奥多摩連山 暗闇の獣道
聖岳郎
第1話 奥多摩 鷹ノ巣山
奥多摩駅発午前七時四十分発、峰谷行きのバスの終点、峰谷で降りた二人のハイカーは、少し遅い桜の満開を迎えた峰谷集落から、バス停横に備えてある登山届に今回の山行予定を記入し、鷹ノ巣山へ歩き始めた。
二人以外のハイカーは、中年の夫婦と思われる二人連れと三十代半ばと思われる単独行の男一人がいた。好天の土曜日にしては、ハイカーは少ない。
標高1737メートルの鷹ノ巣山は、奥多摩駅から標高2017メートルの日本百名山に数えられる雲取山へ続く石尾根ルートのちょうど中間あたりに位置し、富士山を含む南面の眺めが絶好だ。
鷹ノ巣山への登山ルートは、奥多摩駅からの石尾根ルートの他に、
「空木さんと二人で登るのは何年振りですかね。」
「俺がまだ名古屋支店にいるときに
山行のパートナーは菊永昭三十七歳。中堅製薬会社である万永製薬の会社員、MRという職種である。
万永製薬は
東京に転勤してきて一年余りが過ぎた菊永から、空木に鷹ノ巣山登山の誘いの電話がつい十日ほど前に入った。「久し振りに一緒に登りましょう」という菊永の誘いに、空木も特に断る理由もなく、今年はまだ奥多摩の山々では、鷹ノ巣山に登っていないこともあり、同行することにしたのだ。この山は十分日帰りできるコースだが、二人は鷹ノ巣山の避難小屋で一杯やろうという目的での山行にしていた。そのため二人のザックはそれぞれ容量四十リッターだが、寝袋のほかにビール、焼酎、つまみ、そして食事が目いっぱい入っていてかなり重くなっていた。
四月二十日、快晴の土曜日。標高800メートル付近の
奥集落を過ぎて浅間神社の鳥居から浅間尾根の登りが始まる。標高1000メートル付近のミズナラの大木に新芽が芽吹き始めている。もうしばらくすれば、薄緑色のベールに包まれた森の風景が見られるだろうと空木は思いながら、きつい斜面のジグザグの登山道を登っていく。
二人が鷹ノ巣山の避難小屋に着いたのは、歩き始めてから三時間余りたった午前十一時半ごろだ。小屋は土間と十畳ぐらいの板張りの床の部屋で、綺麗に使われている。
二人はザックを小屋に置き小屋横のベンチで昼食を摂った。持参した缶ビールを一本ずつ飲み、ラーメンを食べ二人とも煙草を一服する。まだ宴会には早すぎる時間だ、焼酎には手をつけなかった。中年の夫婦と思われる二人が小屋に到着し、ザックを小屋に入れている。二人も小屋泊まりのようだ。同じバス停で降りた単独行の男は、空木たちよりも少し早く着いたようだが、一足早く鷹ノ巣山の頂上に向かったようで姿はなかった。
空木と菊永の二人はザックを小屋に置き
三十分弱で頂上へ着いた。頂上には十五~六人のハイカーがいる。稲村岩ルート、石尾根ルートからも登ってきているようだ。ここからハイカーたちはそれぞれのルートで下山するか、雲取山目指して次の山小屋の七ツ石小屋、若しくはもっと先の雲取山の避難小屋、或いは雲取山荘を目指すハイカーに別れる。
峰谷を一緒にスタートした単独行の男が食事をしている。しかし、見たところ一人ではないようだ。
頂上からの眺望は、近くに大岳山、御前山、
暫くして、菊永が単独行の男と一緒に食事をしている男をじっと見て言った。
「
「そうか、俺なんかそんなのしょっちゅうだよ。頑張って思い出しても、その人本人かどうかはまた別だよ、世の中には似た人は三人ぐらい居るそうだからな」空木は言いながら、とは言え世の中不思議なことがあることも確かだと思った。
小屋に戻った二人の宴会は、持ってきた残りのビールを開けて始まった。焼酎の一㍑パックに五分割で作ってきた芋焼酎をコッヘルで温め、サバ缶、コンビーフを酒の肴にして始まった。
同宿の中年夫婦と思われる二人は、話をすると予想に反して夫婦ではなかった。男性は豊洲に、女性は中野に住んでいるという。空木も菊永も、二人がどういう関係なのか気になったが、当たり前のことだが聞けなかった。
菊永は酔いが回ってきたのか空木に会社を辞めた理由を聞いた。空木は焼酎を口に運びながら少し間をおいて
「会社勤めに向かない人間だとわかったから、ということかな。独身の四十男のわがままだよ」、とだけ答え「菊永、お前のほうはどうなんだ。仕事はうまく行っているのか」、と聞いた。
「‥‥まあ、仕事は順調だと思っているんですが、上司が大変で雰囲気よくないんですよ」
「上司って所長か」
「いや、その上の部長が、上昇志向が強い上に権限振りかざす嫌な奴なんです。世の中から抹殺したい人間ですよ」
「ほー、世の中から抹殺か、物騒な話だな」
「とは言っても殺したり出来ませんけどね。いなくなればいいなと思っていますよ。所長も苦労していますよ」
空木は時に、人が人を殺す殺意とはどんな時に生まれるのかと考える時がある。
「菊永はどんな時に人を殺したいと思う。いや、人間はどんな時殺意が起こると思う?」
空木は少し酔いが回ったかなと思いながら菊永に聞いた。
「さあどうでしょうね、‥‥‥愛する人が殺されたりしたら‥‥ですかね」と
菊永は、マグカップの焼酎を口に運んだ。
「奥さんか」
「ええまあ、家族ですね。自分自身のことではどうですかね。生き方を否定されたり、馬鹿にされたりしたら、ですかね。でも殺すまでにはならないでしょうね。そういう人とは付き合わない、近づかないという方法を選ぶでしょうからね。空木さんはどうなんですか」
「俺には家族はいないからわからないけど、どんな事があっても殺意なんかが芽生えない、
空木たち二人は、真っ暗な外で星を眺めながら煙草を
翌日も、昨夜の星空が予感させてくれた通り快晴だった。
山は早立ちが原則だが、石尾根を奥多摩駅へ三時間下るだけの二人は、ゆっくり目の朝食を摂り、ザックへのパッキングを済ませて遅い出発の準備をした。同宿の二人も空木たちと同様に遅めの出発だったが、下りのルートは多摩三大急登の一つと言われる稲村岩ルートを下るとのことだった。
四人は午前八時過ぎに避難小屋を発ち、昨日登った鷹ノ巣山山頂に向かった。山頂は日曜日とは言え、朝のこの時間にはまだ誰もいなかった。小屋泊まりをした人間にしか見ることは出来ない朝の眺望は、昨日にも増して見事だった。
二人連れはここで別れて稲村岩ルートを下って行った。空木は山頂でコーヒーを淹れ、菊永と眺望を楽しみながら煙草を吸った。至福の時間だった。
午前九時前、空木たちも石尾根を下った。山頂からしばらくは、樹木を切り取った防火林帯のため登山道の見晴らしは非常に良い。富士山を右手に望みながら気持ちの良い下りであった。下山ルートの一つの水根への分岐を過ぎる。まだ時間が早いのだろう前後にハイカーは見えない。下り始めて四十分、空木がこのルートでは比較的気を使う下りに入った。二人は足元に気を使いながら慎重に下った。その時、前を歩いていた菊永が叫ぶように声を上げた。
「空木さん、あれ人じゃないですか」
「誰か登ってきたのか」
「いやそうじゃなくて、あそこです。倒れてますよ」
「え、何」
空木たちから三十メートル程下の、急な傾斜から少し緩やかになった斜面に、頭を下にして
「大丈夫ですか。わかりますか」空木だ。しかし、その男性からの反応はなかった。
やはり男性だった。男は後頭部が割れそこからかなりの出血をしていた。傷だらけの顔を見た菊永が言った。
「空木さん、この人昨日峰谷のバス停から一緒にスタートした人じゃないですか」
「菊永、顔を覚えているのか」
「昨日鷹ノ巣山の山頂でもう一人の男と食事している時、なにげに見ていましたから間違いないです」
「おい、息をしてないぞ」鼻腔に指をあて、耳を鼻に近づけていた空木が言った。
「‥‥‥どうします」
「まずは消防署、救急隊だ、それから警察に連絡しよう。菊永、スマホは通じるか?通じたら119と110に通報してくれ」
菊永はスマホを取り出した。画面を確認した後、通話を試した。
「‥‥‥通じません。ここじゃあだめみたいです。上に戻って尾根筋でやってみます」
「頼む。俺は講習会でしか知らないが、取り敢えず、心臓マッサージしてみる」
空木は倒れている男のザックをはずして男を仰向けにした。目を薄く閉じた男はまるで眠っているようだと空木は思った。男の青いヤッケの上から胸のほぼ真ん中をかなりの力で、そして一定のリズムで押し続けた。反応は全く無い。空木は腕時計に目をやった。針は午前十時を回ったところだった。
二十分程経っただろうか、菊永が戻ってきた。
「連絡はできたか」
「はい、救助隊と警察がくるそうですが、ヘリの目印になるものがほしいそうです」
「‥‥‥いずれにしろ俺たちはここに居なきゃいけないわけだ」
「男はどうですか」
「ダメだ、反応しない。そろそろハイカーが登ってきてもおかしくない時間だな」
二人は寝袋をザックから取り出し、男の頭部と足の両方から包み込み死体が見えないようにした。
空木は菊永をそこに残して、ヘリの目印役として尾根筋まで登って行った。二十メートルほど登った岩に血のりが付着しているのを空木は見た。急な下りとはいえ何故この程度の斜面で転落死してしまったのか、けが程度で何故すまなかったのか、運がなかったということか、ついていない男だと空木は思いながらヘリから見通せるだろうと思われる尾根筋の防火林帯へ上がった。
八王子から飛んだ救助隊ヘリは菊永の通報から一時間弱で到着し、警官を含む救助隊員とオレンジの救助用担架を降下させその場を離れた。空木と四人の救助隊員、警官は菊永の待つ転落現場へ急いだ。登山靴、山ズボン、山シャツ姿の警官の背中には警視庁奥多摩警察と書かれている。
現場に着いて、警官が空木と菊永の二人に、転落者に触れたかどうかを聞いた。
「心臓マッサージのために動かして、私がマッサージを二十分ほどやりました」空木が答えた。
「この寝袋はあなたがたのものですか」
「はい、他のハイカーたちが見たらまずいかなと思って、シートがわりに二人でかぶせました」
警官は、遺体が元々あった場所、姿勢を確認しながら検分し、現場を何枚もの写真に収めていた。
「これから遺体はヘリで搬送しますが、お二人は奥多摩駅へ下山する予定だったとお聞きしましたが‥‥‥」
「はい、その予定です」空木が応じた。
「お二人とも申し訳ないのですが、奥多摩警察署までご一緒願えないでしょうか。発見当時の状況をお聞きして遺体検分書に調書として残さなければなりませんのでお願いします」
警官の言葉に空木と菊永は顔を見合わせてから、軽く頷いた。
徒歩で下山してきた三人を、パトカーが林道で待っていた。
奥多摩署に三人が着いたのは午後二時半過ぎだった。奥多摩署に入った二人は小会議室に通され、用意された遅めの昼食の弁当を食べた。その後、地域課の課長の岡田と、転落現場から同行することとなった飯坂の二人に、発見当時の状況を聞かれることになった。
「スカイツリー
「いやー、所長といっても私一人しかいない探偵事務所ですから、貧乏探偵です」
「空木さんは会社員ではなかったのですか。探偵さんですか」飯坂も名刺を見ながら、岡田同様、空木の顔を見た。ただ、飯坂の目は物珍しさが勝っているようだった。
空木の名刺を見た二人の表情に共通していたのは、信用度が増した顔では決してなく、その逆で
「お二人は転落した男性とはお知合いですか」岡田が聞いた。飯坂は調書らしきものを取っている。
「いえ、知り合いではありませんが、昨日我々と一緒のバスで、終点の峰谷で降りて、鷹ノ巣山に登った男性だと菊永が記憶していました」
空木は菊永に顔を向けた。
「ええ、鷹ノ巣山の山頂で食事をしているところも記憶しています。頂上では他の男性と二人で食事しているようでしたけど」
「昨日登って、今日の転落事故ということは、どこかに泊まっていたということになりますね」
「我々とは一緒ではありませんでしたが、どこかに泊まっていると思います。‥‥‥ところで課長さん身元はわかりましたか」空木が岡田に聞いた。
転落者はヘリで八王子の大学病院に運ばれていったが、転落者の背負っていたザックは、この奥多摩署に飯坂が背負って運び込んでいた。
「はい、ザックに入っていた保険証から身元が判明しましたので、ご家族には既に連絡済みです」飯坂だ。
「お二人とも身元を知りたいでしょう。近日中にマスコミで知ることになるでしょうが、お二人には随分ご協力していただきましたし、寝袋まで使わせてもらっていますし、お伝えするのが筋だと思いますから、お伝えします。転落者のお名前は 横山忠さん、年齢は三十五歳、世田谷にお住まいのようです」と
岡田が手帳を開いて話してくれた。
「結婚されているのでしょうか」空木が訊いた。
独身の空木が何故、死んだ男性が既婚者なのか、訊くのか、空木自身にも良く分からなかったが、山で死んだ時、一番不幸な思いをするのは、妻子なのではないか、という日頃の思いから、その質問がでたのだろう。
「‥‥‥電話に出られたのが奥さんだったようですから、結婚されていると思います。奥さんは八王子の大学病院の方に向かったはずです。今頃、つらい対面をしているのではないでしょうか」
調書を取っていた飯坂がペンを置いて空木に訊いた。
「転落した横山という男性は単独行だったはずですが、さっきの菊永さんの話によれば、鷹ノ巣山の山頂では他の男性と一緒だったようですね」
「ええ、菊永がお話しした通りで、私も頂上で、二人で食事をしているその横山さんという方を見ています。偶然知り合いに出会ったのかも知れませんね」
「この方の遭難は単独行での転落事故と判断していますが、万が一単独行ではなく同行者がいたとしたら少し厄介なことになります。横山さんは、空木さんたちと同宿ではなかったと言われましたよね」
「ええ同宿ではありません。昨日の鷹ノ巣の避難小屋は我々と中年の男女の四人だけでした」
「‥‥‥横山さんはどこに泊まったんですかね」岡田は腕組みをしながら独り言のようにどちらに聞くとでもなく話した。
「鷹ノ巣山の避難小屋以外だと、七ツ石の小屋か雲取山の避難小屋、若しくは雲取山荘ですかね。町営の雲取小屋は閉鎖しましたから。小屋泊りなら三つの小屋のどこかですね。」空木は中空を見つめながら言った。
「でも空木さん、テント泊なら、極端に言えばどこででも泊まれますよ」菊永だ。
「それはそうだね。だけど、あの横山さんという人のザックには、テントは入っていなかったと思うよ」
「ええ、転落者のザックにはテントは入っていませんでした」飯坂が答えた。
「お二人は、早朝に、鷹ノ巣山の避難小屋の前の登山道を通ったハイカーに気づかれませんでしたか」飯坂の目が二人を睨むような眼に変わった。
「‥‥気づきませんでした」
空木は菊永に同意を求めるように顔を向けた。菊永も頷いた。
「そうですか、単独行に間違いないと思いますが、確認は我々でやってみます」岡田が言った。
二人の状況説明、聴取が終わったのは四時少し前だった。
「奥多摩駅からでは電車の本数も少ないですから、青梅駅まで送らせます」
岡田はそう言うと、飯坂に車の手配を指示した。
警察署の裏手の駐車場から三人は飯坂の運転で青梅駅まで行くこととなった。
空木は署を出る間際に岡田に、ここに石山田という刑事がいるか聞いた。
「石山田をご存じなんですか」
「はい、高校の同級生です」
「ああ、そうだったんですか。残念ながら石山田は、今日は月一回の日曜会議で青梅署へ出張で戻らないことになっています」
「いや、いいんです。彼とはよく会っているというか、よく飲んでいますから全然かまいません」
岡田は空木と菊永に協力してくれた礼を言って署内に戻った。
青梅駅に着いたのは午後五時前になっていた。ザックを持ってパトカーを降りた二人は、周囲から好奇の目で見られた。
「菊永、お前の人相のお陰で俺まで変な目で見られたじゃないか」
「空木さんに言われたくないですよ」空木は笑いながら返した。
「俺は国分寺で飲んでいくけど菊永どうだ」
「いや、僕は明日も朝早いので遠慮します。帰って食べます。すみません」
「そうか、じゃまた会おう」
空木と菊永、二人の長い下山の一日が終わった。
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