笑い方が好きだってだけだった
日ノ竹京
第1話
その日は、わん、と開けっぱなしの窓から飛び込んできた犬の声で目覚めた。犬は好きだが、そんな高い買い物をできるはずがなく、また生き物を飼うに値するような甲斐性も責任感もないため、彼らとはまだ遠い昔にショーケース越しに爪を鳴らし合った程度の経験しかない。
扇風機の風に、風鈴__いつか物干し竿にかけてから一度も外したことがない__が揺れるのを聞きながら、飼うなら、大型犬だな、とからから頭を回し始め、俺は同居人が身を起こすのを眺めた。
「あたしは、ミニチュアシュナウザーがいい」
同じく小学生じみた関心しかないだろう彼女が呟き、俺は憧れのハスキーを推す。どうせ飼いやしないんだから、言うだけタダだ。彼女はしばらくベッドに座ったままぼんやりと揺れるレースカーテンを眺め、体が目を覚ますのを待った。寝ぼけ眼によだれの跡、ただでさえ子どもみたいな力の抜ける表情をしているのがアホっぽさを極める。
「……っしゃ」
ひょい、といいタイミングで立ち上がると視界が暗く狭まる。伴うすうと頭が冷たくなるような感覚が好きで、そのついでに視界のブラックアウトも好きになった。だが無理に立ち上がると頭痛が走るので、意外にもブラックアウトは高い技術を要する。くたびれたTシャツとハーフパンツでベランダに行き、昼間の気怠い朝日を浴びた。生温い気温、湿度の高い六割方雲の天気、引きこもりやすい良い日とは言いがたいが、雲は白い。ぐいい、と両手を頭の後ろにやって強張った動きで背を逸らす。
誰の手も加えられていない空以外に綺麗なものは特に見えないが、坂の上から街を見下ろせるこの部屋は気に入っていた。遠くに立った鉄塔も、同じ形の積み木を積み上げたようなマンションも全て俺の足の下にある。そうでなくとも、一際高いところというものが好きだった。
右も左も、下もコンクリートだ。誰も欄干に寄りかかる女なんて見ていないから、彼女はしとやかさなど微塵もない表情であくびをした。まあ人がいたとして、自重する恥じらいが彼女にあるのかは疑問だが。
「……何食うべぇ……」
腹は減っていないし、食いたいものも特にない。何食うべ、ともう一度繰り返して、水が飲みたいと欲のないことを思う。
水道水をコップ二杯の朝飯を済ませた後、彼女はテレビをつけて、踊るようにソファに尻から飛び込む。
『____! 役立つ便利グッズ!』
若い女子アナの黄色い声が誘うが、画面はあえなく番組表に変えられた。掃除や洗濯を任されている身としては少し興味があったが、まあそれを買いになんて出かけないから耳を澄ますことはしないでおく。
一通り今放送されている番組名を見たあと、やつは適当なチャンネルを選択し、流れ出した映像をぼうっと眺める。彼女はテレビの向こうの事は全てアニメや映画のような作り物だと思い込んでいるから、天気予報と今の外の天気を見比べて、またシンクロしてるねぇと笑った。
「……雷雨の“雨”とさぁ、“水”で“
寄越されたどうでもいい話題に
でも雨水って海の水だし奥深い名前かもな。
「つまんな」
は?
殴ってやろうかとリモコンを握るが、その上に重い尻が乗っかってきたので諦めてリモコンを離しもがいた。やつは尻を避けるついでに立ち上がり、洗面所に向かった。今日はやつの母親が食料や消耗品を補充しにくる日で、彼女は娘が身だしなみを整えていないと小言が止まらなくなるのだ。まあそのことに関してはきちんと洋服を着ていて洗顔や歯磨きをした跡を見せればいいから正直言って習慣付ければ楽なのにと思うが、やつがペットの言うことを聞くはずもなく一蹴されている。気温の上がる春夏が悪く、やつの体は一日に何度も洗うと削れてしまうらしい。
きゅ、と古くさい蛇口をひねり、彼女はしばらく手の上を水が滑る感覚を心地よさげに楽しんだ。そのあと濡れた手で髪に手櫛を入れ、洗面台に置かれたヘアゴムで右側のぱつんと切られた前髪を顔にかからないようにくくる。同じく片側だけにおさげを作って、ばしゃばしゃと顔を洗い始めた。
顔を上げると、もうしばらく洗濯されていなかったはずのタオルで水を拭う。少し濡れて重たげに揺れる、ばらばらに切られた左側の髪はもう刈った方がいいんじゃないかと思うほど短い。右側は、なんとかこいつの頭に女らしさを付け加えたくて、肩までのストレートヘアとぱっつんの前髪を俺がこまめに手入れしていた。こいつの容姿で数少ない可愛いと思える箇所だが、それがこいつの意思でなく男の趣味とは泣ける。顔立ちはちぐはぐな子どもっぽい表情が相殺しているけれど、まあ年齢的に屁糞葛も花盛りか、悪くない素材を持っているのに。
しゃこしゃこと歯を磨いて、彼女は小言回避に口に含んだ部分だけでなく歯ブラシ全体をすすいだ。びしょびしょのそれをびしょびしょのままコップに立てかけ、満足げな顔で濡れた手を服で拭く。
「よっしゃー」
俺の目を盗み頭の右側に二本角を生やしたまま行こうとするので、急いで洗面台の前に戻らせするりとヘアゴムを抜いた。鏡の後ろの収納から櫛を取り出し、頭の上に持ち上げられた前髪を整える。
「うーーーーっ、前髪邪魔じゃんか!」
ダメだ、と俺の手を止めようとする手を櫛ではたき落とす。若干正気を疑うアシンメトリーの髪型よりはもうベリーショートの方がいいのではと譲歩しかけた時期もあったが、散髪用でないハサミでじょきじょきいかれる髪はもうそれはそれは可哀想でたまらないのだ。頭の所有権を譲らないならもう掃除も何もしてやらないと言ってやっと手に入れた頭の右側だが、多分俺たちの唯一のケンカの種である。
「デコかゆい! 目に入る! 暑い!!」
うるさい! とつられて叫ぶと、やつの声量も上がっていく。
「私の頭なんだから髪型くらい私に決めさせてよ! 丸刈ろうぜ!!」
野球部か! とつっこみ、頭の後ろの跳ねにも櫛を通す。ぶるぶると頭を振ろうとするその顎を慌てて掴んで押さえ、そのままついでにくいっと左を向かせた。
ほら、こっち側は美人だろ?
「知らねーし!!」ぎゃんっ、と野犬並みに牙を剥いて台無しにする。「もーいいだろ!? 充分梳いたでしょ!」
蒸し暑い初夏の空気のせいで普段より暑いからだろう。運動不足のせいで汗もかけずイライラした顔を見て、どうせこの後扇風機の前に縋り付くんだろうと思ったら整った髪への情熱は一気に冷めた。櫛を洗面台に放る。
行くか、とため息混じりに言う。
「うおっしゃーー!!」
直後どたばたとかけ出して、ああぁ、と顔にぶつかるぬるい風にやっぱり櫛を手に取りたい衝動に駆られる。せっかく整えたのに、と未練がましく小さく呟くと、女々しいやつめ、と何故か内緒話をするときのような楽しげな小声で囁かれた。
「自然体が最もあたしの美しさをきわだたあーー扇風機ーーーー!!」
なんだか柔らかいものを殴りたい気分になってきたな、と扇風機の前に飛び込もうと跳ねるやつを見て思う。が、いざ風の当たる範囲に入ろうという瞬間、母親の来訪を告げるインターホンが部屋に鳴り響いた。やつが反射的にめちゃくちゃに傾いた姿勢を立て直そうと空中で抗い、そのままべたーんと床に叩きつけられる。
「んゔッ、………………」
あーあ、と強く顎を打つ瞬間を目撃してしまった俺は思わず目を細めた。あれはいってぇ。しかも子どもの体重ならまだしも、大の大人かっこヒキニートだ。
お前、歯ぁ大丈夫かー。
骨折れてねーかー。
初外出は病院になりそーだなー。
あれ? と言いたげにインターホンがもう一度鳴る。ヒキニートの身体がぷるりと震え、無駄にか細い泣き声が頭の下から漏れ始めた。
わー、もう。こけたぐらいで泣くなバカ。
放って置くのもいいが今日は母親が待っているので、しかたなく周りを見てすぐそばにボックスティッシュを置いているテーブルがあることに気づく。腕を伸ばし、テーブルの上からボックスティッシュをやつの顔のすぐ隣に滑り落とした。何枚か引っ張り出し、彼女の涙を拭ってやる。
「ふぐ、ん、」
ほら、お前の母さん待ってんだから。
声をかけると、彼女は素直にこくんと頷いた。俺がある程度顔を拭いた後、肘をつくと痛むのか、腕はぺったり床に付けたまま鼻をかみ始める。
やがて玄関に向かったタイミングで、三回目のインターホンがリビングで響くのを聞いた。すぐに鍵を開け、がちゃんと扉を押し開ける。
「んー」
「あ、何してたのよ」
「こけてた」
「はぁ?」
大きく膨らんだビニール袋を両手に持って、だるそうな顔をした女が玄関に立った。狭い玄関で蟹歩きになりながら靴を脱ぐ。
「ルイくんも元気?」
俺が片手を上げると、それを見て彼女がこくんと頷いた。ヒキニートの鼻ぐらいの身長で、絶対やつには持ち上げられない重そうなビニール袋を部屋に運んでいく。
「うわ、なんであんたクーラーもつけないで……。次来たときには死んでるんじゃない?」
「だいじょぶだよ。アイスいっぱい食べてるから」
温暖化の影響で夏の暑さは異常性を孕み始めているのに、やつは全く呑気な顔だ。諸事情によりはっきりとした記憶が幼い頃までと最近の数日間しか無いのだから仕方ないと言えば仕方ないのだが、母親は少し真剣な顔でずんずんと机に近寄りエアコンのリモコンを掴む。
「頼んだよ?」
母親が誰にともなく言い娘は首を傾げる。言外に叱られた俺が内心で電気代のことをうだうだ言い募るが、誰も察してはくれやしない。
「ご飯ちゃんと食べてる?」
「ちゃんとは食べてない」
「えー? 今日何食べたの」
食べた、に該当するのは食べ物だ。やつは左に瞳をころんと動かして、「なんも」と答える。
はあ、とため息を吐き、母親はキッチンに向かった。
「腐っちゃうんだからちゃんと消費してくれないと困るんだけど。『太ってるけど健康』ならまだいいけど、ご飯食べないのはダメでしょ? 水もちゃんと飲みなさい」
んー、と簡単に作られた昼飯で頰をいっぱいに膨らませながら頷く娘に、彼女は呆れたように何度目かのため息を吐いた。発言の矛先のほとんどは俺なので、了解の意にいそいそとやつのグラスに麦茶を注ぐ。でも正直言って料理は苦手なんです、習ったわけでも無いし。そもそも食ってくれねぇし。
……食わないお前が悪い……。
思わず呟いた呪詛は意味が伝わらなかったらしく、無かったことにされた。
「今日どこか出かけない? その服も去年から着てるでしょ。新しいの見に行こうよ」
「べふにいいよ、……まだ着れるし。おんなじようなの適当にちょうだい」
「……はいはい。欲しくなったら言いなね」
外に出るか、はやつに決定権がある。強要もしないが、母親は残念そうだった。
「子供の頃はもっとおしゃれ好きだったのに……。どんどん地味になるわ服着るのが嫌とか言い出すわ髪はボサボサになるわ、もっと女の子らしく、ていうか人間らしくしてぇ……」
分かる、とその疲れた両手を握りたいところだったが、手を伸ばしたところをやつが反論しようと彼女にびしっと指を指し、邪魔をする。
「それはほんとにちっちゃい頃の話じゃん! スカートとかレースとかもう興味ないし」
「でもアンタ似合ってたのよぉ……。今だって、せっかく背高めなんだからもっとかっこいい服とかさ。絶対似合うのに……」
「絶対ヤ。暑苦しい」
「ゔゔゔルイくん髪はホントに守っててね」
了解、と右手の親指を立てた。
「左側は渡さないよ」
右側ロングにするか。
「ぐ、ぬぅ……。ロングは勘弁」
「ん、ロング? あー、でもエミはあんまりロング似合わないかもね。あ、美容院行って男子っぽいショートにしてみる? 昔してたけどあれ可愛かったじゃん」
「え? 分かんないし外出るなら嫌」
「似合ってたのよ。ちょっとぐらい出かけてみたらいいのに〜」
「暑いのにお出かけなんかするかー」
そして冬になったら、寒いのに、だ。もぐもぐっ、と料理の残りをかき込んで口を塞いでしまうと、やつはぱしんと勢いよく両手を合わせた。
「るいるん後は任せたー」
……へーへ。
なんだ、るいるんって。そんな呼ばれ方されたことないわ。不平が頭から外に出ることはなく、俺は淡々と空になった器を持ってキッチンへ向かう。それを見て母親も立ち上がり、帰るのかキッチンを通り過ぎて玄関に向かった。
「おかーさん、帰る?」
「ん、ばいばーい」
「どわわ」
もしゃもしゃと母親に髪をかき混ぜられ、やつの頼りない身体はほとんど抵抗せずにぐらぐらと揺れた。
「じゃあね。次はここの日に来れるから」
最後に玄関脇の壁にかけられたカレンダーにくるりと丸をつけて、母親が出て行く。数瞬太陽を照り返す水色の廊下や陽炎が揺らめく道路が垣間見えたが、やつが興味を持った様子はない。まっすぐに母親を見て、にぱにぱと無邪気に笑っていた。
腹がいっぱいになって眠たくなったのか、彼女は部屋に戻るとベッドに倒れ込んで昼寝をした。一時間ほど眠ると一度うっすらと目を覚まし、彼女だけがもう一度眠る。クーラーの威力は大きく、窓を開けっぱなしでありながら部屋はよく冷えていた。
俺はベッドから起き上がり、自由時間(ある意味では勤務時間とも言えるが)に入ったことを喜んだ。やっと宿主に合わせて行動する必要がなくなった。
クーラーの電気代が気になるので、まずそいつの温度を少し上げた。扇風機もつけているから、体調を崩すことはないだろう。それから軽く部屋を片付け、掃除機をかけ始める。
まるで檻のような部屋、年不相応な頭の中と、虫食いのある記憶について、ここら辺で彼女の過去を説明したいと思う。過去と言っても、記憶のない彼女に取材はできないので人伝いに聞いた話だ。
始まりは中学生の頃彼女のクラスであったいじめ。いじめられっ子は大人しく目立たない子で、絵は上手くないが漫画を描くことが好きだったらしい。隠していたその趣味がいじめっ子達にバレ、バカにされていたのがやがていじめへ。クラスメイトも気づかないような水面下で行われており、どうやら長期間続いていたらしい。あるきっかけでそれを知った彼女がいじめられっ子を庇った。ただ正義感に溢れた人間というよりは、珍しく自分の物差しを持ってる人間だ。
その子のことをよく知らないのに、なんでその子に価値がないって分かるの? らしい。
全く正しい理論を挙げた割に彼女が言い負けた理由は、彼女自身もいじめられっ子とは親しくしていなかったからだ。趣味レベルの漫画に価値はないが、人間の価値はそんなもので決まらない。けれどただのクラスメイトでしかない彼女は、他の良いところに心当たりがなかった。いじめっ子達は口をつぐんだ彼女を反抗した罰のように他の目にも触れるよういじめ始めた。
けれど、クラスメイトのほとんどが彼女らのことに関心を向けなかった。見ないフリを通り越してどうでもよさげに無いものとして扱った。やがて周りに当たり前のことを求めるのも諦め、彼女は全部俺に押し付けて眠った。こちらはやつのことなんか何も知らなかったのに、俺は唐突にやつに人生を投げ打つことを強要された。
恨んでいないと言えば嘘になるが、それは過去のことだから今更言うと変な感じだ。
今は、目を覚ましているだけマシ、と言ったところか。幼児退行に近い症状や最近の数日間しか覚えていられないといった記憶障害があるが、それは嫌なことを思い出さないためらしく時間が癒してくれるのを待つのだとか。見知らぬ人と関わるのを嫌い、無害と分かっている物以外に興味を持つことがほとんどない。最近は俺が暇つぶしに持ってきてもらったトラウマを刺激しなさそうな本いくつかに興味を示したくらいか。そんな感じである。
こいつが俺を必要としなくなったときを親離れと呼ぶのか子離れと呼ぶのか、それだけが疑問だが、社会不適合者のままこの部屋で一生過ごしていたい気も、彼女が普通に働いたりするのを見てみたい気もしていた。まあいずれ彼女の親が死んだりして外に引きずり出されることにはなるだろうが、なるべく清々しい挑戦の日を迎えてほしいものだ。そのうち結婚とかするんだろうか。その頃には俺はもういないんだろう。ていうかむしろ俺の知らないところで……あんまりそういうのは見たくねぇな。
ぎぇえ。
掃除を一通り終えて。洗濯機に使用済みの洋服と、洗面所のタオルも忘れずに放り込んだ。洗濯機が回っている間は時間ができるので、ゆっくりテレビでも見ようとリビングに戻る。
やっぱりテレビよりも、と俺はもっと良い物を見つけてその前を素通りした。未だ開けっぱなしの窓にかかったレースカーテンが真っ赤に染まってふらふらと揺れていた。さっきまでぐずぐずに曇っていたのに、また晴れたのか、と夕陽を拝もうとレースカーテンを引き開ける。
曇ってはいたが、隙間なく綺麗に雲に覆われた空はまるで赤色の絨毯が敷かれたみたいだった。遠い、唯一の雲の切れ間から太陽が目を細めてこちらを見ている。
綺麗だな、とぼんやり見つめ返した。今眠っている彼女にも見せてやりたかった。特に悲しいわけでもないのに、不意に喉が苦しく枯れる。
本来、彼女は泣かない子供だったそうだ。痛みや恐怖に鈍感で、あまり何が嫌だとも言わない子。だからちょっと寂しかったりしたのよ、と俺に言っても仕方のないことを漏らした彼女の母親の声を思い出す。俺としてはこの情けない性分をどうにか直したかったのだけれど、結局今も直らないままだ。
しばらく涙を拭いながら突っ立っていると、不意に写真を撮ろうと思いつく。仲の良い従兄弟の趣味に影響を受けていたとかで、壊れかけみたいなカメラがこの部屋のどこかにあるはずなのだ。けれど夕焼けはもう終わりかけていて、まあいいか、とカーテンを投げるように閉めた。
部屋が暗くなる。
じじじ、とかすかに蛍光灯が音を立てた。洗面台の前に立って、俺は目元が腫れていないかと鏡に映る自分をじっと見つめた。ふわふわと気ままに揺れる、ばらばらに切られた左側の髪はもう刈った方がいいんじゃないかと思うほど短い。右側は、なんとかこいつの頭に女らしさを付け加えたくて、肩までのストレートヘアとぱっつんの前髪を俺がこまめに手入れしていた。こいつの容姿で数少ない可愛いと思える箇所だが、その中身が可愛いもクソもない野郎とは泣ける。あいつが目覚めているときの表情はもっと柔らかくて無邪気なのに、向こうにそんな表情は浮かんでいなくて、上がり気味の細い眉と冷たい目が睨み返してくる。華奢な首も薄い肩も何気ない立ち姿も、隙なく誰かを威圧するような雰囲気に満ちている。性別が違うのもあってか、俺は一度も自分の体を自分のものだと思えたことがなかった。あの子でありながら違い、自分自身だとも思えず、ふとこの女は誰だと思う。
なめらかな白い頰を撫でようと軽く丸めた手を伸ばせば、手のひらで受け止めるのも嫌なように指の後ろで止められる。
会いたい、と思うことがあった。
他人として守りたいと思った。兄弟とかでもいい。
知らない彼女のふりなんかしないで、こちらはこちらとして生きることも本当はできたんだ。
彼女の両親に頼まれたからではなく、俺が守りたいと思ったから守ってきた。
なのに。
俺は中々大きな仕事をこなしたと思うのに、そのうち途中で切り捨てられてしまうだろうことに時々腹が立った。
にい、と口角を上げてみるも、強張っておかしな顔になる。
彼女が目を覚まして、澄んだ瞳を瞬かせる。一世一代の変顔を繰り出している俺を鏡越しに見て、にいっとお手本みたいないたずらっぽい笑みを浮かべた。
やっぱり笑顔は彼女に似合う。
笑い方が好きだってだけだった 日ノ竹京 @kirei-kirei
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