂は、時間を取ってくれたことの礼を言って応接室を出た。
マルス製薬の本社ビルを出たところで、後ろから「刑事さん」と二人を呼ぶ声がした。振り向くと先日聞き取りをした総務課長の山杉が、小走りで追いかけてきた。
「先日は相談に乗っていただいてありがとうございました。今日、今からその社員の奥さんと相談してきます」山杉は頭を下げながら言った。
「ご苦労様です。大変ですね。今畑上さんからお聞きしましたけど、塚水さんと言われていましたね」石山田が言うと、「そうなんです。いやー、うちの支店長が車を見て来いってうるさく言うんで行くんですけど、相談だけなら電話で済む話なんですけどもね。やけに車、車とうるさいので行ってきます」とビルの方を振り返りながら言った。
「ところで山杉さん、お宅の社員のその塚水さんという方は、『風雅』に行ったことがあるか分かりますか」
「塚水ですか、見たことはありませんし、ママからも聞いたこともありませんけど、どうしてですか」
「いえそれなら結構です。では我々はこれで失礼します」と言って、石山田と飯坂は改めてマルス製薬の本社ビルを後にした。
神田駅に向かって歩きながら石山田は、「名古屋にいる女房の浮気調査で、裏仕事を引き受けたということか、確認のしようがないな」と飯坂に話しかけた。
「どうにもならないですね。それと突然、塚水の名前が出てきて驚きましたよ」
「その通りだ。こうなると、何としても塚水を探し出さなくちゃいけないな。本当に赤城と塚水は親しかったのか、確認しなければならないな」
二人の足取りは重かった。
藤尾弘との面会を終えて、空木が事務所に戻ったのは夕方五時近かった。
貝柱の水煮の缶詰を開けて、缶ビールを飲み始めた時、空木の携帯が鳴った。画面には塚水の妻と出ていた。空木は塚水からの連絡がきたなと思った。
塚水の妻は、塚水から連絡があったが、どこにいるのか聞いても言わなかったと言った。そしてもう東京へは戻れない。無事でいるから、探さないでくれと言っていたことを空木に話した。その声は今にも泣きだしそうな声だった。捜索願については、今日会社の方が来て相談したが、もうしばらく様子を見ることにしたとのことだった。空木もそれに賛成した。空木は、ご主人には奥さんにだけは必ず連絡をくれるようにお願いするように、ということを改めて伝えて電話を切った。
電話を切った後、空木はすぐに塚水の携帯に電話をしてみた。案の定電源は切られているようだった。
空木が芋焼酎の水割りを飲み始めた時、また携帯が鳴った。今度は岐阜の寺山からだった。
寺山はもう一人の退職者の瀬沼敬二の所在地が、やっと判ったと言った。会社は藤尾が言っていた通りプリンス製薬で、MRとして山形県を担当しているとのことで、自宅の住所と会社の電話番号を寺山は空木に伝えた。
空木は、寺山に丁重に礼を言い電話を終えた。「山形か」空木は呟いて会いに行くかどうするか躊躇していた。明日、瀬沼敬二に電話をして面会してくれるようなら、久し振りの山形へ行こうと決めた。
マルス製薬の東京支店城西営業所は西新宿にあった。
営業所の入っているビルの出入り口で待っていた本村久美は、ライトグレーのパンツスーツ姿の小柄な可愛い女性だった。
空木は、「本村さんですか」、と小さく声を掛け、本村が、「はい」と会釈すると、「空木と申します。今日はありがとうございます」と頭を下げ挨拶した。
二人は、近くのコーヒーショップに入った。空木は探偵の名刺を出して、ある人からの依頼で、辞めた派遣の事務員の女性を探しているという、今日の訪問の趣旨を話した。
「去年辞めた、仲さんのことですか」
「その方は仲さんと言われるんですね」空木はメモを取った。
「ええ、仲純子さんと言います。年は私より六つ上でした」本村はアイスコーヒーを口にした。
「その仲さんの住所とか、派遣会社の会社名とか判りませんか」
「住所は確か千葉の市川だったと思いますが、細かい住所までは知りません。派遣会社は、今の派遣の島岡さんと一緒だと思いますが、会社名は知りません。でも仲さんの携帯の番号なら知っていますよ」
「携帯の電話番号は教えてはいただけませんよね」
本村久美は少し考えながら空木を見て、「そうですね、教えることは無理ですけど、空木さん、信用できそうですから、今から私が仲さんに電話してあげますよ」と言ってニコッと笑った。
空木はありがたいと思うと同時に、信用出来そうという本村久美の言葉を聞いて、本当の目的は畑上の身辺調査であること。その過程で、派遣で働いていて急に辞めたという女性に会って、話を聞きたいということを話した。
「そうだったんですか。それならなおさら協力しますよ。あいつは女性の敵です。仲さんが辞めたのもあいつの所為です。仲さんの話を是非聞いてあげて下さい」本村はそう言うと席を立って外へ出た。
しばらくして戻ってきた本村久美は、OKサインを指で作って空木に示した。
「OKでした。仲さん、会ってくれるそうですよ。空木さんの名前も伝えてありますし、仲さんの携帯番号も教えて構わないと言ってくれましたよ。今日会うのは無理だそうですけど、金曜日なら仕事は休みなので、いつでも会えるって言っていましたから、空木さん直接電話してください」そう言って顔をほころばせた。
「空木さん、そういうことならいっそ今、派遣で働いている島岡さんの話もお聞きになったらいかがですか。きっとセクハラ受けていると思いますよ。私に連絡してくれたら、会う機会を作ってあげますよ」
本村久美はそう言って自分の携帯の番号を空木に教えた。空木は座ったまま体を折って頭を下げた。
本村久美との面会を終えた空木は、久し振りに新宿中央公園を歩くことにした。平日の午前中の公園の人影はまばらだった。
公園のベンチに座った空木は、支店長でありながら本村久美に、「あいつ」と呼ばれ、女性の敵とまで言われる畑上を哀れに思えた。
「自業自得か」と呟いた空木は、取り出したスマホで、寺山から聞いたプリンス製薬の山形営業所に電話を掛けた。瀬沼敬二に電話は繋がった。瀬沼は、寺山から空木の話は聞いていると言った。寺山があらかじめ連絡を入れてくれていたようだ。空木には、寺山という人間の誠実さと、同期の横山忠への思いが伝わってきた。瀬沼は山形まで来てもらえるなら、いつでも時間を作ると言った。空木は、明日の水曜日の午後三時に、山形キャッスルホテルのロビーで会う約束をして電話を終えた。
その日の夜、空木と石山田は平寿司のカウンターに座っていた。
「巌ちゃん、マルスの支店長はどうだった」
空木はビールのグラスを石山田のグラスと合わせながら聞いた。
「傲慢で、一癖ありという感じだな。素直に信用できるタイプじゃないと思ったよ。自己中の典型だね」
「それで、赤城との関係はどうだったの」
「名古屋の自宅にいる女房の不倫調査を頼んだんだと言いやがった。裏を取ろうとしても赤城は死んでいる。死人に口なしだ。裏は取れない」
「自分のことはさて置き女房の不倫の調査か。自分がしているから、他人も同じだと思って女房も信用できないってことだろうな」
空木は、本村久美が言った女性の敵という言葉が頭に浮かんだ。
「それから、俺も飯坂も少し驚いたんだけど、畑上から唐突に塚水の名前が出てきたんだ。赤城と塚水が同じ山好きで親しいんじゃないかって言うんだが、赤城と塚水の接点がどこなのか全くわからないんだ」
聞いていた空木は、グラスのビールを空け、しばらく考え込んでいた。
空木は、「ひょっとしたら」と呟き、
「少し飛躍しているかもしれないが、畑上は塚水に警察の注意を向けさせようとしているんじゃないか。敢えて塚水の名前を出すことで、自分の身を、事件から遠いところに置こうとしているんじゃないか」
「‥‥‥しかし健ちゃん、何故スナックの客でもない塚水の名前を出さなきゃならないんだ。スナックの他の客でもいいんだし、かえってその方が自然だと思うけどな」
「畑上が、塚水と横山が、一緒に山で泊まっていることを知っていたとしたらどうだ。塚水と赤城は事実、七ツ石で泊まっている。横山の転落に、二人が関わっているかどうかはわからないが、二人に間に何かが起こって、塚水が赤城を殺してしまった、という筋書きを警察に作らせたいんじゃないか」
「それじゃあ塚水と赤城は、グルだったということになるけど、二人にはどこにも接点がないが、どこかで知り合いになっているということなのか」
「いやそうじゃないよ。畑上がグルに仕立てようとしているんだ。畑上は、横山、塚水、赤城の三人を知,っている唯一の人間だ。赤城と親しい人間の名前に、塚水の名前を出したのは、自分の身に警察が近付いたことで焦ったのか畑上のミスだ。塚水が赤城を殺したんじゃなくて、
「‥‥‥待てよ、山杉という総務課長が、塚水の自宅に置かれている社有車の点検を畑上がうるさく言うと言っていたが、もしかしたらその車が遺体の運搬に使われたとしたら‥‥」
「巌ちゃん、それだよ、その車を押えておくべきかも知れないぞ」
空木が言い終えると同時に、石山田は「課長に連絡する」と言って店の外に飛び出した。
しかし、空木は自分の立てた仮説に、いまいち納得出来ないでいた。赤城は何故殺されたのか、塚水は何故畑上に協力するのか、塚水と赤城は何故七ツ石にいたのか、横山の転落と関係あるのか。全てにおいて物的証拠も、動機も、全く手掛かりさえもなかった。
石山田が戻ってきて、「車は明日朝一番で調べに行くことになったよ。それと課長からコンビニの防犯カメラにその車が、そして塚水が映っていないか確認作業をするということだった」と言った。
「巌ちゃん、もしかしたら塚水は、畑上から行方をくらますように言われたんじゃないか。塚水を探し出すのが急務だよ」
「そうだな、塚水の自宅をマークする必要があるな。それと畑上の動きにも要注意だな」
空木も石山田も、今日は全く酔えないままだった。
翌日、空木は東京駅発十二時のつばさに乗車し山形に向かった。山形駅には十四時四十二分に着いた。
瀬沼敬二と待ち合わせた、山形キャッスルホテルは駅前の大通りを七、八分歩いたところにあった。
空木はロビーに入ると、周囲を見回した。紺のスーツ姿の長身の男が空木に近づいてきて、「空木さんですか」と、話しかけてきた。
「はい、そうです空木です。瀬沼さんですか。今日はありがとうございます」空木はそう応じて会釈した。
二人は、ラウンジに歩いた。ラウンジの人はまばらだった。座った二人は改めて名刺の交換をしてコーヒーを注文した。
「空木さん、わざわざ東京から来ていただいて、空木さんの役に立てるような話が出来ればいいのですが」瀬沼は空木の探偵の名刺を見ながら言った。
「いえいえ、見ず知らずの私に会っていただくだけでも感謝していますので、そんなに気を使わないでください。それと私は久し振りに、七日町の『おまつ』という店の、鳥つくね鍋を楽しみにしていますからお気遣い無用です」
「えー、空木さん『おまつ』をご存じなんですか」
「そうなんです。私は、実は前職はMRでして、仙台支店に赴任していた当時、何回か山形に来て『おまつ』に行っているんです」
空木の話を聞いて、瀬沼は幾分リラックスしたようだった。
「寺山さんからの連絡で、マルスの名古屋での話を聞きたい、というのは聞いているんですが、どんな話をすれば宜しんでしょう」瀬沼は丁寧な言い方で空木に聞いた。
「当時の中京第一営業所の状況や雰囲気、それと所長の言動については、藤尾さんからお聞きしましたので、瀬沼さんにお聞きしたいのは、横山さんと塚水さん、所長との関係、それと塚水さんと所長との関係について、瀬沼さんのご存じのことを、お聞かせいただきたいのです」空木はそう言うと、運ばれてきたコーヒーに口をつけた。
「横山さんは本当にいい先輩でした。塚水さんは横山さんより年齢的には上なので、横山さんは礼儀正しかったですよ。所長と横山さんは、性格的に合わなかったと思いますね。横山さんは曲がったことが嫌いな方で、浮いた話は全くゼロでしたが、所長は傲慢で権力欲というか、出世欲というか、上昇志向が強い人でしたし、女癖も問題ありました。ですから、横山さんは所長とは仕事以外での接触は避けていました。塚水さんは、私のリーダーだったんですが、ある出来事から所長に何も言わなくなりました。それまで塚水さんは、我々若いMRのために所長のパワハラと戦ってくれることもあったんですが、ある出来事からです」そう言って、瀬沼もコーヒーに口をつけた。
「そのある出来事というのを瀬沼さんはご存じなんですか」
瀬沼はラウンジの大きな窓から、外に目をやりながら、「私しか知らないことだと思いますが、私が会社を辞めようと思った原因でもあるんです」と言った。
「話していただけませんか」空木は何故か喉の渇きを感じていた。
「‥‥‥せっかく東京から来ていただいたんですから、お話ししない訳にはいかないでしょう。それは、塚水さんが経費の不正処理をして会社の金を横領してしまったんです。所長は塚水さんの不正を知りながら数か月続けさせていたようで、まとまった金額になってから塚水さんを呼び出して、口止め料を出させたようです。それ以来、塚水さんは所長の前では、蛇に睨まれた蛙だったようです」
「瀬尾さんは、どうしてそれを知ったんですか」
「塚水さんにお金を貸したんですが、異動されるときにお金を返してくれながら、俺はバカだった所長には気をつけろと言って、打ち明けてくれたんです。二人目のお子さんが生まれた後で、小遣い無しで営業日当だけでは小遣いが足りなかったようで、やってはいけないことをやってしまったが、会社を辞めることも出来なかったと悔やんでいました。私は、こんな所長のいる会社にはいられないと思って、その年の暮れに辞めて転職することに決めたんです」
空木は瀬沼の話を聞き、ラウンジに吊り下がったシャンデリアを見上げて溜息をついた。なんということだ、塚水といい、畑上といい、とても「
空木と瀬沼はコーヒーを飲み干した。時計は四時を指していた。空木は瀬沼に深々と頭を下げた。
その夜、空木は七日町にある『おまつ』に入った。二年振りの鳥つくね鍋だ。
万永製薬仙台支店の後輩、杉谷一行が先に来て待っていた。女将は元気な声で空木を迎えた。平寿司の店員の坂井良子が、予約の電話を入れてくれていたのだった。坂井良子はこの『おまつ』の女将の姪だった。この店では、餅の品川巻きから始まり、マグロのマリネ、そして鳥たたき鍋、最後に雑炊で仕上げるのだが、この雑炊が絶品だ。
杉谷は空木の三つ後輩で、空木が杉谷と会うのは二年振りだった。
「空木さん、探偵の仕事で山形へ来たんですか。何とも都合のいい仕事ですね」
「ばかなこと言うな。仕事は仕事だけど今回は自腹だぞ。ここは杉谷、
「後輩に奢ってくれはないでしょ」
「冗談だ、それより杉谷、マルス製薬の東京に知り合いはいないか」
「マルスですか‥‥、一人だけいますよ」
「東京支店か」
「いえ、本社の営業本部にいると思いますけど、何かあるんですか」
「いや、何もない、聞いただけだから気にするな」
二人はビールから焼酎の水割りに変えて飲み始めた。
空木は「おまつ」を堪能し、翌日東京への帰路に就いた。大きな収穫があった山形だったと、空木は満足していた。塚水が畑中に弱みを握られていたことを掴めた、山形だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます