11話 洗礼
私は夜の自由時間に、一人で運動場に出て、外周をあてもなく歩く。ナツミは脱出に乗り気ではないが、事の重大さはわかっていると思う。彼女を一人残して脱出してしまえば、彼女はどうなるだろうか? 一般には、人が一人でいることは精神的に小さくないダメージを与える。
私は椅子に座って、空を見た。月が光っている。星がまたたく。都会では見られない、澄んだ空だ。下方には、点々と住宅街の光が見える。ここは山の上だから、全てが見下ろせる。
「何やってるんだ!」
職員は、普段の幼い子どもに接するものと相反した、強い口調で怒鳴った。さすがに我に返って、振り返ると、真顔の職員がいた。私は何かを言わなければいけない。
「空を見ていました」
「時間外に外をウロチョロするのは規則違反だぞ?」
「時間外? いえ、まだのようです」私は時計を見た。まだ帰る時間ではない。
「聞かなかったか? 今日は特殊な時間割だから、さっさと帰れって」
「特殊な時間割から元に戻ったのでは……?」少年たちから、実は普通の時間割になったと聞かされていた。だから、元に戻ったのかと思った。
「はは、知らねえなあ? ……しかも、お前、まだ『洗礼』を受けてなかったんだっけ?」
「洗礼?」
「前も見ただろ? 今からお前が経験することだ。さぁ、こっちに来い」
私は立ち止まって黙った。
「さっさと来い!」
職員は怒鳴り、私の手を勢いよく掴んで、引きずる。中庭から、普段は通ることのない廊下を通った。こんな道は行ったことがなかったし、こんな声は聞いたことがない。何もかもが普段と違っていた。彼はもっと幼い者に対するような口調のはずなのに。私の体調は明らかに変になっていた。動悸が酷く、めまいがする。普段だったら振り払えるだろうに、なぜか身体が硬直して、何も考えられない。手を振り払うこともできたが、そうしたらもっと何かを言われるように思えたから、やめた。
部屋に入って、無機質な椅子に座る。
「ほら、両手」
私は両手を出した。すると、職員はおもむろに真麻を取り出した。私は衝動的に手を引っ込め、身を反らした。
「は? 大人しく従えよ! 罰がもっと酷くなるだけだから」
職員はさらに怒鳴った。私は静かに手を出した。職員は手をきつく縛った。真麻の成分が肌を刺して痛い。
「これ首にかけろ」職員は木製の板を首にかけさせた。『私は時間外に外に出ようとした悪い子です。虫未満の悪い子です。なので夕食が食べられません。餌をあげないでください』
「ほら、行くぞ」
「どこに……?」
「決まってるだろ? 食堂!そんなことも分からないのかよ!ほら立て」
私は立ち上がった。だが、首に掛かった板が重く、ふらつく。
「さっさと行くぞ。次バランス崩したらコレでぶったたくからな」職員は警棒をちらつかせた。
「警棒はそのような用途で使うべきでは……」
「黙れ!」
突然警棒を振るわれ、私は尻もちをついた。受け身がとれず、通常より強い痛みが走る。
「ほら立てや」
腕をつかまれ、無理矢理立たされた。私は黙ることにした。
私は気をつけていたが、腕も前方で固定されており、バランスが取れずに、ふらついた。私がふらつく度、職員は怒鳴り、警棒でぶった。ある衝動が身を震わせる。私はそれを衝動のままに彼にぶつけることもできるが、そしたらまた、あの日と同じになるだろう。
しばらくして、食堂についた。普段よりかなり時間を要した。私たちは食堂の入り口付近で止まった。まだ夕食前なので、私たちの他には誰もいなかった。
「ここで黙って立ってろ。俺が許可するまで動くなよ?」職員は、私の両足を縛った。不自然な姿勢なせいで身体が震え、バランスが取れない。両手が汗と痛みで固まっている。
「ほらちゃんと背筋を伸ばせ! 猫背になるな!」
私は腕の重心と看板の重さに抗って、背筋を伸ばした。
「ここで反省しろ」
しばらく立っていると、夕食を摂りに、たいようの子たちとその職員が現れた。職員は私を見つけると、指をさして笑顔になった。
「みんなぁー見て見てー? 悪い子だよ-? ぶたれた跡もしっかり残ってるねぇ? こおんなに身体が大きいのに、恥ずかしいね!」
職員は全員に聞こえるように言って、食堂へと引率した。職員の一声で、たいようの子らはしきりに私の方を見た。一瞥しただけで無視して食堂に入る者もいたが、私のことについて話す人もいた。だが、たとえどれだけ悪いことを言われていても、私は無視しなければいけない。そもそも、手足を自由に動かせず、板も重りになっているので、殴りかかれるはずもない。私は待った。私は視線を上に向けた。蛍光灯が刺すように光っていた。だが、彼らの方に視線を降ろさなかった。
しばらくすると、食堂から匂いがした。手足首がずっと圧迫され、痛んでいた。真麻が肌に擦れ、かぶれかけていた。
「あんな悪い子はね-、お食事も食べられないんだよー? いい食事を食べられなかったらね-、ますます頭がおかしくなるんだよー? かわいそうだねー」
私は疲弊していた。目を瞑って眠ろうとしたが、身体に過剰な負担が掛かって、痛みが走って眠るどころではなかった。さらに、周りが騒がしかった。だが、私について言っていることは、聞き取れた。学校や仕事で聞き慣れた言葉が、何度も反芻して聞こえた。学校でのある場面、仕事でのある場面が、次々と思い出される。
「さて、ここに座っている、いい子たち! せーの、いただきます!」
所長が来て、定例的なセリフを言った。
「いただきます!」
利用者たちは食事を食べ始めた。匂いが、そこら中に充満する。みんなが楽しそうに会話している。私は一言も喋らずに、ただ、利用者や職員の目線を浴びながら、佇む。かぞくの二人は、私の方をちらと見たが、話しかけてはいけないことになっているから、誰も話さない。私の方にも来ない。手と首の疲弊で、より腹が空く。
施設の利用者がそれぞれ、楽しそうに会話をする。私は何も聞きたくなかったが、耳をふさげず、際限なく会話が流れこむ。
しばらくしていると、前、ケイをいじめていた男女の集団が、私の前に来た。集団を牽引している少年は、私を指さした。
「わ、ヨゴレだ! まるで子供みたいじゃん!」
彼が食堂に聞こえるように叫ぶと、集団はどっと笑った。
「知ってるぞ? お前がヨゴレだって? こんなのと一緒のナツミちゃんは大変だなぁ!」
彼らは私をしばらく嘲笑して、彼らは笑いながら机へと戻っていった。私は何も言い返さなかった。
どのくらいじっとしていたのか、時間感覚を失ったころ、我に返った。気づけば、利用者は誰もいなくなっている。そこだけ記憶が抜け落ちたように、飛んでいた。黙って立っていると、職員が近づいて私をやじった。
「おい、いつまでじっとしてるんだ? そんなにここで恥辱を受けるのが好きなのか?」
「……」
職員は私の首に下がった看板を外し、縛った紐を解いた。無理な姿勢から解放され、私は思わず息を荒げた。
「おいおい、本当に恥辱に晒されて興奮したのか? そうなんだろ、お前らはみんな普通じゃないからなぁ」
私は手を動かして正常に機能していることを確認した。手首には赤く紐の跡が残っている。汗か、真麻の成分のせいか、少し被れて痒かった。首元にも痛みが残っている。
「用事が終わったなら、戻ります」
「……フン。ああ、いいよ」
職員はあからさまに舌打ちをしたが、私の行動を許可した。彼は明らかに私を煽っていた。下手に何かを言うと、激高されて更に激しい罰を受ける恐れがあったから、私は彼の言葉を聞かないことにした。
私はポケットに手を入れる。寮へと歩く。まだ消灯していなかったから、人々が歩いていた。普段より強く視線を受けた気がした。私は早く部屋へ戻りたかった。この時間は部屋の移動が多く、人々をかき分けるのに苦労した。私はしばらく歩いた。
私は立ち止まった。どれだけ歩いても、同じような部屋が、私を見つめている。どこに帰れば良いのか分からない。帰るべき場所についての記憶が、一時的に消滅している。太陽の張り紙が至るところにあって、それらは顔があって、みんな私を見ている。
手首の感触がまだ残っている。蛍光灯が眩しい。首もとに風が刺さって痛い。人々がざわめく。誰が誰なのか判別できない。彼らは何かを噂している。さっきの反芻がうるさい。壁が、天井が、床が、眩しい。私は思わず目を瞑り、耳を塞いだ。手首が外界に触れて痛い。服が刺すように纏わり付く。動悸がうるさい。まだ誰かの声がする。疲れて、眠たくて、私は床に横たわりたかった。だが、横たわることはさらなる罰を受けるから、するべきではない。したくない。
「コウ!」ナツミの声が背後からした。振り返ると、神妙な顔をしたナツミがいた。我に返った。手をポケットに入れなおす。
「大丈夫?」
「何がですか?」
「分かるでしょ! さっきの!」
「はい。身体的にも精神的にも後遺症はありません」
「しゃべり方はいつものコウだ……」
「そのようです」
「でも、ずっと耳塞いで、唸ってた」
「唸ってた?」私は唸った気がしなかった。無意識にそうしていたから気づかなかったのだろう。
「うん。ぜったい、普通の様子じゃなかったから」
「それは久しぶりに起こりました」
「ね、手、出してよ」ナツミは私のポケットの方にに目をやった。
少し考えてから手を出す。紐の跡があった。赤くなって、かぶれている。ナツミは私の手首を持って、撫でた。
「こっち来て」
いつの間にか、眩しさはなくなっていた。普段と同じような景色だ。さっきの私の認知は、気が動転したことによる異常だとわかった。閑散とした通路に、私とナツミが来ると、彼女は耳打ちした。
「ね、ここさ。普通のところじゃ、ない、よね?」
「はい、そう思います」私は言った。「あなたはどう思いますか」
「私も、変、だと思う」ナツミはうつむいて、小さく言った。
「それはずっと思ってきたことでしょうか?」
「……ずっと、ここから正当に卒業することに躍起になってた。だから罰を受けてたり、問題を起こした人のことを軽蔑してた。マメたちが職員になったり卒業したりしてから、もっと酷くなってさ……でも、コウたちど出会えて、まだ頭が柔らかくなったかも」
「なぜ卒業にそれほど偏執的になっているのですか?」
ナツミは何も言わなった。
「話したくなかったら、話さなくてもいいです」
私がそう言うと、逆にナツミは話し始めた。
「早く卒業して、おかあさんのところに帰りたい。きっとおかあさんは、大変だから。今度は無能なんかじゃないよって、言ってあげたい。家事のお手伝いもするし、お金も稼ぐ。私はそういうことができるって、証明してみせる」――類は友を呼ぶんですよ。マメの言葉を思い出す。
「……ごめんね。ずっと私は怖くなってたんだ。罰を受けるのが」ナツミはうつむいた。だからあんな事実を知っても、ずっと否定してた。でも今は違う。
「ともかく、ここついてを考えなければいけません」
「……脱出する。こんなに変な場所、一秒だっていてられないから」
部屋に戻って考えよう。ここじゃ誰かに聞かれるから。ナツミは私に小さく言って、部屋に戻った。
実際に脱出を意識すると、施設の全てが我々の脱出を阻むためのもののように見えてくる。入り口にはいつも職員が配置されているし、運動場からだと簡単に出られないよう、引っかかりのない塀が高くそびえている。さらにここは山奥で、職員から逃げながら歩いて降ろうとしたら、道から外れて、野生生物に襲われるだろう。さらに、スマートフォンの類は没収されており、助けを求めることはできない。
「作戦は? 考えたんだろ?」ツバサは部屋の広縁で椅子に深くもたれながら聞く。
「大まかには考えました」私は口頭で作戦の概要を説明する。
「夜中、最も職員らの警備が手薄になる時期に、脱出します。幸い、ここは刑務所ではないので、特に夜中での警備が非常に手薄だと感ぜられます」私は夜の警備についてを思い出した。だいたいパターン化されているようだった。
「うん。でも、出たら山の中だぞ。大丈夫なのか?」
「はい。外に利用者を運ぶ用の車が駐車されています。それを利用します」動いているのを見たから、ガソリンはたぶん注入されている。
ツバサは息をのんだ。「鍵はどうする? 運転は……?」
「職員室にキーが掛けられているので、それを奪いとります。また、私は更新済の普通免許証を持っているので、運転ができます」私はバッグから普通免許証を取り出した。
「よし! これで脱出後のことは大丈夫そうだ。車さえあれば、素早く逃げられるな!」
「はい。免許証があるため、脱出後、公道を運転しても警察から注意を受けることはありません」
「警察に見つかった方がいいんだけどね!?」ナツミは苦笑いで答えた。
「さらに、このような地図を書きました」私は施設の外の地図を出して、ナツミに渡した。
「これって……?」
「施設の外から、街までの外観図です」
「え! すご! 全部書いてるじゃん! どうやって……?」ナツミは地図を読んで、口を開けた。
「バスに乗った際、覚えたものです。運転する際、これを読んで指示してください、運転するときはそれに集中するので、頭の中で思い出してられないので書きました。……ただ、半分趣味で書いたものなので、一応、といった」
「コウって凄いんだね……」
私は黙った。褒められたとき、どのような反応をすればいいのか分からなかったからだ。ナツミはそれを察したのか、微笑んだ。
「ありがとうって言えばいいんだよ」
「ありがとうございます」
私が言うと、ナツミは斜め上を向いた。
「へへ、私もさ、これ、最近知ったんだ。マメがね、私が前より卑屈だったとき、教えてくれたんだ」
「ナツミ……」ツバサは言いかけたが、ナツミがそれを元気に遮った。
「だから、さ。マメのためにも! 絶対に脱出しないと! 脱出したあと、この施設の変なところをみんなに言えば、きっとなんとかなる。だよね?」
「うん!」
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