第5話 奥多摩 鋸山
石山田と飯坂の聞き取り作業は、火曜日から始まり、四日経過してもこれという情報はつかめないまま五月十八日土曜日を迎えていた。
その土曜日の昼前、地域課長の岡田の電話が鳴った。
「了解しました。すぐ向かいます」岡田の声が部屋に響きいた。
「石山田、飯坂、男性の死体らしきものが、
鋸山は標高1109メートル。奥多摩駅から、愛宕神社を経由して多摩三山の一つである
「また転落ですか」飯坂が岡田に聞いた。
「おそらくそうだと思うが、状況はよくわからない。現場をよく見てきてくれ、頼む」
岡田の返答に、石山田は先月に続いての転落事故に、岡田も何かを感じているように思いながら、
「場所はどこですか」と聞いた。
「弁天橋から林道を上がった大ダワから、鋸山へ登る道の尾根道の分岐に近いところのようだ」岡田はメモを見ながら答えた。
パトカーを含む警察車両三台が赤色灯を回し、サイレンをけたたましく鳴らしながら現場に向かった。
奥多摩の山々にそぐわないサイレンの音が、山谷に響いた。
石山田たちは、二十分足らずで避難小屋とトイレがある大ダワに到着した。五分ほど遅れて救急車も到着した。大ダワには死体らしきものを発見したハイカーと思われる中年の男女が待っていた。
登山靴に履き替えた石山田たちは、二人のうちの男性に案内を依頼し、救急隊とともに尾根道の分岐を目指して登った。十分ほど登り、もうすぐ大岳山への分岐という場所の左側の急斜面の植林帯に、大柄ながっちりした体躯の男性が俯せで倒れていた。石山田と飯坂は、急斜面をよじ登り男性に近づいた。
「‥‥死んでいるな」石山田が言うと、「後頭部にかなり深い傷がありますよ。転落した時にできたものですかね」飯坂が加えた。
チノパン、半袖のポロシャツの上にパーカー、デッキシューズ姿の死体を見て、
「服装も靴も登山の格好らしくないが‥‥」石山田は言いながら、周囲を見回した。
ザックがないか見回したのだった。
死体の五メートルほど上の、杉の根元に、デイバックらしきものが見つかった。死体を登山道まで下ろした二人は、石山田が死体を確認し、飯坂はデイバックの中を調べた。デイバックの中には五百ccのペットボトルの水と、コンビニで買ったと思われるおにぎり二個と、折り畳みの財布が入っていた。おにぎりには特定のコンビニの商標が記されていて、賞味期限は金曜日の午前中となっていた。財布の中身は現金数万円と各種のカードが入っていた。
飯坂はクレジットカードに印字されているローマ字名を読んだ。『futoshi akag』聞き覚えのある名前に思えた。
死体を鑑識と共に確認していた石山田は、死体の後頭部の傷を二か所確認し、その深さからこれが致命傷だろうと思った。
その後石山田は、発見者の二人から発見時の状況を聴取した。二人は夫婦だった。発見したのは、二人のうち後を歩いていた妻の方で、鋸山からの急な下りが終わってホッとしたところで、右下方に人が倒れているのを見つけたとのことだった。自分たちの前には誰も歩いていなかったし、悲鳴のような声も聞かなかったと言った。二人は大岳山を目指していたが、今日はもう下山すると言った。
飯坂と相談した石山田は、岡田課長に転落事故とは考えにくい状況もあり、司法解剖すべきだと進言した。岡田も報告を受けた状況から同意した。
男性死体は八王子の大学病院に搬送されることとなった。遺体を乗せた救急車はサイレンを鳴らして下山していった。サイレンを聞きながら、石山田は司法解剖で死因も死亡推定時刻も判明するだろうが、事件の可能性が高いと感じていた。
石山田と飯坂たちは、再度死体があった周辺から尾根道にかけての辺りを調べたが、血痕も何も見つからなかった。
「ここから落ちたんですかね」飯坂が言って指さした。
そこは死体のあったことを示す赤いテープの上部で、杉の植林帯の間の下草が、擦り
車が止めてある大ダワに戻った飯坂は、遺留物のデイバックから財布を取り出し、中から一枚のクレジットカードを石山田に見せた。
「『futoshi akagi』覚えありませんか。七ツ石小屋に単独でテント泊をしていた赤城太と同じ読みです」
「‥‥‥‥偶然か‥‥」石山田はカードをじっと見ていた。
奥多摩署に戻った二人は、岡田課長とともに死体の司法解剖の結果を待った。
結果が奥多摩署に伝えられたのは夕方の五時過ぎだった。
死因は、後頭部の二か所のうちの一つが致命傷と思われ、頭蓋骨の陥没骨折による脳挫傷、それに伴う出血と推定された。傷は幅二十ミリ程度の鈍器によるものと推定され、もう一つの後頭部の裂傷は陥没骨折しているものの生体反応が無く、死後に石か岩のようなものでできたものと思われる。死体は死後三十六時間から四十八時間経過していることから、死亡推定時刻は一昨日から昨日、つまり木曜日の午後三時から金曜日の早朝にかけてと思われるという報告だった。
この報告を受けて、奥多摩署は殺人も視野に入れた、死体遺棄事件と判断して捜査本部を設置することなった。奥多摩署の署長を本部長として、奥多摩警察署内に、青梅署を始め近隣各署の応援を受けての、捜査本部を設置することとなった。
捜査本部は、まず死体の身元を判明させることが先決だった。
飯坂が推測した、赤城太の所在を確認することとし、以前にも依頼した厚木署に、再度赤城太の所在の確認を依頼した。テレビ、新聞のマスコミには、現段階では身元不明とし、身長、体重、容姿、推定年齢で報道してもらい、一般からの身元不明者の問い合わせに期待することとした。
さらに捜査本部は、死体が遺棄されたものだとしたら、死亡推定時刻と、コンビニのおにぎりの賞味期限から考えて、木曜日の午後三時ごろから金曜日の早朝にかけて弁天橋から林道に入って登っていく、若しくは林道から下りてきた車を見た人がいないか、またおにぎりのラベルに記されていた特定のコンビニを中心に、防犯カメラに何らかの情報となるものが、映されていないかを調べることとした。
また、死体男性の体重から考えて、一人であの急坂の山道を運ぶのはプロレスラーでも厳しいとの判断から、単独犯ではなく、複数の人間が関与していると推定されるとした。しかし、致命傷と推定された傷から推定される幅二十ミリの鈍器については、それがなんなのか、ゴルフクラブはウッド、アイアン、パターいずれも幅が合致しない。固い棒、パイプ、工具のいずれかだろうと推定されたが特定は難しかった。
木曜日の午後から空木は岐阜に入った。
寺山に面会するのは明後日の土曜日の午前十時だが、一日早く岐阜に入ったのは、久し振りに伊吹山に登りたかったからだった。初めて会う寺山との目印を、目立つであろう登山姿にしたのも、空木の単なる思い付きではなかった。
伊吹山は、標高は1377メートルと高くはないが、深田久弥の選んだ日本百名山の一つで、晴れている時の琵琶湖を見下ろす眺望は中々のもので、また花の種類も多く登山シーズンの週末や休日は、ハイカーと観光客でごった返し、頂上の茶店はどこも大繁盛している。
空木はその混雑する伊吹山にはがっかりしたものだが、名古屋に勤務していた十数年前には二、三回は登っている。今回は、平日の静かな伊吹山を期待して登ることにした。
上々の天気の中、往復五時間余りの山行を終えてホテルに戻った空木は、岐阜往復の旅費を横山晴美に請求する後ろめたさを感じながら、近くの蕎麦屋で、ビールに喉を鳴らし、かつ丼で腹を膨らませた。
翌日の土曜日、空木はチェックアウトを済ませ、約束のホテルのロビーで、登山服姿で初めて会う寺山を待った。スーツ姿、カジュアルな服装の客がほとんどの中、空木の登山服姿は予想通り目立った。
「空木さんですか。寺山です」
紺のスラックスとベージュのジャケット姿の男が、空木の前で挨拶した。
空木も自己紹介の挨拶をし、今日の面会の礼を言った。
二人はホテル内のコーヒーラウンジに入り、テーブルソファに座った。
寺山は改めて名刺を空木に差し出しながら、改めて寺山明と名前を名乗って挨拶した。
「横山の奥さんからも電話をもらいました。東京から、遠路ご苦労様です」と言って空木の労をねぎらった。
空木もスカイツリー
「横山さんの奥様から何か聞かれていますか」空木は、寺山にどこまで話していいものか考えていた。
「横山の転落事故に関連して、空木さんに調べてもらっている事があって、その関連で三、四年前の名古屋支店の人のことで空木さんに協力してほしい。具体的には三年半から四年前の人事で、名古屋支店から異動した人を教えてあげてほしいということでしたが、違いますか」
「いえ、その通りです」
寺山の話に、空木は横山忠の転落事故に関連した話であることを、寺山が承知していることに内心安堵した。
「横山は、私の同期で親友でしたし、私も横山も、山が好きでした。奥さんからの電話を聞いて、支店の何人かに連絡して空木さんの知りたいという、三年から四年前の人事異動を思い出すことに協力してもらいました。それがこれです」
寺山はパソコンで作成印刷されたリストを空木の前に差し出した。
空木は正直、驚いた。晴美からの電話での協力依頼があったとは言え、ここまでやってくれるとは思わなかった。ありがたかった。寺山という男の誠実さを見る思いだった。
そのリストは今から四年前の2015年、平成二十七年四月から、2016年、平成二十八年三月までの名古屋支店の各営業所から、他支店に異動若しくは退職した人間の名前と所属、そして異動先が書かれてあった。それは、平成二十七年四月の異動は少なく二名が、十月の異動は五名が、加えて退職者が十二月と三月に一名ずつの合計九名が名古屋支店から異動したことが判るリストだった。
空木はそのリストを手に持ちながら、寺山に自分がこれまでに考えていることを話すことにした。
横山忠が、名前を名乗り出ない誰かとテント泊をしていると思われること。その誰かを調べているが、その誰かとは以前名古屋支店にいたことがありそうで、横山さんがいた当時の名古屋支店がキーワードになっていること。加えてスマホもなくなっていることの不自然さ等、空木が考えていること、疑問に思っていることを寺山に話した。
寺山はしばらく黙って考えていたが、コーヒーを一口飲み、
「空木さんが探している人間というのは、三、四年前まで名古屋に在籍していて、テント泊の山行が出来て、横山を山に誘える人間という事ですよね。それはこのリストの中では一人しかいません」寺山はそう言ってリストの一点を見つめていた。
「寺山さんそれはどなたですか」
空木の問いに寺山はリストのある人物の上を指差した。
それは平成二十七年十月に東京支店に異動している『塚水康夫』だった。空木はその名前に覚えがあった。ザックから手帳を取り出してページをめくり「この方は東京支店の中央営業所の方ですね」と言ってリストと手帳を見合わせた。リストの異動先も東京支店とあった。
「営業所まではわかりませんでしたが、東京支店の塚水康夫に間違いありません」
寺山の言葉を聞いて空木は内心でしまったと舌打ちした。その名前は石山田と一緒に、立川でマルス製薬の森川朋彦から聞き取りをした時に聞いて、メモした名前だった。名前を
「この塚水さんという方は、名古屋支店にいた頃、横山さんと一緒に山行したことがある方なのではありませんか」
「はい、その通りです。私と横山とこの塚水さんの三人で、テント泊で山行したことがありました。その一回だけですが、空木さんどうしてそれをご存じなんですか」
「ある方との話の中で、この塚水さんの名前が出て、それらしい話を聞いたのですが、深くは聞いてはいませんでした」空木は寺山の問いに、自分の探偵としての感覚の鈍さの恥ずかしさから、あやふやに返答をした。
「‥‥‥しかし、塚水さんが横山と同泊、同行していたら助けを呼ぶでしょうし、同行していなかったとしたら最後の接触者として名乗りでるのではないでしょうか。塚水さんは僕らの二年先輩です。そんなこと考えられません」
どうにも腑に落ちないという顔つきで話す寺山の疑問に、空木も何故、塚水という男は名乗り出てこないのか、大きな疑問だった。石山田たちの持っている横山の葬儀の芳名簿にも、塚水の名前はなかったようだ。その証拠に石山田から何の連絡もなかった。本当にこの塚水という男が、横山とともに七ツ石小屋でテント泊をした男なのだろうかと考えていた。
リストを改めて見ていた空木が、
「寺山さん、塚水さんの名古屋支店での所属は中京第一営業所とありますが、これは横山さんと一緒の営業所ですよね。横山さんと塚水さんとの間で何かあったというようなことは聞いていませんか。二人の間に亀裂が入るような話は‥‥」と何かを思いついたかのように言った。
「ええ、そうです。一緒の営業所でしたが、二人の間のことは私には全くわかりません。しかし、山に一緒に行くほどですから、何もなかったのではないでしょうか。それと退職した二人も同じ営業所でした」
空木は、改めてリストを見て頷いた。頷きながら空木は、MRの時の経験から、相次いでMRが退職する営業所には何か問題があるのでは、と感じた。
「寺山さん、中京第一営業所では何かあったんですかね、私のMRの時の経験から、何か感じるんです」
寺山はコーヒーを飲み干したようだった。
「営業所が違うのではっきりしたことはわかりませんが、横山から聞いた話では、辞めていったMRは、所長に嫌気がさして辞めたというような話でした。酷いパワハラだったようです」
空木はまた所長という男が出てきたと思い、
「その所長というのはその後、名古屋の支店長になって、今は東京支店の支店長になっている方のことですか」と訊いた。
そうだと頷いた寺山に、空木は続けた。
「その、所長から支店長になったという方はどんな方だったのですか。よろしかったら寺山さんの聞いている事とか、噂とか、寺山さん自身の印象とかを話していただけませんか」と。
寺山は中空を見つめ考えているようだった。
「名前は畑上と言います。私は人の悪口を陰で言うのは好きではありませんが、上には媚び
空木は寺山から聞きたい話は、ほぼ全て聞くことができたことに礼を言い、札幌の土手登志男の話を共通の話題にしながら、昨日登ってきた伊吹山の話などもしておよそ一時間の面会を終え、寺山とともにホテルを出た。
空木は改めて寺山に礼を言って別れ、JR岐阜駅に向かって歩き出した。寺山が空木の背中に声を掛けた。
「空木さん、帰ったら横山の奥さんに宜しくお伝えください。力になってあげてください」
空木は片手を挙げて応えた。
空木がザックを担いで国分寺光町の事務所兼自宅へ戻ったのは、夕方の五時近い時間だった。
五時過ぎ、空木の携帯に石山田から連絡が入った。
「健ちゃん、また転落死体が発見された。詳しい話は出来ないけど今度は鋸山の直ぐ下だ」
石山田の声は近くに人がいるのだろう、ひそひそ声だった。
「それで、横山忠の同行者探しは少しお預けだよ。健ちゃん一人でしばらく頼むよ」
「そうかわかった、俺の方は大丈夫だよ。実は岐阜まで行ってきてかなり前進したよ。また何か変化があったら連絡するから、巌ちゃんは、そっちの方頑張れよ」
空木はそう言って携帯を切った。空木は、東京への帰路、塚水康夫に会う方法を考えていた。自分がごく普通に横山忠のことで聞きたいと言って会いに行けば良いのか、それとも手っ取り早く奥多摩署の石山田たちに
テント泊の証拠とは、どんな証拠が考えられるのか、そしてそれを、どうやって集めるのか。
空木は事務所のベランダに出て煙草を吸った。
空木の事務所兼自宅のあるマンションは、国分寺崖線の上に立っている。そのマンションの四階から見る景色が空木は好きだった。天気の良い日は丹沢の山、富士山、大岳山などの山々が一望でき、夕方の薄暮の時間には、山々のスカイラインが暗くなって見えなくなるまでベランダにいた。
そのベランダで空木は考えた。証拠として考えられるのは、まずは目撃者だが、警察の力なしに自分一人でそれを探すのは不可能だ。筆跡はどうだろうか、奥多摩署には七ツ石小屋で受け付けたテント泊の申込書の写しがあるはずだ。小谷原幸男という偽名を使った申込書だ。あとは塚水康夫本人の書いたものが手に入れば警察で照合、鑑定ができるはずだ。それなら警察証のない自分にも可能だと思った。
「じゃあどうする」空木は煙草の煙を燻らせながら呟いた。
最近の企業は製薬会社もそうだがメールでの連絡、やり取り、ワード文書での報告という風に、自筆で書いたものを提出する、保存するというのはごく稀だ。手紙があれば最高だが、そう簡単には入手できそうもない。年賀状はどうだろうか、住所宛名は印刷が圧倒的に多いが、自筆で添え書きをする人は結構いるはずだ、自分も数少ない年賀状とは言え、全て添え書きをしているくらいだ。親しい人にはかなりの確率で自筆の添え書きをしているのではないだろうか。塚水康夫は横山忠と名古屋で一緒だった。山も一度だけかも知れないが一緒に行っている。塚水は横山に年賀状を出しているのではないだろうか。
空木は横山晴美にパソコンでメールを送ることにした。
「横山晴美様
先日はありがとうございました。今日、岐阜で寺山さんにお会いして、お話を聞かせていただきました。奥様には、寺山さんにご連絡していただきありがとうございました。寺山さんからは異動された方々のリストまで作成いただき大変助かりました。お陰さまで調査の方は前進すると思います。ご報告はまた改めてお会いした上でさせていただきます。
それから、奥様にお願いしたいことがあります。それは、ご主人宛の年賀状の中に塚水康夫という方からの年賀状がないか、確認していただきたいのです。お願いできるでしょうか、宜しくお願いします」
というメール文を送信し返信を待った。
返信はなかなか来なかった。空木が焼酎の水割りを飲み始めた時にメールが着信した。
「空木様
返信が遅くなって申し訳ありません
岐阜での寺山さんとの面会お疲れ様でした。寺山さんはお元気だったでしょうか。調査が前進するとのこと、宜しくお願い致します。ご依頼の件ですが、今年と昨年の二年分がありましたので調べました。それで返信が遅れてしまいました。塚水康夫さんからの年賀状は、二年ともありました。どのようにしたらよろしいでしょうか」
晴美からの返信だった。空木は直ぐに返信し、出来るだけ早く借りたいので明日取りに行くと送ったが、晴美は、明日は朝から新宿に出かける用事があるとのことで、空木は新宿で受け取ることにした。
晴美とのメールのやり取りが終わってしばらくして空木の携帯がまた鳴った。村西良太からの電話だった。
「森川からマルスの東京支店長のこと、大体聞くこと出来たで」村西は電話も当然関西弁だ。
「お前の言う通り、かなり評判悪いな。名前は畑上和行、五十半ばぐらいだそうだ。そいつは売り上げの悪い営業所長、MRには冷たくて厳しいそうや。「俺は常務と親しい」というのが口癖のようで、人事権を口に出して従わせる感じやって言うてたぞ。それから去年の四月に来て、しばらくしてセクハラの噂が立ったらしい。派遣の女性に手を出したとか、出さないとかでな。その派遣の子は、今はおらんらしいけど、それが理由で辞めたんかどうかはわからんそうだ。それにしても酷い人間みたいやな。俺の想像やけど、支店長になれたのもその常務とやらのお陰やないかな。うちはマルスよりもまだましかも知れんな」
「酷い人間のようだな。名古屋での評判も悪かった。名古屋でもその畑上という男が嫌で辞めた社員が複数いたみたいだった。そのうち社員に殺されてもおかしくない男だな」
空木は村西に礼を言って電話を終えた。
夜のテレビニュースで、奥多摩の鋸山で身元不明の死体が発見されたことが報じられていた。
空木はニュースを見て、これが石山田の言っていた事件なのかと思ったが、ニュースは転落死体とは言わずに死体とだけ伝えているのが気になった。それにしてもほぼ一か月の間に二件の転落事故死が発生するとはどういうことだろう。奥多摩の山々には死という文字はそぐわないと、空木はテレビに向けて呟いた。
翌朝、空木はコンビニで買った新聞で、昨夜テレビニュースでも報じられた鋸山の身元不明死体の件を確認した。新聞には身元不明者の身長、体重、服装などが書かれ、心当たりの方は奥多摩署まで連絡を、とあった。
新聞を読み終えた空木は、塚水康夫から横山忠に出された年賀状を、横山晴美から借り受けに新宿へ向かった。
約束した新宿西口の「新宿の目」に、空木は約束の午前十一時の五分前に着いたが、晴美はすでに待っていた。晴美から受け取った年賀状二枚を空木は直ぐに裏返し、添え書きがあるかどうか確認した。
「あった」と小さく声をだした。晴美と別れ、新宿駅に向かう途中で空木は石山田に連絡を入れた。石山田に筆跡鑑定を依頼するためだった。
石山田は「かなり進んでいるようだな」と言って快く筆跡鑑定の依頼を引き受けてくれた。
厚木警察署に、赤城太の所在確認を依頼した奥多摩署の捜査本部では、石山田たちが厚木署からの連絡を待っていた。
捜査本部には昨夜からのテレビのニュース、新聞での報道で、午前中から何本かの問い合わせの電話が入っていた。そのうちの一つに、木曜日から連絡が取れない社員がいて、その体格、服装が新聞にでていた身元不明者とよく似ているという電話があった。それは四谷にあるアジリ興信所という興信所の所長からの問い合わせで、社員の名前は「赤城太」、住所は厚木市愛甲、まさしく今、厚木署に所在確認をしてもらっている男と住所氏名が一致していた。興信所の所長には赤城太の家族、実家への連絡を依頼するとともに八王子の大学病院に保管されている遺体の、本人確認を依頼した。
今、捜査本部は厚木署と、八王子の大学病院に向かった捜査員からの連絡を待っていた。
まず、厚木署から連絡が入った。アパートの部屋には不在、赤城太は独身で一人暮らしのため、大家に死体の顔写真を見てもらったところ赤城太であることが確認できた、とのことであった。奥多摩署の捜査員が到着次第、部屋の鍵を開けてもらうことになっているとの連絡だった。
その後、八王子の大学病院で待機中の捜査員から連絡が入り、アジリ興信所の所長が到着し、今しがた遺体が赤城太であることを確認した、との連絡が入った。これで身元不明死体は赤城太であることが判明した。
遺体の身元が判明したことを受けて、夕方からの捜査会議で岡田課長から石山田らの捜査員に、身元とともに今後の捜査方針が伝えられた。
赤城太、三十八歳、独身、四年前から現在の勤め先であるアジリ興信所で働いている。赤城は木曜日の午後に事務所を出てから連絡が途絶えていた。
今後の捜査は、事故の可能性もゼロではないが、他殺つまり殺人、死体遺棄事件を念頭に置いた両面捜査とする。赤城太の生前の写真が手に入り次第、ペットボトルの水、金曜日の午前が賞味期限のおにぎりを購入したと思われるコンビニを当たって、店内外の防犯カメラから赤城太の痕跡を見つけると同時に、木曜日の夕方から金曜日の早朝にかけて、弁天橋から林道を上り下りする車がなかったか、聞き込みをすることとされた。
石山田と飯坂の二人には、明朝からアジリ興信所に出向き、赤城太の業務内容、机の中のもの等を調べるよう指示された。
厚木の赤城太の部屋の捜索に当たった捜査員からは、部屋内は通常の生活感で使われており、異常は感じられず、持ち帰るべきものはなかったが、気になることはいくつかあった。それは、一つは現金が数十万円机の引き出しに入っていたこと、もう一つは登山用具、ザック、登山靴などが残されていること、最後にスマホが見つからなかったこと、という報告がされた。スマホについては、飯坂が遺留物であるデイバックの中には見つからず、赤城自身も身に着けていなかったことから、厚木に向かう捜査員に部屋内を確認するよう指示をしていた。
捜査会議を終えて石山田は、横山忠の転落事故の当日、同じ七ツ石のテント場にテント泊をしていた赤城が死んだことの偶然に、得体の知れない恐ろしさと、ある種の違和感を感じていた。
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