#12

「『つちのこ』事件の正体とは、気が遠くなるほどに迂遠な愛の告白だよ。実に文化祭らしいじゃぁないか。私にその感情は解らぬがな」

 固形のラムネを液体のラムネのように喉へと流し込みながら、明智氷菓は言った。

 仮面浪人生の巣窟を、ラムネの詰まった段ボールを上り下りするのは、突き刺すような視線の所為で、精神的に辛いものがあった。力仕事だったので、執行部の男子が何人も手伝ってくれたのが、余計に仮面浪人生の逆鱗に触れたらしく、ボクは危うく死にかけた。英雄は目で殺すと言うけれど、仮面浪人生も大概である。

 氷菓は満足そうに笑うと、約束通り直ぐに「つちのこ」事件の謎解きを始めてくれた。「つちのこ」の腹に刻まれた文字や記号。これらは暗号になっていて、常人の頭脳では到底解けるものでは無い。しかし明智氷菓は違う。彼女にとってこの程度の暗号を解くことなど、アイスクリームを溶かす程に容易いことであろう。

 と、思っていたのだけれど、彼女は存外と頭を悩ませている様子であった。「もしかして『図書館の妖精』にも解けない程難しいのですか?」

 氷菓は頭を横に振り、「そうじゃない。解くこと自体は簡単だったよ。しかし解釈が難しいのだ」と言った。「うーむ」と可愛らしく唸っている。

 いつまでも見ていたい衝動に駆られたけれど、そうは言っていられない。ボクに何か手伝えることは無いだろうかと考えて、ふと閃いた。そういえばボクは右手に丸々とした愛らしいフォルムの「つちのこ」を一匹抱えているではないか。長時間抱えていた所為で、最早「つちのこ」はボクの身体の一部になっていたために気が付かなかった。

「そういえば、ボクの持っているこの『つちのこ』にも記号が書かれていましたよ」

 彼女は驚き半分、呆れ半分といった具合に「なぬ、それをどうして早く言わんかね。見せたまえ」と言って、殆ど強引に我が「つちのこ」は誘拐された。

「つちのこ」ののこちゃん……。

 おさらいになるけれど、のこちゃんに書かれていたのは「♡」である。これだけで一体何かが変わるとは思えぬけれど……。

 氷菓は「ふふっ」と不敵に笑った。

「氷は溶けたよ」「あの、それ決め台詞ですか?」「……言及するのはやめたまえ」「かっこいいですね!」「やめたまえ」「氷は、解けたよっ」「やめろ」「氷解とも掛かっているんですよね、おしゃれ!」「やめろおおおおおおお」

 表情が全く変わらない氷のような彼女が、珍しく頬を顕著に赤くして喚いた。まるで氷が溶けたようである。

 彼女はわざとらしくコホンと咳払いをした。

「もう君と話していると疲れるから、さっさと済ませてしまうよ」と前置きしてから、彼女はその言葉通りに「つちのこ」の暗号の答を示した。

 ここまでが冒頭の言葉が述べられた経緯である。

「これを解読すると『月が綺麗ですね』になる。けれどこれには解釈の余地がある。夏目漱石に倣えばこれは愛の告白だけれど、しかしその確証が無かった。もしかすると別の意味があるかもしれないからね。けれど、君の抱っこしていた『つちのこ』――」

 ボクはそこで言葉を遮って「のこちゃんです」と訂正を加えた。ここは断固として譲れない。氷菓は嫌そうな顔をしてから「のこちゃん」と言い直した。

「のこちゃんには『♡』が書かれていた。これ以上に恋文だと断定できる証拠は他に無いだろう」

 夏彦が「きっと役立つ」と言って「つちのこ」を押し付けてきた時には、「こんなものが何かの役に立って堪るか。腹を立たせるのが精々であろう」と思っていたけれど、まさか謎解き最後の鍵の役割を担うことになるとは、因果の巡りとは不思議なものである。

 いやはや、まさか「つちのこ」事件の正体が愛の告白だったとは。

 しかしならば、犯人は特定出来たも同然であろう。何せ恋文である。そこには宛先が書かれていて然るべきだし、差出人も書かれて然るべきであろう。そしてこの差出人こそが、同時に本事件の差し金でもあるはずだ。

「誰ですか犯人は。教えてください、徹底的に追い詰めます」「言っただろう、これは盛大に迂遠な告白なのだよ。残念ながら差出人は匿名だよ」「犯人は阿呆なんですか」「けれど宛先は書かれていたよ。これも暗号化されていたけれどね」

 氷菓は一人の男の名を口にした。「仇名あだな無一むいち

 驚くなかれ、この名前はあの「猥褻ライブ」事件を引き起こした金髪ギターの男のものであった。何を一丁前に告白されているのだ、あのド変態は。

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