夏飾り

上月祈 かみづきいのり

夏飾り

 妹は小学四年生のおりに肺炎をこじらせて死んだ。二つ上の兄で六年生だった私は、人の命が軽やかに逝くことの何たるかを思い知らされたものだ。

 そして二十年経つ今も、兄として彼女からの願いを引き受け続けている。

 妹は生まれたときからとにかく体が弱く、そのくせに威勢はよかった。当時は随分と生意気な彼女に辟易へきえきしたこともあった。

 病は気からという慣用句を妹は肌で学び実践していたのかもしれない。今となっては、そう考えることもある。

 それは思いめぐらせば気が滅入る話だ。彼女が真に啖呵を切るのは病だったのだろう。もし、その矛先に関して私が思い違えていなければの話だが。

 彼女が一時帰宅した夏の話をしたい。

 九月十日だった。

 母親が夕食の支度をしていて、父は自室で仕事をこなし、妹は二階にある私の部屋で一緒だった。

 妹は、ふくれっ面。両頬をまるでべにを塗ったかのように赤くしていた。

 体調が良ければ遊園地に連れて行く、と父が口から出まかせに約束してしまった為、妹はプールに行きたいと熱望し、確かにはしゃぐことが出来るほどに体調は良くなった。

 しかし、医師の見解は火を見るより明らかで、許可は下りなかった。

 八月に最高気温三十二度を記録すれば大騒ぎだった当時だ。九月になれば秋を幾分いくぶんか感じるほどに涼しくなっていた。水中で体を冷やせば妹の体に障る。妥当な判断だった。

 それでも、父を大嘘つき呼ばわりして怒り心頭にはっするさまを私にまで見せつけていた妹。

 それほど、暑気を払うようにパシャパシャとプールの水面みなもを騒がせたかったのだろう。

 私は彼女の相手をしつつ、異変があれば知らせる手筈てはずになっていた。プールに入るには少し涼しい。だが、彼女をなだめようとするには、怒りを冷ますには、あの時期は暑すぎた。

「こんな夏はいやだ」

 不満を漏らし、遅れて咳き込む。まだエアコンは贅沢品扱いで元気ざかりの私の部屋になんか設置するわけもなかった。

「どんな夏ならいいの?」

 当時の私が一応尋ねると、彼女はきっぱりと跳ね返してきた。

「綺麗な夏。一生忘れないから」

 不満というのは少し尾を引くもので、悔しさと悲しさが馴れ合ったように本音も続けてこぼれた。

「でも、夏が終わっちゃう」

 彼女が思い出を作りたいだけなのだと当時の私は解釈した。

 現代の私は異なる解釈を持つ。にかく、妹は悔いを残したくなかったのだ。

 丁度その時、母親が部屋を訪れてドアを二回ノックした。次いで、用件だけ述べるとドアを開けずに去ってしまった。

 夕餉ゆうげの準備に向けて買い足さなければならないものが出た為に急いで買いに行く。何かあれば父に頼むとのことだった。

 了解を伝えた私の声を母が聞いたかさえ疑うほどに足音は慌ただしく階段を駆け下りていった。

 部屋の右手にしつらえた窓から外を見ると、茜雲あかねぐもたる入道雲が必衰の夏を示していた。

 折しも、それが忘れ得ぬ悪戯いたずらを思い付いた時だった。それでもひとえに妹を喜ばそうとした一心だったのは言うまでもない。

「ねぇ、いまから面白いことをしようか」

「どんなこと?」

 彼女はなか不貞腐ふてくされていて、声色こわいろはいつでも話を聞き流す心持ちを帯びていた。

 私には、当時の私にはその鬱屈うっくつくつがえす自信があったので胸を張るように、声は穏やかに伝えた。

「夏が終わるなら、僕たちで有終の美を飾ってあげよう。夏の終わりを飾るんだ」

 まだ要領を得ない妹が反論する前に、他の文言も添えた。

「プールに行けなくて不貞腐れているんだろう? でもプールは夏の間に何回も行くことが出来る。そうだろう?」

 私の問いかけに、二回ほど素直に頷いた妹。

「でも、夏の終わりは一年に一回しかない。だって、夏は一年に一度しかないのだから。それを今、僕たちは飾ることが出来る。これは滅多にあることじゃない。今を逃したら、来年の夏を待つしかないよ」

 それでもはっきりと肯定しない妹に、私は他の言葉も付けた。

「今なら、お母さんも出かけているし、お父さんも自分の部屋にいる。余程のことをしない限りはいつもより自由に出来るよ、ここは僕の部屋だから。どうする?」

 この言葉はとても効いたようで、彼女はみるみるうちに目をみはって喜んだ。

「それいい、とってもいい」

 彼女は小躍りしながら当然のことを尋ねた。「どうやって飾るの?」

 いい出しっぺの私は返答に窮した。彼女を喜ばせたいという気持ちだけが強かった為、それ以上のことを考えてはいなかった。

 しかし窮すれば通ずるものだ。

 私がそのとき思い出したのは父だった。以前、何かの折に庭先でやっていたことを思い出し、それを真似てみようと考えた。

「儀式っぽくやってみようか」

 妹は「へ」の字にひん曲がった口元で遺憾の意を表した。

 私はとにかく勿体付けて言った。

「巫女さんを、お願いしようと思ったのにな」

 合点がいかないような妹。首をかしぐと彼女は私に質問した。

「それって、かっこいいの?」

「かっこいい。偉い。かわいい。頭がいい。お金持ち。動物に好かれる。数えたらきりがないよ」

 お金持ち。そして、動物に好かれると口にした時の彼女の目はあたかも万華鏡を回しているかのようだった。

 主役が乗り気になったところで支度にかかることにした。

「じゃあ、準備しよっか」

 見る間に騒ぎ出しそうな彼女の様子を捉え、口元に人差し指を立てる。「こっそり、手伝って」

 私たちは、忍び足で一階に降りると台所に向かった。角盆を借りると、丸皿二枚とガラスのコップ二個を載せた。

 妹には丸皿一つに塩を、コップ一つに水を用意するよう頼んだ。私は仏壇から蝋燭ろうそくとライターを拝借し、父が酒のたぐい仕舞しまっている棚に向かった。暖簾のれんのようで前掛けのような仕切りの布をめくり上げ、物色した。

 ビールは数も種類も呆れるほどに備えてあった。しかし、私の感性ではそれらは不適当だった。

 棚の奥をあたると、大いに酔っ払った父が最後にちびちびと飲む見るからに高価な日本酒を見つけた。私はそれを気に入り、父のぐい飲み十杯以上はあろう酒を手元のコップになみなみと注いだ。一度はそのまま元通りに仕舞ったが、妹も準備を終え、彼女が盆を運びたいと申し出たので部屋の前までという条件で甘えることにした。

 妹にはゆっくり運ぶことを促し、私はコップ一杯の水を蛇口から汲むと、父の酒瓶にきっちり補填した。漏斗じょうごがない割には、我ながらよく漏らさず入れたものである。

 私は始末を終えた後、密かに階段を上がり部屋の前で待機する妹に合流し、ドアを開けると角盆を受け取った。

 部屋の右側にある窓から子供の足で三歩、下がったところに盆を置き正座した。

 妹も私にならい、正座をした。

 夕暮は入道雲を大きな大きな松明たいまつのように仕立て、ひぐらしの鳴声に交じって鈴虫も和を以て調べていた。

「じゃあ、始めようか」

「ちょっと待って」

 不意に妹が静止をかけた。

「これじゃまだ、巫女さんになれない」

 彼女の意図はよく分からないが、その知ったふうな口ぶりに、彼女の機嫌が良いことに、私の心は緩んでいた。

「どうすればいいの?」

 私が問うと、彼女は急いで立ち上がろうとしたので肝を潰しかけた。少しよろけたからである。

「あっという間に支度する」

 転ぶこと無く彼女は走ってドアに向かい、出て行った。おそらく彼女の部屋に向かったのだろう。先ほどの台詞にくすぐられて、笑いが少しだけ零れた。

 戻ってきた妹は両手に所謂いわゆるポンポンを持っていた。運動会で使うようなものだ。

 彼女が以前の運動会にでも使ったか、或いは誰かから譲り受けたのだろう。

「それを、どう使うの?」

 巫女とはまるで結びつかない、と思いながら聞いてみると、

「振る。それがかっこいい巫女」

 と彼女は断言した。どう返したらいいか、またもや返答に窮した。

 しかし彼女の為に始めたことだ。望むままにさせることにした。

「じゃあ、よろしく」

 手当たり次第にその両手の華を振り散らかすものだと思っていたが、それだけではなかった。

 手を振れば、相打つように腰も振る。腰をかがめるて両手を回しながら自分も不慣れな動きで一回り。それから私のベッドにそそくさと移動するとよじ登り、遠慮なく飛び跳ねる。存分に動き回ったところで私のもとへ戻る。つかえていたものが取れたような清々すがすがしい顔にベッドで跳ね回った文句は付け難い。巫女というよりもチアリーディングだった。

「ありがとう。よし、次に移ろう」

 声をかけると、彼女は持っていたポンポンを後ろにおいてまた私の隣で正座をした。

 丁度、夕焼けが赤黒さを極めようとしている時。照明は消してあった。なので、夕暮れは暗くともまぶしかった。

 ライターで蝋燭に火を灯し、その蝋燭を空の丸皿に傾け、我が身を屈めると中心付近に蝋を垂らす。ある程度垂らせば蝋燭の座布団が出来上がるので、それが柔らかい内に蝋燭の尻を押し込めた。

 夕陽とともしびが、床や壁や天井にまで暗いだいだいのような赤を塗り染めていた。

 当時の私も神主になったつもりで、それらしく振る舞い、言葉を述べた。

「今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします」

 私が目配せし、彼女もすぐ倣った。

「今年もありがとうございます。来年もまたお願いします」

 いい終わった彼女に、私は一つ頼み事をした。

「火を消してくれるかい」

 勢いよく首肯した妹は、音が立つほどに息を吸い込むと、一息の限りを尽くして燈の役目を終わらせた。

 手で扇ぎ消すものだと思い込んでいたので、その豪快さには笑う他なかった。その上、彼女もご満悦だった。

 太陽がきっちり大地に押し込められたあたりで後片づけを始めた。

 窓の先は屋根になっていたので、塩を強く放り、水を流し、二人して指でつついて舐めた後に酒も同様に撒いた。

「お酒は飲みたくないね」

 最早、隠すような薄闇の中だったので妹の顔から表情は読めず、呑気な声だけが聞こえた。

「僕もそう思う」

 暗がりの彼女の髪を少しばかりぞんざいに撫でると、その細い髪の毛は絡まることなく逃げていった。


 妹は秋の初めに容体が悪化し、冬が聞こえそうな十一月の半ばに力尽きた。

 私に対してだけ、手紙を遺していた。母から貰った千代紙を丁寧に凝らした遺書だった。

 有難いことに、父や母など他人が見ることを固く拒み、両親は何度も彼女から釘を刺されたそうだ。

 開けてしまえば元通りにはならないように、糊付けは丁寧にしっかりとなされていた。

 一度破れば元に戻ることのない封を開くと、向日葵ひまわりの花の形に折られた色紙いろがみが出てきた。

 色紙の花の中心に、やや乱れのある字で文がしたためられていた。

「このあいだのあれを、夏いがいにもぜんぶやってください。これからもよろしくおねがいします」

 要するに春夏秋冬の節目に、あの私の出鱈目から出た行事を行ってほしいということだ。


 父が何故、あんなことをしたかは後に思い出すことが出来た。

 心臓を自らえぐり取りたくなるほどに、私は激しく己を呪った。

 父がやっていたこと。あれは只の弔いだった。

 妹が赤子で、私が小学校にも上がらぬ洟垂はなたれだった頃、庭先で鳩が無残な有様で死んでいた。どうやら、上空でとびか何かに襲われたものらしい。

 その時に、父はあのやり方で鳩を弔ったのだ。

 なんにも知らない私が行ったせいで三途の川を渡ってしまったかもしれない妹を思うと、今でも問われざる罪の深みに沈みそうになる。

 死者の彼女が橋を引き返すことは、この世を統べることわりによって、叶わないのだ。

 それでも。

 彼女の願いを心の中心に据え、春夏秋冬の節目を今でも飾る。

 帰らぬ彼女の命日と、もう年を取ることもない誕生日も加えた。

 あの日と同じように黄昏たそがれを見送り、そして儀式を終えると手で燈を扇ぎ消す。

 ただ、誕生日だけは特別だ。

 彼女の代わりに彼女のやり方を真似て、蝋燭の火を短い息で消している。

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