第2話 探偵の疑問

 空木うつぎの探偵事務所兼自宅は、JR中央線国立駅の北口から歩いて十分少しのところに建つ、六階建てのマンションの四階にある。

 大家の協力を得て郵便ボックスに「スカイツリーよろず相談探偵事務所」のプラスチック製の小さな看板を出している。

 その事務所に空木が帰る途中には、カレー屋、とんかつ屋、ラーメン屋、居酒屋がある。空木は、以前は国立駅の南口の居酒屋によく行っていたが、訳あって、ここ数か月前から『平寿司ひらずし』という平沼夫婦二人と、女性店員一人の三人でやっている店に行くようになった。

 奥多摩署からの帰り、菊永と別れた後の今日も、この『平寿司』に立ち寄った。時間はまだ午後六時半を少し回ったところだった。暖簾のかかった入口の引き戸を開けて中に入ると、カウンター席の端と真ん中に一人ずつ、二人の客がいた。この店の客はほとんどが常連だ。空木はこの店に来始めて三、四か月の常連とは言え新参者だった。

 「いらっしゃいませ」女将おかみと、店員の女性が声をかけた。少し遅れて主人も声をかけた。

 空木がこの店に来始めたのは、坂井良子というこの女性店員が、訳あって北口の居酒屋から移ったことがきっかけだった。

 坂井良子は、山形から東京に二年前に出てきていた。空木の山形の知り合いの親類という関係で、空木は東京でも宜しく頼むと、紹介を受けていた。坂井良子は、南口の居酒屋の主人と山形の叔母の伝手で働くことになったが、主人が体を壊し、店を他人に任すことになった。その時主人は、坂井良子を店には残さず、昔から親しい平沼夫婦に、坂井良子を雇ってくれ様に頼んだのだった。その坂井良子の店の移りに合わせて、空木も行きつけの店を替えたということだった。

 すでにいる客のうちの一人は林田というビール大好きの常連だった。

 空木は林田に手をあげて挨拶しながら、もう一人の客に声をかけた。

 「こんな時間から何飲んでるんだよ」

「いやー、健ちゃん遅かったね」

「遅かったね、じゃないよ。がんちゃん、青梅署に日曜会議とかで出張だったんじゃないのか」

 空木が声を掛けたもう一人の客は、石山田巌いしやまだいわお四十三歳だった。空木健介とは国分寺東高校の同級生で、「健ちゃん」「巌ちゃん」と呼び合う仲で、今は警視庁奥多摩警察署に勤務する刑事だ。

 「えー、何でそんなこと知ってるんだ」

 石山田は、焼酎の水割りをこぼしそうになるほど、真顔でびっくりした。

 「今日、ある事故に巻き込まれてね、四時ぐらいまで奥多摩署にいたんだよ。岡田課長と飯坂さんにお世話になったよ」

「そうだったのか。課長と飯坂に‥‥、ところである事故って何?。交通事故か?」

「いや、それがね。滅多に出会うことはない事故でね。鷹ノ巣山からの下山路で転落事故に出くわしたんだ」

 空木の話が耳に入ったのか、主人と林田が空木に顔を向けた。

 「転落事故で警察に行ったのか。‥‥‥もしかしたら死んだのか」

「そうなんだ、死んでたんだ」

 空木は石山田に、昨日から今朝の転落者発見までをビールを飲みながら説明した。

「今、巌ちゃんに話したことを警察でも話してきたんだよ」

 石山田は、焼酎の水割りを飲み干して新しい水割りを作りながら、空木に不思議そうに訊いた。

 「俺は山には登らないからわからないけど、健ちゃんから見てその転落場所は、落ちて死ぬようなところなのか」

「そうなんだ。ガレた急坂だから、下る時には気を使うところではあるんだけど、どんな落ち方をしたのか、打ちどころが悪かったとしかいいようはないね。途中の小ぶりの岩に血痕があったよ」

 空木はあの急斜面を思い浮かべて、滑って転落しただけなら怪我程度で済んでいるはずなのに、つまずいて数メートル落ちたのかも知れない、本当についていない人だと改めて思った。

 空木は焼酎の水割りに変えて飲み始めながら、鉄火巻き、烏賊と小肌の刺身を注文した。

 石山田はそれを美味そうだと言いながら、空木の前に出された鉄火巻きを、二つ取って口に入れた。旨いと言いながら今度は烏賊刺しをつまんでいた。石山田の前には空になったお通しの器があるだけだった。

 「巖ちゃん、貧乏人の俺のつまみ食べるなよ」

「まあそう言うな、金は天下の回りものだよ」

 それを聞いていた客の一人の林田が、笑いながら頷いていた。

 「ところで健ちゃん、うちの課長が確認するって言っていたっていう単独行のことだけど、確認できると思うか」

「小屋番がいる営業小屋に泊まったのなら確認できると思うけど、避難小屋だったりテント泊だったら確認は難しいだろうな。七ツ石小屋、雲取山荘の小屋泊り以外は確認することは難しいよ」

「うちの課長はなんて言っていた」

「できる限り確認するって言っていたよ」

「できる限りか‥‥‥。単独行じゃなかったとしたら、事故から事件になり兼ねないからな。そうなったら俺の出番ってわけか」

 石山田は残っていた鉄火巻きを口に入れながら、何か考えているようだった。

 「健ちゃん、山でパートナーが転落したり、怪我したら普通は助けを呼ぶだろ」

「もちろんだよ。見ず知らずの人でもそうするよ。山のルール、掟みたいなもんだよ」

 端のカウンターでビールを飲み続けている林田が、耳の入ったのだろう、ポツリと口を挿んできた。

 「山やる人でそんな悪い人はいないでしょ」

 空木は焼酎の水割りを口に運びながら、「そうであって欲しい」と呟いたが、林田の耳には届かなかったようだった。そして、悪い奴はどこにでもいるし、山をやっている奴に悪い奴はいないとは言えないな、と今度は心の中で自答していた。

 

 翌日の月曜日の朝、新聞を取っていない空木は、ネットで転落事故のニュースを確認した後、改めてコンビニに新聞を買いに行き、昨日の転落事故が載っているかどうか確認した。

 横山忠さん三十五歳会社員が、単独で登山中に奥多摩石尾根縦走路といわれるルートの下りで転落事故、死亡したという、ネットニュースと同様の記事だった。

 やっぱり単独行だったのか、と空木が思った時、机の上に置いたスマホが鳴った。午前九時過ぎだった。スマホの画面の表示は石山田からの電話を示していた。

 「健ちゃん起きたか、もう昼だぞ」

「巖ちゃんか、何だい朝から電話なんて」

「すまん、昨日の転落事故の件なんだけど、もう少し調べる必要が出てきたんだ。新聞には単独行ということで発表しているんだけど、小屋での確認は取れなかった」

「それで、何故もっと調べる必要がでてきたのさ」

「それがね、死んだ男の奥さんとの連絡の中で、奥さんが「主人は知り合いの男の人と二人で雲取山へ行く」、と言っていたって言うんだよ。その男の名前は聞いていないらしいんだが、奥さんにそう言っていたということと、横山さんのザックにはテントは入っていないけど、寝袋は入っていたわけなんで、知り合いの男というのがテントを持っていれば避難小屋どころかテント泊が可能だ、という事になった訳だ。それで、もっと詳しく調べるためには、健ちゃんたちの話を聞く必要があるということなんだ。健ちゃん暇だろうし、今から迎えに行くから奥多摩署まで来てくれよ」

石山田は、空木の都合を聞こうともしなかった。

「だけど巖ちゃん、俺が行ったところで、もう役に立つ話は出てこないよ。昨日説明したこと以上も以下もないからね」

「それは分かってる。課長がもう一度話を聞きたいって言っているんだ。協力してくれよ。俺の上司が言っているんだ、頼むよ」

「分かった。じゃあ平寿司のビール一本で手を打つよ」

 石山田はそれには答えず、いまから行くと言って電話を切った。

 

 国分寺から奥多摩までは同じ東京の多摩地区と言えども遠かった。

 石山田の車で空木のマンションを出て一時間半、奥多摩署に着いたのは午後一時前だった。昨日と同じ会議室に案内され、今日もまた用意された弁当を食べ終えた空木は、机を挟んで地域課長の岡田のほか飯坂と石山田の三人の前に座った。

 岡田が、眉間に皺を寄せて口を開いた。

 「空木さん、お忙しいところ今日もご足労いただいてありがとうございます。石山田からお聞きただいている通りで、亡くなった横山さんの奥さんからお聞きした話もあって、もう一度調べ直す必要が出てきました。ついては、昨日お聞きした空木さんたちのお話を、再確認させていただき調査ポイントを絞り込みたいと考えています。どうかご協力願います」

「わかりました。といっても私からからお話しすることはもうないので、課長さん方から再確認したいことを訊いてください」

 岡田は頷き、飯坂に顔を向け、(説明しなさい)と、催促した。飯坂は手帳を開いた。

 「では、まず私から昨日、今日で確認できたことからお話しいたします。七ツ石小屋、雲取山荘の小屋泊まり、およびテント泊の申し込みに単独行、パーティー含め横山忠の名前はありませんでした。二人以上での泊りは雲取山荘で二人組が一組、四人組が一組でいずれも小屋泊でして、テント泊はゼロでした。次に七ツ石小屋は、小屋泊は三人組が一組のみでしたが、テント泊で二人組が二組いました。申込者は先ほどお話しした通りで、横山さんの名前での申し込みではありません。雲取の避難小屋は調べようがありませんでした」

 説明した飯坂は、これでいいか、と岡田の顔を見た。岡田は頷いた。

 「それで空木さん再確認ですが、鷹ノ巣山の山頂で見た横山さんは二人で食事をしていたということでしたね。三人以上ではありませんよね」岡田は念を押すように言った。

「はい、頂上では間違いなく二人でした。ただ、小屋とかで合流していたらわかりませんが、あそこでは二人でした」

「両方の小屋とも受け付けた登山客の数は多くはないので、単独泊も含めて確認はそう難しくはありません。とはいえ、我々は二人パーティーに注目しています」

さらに岡田が続けて言う。

「同行者がいたとしたら、転落したパートナーを放っておくということが、どういうことなのか‥‥‥。たとえ宿泊後、それぞれ単独行動をしたとしても、メディア、新聞で知れば、家族若しくは警察に何らかの連絡があって然るべきだと我々は思っています」

 横で石山田が真面目な顔で頷いていた。

 「空木さんと菊永さんは、昨日の早朝は誰とも会わなかったということですが、同宿されていた中年の男女にも確認してみたいと思っています。それで峰谷バス停の登山届で住所氏名を確認してきましたが、空木さんは何か二人とお話しされましたか」飯坂が手帳を開きながら空木に聞いた。

「あの二人とは小屋で少し話した程度で、名前はわかりませんが、男性は豊洲から女性は中野から来たと話していました」

それを聞いた飯坂が言った。

「豊洲ですか、恐らくこの方ですね。山下順一他一名」

「空木さんありがとうございます。この方にも我々から確認してみます」岡田だ。

「しかし、課長さん小屋泊にしても、テント泊にしても、偽名が使われていたらどうにもならないですね」空木が言うと岡田は腕組みを解いて言った。

「偽名を使っていることが分かれば、事件性が高いと判断することになるでしょう。そうなると捜査本部とまではいきませんが、継続した捜査をすることになるでしょう。亡くなった横山忠さんの身辺、友人関係、職場といった周辺を捜査することになりますね」

岡田はそう言って、今度は石山田に顔を向けた。

「健ちゃん、あ、いや空木さん他に気づいたこと、思い出されるようなことはありませんか」

 思わずニックネームを口にした石山田は、しまった、という顔をして頭を掻いていた。

 空木は苦笑いしながら、手をあごに当てて、あることを考えていた。それは菊永が山頂で横山と一緒に食事をしている男を見て、どこかで見たことがあるような気がすると言っていたことだった。このことを言うべきかどうか迷っていた。昨日、菊永が何も言わなかったことを考えると、どうしたものか迷っていた。とはいえ事件性の可能性があるとなれば黙っている訳にはいかないと。

 「はっきり誰と言えるような話ではないのですが、私と同行した菊永が、亡くなった横山さんと、山頂で一緒に食事をしていた男性を見て、どこかで見たような気がする、と言っていました。全く思い出せないと言っていましたが」

「昨日は何もおっしゃっていませんでしたよね」飯坂だ。

「多分、あやふやなことは、あの時は言うべきではないと思ったのだと思います。ただ、事件性の可能性があるのであれば、菊永も話したと思います」

「その男とどこで会ったのか、菊永さんに思い出してもらえれば、疑問が解けるきっかけになるかも知れませんね。何とか思い出してくれるように、空木さんから菊永さんにお願いしていただけませんか」

岡田が腕組みをしたまま言った。

「こればっかりはお願いされて思い出すようなものでもないでしょうから、菊永も困るでしょうが、人間誰しも、思い出す努力をしない限り絶対に思い出すことはないでしょうから、私から、菊永には連絡しておくようにします」

 空木はそう言うと、三人に断って、(菊永に手の空いたときに連絡してほしい)というメールを入れた。

 「菊永さんも製薬会社の社員でしたね。横山さんも製薬会社の社員ということは、その山頂で一緒に食事をしていた男も、製薬会社の人間である可能性は高いとは思いませんか」飯坂が言った。

「さあどうでしょう。それは何とも言えないのではないでしょうか」

 空木は、たとえ菊永がどこで会ったか思い出したとしても、名前もわからないし、人の特定にまでは行きつかないのではないかと思った。その時、空木の携帯が鳴った。菊永だった。空木は、今自分は再度、奥多摩警察署に来ていること、転落死した横山さんに同行者がいなかったか、改めて詳しく調査することになった経緯を説明し、鷹ノ巣山山頂で見た男を思い出したら連絡してほしい旨を話した。

 「空木さんわかりました。思い出したら必ず連絡します。ですが、どうにも思い出せないんですよ。どこかで会っていると思いますけど、いったいどこなんでしょうね」

「俺に聞かれても分かる訳がないだろう。どこで会ったかなんて、そうそう簡単に思い出せるものでもないから仕方ないよ。じっくり思い出そう。ところで菊永、今週時間が空いたら一杯やろう」

 空木は岡田たちを見ながら、これで良いですね、というように頷いた。そして空木は、続けて訊いた。それは写真の存在の確認だった。

 「ところで飯坂さん、横山さんのザックには、カメラかスマホは入っていましたか」

「いえ、カメラもスマホもザックにはありませんでした。どうしてですか」

「横山さんが写真を撮っていれば、どこに宿泊したのか手掛かりがあると思ったんですが、カメラが入っていないのはともかくとして、保険証を持っていくハイカーが、連絡用の携帯スマホを持っていかないのは少し不思議ですね」

「そうですね、ご家族に確認してみることにします」飯坂は頷きながら手帳に書き留めた。

 奥多摩署を後にした空木は、横山の持ち物にスマホがないことに些かの疑問を持った。転落時に落としたのだろうか。


 マルス製薬東京支店の月曜日の朝は、営業所毎の営業連絡会議で始まる。しかし、この日の朝は会議どころではなくなっていた。横山忠が所属する城西病院営業所は、新聞に掲載された横山の転落死を受け、横山の家族との連絡、会社上層部への連絡、そして病院、取引先である特約店への連絡などで騒然としていた。

 昼近くになって所長の宮下は部下の所員を集め、社内業務連絡を手身近に終わらせ、葬儀の手伝いなどの指示を出した。

 「横山さんの奥さんと連絡がとれた。今日が通夜、明日が告別式となった。今日、明日で得意先の説明会などの予定が入っていない人は受付の手伝い、それから参列してほしい。私も今日、明日とも参列するつもりです。畑上支店長も告別式には参列されるそうだ。皆さんよろしく頼みます」

「所長、横山さんの担当病院で説明会の予定がスケジュール表に入っていますがどうしますか」営業所ただ一人の女性MRの本村久美が言った。

「‥‥‥そうですか、わかりました。営業所全員でカバーできるところはカバーしましょう。横山さんの担当病院へは、私が今日中に訪問して状況の説明をしてきます。横山さんの担当は城西総合病院を含めて三軒でしたね」

 宮下はパソコンの画面を見ていた。

 MRとはメディカル レプレゼンタティブの略称で、医薬情報担当者と言われている。全国のMR数は約五万人、マルス製薬はMR千人を数える業界の中では大手に近い中堅製薬会社である。自社医薬品の情報を病院、医院の医師、薬剤師に提供伝達することで、正しく自社薬の処方に導くのが仕事であるMRにとって、説明会は非常に重要な機会であり、他社との競争に勝つための有力な手段となっている。

 一昔前、MRがプロパーと呼ばれていた時代、ゴルフ、飲食等の接待が業務のように思われていた時代とは様変わりしている。しかしながら、同じ時期に、同時に発売された同じ効果の薬の場合は、採用する立場の医療機関の採用判断は、単純に情報提供だけではなく、別の要素、例えば納入価格などが影響する。

 宮下は横山が担当していた三軒の病院を訪れ、MRの訪問窓口である薬剤部に、横山の不慮の事故死の説明をして回った。

 三軒の病院の薬剤部では、揃って横山のMRとして真面目な態度、誠実な情報提供を褒め、山での転落死を惜しんだ。そして、マルス製薬の薬剤をよく処方している医師を丁寧に教えてくれた。宮下は上司として横山を高く評価していたが、改めて横山というMRを失ったのは営業所にとって、いや会社にとって痛手だと感じた。

 

 横山の通夜と告別式は、自宅近くの世田谷区きぬたの斎場で行われた。告別式には横山忠の家族、親族の他、勤務先であるマルス製薬の社員、仕事関係の参列者で斎場のホールは埋まった。その中に奥多摩署の石山田と飯坂の姿もあった。

 石山田は受付でお悔やみを口上し、警察の人間であることを説明したうえで、亡くなった横山忠の上司を探してほしい旨を頼んだ。受付の女性はマルス製薬の社員のようであった。その女性はホールにいた所長の宮下に声をかけ受付に呼んでくれた。石山田は宮下に改めて警察であることを示しながら、訪問の趣旨を説明した。

 「横山さんは単独登山だったと思われるのですが、山頂で知り合いの方と出会っているようなのです。それでマルス製薬の社員の方で、鷹ノ巣山で横山さんと出会った方はいらっしゃらないか伺いたいのですが、お宅の会社でそのような話はお聞きになっていないでしょうか」石山田が静かに訊いた。

「横山と鷹ノ巣山の山頂で、ですか‥‥‥。うちの営業所でそんな話は出ていませんね。営業所で山を趣味にしている社員は、横山以外にはいない筈ですから出会う可能性は無いと思います」

 周りを見廻した宮下は、受付をしている女性を呼んだ。

 「本村さん、うちの営業所で山登りが趣味という人はいないよね」

「はい、いないと思います。他の営業所は知りませんけど。横山さんは、他社のMR仲間の人たちと山クラブみたいな会を作っていたみたいです。もしかしたらその方たちの中にいるかも知れません」

「本村さんとおっしゃいましたか、山クラブを自社ではなく他社の方たちと、ですか。競争相手なのではないのですか‥‥」飯坂だ。

 飯坂の質問に、宮下が本村に代わって応じた。

 「ええ、競争相手でもあるのですが、長い間同じ病院を担当していると馬が合うというか、MR仲間で仲が良くなるMRもたくさんいるんです。自社の社員たちより顔を合わせる時間も長いからかも知れません。それとMRは先生たちの趣味に合わせることもあって、そうしているうちにMR仲間というより趣味仲間になることも多いようです」

「その山クラブの仲間をご存じでしたら教えていただけませんか」今度は石山田が訊いた。

 しかし、宮下も本村も首を傾げながらわからないと答えた。

 「石山田さん、この芳名簿でほかの製薬会社の方が分かりますよ。葬儀の後でこれのコピーをいただけるように横山さんの奥さんにお願いしましょう」芳名簿を見ていた飯坂が言った。

 石山田と飯坂は弔問客に挨拶している横山の妻の晴美に声をかけた。晴美に通夜、告別式の芳名簿の写しを貰う許しを得ながら、一つだけ確認したいことがあると訊いた。

 「ご主人は、山に行くときにカメラやスマートフォンは持っていかれないのでしょうか」

「カメラは持っていくことは滅多になかったようですが、スマートフォンは持っていっていたと思います。家には主人のスマホはありませんでしたから、主人のリュックサックに入っているはずです」晴美が答えた。

 石山田と飯坂は顔を見合わせた。

 晴美は奥多摩署に保管されているザックは、葬儀の後、落ち着いたら取りに行く旨を二人に伝え、喪主の席に戻っていった。

 「‥‥‥石山田さん、横山さんのスマホはどこにいったんでしょうね。ザックにはありませんでしたから、転落現場付近に落ちているんでしょうかね」飯坂は石山田を見て不思議そうに言った。

「分からないな、落としたのか、落ちたのか、忘れたか、だろうが‥‥‥」

石山田はそう言いながら、もし同行者がいて横山のスマホを持ち去ったとしたら、それは何のためだ。まさか、という言葉が頭をよぎった。

 葬儀は読経が響く中、焼香も終わり喪主の晴美の挨拶が流れた。横山夫婦はマルス製薬の社内結婚で結婚七年が経っていて子供はいなかった。気丈に振舞っていた晴美だったが、亡き夫の優しさに触れた挨拶の瞬間には声を詰まらせていた。

 

 そのころ奥多摩署では岡田が七ツ石小屋、雲取山荘の宿泊者、テント泊者の確認を急いでいた。雲取山荘の単独行の登山者三名、二人パーティー、四人パーティーは全て本人又は代表者に連絡が取れ、確認が出来た。七ツ石小屋の小屋泊の単独行、パーティーともに連絡確認が取れたが、テント泊の単独行二名のうち一人と、二人パーティー二組のうち一組の確認が、連絡先がわからず確認が取れなかった。

 石山田と飯坂は、その状況を岡田から聞いた後、こうじ町へ向かった。

 麹町は空木たちと鷹ノ巣山の避難小屋に同泊した山下順一の会社の所在地だった。山下の会社は鉄道事業関連の下請けを請け負う会社で、二十階建てビルの八階にあった。昨夜のうちに山下と連絡が取れて今日午後二時に山下の会社で会うことになっていた。

 応接室に通された石山田と飯坂は、初対面の山下順一と挨拶を交わした。山下の名刺には部長とあった。

 「山下さん早速ですが、避難小屋に泊まられた翌朝に、石尾根を下山していくハイカーに会うか、見かけるか、しませんでしたか」石山田は訊き、手帳を手にした。

「昨日の電話でも聞かれましたが、私が小屋の横にあるトイレに行ったのが朝の六時過ぎだったと思いますが、誰も見かけることはありませんでした。ただ私は見なかったのですが、一緒に登った同行者に昨夜電話で聞いてみたら会ってはいないが、鷹ノ巣山の山頂へ登っていくハイカーを見たと言っていました」

「山頂へ登っていく人を見たと仰っているのは、山下さんと同行された女性ですね」飯坂だ。

「ええそうですが‥‥、どうして女性だと」

「山下さんたちと同泊された方は、空木さんと菊永さんという方なのですが、その方たちが転落者を発見されましてね、状況を伺っている中で山下さんたちのことも伺ったというわけです」

「ああなるほど、あの方たちですか。あの方たちが発見されたのですか。私たちとは鷹ノ巣山の山頂で別れましたが、もし私たちも石尾根を下っていたら転落遺体を見ることになったということですか」

「山下さん、もし差し障りがなかったらその同行された女性の住所と、あなたとの関係を教えていただけないでしょうか」石山田は、山下の顔色を窺うように目をやった。

「ええまあ、差し障りというか‥‥、住所は中野なのですが‥‥、関係はというと友達です。‥‥それと実は、彼女はうちの会社に派遣で来てくれている事務員なんです」山下は頭を掻きながら気まずそうに答えた。

 石山田と飯坂は、思わぬことに首を突っ込んだか、とでも言うように顔を見合わせた。

 「ここに呼んだいただく訳にはいきませんか」飯坂だ。

「‥‥‥それは、彼女にも迷惑がかかるかもしれないので、もうすぐ三時の休憩に入りますから会社の外でお話ししていただけるとありがたいのですが‥‥‥」山下は困惑した顔で言った。

 石山田は山下の話に、彼女のためなのか自分の都合なのか、山下という男も勝手な奴だと思いながら、ここで二人の関係をとやかくいう場でも、立場でもないなと思い了解して頷いた。

 午後三時過ぎ、ビルの一階のエレベーターホールに三十半ばぐらいに見える、中背でぽっちゃりした女性がエレベーターから降りてきた。女性はホールの椅子に腰掛けている石山田たちを見つけて、二人の方に近づいて頭を下げて挨拶した。

 名前は宮園好江と言った。宮園好江によると、あの日の朝六時前にトイレに行こうと小屋を出て、たまたま山頂へ登る登山道方向に目を向けたら、かなり上の方にハイカーを見た。ただ遠かったので顔はもちろん男女の区別も、一人だったか二人だったかもはっきりとは判らなかった、ただ朝早くからどこから歩いてきたのかと思い記憶に残っている、と話した。


 石山田たちが奥多摩署に戻ったのは夜七時に近かった。

 岡田にマルス製薬の宮下たちから聞き取ったこと、横山の妻の話、避難小屋に空木たちと同泊した山下順一、宮園好江から聞き取った話を報告し、今後の方針、方策の打ち合わせをした。三人は横山が単独行でなかった可能性はあるものの、パートナーがいた確証は現状では取れないこと、横山のスマートフォンの行方にも疑念はあるが、現状でそれを探し出すのは不可能に近いことを確認し、当面は七ツ石小屋のテント泊で確認が取れていない単独行と、二人パーティーの確認を取ることとした。

 単独行の一人の申し込み名は「赤城太」、住所は神奈川県厚木市、電話番号の記載は無い。山行予定は七ツ石から雲取山、飛竜山、お祭りへ下山とあった。二人パーティーの申込者は「小谷原幸男こやはらゆきお」他一名となっていて、住所は東京都国立市、電話番号の記載はやはり無い。山行予定は石尾根を奥多摩駅に下山となっていた。

 「これでは調べようがありませんね」飯坂が言った。

岡田は「赤城太」という男の所在を厚木警察署に、「小谷原幸男」の所在を立川警察署に、それぞれ依頼するよう石山田と飯坂に指示した。

 翌日、両警察署から返事が来た。それによれば赤城太も小谷原幸男も実在するとのことであった。岡田はその返事を受けて、改めて両警察署に調査の理由を説明し、四月二十日の土曜日に七ツ石のテント場にテント泊をしたことの確認と、小谷原という男には、同行者の氏名の確認をしてほしい旨を依頼した。

 石山田は、二人とも偽名でなかったことにホッとしながらも、横山忠の同行者が小谷原だとしたら、何故通報しなかったのか疑問が膨らんだ。


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