第3話   二件の依頼

 世間はゴールデンウイークに間もなく入ろうとしていたが、空木うつぎには全く関係なかった。

 依頼された仕事が無い時は、ほぼ毎日トレーニングジムに通う。そして、天気の良い日を選んでは奥多摩か、中央本線沿線の中低山の山を登る。夜は懐と相談しながら、家飲みと外飲みで過ごしている。

 今日、奥多摩の御前山ごぜんやまに登ってきた空木は、帰りに平寿司に寄った。御前山は多摩三山の一つで標高1405メートルの山である。空木はこの山が好きで年に何回か季節ごとに登っている。登山ルートはこの山もいくつかあるが、空木は奥多摩湖からの急登を登って桧原村ひのはらむら小沢に下るルートが好きだ。今日もこのルートを歩いてきた空木は、心地良い疲れの中で、店の店員の坂井良子が運んできた冷たいビールで喉を鳴らした。

 空木が鉄火巻きと烏賊刺しを酒の肴にして、ビールから芋焼酎の水割りに変えて飲み始めた頃、店の引き戸が開いて石山田が顔をのぞかせた。

 「がんちゃん久しぶりだな、何か浮かない顔しているけどどうした」空木が気遣いの声をかけた。

「‥‥そんな顔しているか」

 石山田はビールを注文して、空木の横のカウンター席に座った。

 「例の転落事故の件でなにかあったのかい。俺も捜査協力した訳で、関係者の一人として話を聞く権利があるんじゃないか」

「‥‥‥まあ、そうだな、健ちゃんには話しておく方がいいかもしれないな」

 石山田はこれまでの状況の概略を空木に説明し、七ツ石小屋のテント場に泊まったハイカーの確認をしている最中であることを話した。

「それで、気になることでもあったのか」

「それが少しおかしな具合なんだ。厚木市の単独行の男は確認が取れたんだけど、国立の男は鷹ノ巣山へは行っていないし、転落した横山忠という男も知らないって言っているんだ」

 首を捻った石山田はビールを飲み干した。

「それはしらを切っているのか、それとも誰かに名前を使われたということなのか」

 石山田は、空木の焼酎のボトルで水割りを作りながら、

 「その男は、土曜日は日帰りで中央本線の梁川やながわ駅から近場の山の倉岳山くらたけやまに登って、夕方の四時半ごろには家に帰って来た。翌日の日曜日は、一日中家にいたって言っているんだ。それはその男の奥さんも証言している。ということは、健ちゃんも言っている通り、名前を誰かに使われたということだと思う‥‥」と言った。

「ということは、七ツ石のテント場に泊まった男は別にいて、偽名を使ったということか」

「そういうことになる。さっきまでその男の家で話を聞いてきたところさ。飯坂も一緒だったけど、あいつは課長に報告しに署に戻った」

「巌ちゃんは戻らなくていいのか」

「まあ、すぐにどうのこうのというわけじゃないから俺はいいんだ、直帰だ」

 石山田は珍しく、かんぴょう巻きにわさびを入れ込んだ通称「わさかん」とカツオの刺身を注文して焼酎の水割りを口にした。二人は、正解のない問題の答えを探し出そうとしているかのような、難しい顔つきで、しばらく無言が続いた。

 店の引き戸がまた開いて常連の一人が入ってきた。この常連も近所に住む金澤という四十一歳になる男で、平寿司の主人と中学校の同級生だ。金澤は二人を見て声を掛けた。

 「お二人さん何やら難しそうな話をしているみたいだね。そんな顔していると良子ちゃんに嫌われるよ」と、軽口を言った。

「そうそう、良子ちゃんに嫌われたら生きる希望なくしちゃうかも知れないよな」

そう言った石山田に、女将おかみが「そうか私には嫌われてもいいってことなのね。料金高くなるかもよ」と笑った。

「いや、俺は女将さん大好きだからね。ホントだよ」石山田は真顔だった。

「冗談です。来ていただけるだけで十分です。でもそんなに真剣な顔で言われると、逆に傷つくわね。石山田さんだけは高くしちゃおうかしら」

「なんだよそれ」石山田は、空木の焼酎ボトルを空にしそうな勢いで水割りを作っていた。

「ところで健ちゃん、MRって他社のMRと仲良くなるものなのか。健ちゃんも長い間MRやっていたから聞きたいんだけど」

 石山田は転落した横山忠が自社の仲間ではなく、他社のMRと山のクラブのようなものを作っていたという話を空木にした。

 「それは、確かによくあることだよ。酒飲み仲間、ゴルフ仲間、釣り仲間、競馬仲間、麻雀仲間、山仲間だね。ライバル会社で口も聞かないってこともあるけど、大体のMRは割り切っていることが多いね。まあ、そうでないこともあるけどね。例えば担当している病院の採用薬をぞくにいう、ひっくり返される、つまり切り替え採用でライバルの薬が採用されたりすると、しかもそれが自社の主力製剤だったりしたら口も聞かなくなる」

「仕事上の事で、殺意が湧くこともあるのか」

「殺意ってところまではいかないと思うけど、恨みを持つことはあるかも知れない。俺じゃあないけど、昔先輩で車のタイヤ四本全部が、釘か目打ちのようなものでパンクさせられていたって、やったのはライバル社のMRに違いないって言っていたよ」

 空木は空になった焼酎のボトルを手に持ってかざし、新しいボトルを催促した。坂井良子がニコニコしながら、ありがとうございますと言って持ってきて、「あまり飲みすぎないで下さいね、空木さん」と言う。

 「俺に言わないでよ、このおっさんに言ってよ、良子ちゃん」空木は石山田を指差した。

「健ちゃん水臭いこと言うなよ。この前、署に来てくれた時の協力費があるでしょ」

 石山田が言った協力費とは、警察が事件事故の状況把握のために呼び出しをした場合、それに協力してくれた際に支払われるもので、協力費として日当五千円程度が支給される。

 「巌ちゃん、俺の日当まで召し上げるつもりなのか」笑いながら空木は返した。

「ところで巌ちゃん、その名前を使われた人は国立だって言っていたけど、ここから近いのかい」

「細かい住所は言えないけど近いな。歩いていけるよ。守秘義務ってやつで名前はもちろん、何も教えられないけどね」

「それはそうだな。その人はどんな業界の人か知らないが、名前を使った人間は同じ会社か同じ業界の可能性があるね。しかもその人が山を趣味にしていることを知っている人間だ。しかし、その人にとっては大迷惑な話になったもんだね」

「その通り、大迷惑だ。健ちゃんの言う通り同じ会社か、同じ業界の人間の可能性が高いな。まずはその辺りから調べることになるかな‥‥」 

石山田は赤い顔になりながらも真顔で言った。


 翌日、奥多摩署の課長の岡田の机の前で岡田、石山田、飯坂の三人が、顔を突き合わせて今後の方向を相談していた。

 管内で窃盗事件が新たに発生したこと、そしてゴールデンウイークに入って山岳事故も増えることが予想されることから、飯坂はこの件からしばらくは外れ、石山田一人で横山忠の同泊、同行者調査にかかることになった。調査期限は事故から一か月後の五月二十日までとした。石山田が注力すべきは小谷原幸男の名前をかたった人間を調査するという方向で決まった。この件からしばらく外れることになった飯坂だが、横山忠の遺留品であるリュックサックを、妻の晴美が引き取りにくる今日は、一緒に立ち会うこととした。

 「石山田さん一人で調べるのは大変ですよ、石山田さんの同級生の空木さんに協力してもらったらどうです。あの人探偵なんでしょ」

「そうは言っても民間人だしな。しかも無報酬で、手弁当で手伝えとは言えないよ。地道に一人で調べるさ」

「でも製薬業界のことですし、空木さんだったら協力してくれるでしょ、石山田さんも助かりますよ」

「それはそうかも知れないが、何せ民間人なんだから手伝ってもらっているなんて課長が知ったら大ごとだぞ」と、言いつつ石山田は、空木に協力してもらう腹積もりになっていた。

 この日の午後、横山晴美が遺留品のザックを引き取りに奥多摩署を訪れた。やつれていた。この一週間、今までの晴美の人生で、最も辛い時間を過ごしたはずだと石山田は感じた。雨蓋に血の付いたザックを、晴美の前に置いた飯坂が言った

 「これは、ご主人のリュックサックに間違いないですね。健康保険証の入った財布はありましたが、奥さんが仰っていたスマートフォンは見当たりませんでした」

「はい、主人のリュックサックです。‥‥‥主人のスマートフォンはどこにいったのでしょう。落としたのでしょうか」

「ご主人が発見された転落場所付近には、見当たりませんでした。どこかに落としたものと考えられます」

「‥‥‥主人は本当に一人だったのでしょうか。もう七年も八年も山登りをしている主人が、しかもとても慎重な主人が転落するとは思えないのです。誰かに突き落とされたりはしていないのでしょうか」

 葬儀の時の気丈で落ち着いた晴美とは思えない、激しい口ぶりになっていた。

 「奥さん落ち着いてください。奥さんの悔しいお気持ちは我々も痛いほどわかります。我々も同行者の有無を調べるつもりです。奥さんがご主人一人ではなかったと思っている根拠を、もう一度お話ししていただけませんか」石山田が優しい言葉遣いで言った。

 晴美は、横山忠が鷹ノ巣山に登る二,三日前に、日帰り用のザックから泊り用の四十リッターのザックに荷物を入れ直していたことから考えて、知り合いの方からの連絡で登山行程を変えたに違いないと言った。

 「その知り合いの方というのは、奥さんには全く心当たりはないのですね」飯坂が訊く。

「主人はどなたかと一緒に登山に行く時、名前まで言ってくれたことはありません。今回も知り合いとしか言っていませんでした」

「どこに泊まるということも言われなかったですか」

「言いませんでした。ただ久し振りのテント泊だよ、と言っていたのは聞きました」

 晴美は遺留品のザックを抱えた。

「‥‥‥重いんですね。これを背負って転落したら、落ちたら、やっぱり大変なことになるんですね」

 晴美の目から涙がこぼれた。そして、

「主人が転落した場所に、亡くなった場所に、行くことは出来るんでしょうか」晴美は涙も拭かずに二人を見て言った。

「我々の足でも転落現場までは二時間半以上はかかりますが、登山道そのものは女性でも問題なく登っていける道です。ただ、奥さんは登山経験もないようですし、転落場所もわからないでしょうからお一人では無理でしょう。ルートも転落場所もよくわかっている人間と一緒に行かなければ不可能ですね」石山田は言った後、空木の顔が浮かんだ。思わず「あっ」と小さな声を上げていた。

「奥さん、ご主人を最初に発見した人間が、たまたま私の知り合いで信用できる人間です。その男に頼んでみましょうか」

「主人を見つけてくれた方ですか。私うっかりしていました。見つけてくれた方にお礼の一言も言っていませんでした。大変な失礼をしていたことになりますね。ましてその方に一緒にその場所まで連れて行ってくださいとは、私は言えません。でも、せめてお礼はしたいのでお会いさせていただければ嬉しいです」

「いやいや、私の知り合いのその男は、実は探偵とやらをやっていまして、自由な時間が余るほどある上、山好きなんです。何の遠慮もいらない男ですし、私からの依頼事は断ることはありませんから大丈夫です」

 石山田はその場で携帯電話から空木に電話した。石山田からの話を空木は即座に受けた。

 石山田は晴美に、空木が依頼を引き受けたことを伝え、晴美に空木の携帯電話の番号を教えた。晴美もその場から空木の携帯に電話をした。晴美は電話を通して、空木に丁重に挨拶、お礼を言い挨拶が遅れたことを詫びた。さらに主人の転落場所まで、一緒に行ってくれることに感謝の言葉を言って、一度会いたい旨を話した。空木も、石尾根の現場まで登る日程の打ち合わせと、準備のため会っておく必要があると言い、会うこととした。晴美がゴールデンウイーク中は、京都の実家に帰省するということで、ゴールデンウイーク明けに、晴美の自宅の最寄り駅である祖師ヶ谷大蔵そしがやおおくら駅で待ち合わせることとした。

 晴美がザックを引き取り、帰った後、飯坂が石山田に言った。

 「石山田さん、七ツ石にテント泊をした人間をどうやって調べますか。空木さんの同行者だった菊永という人が、横山さんと頂上で一緒に食事をしていた人を思い出してくれれば進展すると思いますが、空木さんからその件では何か連絡はありませんか」

「この一週間は音沙汰なしだな。とは言え、思い出してくれるのをいつまでも待っている訳にはいかないし、葬儀の時の芳名簿のコピーを使って、製薬会社を回ってみようかと思う。随分たくさんあるとは思うけどな」

「そうですね。でもゴールデンウイーク中は製薬会社も休みになっていますよ、きっと」

 石山田は飯坂の言葉に頷いた。


 日本列島はゴールデンウイークに入ったが、石山田と空木には全く関係ないのだろう。二人は平寿司で飲んでいた。

 「健ちゃんも暇だね。俺以外には付き合ってくれる人はいないのかい」石山田が空木のコップにビールを注ぎながら言った。

「何言ってるんだよ、巌ちゃんだって俺以外にこのゴールデンウイークに付き合ってくれる人間なんていないだろう。俺は、今日はもう一人誘っているよ」

「へー、誘っているって誰だい、俺の知ってる人、まさか女性」

「残念でした、女性ではありません。巌ちゃんは初めて会うと思うけど、鷹ノ巣山に一緒に登った男で、菊永っていう男を呼んでいるんだ。構わないだろ」

「あーそうなのか、その人なら飯坂からも聞いているし、ここで会えるのは俺も都合がいいね」

 二人はグラスを合わせビールを口に運んだ。

 「あれ、女将さん、良子ちゃんの顔が見えないみたいだけど今日は休みなのかい」石山田が店の奥を覗きながら聞いた。

「良子ちゃんはね、山形に帰省させたのよ。ゴールデンウイークに入ってこの近辺の会社も休みになっちゃったし、山形に帰らせてあげようと思ってね」女将が答えた。

「女将さんは優しいね。でも健ちゃんは良子ちゃんがいなくて寂しいだろ」

「そう、空木さん私一人で悪かったわね」

「俺は、女将さんがいるだけで十分楽しいよ。良子ちゃんがいると明るさが増すかも知れないけどね」

「そうね、やっぱりその辺は若い子には負けるわね、さすがの私も」と笑った。

 女将が芋焼酎のボトルと水割りセットを運んできた時、店の引き戸が開き、客が入ってきた。常連客の林田と金澤が入ってきたのに続いて菊永が顔を見せた。空木は「よう」と片手を挙げた。

 「菊永はこの店は二度目だったと思うけど、横にいる石山田刑事さんに会うのは初めてだよな、紹介するよ」空木はそう言って菊永に石山田を紹介し、自分の横に座らせた。

「刑事さんですか」菊永が驚いたように言った。

呑兵衛のんべえデカですよ」奥のカウンターに座った林田が合いの手を入れた。

 空木は菊永のコップにビールを注ぎながら聞いた。

「思い出したか」

「思い出せないんですよ。自分はまだ東京に来て二年弱ですが、東京で会ったのか、名古屋だったのか。多分、東京ではないと思いますが、だとしたら、名古屋のどこで会っているのか。会話をしているなら覚えていると思いますが、きっと話はしてないのでしょうね」

「亡くなった横山さんがMRだったということは、菊永の見覚えがあるという男も、医療関係者の可能性が高いんじゃないのか」空木は鉄火巻きを口に運んだ。

「僕もその可能性が高いと思ってはいるんですが‥‥‥」

 菊永はビールを飲み干し、赤身の刺身と鉄火巻きを注文した。

 「大将も、あの人どっかで会ったことあると思うけど、思い出せないってことあるでしょ。ここは一見いちげんさんも多いしね」空木が焼酎の水割りを作りながら言って、平寿司の主人に目を向けた。

「ええ、そんなことしょっちゅうですよ。街中で挨拶してくれても誰だか思い出せない、でも挨拶だけはしておかなきゃいけないしね。そのたびに一人ひとり思い出そうなんてしてたら百年かかりますよ」

 奥のカウンターで話を聞いていた常連客の一人の林田が、ビールを口に運びながら言う。

 「俺も、ついこの前そういうことがあったよ。結局は思い出したんだけどね。人間思い込みっていうのがあるから中々思い出さなかったんだな。国立駅で見かけた人が、見たことある人でね、仕事であったことがあるはずだと思っていたら、そうじゃなくてね、うちの会社が入っているビルの共同喫煙所で顔を合わせていたんだよ。他社の人だと話もしないから、しっかりとは覚えていなかったんだね。この前、共同喫煙所に行ったときに、あーここで会った人だって思い出したんだよ」

「菊永も、林田さんの言うように、その人と会った時と同じような場面に出くわせば思い出すかも知れないよ」空木は言った。

「そうですね。でも空木さん、僕がどこで会ったか思い出しても、名前はもちろん勤務先もわからないんじゃ何の役にも立ちそうにないですよ」

「役に立たないかも知れないが、大いに役立つかも知れない。それは菊永の決めることじゃないから大丈夫、心配ご無用だ」

「その通りです。菊永さん焦らず思い出してください。私が役に立てて見せますから」石山田がそう言って焼酎の水割りを飲み干した。

 「ところで健ちゃん、ゴールデンウィーク明けから、横山さんの葬儀に参列した製薬会社の人たちの聞き取りに回ろうと思っているんだけど、結構の数があるんだ。一体、日本には製薬会社の数はいくつぐらいあるんだ」石山田が空木に訊いた。

「そうだな、合併もかなりあったけど外資も含めて今でも百四十、五十社はあるんじゃないか。そのうち大きな病院を定期的に訪問しているのは七十、八十ぐらいじゃないかな。巌ちゃん何社ぐらい回るの」

「日本にはそんなにあるのか、じゃあ俺の回る会社数は十社ぐらいだからたいしたことはない、頑張って回るよ」

「それは亡くなった横山さんに、同行者がいたかどうかの調査のためだよな」

「そうだよ、横山さんが入っていたらしい、MRの山クラブのメンバーを探して同行者に関する情報を取りたいと思っている」

「だったら、芳名簿に書かれている会社を全部回らなくてもいいんじゃないか。葬儀に出た人の中で山クラブ情報を知っている人がいたら、あとは会社というよりMRに会えばいいわけだ」

「そう都合よくいけばいいんだけどね」

「どこの会社から行くか決めているのか」

「ああ、まずは名前を使われた人の会社の京浜薬品から行こうと思っている。あ、言っちゃった」

「‥‥名前を使われたのは京浜薬品の人だったのか。‥‥まてよ、京浜薬品で国立に住んでいるのか。もしかしたら巌ちゃん、その人、俺と北海道で一緒だった友達かも知れないよ」

「えー、そうなのか。とは言っても俺の立場からは名前は言えないよ」

 空木は紙とペンを女将に頼んだ。空木は紙に「小谷原」と書いた。石山田は小さく頷き、また水割りを飲み干した。

 

 ゴールデンウィーク中に平成から令和の元号に変わった。空木は、小谷原と国立駅の南口で午後三時に待ち合わせた。

 空木と小谷原は、会社は違ったが北海道でMR仲間として知り合い、登山という同じ趣味と、当時同じ課長代理という社内での微妙な立場から親しくなり、一緒に酒を飲む友人となっていた。小谷原は空木より三歳年上の四十六歳で三年前に北海道から東京多摩地区へ転勤となっていた。空木が会社勤めを辞めて東京に戻ってきてから、二人は何回か飲んでいたがここしばらくは会っていなかった。

 昨日、空木から小谷原を誘う電話をしたが、石山田から聞いていた話は電話では口に出さなかった。待ち合わせた二人は、近くの喫茶店に入った。店は比較的空いていた。一番奥のテーブルに座って二人は珈琲を注文した。

 「空木さんからお誘いとは珍しいね」小谷原が眼鏡をはずしてハンカチで額を拭きながら言った。

「急な誘いですいません。実は電話では話さなかったんですが、ちょっと信じられない偶然があって、小谷原さんに直接会って話したいと思って電話したんですよ」

「信じられない偶然。何それ」小谷原は眼鏡をかけ直して言った。

「小谷原さん、先日、奥多摩警察署の刑事が小谷原さんのお宅に行ったでしょ。奥多摩の山にテント泊をしたのかって聞かれたのではないですか」

「え、その通りだけど、何で空木さんがそれを知っているんだい。‥‥何故」小谷原は眼鏡の奥の細い目をまん丸くさせて訊いた。

 空木は、鷹ノ巣山からの下山時に、横山忠の転落事故に遭遇したことから、警察に協力する形になったことを説明した。

 「空木さん、あの転落事故の発見者だったんだ。それで僕の名前を知った訳なのかい」

「いえ、小谷原さんの名前を知ったのは、小谷原さんのお宅に伺った奥多摩署の刑事が、実は僕の高校の同級生で親しい友達だったんです。そして僕が警察の協力者ということで、ある程度の情報は聞くことができましたから、小谷原さんが名前を使われたことを偶然知ったということなんです。小谷原さんが名前を使われたと知った時は驚きましたよ」

「そういうことだったんだ。それは驚くよね。僕はとにかく何が何やらびっくりしたのと、自分の名前が誰に、なぜ使われたのか不思議というか、腹が立つというか、あの時は頭の中は大混乱だったよ」

「そうでしょうね。訳のわからない話が突然降りかかってきた訳ですからね」

 二人は運ばれてきた珈琲に口をつけた。

 「空木さん、それにしても誰が、何故僕の名前を使ってテント泊をする必要があったんでしょうね」

「警察の刑事の質問じゃないですけど、小谷原さん、誰かに恨まれるような覚えはありませんか。という話からになるでしょうね」

「恨みですか、人に恨まれるようなことはしてこなかったつもりですけど、相手が本当のところどう思っているかは自分ではわかりませんからね」

「確かにそうですよね。何気なく言った言葉でも、言われた方は傷ついたってことはありますから。私も昔、足の骨を骨折して病院回りに苦労していた時、当時の支店長から役立たずみたいに言われた時は、この野郎って思いましたからね。特に人の上に立つ人間は、部下を思いやる言動をしないと恨まれます」

「僕もそう思います。特に我々MRは、数字の目標もありながら、MRという仕事に誇りを持ちたいと思っていますし、持っている人間もたくさんいますから、それを無視するようなことを言われると腹が立ちますよね。家族を持っている人は、家に帰れば頼られる一家の長ですし、ひょっとすると生涯の恨みに思う人もいるでしょうね」

 空木は小谷原に断って、ショートホープに火をつけた。この小さな喫茶店は全席喫煙できる店で、空木は時々この店に珈琲を飲みにきていた。

 「小谷原さんのフルネーム、住所、趣味を知っている人は社内社外でどの位いますか。小谷原さんの山好きを知ったうえで名前を使ったと思いますよ」

「‥‥‥私のフルネーム、趣味を知っている人間ですか‥‥。うちの多摩営業所の人間は全員知っていますね。東京支店では二,三十人ぐらいは知っているんじゃないかな。社外で私の趣味を知っている人間は、二十人ぐらいはいますかね。でも、又聞きで知っている人もいると思いますし、数えきれない位いますよ」

「小谷原さんももう東京に来て三年ですから、小谷原さんの趣味を知る人も多いですよね。その人たちの中で、山を趣味にしている人も多いと思いますが、名前が浮かぶ人は何人ぐらいいますか、それでかなり絞れると思いますよ」

「そうですね、山が趣味となるとそんなにはいませんね。五,六人というところですかね。でも私も、周りの人たちの趣味をどのぐらい把握しているのかと言われれば、全く自信はありませんから、もっと多いかもしれませんね」

 小谷原のカップは空になり、コップの水を口にした。

 「空木さん、警察はどのぐらいしっかり調べるんでしょう。調べて、もし私の名前を使った人間が特定できたら、私に教えてくれるものなんでしょうかね」

「小谷原さんの趣味を知っていて、かつ本人も山が趣味だという五,六人は警察も調べると思いますから、小谷原さんにはもう一度近いうちに刑事が聞き取りに来ると思いますよ。ただその調査で小谷原さんの名前を使った、つまり偽名でテント泊をした人間が判明しても、小谷原さんには伝えはしませんよ。転落事故が、事故から事件になる可能性が高くなったと、警察は判断すると思います。小谷原さんの名前をかたってでテント泊をした人間が、転落した横山さんの同行者だとしたら、転落者を放置した未必の故意、または未必の殺意を問われるでしょうからね」

「そうなんですか、私が知ることは出来ないということですか。釈然としませんし、納得いきませんね。自分で調べるしかない訳ですか。‥‥‥そうだ、空木さん会社を辞めてから今は探偵業していますよね。調査料払いますから調べてくれませんか。私の名前を使った人間が誰なのか、何故私の名前を使ったのか調べてください」

「小谷原さんの気持ちはよくわかります。調査料はともかくとして、小谷原さんの依頼を引き受けさせてもらいますよ。そうしたら、小谷原さん、改めて小谷原さんの知り合いの方たちの情報をお聞きしたいので、知り合いの方たちの中で山が趣味だと思う五,六人のリストを作ってください。いつでも良いので連絡してもらえればいただきにいきますから」

「わかりました。空木さん、今度はその打合せを兼ねて、久し振りに夜一杯やりながら話しましょう」

 その後、北海道での話、山の話をした二人が喫茶店を出たのは四時半を回っていた。

 

 小谷原から空木に連絡があったのは翌日の夜だった。リストを作ったこと、奥多摩署の刑事がまた来たことを小谷原は伝えてきた。空木は明日の夜六時に国立駅北口国分寺光町の平寿司を待ち合わせ場所に指定して電話を切った。

 空木は、小谷原を訪ねた石山田も、小谷原の周辺人物に絞るのが早道だと考えている。だとしたら石山田と協力して調べる方が、断然早く小谷原の名前をかたった人物にたどり着くだろうと思った。ただ、石山田が自分の申し出を受けるかどうかが気がかりだった。民間人の協力の申し出を受けるということは、ある程度の内密な情報が知られるというということであり、石山田の刑事としての立場がまずいことになるのではないかという恐れであった。空木は小谷原の了解を得た上で、石山田に協力の相談を持ち掛けることにした。

 平寿司で待ち合わせた空木と小谷原は店の奥の小上がりに上がった。空木は店の主人と女将に小谷原を紹介してビールと刺身の盛り合わせ、鉄火巻きを注文した。

 小谷原は、バッグから折りたたんだ紙を、空木にリストだと言って渡した。リストには六人の名前があった。それぞれに名前の他に会社名、電話番号、会社住所が記入されていたが、調べ切れなかったのか電話番号、会社住所には空欄もあった。

 「一日かけて住所録を調べたり、携帯の登録やらを確認して、この六人だろうと思いますが、この人たちが私の名前を使うとは考えられないと思います」

「この方たちの中に小谷原さんの名前を使った人がいるとは限りませんが、念のため調べるべき人たちだと思いますので承知してください。それとリストの中で電話番号、住所が空欄の部分ですが、分かりませんか」空木はリストを見ながら言った。

「会社に名刺がありますからゴールデンウィーク明けに会社にでればわかると思います。わかり次第すぐに連絡しますよ」

 二人は運ばれてきたビールをお互いのグラスに注ぎグラスを合わせた。

 「空木さん、この人たちをどういう風に調べるつもりなんですか。やっぱり電話で直接訊くんですか」

「いやいや、電話では会う約束をいただくだけです。僕がどこの誰かも分からないのに、電話でいついつ山登りしてましたかって聞いても、胡散うさん臭いと思われるのが落ちですからね。まあ、そこは会ってもらえる理由を考えなければいけないところですが、実は小谷原さんに、それについて了解いただけるか相談があるんです」

 空木は昨日小谷原に聞き取りに来た、奥多摩署の刑事が石山田だったことを確認し、その石山田と協力して小谷原の名前を騙った人物を探したいと思っていることを話した。

 「ついては、小谷原さんの了解がいただきたいのですが、いかがでしょう」

「いかがも何も私は全く構いませんが、警察が了解するんですか」

「それが分からないので、今から連絡してみようと思います」

「え、今からですか」

 ビールを空けた二人は、空木はいつもの芋焼酎の水割りを、小谷原は冷酒を注文した。

 「石山田刑事に連絡が取れまして、今からここに来るそうです」

「え、今からここに、ですか」

「大丈夫です。刑事といっても私の高校時代からの友達ですから気は遣わないでください。ただ、僕は石山田を「巌ちゃん」、石山田は私を「健ちゃん」というように呼ぶので、小谷原さんには違和感があるかも知れませんが承知しておいてください」

「分かりました。とは言えお酒の方は、今からは控えた方が良いですね」

「いえ、それも大丈夫です。あの刑事「呑兵衛刑事のんべえでか」って言われているほど酒好きですから、小谷原さんが控えても巌ちゃん、いやあの刑事が思いっきり飲みますからね、どうぞ普通に飲んでください」

 それから三十分余りして、店の玄関の引き戸が開いて石山田が顔を覗かせた。

 「健ちゃん待たせたね。お、今日はカウンターじゃないんだ」石山田はそう言いながらビールを注文して小上がりに上がった。

「巌ちゃん、小谷原さんは知っているよね。二度聞き取りで会っているでしょ」

 空木の言葉に小谷原は立ち上がって会釈した。

 「ああ、知っている、いや存じ上げています。昨日もお会いしていますね」

 石山田は小上がりに上がりながら、そう言って小谷原に座るよう促した。空木は、小谷原から渡されたリストを石山田に見せて言った。

 「巌ちゃん、小谷原さんから聞いていると思うけど、小谷原さんの周辺の人物で山登りをするという、リストのこの六人だけど、聞き取りに行くつもりなんだろう」

「このリストは健ちゃんが作ったのかい、それとも小谷原さんが作ったのかい」

「小谷原さんが作ってくれたんだ。俺に仕事として依頼してくれて、その資料なんだ」

「仕事というのは小谷原さんの名前を騙った人間の特定なのか」

 石山田の問いに空木は頷いた。

 「そうか、小谷原さんは健ちゃんのお客さんってことか。俺は、聞き取りだったけど、このリストは助かるな。このリストと葬儀の時の芳名簿で、対象人物をかなり絞り込めそうだ。ところで小谷原さんはMR仲間の山クラブってご存じですか」

 石山田はビールのグラスを一気に空にした。

 「山クラブですか。私の担当している病院では聞いたことがないですね」小谷原が答えた。

「それで巌ちゃんにお願いなんだけど、この六人の聞き取りに行く時に俺も一緒に行かせてほしいんだ。この六人の人たちの中に偽名を使った人間がいるとは限らないだろう。この人たちに俺なりに山友達に関する話を聞いてみたいのさ、どうかな」空木は焼酎の水割りを飲んだ。

「構わないよ、一緒に会おう。飯坂も今はこっちには手が回らないし、健ちゃんに一緒に行ってもらえれば俺も助かる」

 石山田はいつものように空木のボトルで水割りを作り始めた。

 「岡田課長にはどう言うつもりだい」空木が石山田に聞いた。

「そこだ、しばらくは黙っておくことにするけど、健ちゃんが聞き取りに一緒に行く時は、それらしい格好で来てくれよ。短パン、Tシャツ、サンダルなんてやめてくれよ。聞き取りされた人から苦情なんかが来たら、俺は課長から大目玉だからな」

「心配ご無用。巌ちゃんよりよっぽど刑事らしい格好で決めていくから大丈夫」

 二人の話を聞いていた小谷原が頑張ってくださいと言って頭を下げた。


 平成最後の、そして令和最初のゴールデンウィークが明けた。

 祖師ヶ谷大蔵駅の北側にあるウルトラマン像の前で立っている、グレーのスラックスパンツと白のブラウス姿の女性に、空木は、目印に約束した黒の日傘を頼りに声をかけた。

 「横山さんですか、空木です」

「はい、横山です。空木さんですか、先日はお電話で失礼しました」

 晴美は日傘をたたんで頭を下げた。二人は近くのコーヒーショップに入りアイスコーヒーを注文した。

 晴美は、改めて夫、横山忠の事故に際しての礼と、わざわざ来てくれた今日の礼を言った。空木も改めてお悔やみを述べ、「スカイツリーよろず相談探偵事務所」所長の名刺を差し出した。そして空木は、事故に関して晴美の質問に応じて発見した場所、時刻などを話した。

 晴美は空木の名刺をじっと見つめながら言った。

 「空木さん、主人が転落したところは落ちたら死んでしまうようなところなのでしょうか」

「その場所は、私も下山の際には神経を使う場所の一つですが、正直に申し上げてご主人の落ち方、打ちどころが本当に不運だったと思います」

「‥‥‥運がなかったんですか。でも私は、主人は一人ではなかったと思っています。主人が転落した時、誰かが一緒にいたと思います。その時、その人は何をしていたんでしょうか。何故助けを呼ばなかったのでしょうか」

「奥さんの思いは警察も承知しているようですが、奥さんの言われる通り、一緒に誰かがいたことがはっきりしたら、これは事故ではなく事件として捜査しなければなりません。それだけに慎重になっていると思います」

 空木はアイスコーヒーのストローを口に運びながら、鷹ノ巣山の山頂で横山と食事を一緒にしていた男の話をすべきかどうか迷っていた。

「空木さんには、主人が転落したところへ一緒に行っていただけるんでしょうか。どうしても主人の最後の場所をこの目で見ておきたいのです」

「ええ、もちろんです。そのために今日ここへ来ているんですから。日程を決めましょう」

 空木はスケジュール帳を取り出した。

 「私はいつでも大丈夫です。ただ明日は主人の会社へ挨拶と、私物の引き取りに行かなくてはならないので明後日あさって以降にしていただければ大丈夫です」

「そうですか、それじゃあ善は急げ、なのですが、木曜は天気が悪そうなので金曜日にしましょう。待ち合わせ場所と時間は、少し早いのですが朝八時に奥多摩駅でいかがでしょう」

「分かりました。大丈夫ですが、身支度というか、持って行く物はどうしましょうか」

晴美もやっとアイスコーヒーを口に運んだ。

「服装は汚れてもいい歩きやすいものを、靴はトレッキングシューズがあればベストですが、なかったらスニーカーですね。それから、その地点は標高が1500メートル程ありますから平地より気温が十度ぐらい低いので、上に羽織る薄手のヤッケのようなものを持って行ったほうが良いですね。あと、持って行く物は水と昼食を持って行くようにしてください」

 空木は煙草が吸いたかったがこの店は全席禁煙だった。

 「分かりました。実は私トレッキングシューズもウインドヤッケもあるんです。もう何年も使っていませんけど、昔一度だけ主人と山に登った時に買ったんです」

「それは良かった。それじゃあ金曜日に頑張って行きましょう」

 空木はそう言って席を立とうとしたが、鷹ノ巣山の山頂の出来事が頭から離れなかった。

 「横山さん、ご主人のザックとか、会社にあるご主人の私物はしっかり保管しておかれた方が良いと思います。もし同行者がいたとなったら必要になるかも知れませんから」

「それはもしかしたら、空木さんも主人が一人ではなかった、と思っていらっしゃると思っているということですか」

「‥‥‥はっきりとは言えませんが、私は個人的には同行者がいた可能性が高いと思っています。実は奥様には言っていなかったのですが、私と私の友人は、横山さんが、事故の前日に鷹ノ巣山の山頂で、どなたかと昼食を一緒に食べているところを見ているんです。ただ、それも偶然出会っただけかも知れませんし、どこの誰かも全くわかりませんから、はっきり同行者がいたとは決めつけることは出来ません」

「そうだったのですか、主人が誰かと食事をしていたんですか‥‥。その方は何故名乗り出てこないのでしょうか。その人が主人を突き落としたからなのではないですか」

 晴美の声が大きくなり、近くの客が二人を見るほどだった。晴美は慌てて口を押えた。

 「そうとは限りません。さっきも言ったように本当に偶然山頂で出会ってそこで別れていたとしたら、その人は翌々日の月曜まで事故は知らない訳で、知っても自分が関係者とは思っていないのであれば名乗り出ることは無いと思います。葬儀にも普通に参列しているのではないでしょうか」空木は周囲を気にしながら声を落とした。

「空木さんは探偵さんなんですよね。‥‥‥お願いがあります。警察とは別に主人の同行者を探してください。主人は不慮の転落だったのか、同行者の方は、何故何もしなかったのかを、空木さんなりに調べてください。お願いします」晴美は空木から渡された名刺を手に持って言った。

「‥‥‥分かりました。どこまでやれるかわかりませんができる限りやってみましょう」

 空木は、小谷原の名前をかたった人物を探し出すつもりでいる。そしてその答えが晴美の依頼の答えにつながるだろうと考えた。

 晴美と別れた空木の携帯に、石山田からの着信が入っていた。名前を使われた小谷原の周辺の人物六人の聞き取りを明日から始めることになった。


 しばらく続いた晴天から、天気は下り坂の予報となっていた。

 立川駅で午後二時に待ち合わせた空木と石山田は、駅構内のコーヒーショップで、今日と明日で面会する六人の段取りを打ち合わせた。六人のうち四人が立川の営業所に、二人が三鷹の営業所に所属しており、今日の面会は立川で四人から聞き取る予定としていた。

 製薬会社の営業所の入居するビルは、駐車場などの立地条件から集中する傾向があるのか、四社のうち三社が同じビルに入居しており、三社の入居ビルは駅から徒歩十分ほどのところにあった。あと一社も駅からさほど遠くはなかった。聞き取りで確認すべきことは四月二十日、土曜日から翌日の二十一日、日曜日の朝の所在を明らかにすることが第一だったが、それ以外にMRの山クラブの存在、山つながりの友人関係の聞き出しをすることだった。

 「ところで巌ちゃん、このリストの六人だけど、横山さんの葬儀の芳名帳には名前はあったのかい」空木が訊いた。

「いや一人もいなかった。担当地区が離れているから、顔見知りになることもなかったんじゃないのかと思う」

 打ち合わせを終えた二人は、コーヒーショップを出た。

 最初に面会したのは、外資系製薬会社プリンス製薬の社員の有井謙造だった。有井は四十歳で職種はMR、小谷原とは二年前に知り合ったが、小谷原がこの四月に所長に昇格し小谷原の担当がなくなってからは会っていないとのことだった。

「小谷原さんに何かあったのですか」有井が石山田に聞いた。

「小谷原さんに何かあった訳ではありません。ある山の事故の調査をしている際に小谷原さんの名前を使った人物がいることが判明しまして、それが誰なのか調べる必要が出てきたという事で、有井さんには大変失礼ですが、小谷原さんのお知り合いで山が趣味だということで伺った次第です」石山田は答えて、続けて有井に聞いた。

「有井さんは、先月の四月二十日、土曜日から日曜日にかけてはどこにいらっしゃいましたか」

有井は手帳を出した。

「先月の二十日の土曜日は、会社の講演会の仕事で、新宿の京王プラザに夜の十時ぐらいまでいて、仕事を終えて帰宅したのは十二時前でした。翌日はずっと家に居ました。家内に聞いてもらえればわかりますよ。今年になって山には登れていません」

次に刑事のように手帳にメモを取っていた空木が聞いた。

「有井さんの担当している地域には、MRの山クラブのような集まりはありますか。若しくは聞いたことはありませんか」

「山クラブはありませんし、聞いたこともないですね」

「そうですか。それからもう一つ、四月二十日の土曜日に奥多摩の山に登った、あるいは登りに行くような方は有井さんの周りにはいらっしゃいませんでしたか」空木は続けて聞いた。

「奥多摩の山に、ですか、いませんね」

 次に面会したのは大和薬品工業の社員の和田恭彦だった。和田は三十五歳のMRで、小谷原とは三年前小谷原が東京多摩地区に転勤してきてからの知り合いだが、有井同様に小谷原が所長に昇格してからは顔を数回見た程度とのことだった。石山田は有井の聞き取りの時と同様の和田の質問に答え、同様に四月二十日、土曜日から翌二十一日の和田の行動について質問した。和田は手帳を出すことなく

「その二日間はホープ製薬の由利という男と一緒に一泊二日で三ツ峠という山に登ってきました」と答えた。

空木はバッグから六人が書かれたリストを出して石山田に見せて言った。

「由利という男は、ほら次に会う予定の人だよ」

石山田はそのリストを見て頷いた。

「和田さんは、由利さんとはよく一緒に山に登られるのですか。小谷原さんと一緒に登られたこともあるんですか」石山田が聞いた。

「由利とは会社は違いますが、会社が入っているビルも一緒ですし、同じ病院を担当していて、年齢も同じ、趣味も山ということでよく一緒に登ってます。小谷原さんとは山の話は良くしていましたが、一緒に登ったことはありません」

由利はMRの山クラブに関することも、四月二十日に奥多摩の山に登ったという人物の話も知らないと答えた。

 三人目の面会者の由利史夫は、和田の会社と同じビルに入っているホープ製薬の社員で、年齢は和田と同じ三十五歳、MR職だった。小谷原と知り合ってからの年数も現在の関係も和田と同様だった。石山田は面会に来た理由を説明し、四月二十日、二十一日の由利の行動を聞き、和田と一緒に三ツ峠山荘に泊まったことを確認した。由利は、空木が質問したMRの山クラブについても奥多摩の山に四月二十日に登った人物も耳にはしていないと答えた。

「厳ちゃん、これまで聞いた三人はこれといった話はでてこなかったな。あとの三人も似たり寄ったりかも知れないな」

「うん、そうかも知れないな。とは言え残り物には何とかって言うし、明日まで頑張ろう」

 二人は、四人目の面会者である森川朋彦を訪れた。森川は亡くなった横山忠と同じ会社であるマルス製薬の多摩営業所に所属していた。営業所は和田と由利の会社が入っている同じビルだった。森川の年齢は四十三歳で、所長代理の役職を持ったMRであった。石山田は面会理由の説明に際し森川には、横山の転落事故に関連してと、はっきり伝えた上で小谷原の名前を使った人間を探していると説明した。

森川が小谷原と知り合ったのは、二年前に森川が支店内異動で都内を担当する中央営業所から多摩営業所に異動してきてからで、小谷原が所長になってからは何回か病院で見かけた程度で山の話をすることはなかった、とのことだった。そして、四月二十日、二十一日に関して森川は、両日とも中二の息子の野球の練習試合を、夫婦で見に行っていたと答えた。MRの山クラブも、奥多摩の山に登った人物の話も全く知らないと言った。

「森川さんは、横山さんが山好きだったのはご存じでしたか」空木は手帳を閉じながら聞いた。

「ええ、知っていました。横山が名古屋から転勤してきた時の支店歓迎会で趣味は山登りって言っていまして、その席で少しだけ山の話をしましたから」

空木は思わぬところで横山忠の話が聞けるかも知れないと思い質問を続けた。

「横山さんは、東京へはいつ来られたのか分かりませんが、東京へ来てから森川さんと一緒に山登りに行かれたことはありませんか」

「彼が東京へ転勤してきてから二年余りだと思いますが、私は一緒に登ったことはありません」

「ほかに横山さんと一緒に山登りをされた方をご存じないですか。心当たりのある方などを教えていただけると助かります。横山さんの山行のレベルつまり技術力、体力などを知っておきたいと思っているんです」

空木は、森川の「私は一緒に…」の「私は」に期待をかけた。

「直接本人から聞いたわけではないのですが、中央営業所にいる塚水という男が、昔名古屋にいた頃、横山と一緒に山に登ったことがあるような話をしているのを又聞きした覚えがあります。彼がもしかしたら、横山と一緒に山に行っているかも知れませんね」森川は手を顎に当てながら言った。

「中央営業所というのは、森川さんが以前いらっしゃった営業所ですね」

「ええそうです。塚水とは同じ営業所にいました」

空木はメモ帳を再び開いてメモを取った。

 石山田と空木は、森川に仕事の邪魔をしたことを詫び、聞き取りの礼を改めて言ってビルを出た。雲に覆われていた空から雨が降り出していた。薄暗くなった道路に小さな水たまりもでき始めていた。ビルの灯かりの間を、二人は立川駅に向かって歩いた。

 翌日は昨日からの雨が降り続いていた。

 空木と石山田は午後二時に三鷹駅で待ち合わせた。二人は北口を出て、東に五分ほど歩いたところにあるビルに入っている万永製薬の吉江和利という、小谷原が作ったリストの五人目の男と面会した。

 万永製薬は二年前まで空木が勤務していた会社だが、空木は吉江とは面識はなく、また空木自身からもOBだとも言えない立場が今日の空木の立場でもあり、ある意味都合が良かった。

 吉江は、年齢は三十八歳、職種はMR。小谷原との関係は、昨日立川で面会した四人と同じで、四月以降は小谷原とは会話する機会はなかったと話した。石山田は、昨日の四人と同様に面会理由を吉江に説明し、四月二十日、二十一日の所在を聞いた。吉江はスマホを操作してスケジュールを確認しているようだった。

 「その土、日は講演会の仕事もなくて、久し振りに山に行きたかったのですが、家庭サービスで土曜日は井之頭公園に家族四人で行きました。日曜日は武蔵境へショッピングにやっぱり家族で出かけました。いい季節になってきたので山にも行きたいのですが、なかなか思うようにはいかなくて」そう言って吉江は溜息をついた。

 空木がMRの山クラブと、四月二十日に奥多摩の山に登ったという人物についても知らないかと聞いた。

 「山クラブですか、知りませんね。そういうクラブがあったら楽しいですね。奥多摩の山に登ったという人ですか…。二十日に登ったかどうかはわかりませんが、新宿営業所にいる菊永というのが登ったかも知れません」

 空木は、刑事の振りをしている立場上、自分がその菊永と一緒に登ったとは言えずに、そうですかと頷くだけだった。

 最後の六人目の面会者は外資系の製薬会社でIMアイエムファーマに勤務する谷川義治だった。IMファーマは三鷹駅の南口から七、八分のところのビルに入っていた。谷川の年齢は三十二歳、職種は今まで会った五人同様MRで、小谷原との関係も今までの五人と同様だった。石山田は他の面会者と同様に説明し、四月二十日土曜日の谷川自身の所在を聞いた。石山田の言葉には期待感は全く感じられなかった。谷川は、しばらく考えた後

「ああ、四月の二十日、二十一日の二日間は実家の静岡に帰っていました。結婚式の打ち合わせだったんです」と言った。

石山田は念のためと断って、谷川の実家の住所、電話番号を控えた。空木がこれまでの五人同様にMRの山クラブについて、奥多摩の山に登った人物の心当たりについて聞いた。空木の言葉にも力ははいっていなかった。

「MRの山クラブは聞いたことはないです…」谷川は、中空のどこを見るとはなく見つめながら言った。何か考えているようだった。

「奥多摩の山に登った人間ですか…」

谷川はこめかみに親指を当てながら考え続けているようだったが、小さくあっと声を上げた。

「刑事さんたち、四月の山の事故に関連した聞き取りって言われていましたよね。それは横山さんという方が亡くなられた事故のことを言っておられるのですよね」

「そうです、その事故に関連して小谷原さんの名前を使った人物を調べているところです」

石山田が何で今頃そんなことを聞くのかという顔で言った。

「小谷原さんの名前に意識がいって、横山という名前が頭に全く思い浮かばなかったのですが、私の後輩があの転落事故の前日に鷹ノ巣山で横山さんという方に会ったと言っていました」

石山田と空木は顔を見合わせた。

「何ですって、鷹ノ巣山で横山さんに会ったと言っているんですか」石山田が声を上げた。

「その横山さんに会われた方はなんというお名前ですか、今お会いできますか」

石山田の声が弾み、色めき立った。

「名前は田中勇二と言いますが、今日明日と休暇を取っていますから会社にはいません」

谷川の声は、石山田の声の勢いに押されたのか弱弱しい声に聞こえた。

「田中が事故に関係していることはないと思いますよ。あの事故は二十一日の日曜日だったはずですが、彼は土曜日一日で、日帰りで登ったはずですからね」

谷川が二人を見て言った。

 空木もメモを取りながら、田中勇二が土、日を含めた四連休を取ってどこに行ったのか知っているか聞いた。

 「友達の結婚式で名古屋に行くが、ゴールデンウィークに帰っていないのでついでに実家に帰ってくるって言っていましたけど」

 空木と石山田は小さな声で来週にしようと話した。

 「田中さんが来週会社に出てこられたら大変申し訳ありませんが、私のところまで連絡してくれるように言って下さい。必ずお願いします」

石山田はそう言って名刺を渡した。

 谷川義治との面会を終えた二人の顔には小さな満足感が浮かんでいた。

 「巌ちゃん、一歩前進したかも知れないな」

「そう思いたいな。健ちゃん一杯やっていくかい」

「いや、俺は明日横山さんの奥さんと朝早くから奥多摩駅で待ち合わせて、鷹ノ巣山の転落事故現場へ登らなくちゃいけないから今日は止めておくよ」

「そうか、そうだったな。俺も一緒に行きたいところだけど、報告書もいくつか書かなきゃいけないし、これからの方向性を課長ともする必要があるんで健ちゃんに任せるよ。でも、朝は奥多摩駅まで迎えに行くよ」

 二人は雨が上がり、西の空が明るくなった夕暮れの雑踏を駅に向かって歩いた。

 

 翌日は天気予報の予報通り快晴だった。

 空木は奥多摩駅に七時三十二分着の電車で横山晴美と待ち合わせた奥多摩駅に到着した。晴美も同じ電車に乗っていたようで同じ時刻に到着した。「おはようございます」とお互いに挨拶している時、大柄なずんぐりした男が近付いてきた。昨日の約束通り石山田が迎えに来た。

 「健ちゃん、横山さんおはようございます。私はご一緒できませんので林道の登山口まで送らせてもらいます」

「巌ちゃんありがとう。四時間近くかかるところが一時間弱短縮できるよ」

空木はニコニコしながら言った。晴美も横で頭を下げていた。

 二人は石山田の運転する奥多摩署の車で、氷川の商店街の中ほどから上がっていく林道を、石尾根ルートの登山口に向かった。奥多摩の山々は、昨日の雨で普段に増して清々(すがすが)しさが増し、五月の新緑が目にも鮮やかに輝いている。秋の紅葉に勝るとも劣らない新緑の季節だ。晴美は車窓から見る景色に「きれい」とつぶやいていた。

 登山口で下車した空木は、石山田とおよその下山の時間を打ち合わせた後、登山口を空木が先頭になって晴美とともに登り始めた。

 登山道は次第に急坂となって、鬱蒼うっそうとした杉とヒノキの植林帯からミズナラなどの自然林に変わり、それが繰り返されていく。

 空木は、晴美の足を気遣いながら三十分に一回のペースで休憩を入れた。標高1450メートルの六ツ石山までの急坂の連続は晴美にはきついようだった。

 「奥さん、急な登りできついと思いますが、もうすぐ緩やかになりますから頑張りましょう。以前、ご主人と一回だけ一緒に登ったという山はどこの山でしたか。やはりきつかったですか」

空木は晴美の気を紛らわせようと話しかけた。

「北海道の樽前たるまえ山という山でしたが、こんなにきつくはなかったと思います。でも頑張ります」晴美は息を切らせながら言った。

「北海道の樽前山ですか。私も北海道に勤務しているころに登りましたよ。でも何故北海道の山に登ったんですか」

空木は振り返らずに前を向いたままだった。

「主人の出身が北海道の室蘭なんです。それで主人の実家に一緒に帰った時に、間近に溶岩ドームが見られる山があるから私に見せたいって言って、連れて行ってくれたんです。トレッキングシューズもその時のものなんです」

 晴美の話を聞いた空木は、今、晴美の前を歩いているのが自分ではなく亡くなった横山忠だったら、と晴美が思っているのではないかと想像した。切ない思いが込み上げて、空木は後ろを振り返った。晴美の足取りはゆっくりだったがしっかりしていると空木は安心した。

 登山口から二時間余り、四回休憩を取ってようやく六ツ石山の肩に着いた。

 「躑躅つつじがきれい」晴美がピンク色の山躑躅に声を上げた。

 そこから一時間ほど歩いた時、空木が立ち止まった。

 「奥さんここです。着きました」

 目前にはガレた小岩が点在する急坂があった。

 「ここなのですか、主人が死んだのは。急ですね、やっぱり落ちたら死ぬかもしれませんね。でも、慎重な主人が何故落ちたんでしょう…」

 晴美は急坂を見上げ、デイバックを下ろした。そして中から花と線香を取り出した。

 「主人はチューリップの花が好きでした。空木さんもお線香あげてくださいますか。‥‥あ、火を持ってくるのを忘れてしまいました。どうしましょう」

「大丈夫です。私、煙草を吸いますからライターは常に持ち歩いています」

 空木は線香に火をつけて晴美に渡した。二人は小さく盛り土した上に線香を刺し、手を合わせた。しばらくして空木が目を開けても、晴美はまだ瞼を閉じ、手を合わせたままだった。その横顔から一筋また一筋と涙がこぼれ落ちた。目を開けた晴美は腰を下ろした姿のまま空木に言った。

 「生きていてほしかった。あの人はとっても優しくて、私たちには子供ができませんでしたが、子供ができなくても、二人だからこそ楽しめることもたくさんあるからって、言ってくれたんです。私たち結婚して七年経ちましたが、もっともっと一緒にいたかった……」

晴美の目から涙が溢れた。

「‥‥‥奥さんにかける言葉はありませんが、私の好きな言葉に「く生きる」という言葉があります。それは自分に与えられた環境で精一杯努力して頑張って、そして楽しんで生きていくという意味だと思っています。ご主人も三十五年の人生でしたが能く生きられたのではないでしょうか。奥さんはご主人にも増して、これからもっともっとく生きなければならないと思います。ご主人の分まで人生を楽しむこともく生きることだと私は思います。辛いでしょうが前を向いてください」

 空木は込み上げて来るものをグッと抑えながら、今の自分が言える精一杯の言葉で返した。

 平静を取り戻した晴美はあたりを見回して、この辺りに主人のスマホが落ちているのではないかと言った。

「空木さん、主人はスマホを手に持って歩いていたのでしょうか。こんな急な下りを慎重な主人がスマホを手に持って歩くなんて考えられません。もしかしたら誰かが持っていったのではないでしょうか」

「誰かが持って行ったとしても、ロックが掛かっているスマホは使えませんし何の役にも立たないでしょう」

 空木はそう言いながらも、もし同行者がいて自分の写真を撮られていたら、もしスマホの着信履歴に自分の名前があったらと考えれば、ザックからスマホを取り出して持ち去るか、山中に捨てるか、するのではないかと思った。

 その場に三、四十分ほどいた空木と晴美は、鷹ノ巣山を目指してまた登り始めた。

 尾根に出て防火林帯から見えた富士山に、晴美は声を上げた。

 最後の急坂を登り鷹ノ巣山の頂上に着いたのは十二時三十分ごろ、登山口から四時間以上たっていた。山頂のハイカーは数人だった。

 「お疲れ様でした。奥さんよく頑張りましたね」

「空木さん、ありがとうございました」

「ここが、ご主人が登られた鷹ノ巣山の頂上です。ご主人が眺めた眺望と全く同じ眺めです」

 晴美は三度目の声を上げた。

 「これが、主人が眺めた景色ですか。富士山がきれい。主人が山好きになった理由が何となくわかりました。もっと一緒に行っておけば良かった」

 晴美は空木が指さす南アルプスの山々から富士山、丹沢、奥多摩の山々をしばらく黙って見つめていた。山頂で昼食を済ませた二人は登ってきたルートを下山したが、空木は水根の分岐で尾根ルートをはずすことにした。横山忠が転落した急坂は避けることにした。

 登山口の林道に二人が下りたのは午後四時を過ぎていた。石山田が車で待っていた。

 「お疲れ様でした。奥さんよく頑張りましたね」石山田が晴美に声をかけた。

「ありがとうございます。空木さんのお陰で主人の亡くなった場所で、お線香とお花を供えることができました」

 晴美は頭を下げた。

  石山田の運転する車で奥多摩駅まで送られた二人は、奥多摩駅から晴美が乗り換える立川駅まで並んで座った。

 空木は晴美に、ご主人の同行者の調査は進行中だが、まだ晴美に報告できるような状況ではないこと、話ができる段階で連絡することを伝え、ご主人の会社、職場に関して気づいたこと、気になるようなことがあったら連絡して欲しいことを依頼した。立川駅で別れる際、晴美は空木に何度もお礼を言って深々と頭を下げた。平寿司で飲んで帰った空木は、山行の心地良い疲れと足の筋肉の張りを感じながら心地良い眠りについた。

 

 翌日の土曜日、トレーニングジムから帰った空木の携帯が鳴った。菊永からだった。

 「空木さん、鷹ノ巣山で見た男を思い出しましたよ。後輩の結婚式で司会をやっていた男だと思います」

 菊永は少しアルコールが入っているせいか声が大きかった。

「そうか思い出したか。それでどこの誰なのかは分かったのか」

「それはまだ分かりませんが、明日にでも後輩に電話で聞けば分かると思います。分かったらまた連絡しますから奥多摩署の刑事さんには空木さんから連絡お願いします」

「わかった。でもなんで突然思い出したんだ」

「それがですね、この前空木さんと飲んだ寿司屋さんで、常連さんが話していたのと同じなんですよ。ちょうど今日、会社の後輩の結婚式に呼ばれて出たんですが、今日の司会者が新郎の友人というのを聞いて、ああ、この場面だと思い出したんですよ」

 空木は、三鷹での聞き取りからつかんだ、鷹ノ巣山山頂で横山と一緒に食事をしていた男の情報は菊永には話さなかった。というより話せなかった。せっかく思い出してくれた菊永への思いやりかも知れなかった。

 翌日、菊永から連絡が入った。

「分かりましたよ。名前は田中勇二、派遣のMRで今は外資系製薬会社のIMファーマに派遣されているそうです。一年前から今の会社に派遣されているようで、以前はマルス製薬の名古屋支店に派遣MRでいたそうです。私が結婚式の司会者として彼を見たのはその当時だったみたいです。つまり彼はマルス製薬の名古屋支店当時に横山さんと知り合いになっていたと思います」

 菊永の声は嬉しそうだった。空木はやはり言えなかったが、ぴったり同一人物だと思った。ただし、この田中勇二という男が横山忠の同行者、つまりテントで同泊した人物ではなさそうな予感がしていた。

 空木は、石山田に連絡を取った。石山田は、今日は非番だったが、菊永が鷹ノ巣山の山頂で見た男を思い出したこと、その男はIMファーマの谷川から聞き取った男と同一人物だったことを話した。二人は平寿司で会うこととした。

 平寿司には常連の林田と金澤がすでにカウンターで飲んでいた。空木と石山田もカウンター席に座り、いつものようにビールから飲み始めた。

「健ちゃんの想像通り田中という男は、横山の同行者ではなさそうだね」

石山田が空になったグラスにビールを注ぎながら言った。

「うん、その可能性が高いと思う。本当に偶然出会ったんだろう。とは言え、山頂で横山さんと話した内容によっては、同行者の特定につながるヒントが聞けるかも知れないよ。現状では生前の横山さんと話をしている最後の人物だからね、会う価値はあるよ」

 空木は芋焼酎の水割りを作り始めた。

 「健ちゃん、俺は田中という男に会ったら、そのあとは横山の葬儀の芳名帳リストの人間を当たってみることにする。飯坂も管内の窃盗事件が落ち着いてきているし、飯坂と二人で回ってみる。それと課長と相談したんだけど、当初の予定では五月二十日を目途にこの事故の調査を終えようって言っていたんで、俺もこの調査にかかりっきりという訳にはいかないんだ。健ちゃんはどうする」

 石山田は空木の注文した鉄火巻きを全て食べた。

 「芳名帳の方は俺がでしゃばるところじゃない、巌ちゃんたちに任せるよ。俺は、もう一度横山さんの奥さんに会って聞いてみたいことも出てきたし、俺の知り合いからマルス製薬の内情が聞けないかやってみようと思っている。そう都合よく事が運ぶとも思えないけどね。とにかく、小谷原さんと横山さんの奥さんから仕事の依頼を受けた立場としては、探偵らしい仕事をしなくちゃな」

 空木は水割りに口をつけて鉄火巻きをつまもうとしたがなくなっていることに気づいた。

 「あー、もう無い」空木は鉄火巻きと烏賊刺しをまた注文した。

「空木さん、探偵の仕事入ったみたいだね」

少し離れたカウンターに座っていた林田が声をかけた。

「林田さんのお陰で、この前ここに来た菊永が、あることを思い出したみたいで林田さんに礼を言っておいてって言っていましたよ」

「何のことやら分からないけど、お礼はいいからビール一本でいいって言っておいて」

 林田が気分よさそうにグラスのビールを一気に飲んで言った。

 横にいた金澤も空木たちに話しかけた。

 「お二人は人探しに苦労しているようですね。そんなに簡単にはいかないでしょうけど、人と人って思わぬところで繋がっていることもあるから、思わぬところから見つかるかも知れないですよ、諦めずにに頑張ってくださいよ。まあ、私が偉そうにいうことじゃないか、お二人はそれが仕事ですもんね」

 空木は、金澤の話を聞いてその通りだと思った。焼酎のボトルが空になり新しいボトルを店員の坂井良子が運んできて言った。

 「空木さん、仕事の依頼があったんですか、良かったですね。頑張ってください」

「ああ、まあ‥‥」空木が口ごもると

「健ちゃんここはありがとう、でしょ。健ちゃんに仕事が来て喜んで励ましてくれる女性はそうそういませんよ。あー羨ましい」石山田が茶化した。

 常連の二人も「その通り」と合いの手を入れた。空木は笑いながら女将に会計を頼んだ。店を出た二人は、心地良い夜風にあたりながら歩いた。

 「厳ちゃん、横山さんのスマホはどこにあるのかな」

「わからないよ、あれば重要な手掛かりになるけどな」

 空木は、やはり同行者が持ち去ったのではないかと改めて思った。

 翌日、奥多摩署の石山田から空木に連絡があった。IMファーマの田中勇二から連絡が入り午後二時に三鷹で会うことになったという連絡だった。



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