#7
「人形」が人間として暮らすためには、多少なりとも悪性が必要であった。意外と見落としがちだが、人間生活が善性のみで廻ることは絶対にあり得ない。そこに多少の悪意が介在し、さながら潤滑油のような役割を果たすことで漸く廻るのである。共通の知人の陰口で盛り上がったり、立場が上の人間に反抗する為に結託が生まれたり、例を挙げればキリが無い。篝はまず、これに適応する必要があった。
なんて、言葉で述べるのは簡単だが、「人形」にとってこれは非常に難しいことである。そもそも「人形」は人間に奉公することを想定して作られている。究極の性善説――それが「人形」の宿命である。篝はまずこれに真っ向から抗う必要があった。これを他で喩えるとしたら、時計に左回りで回ってくれとお願いするようなものである。
ただし、時計と異なるのは篝には明確な意志が存在するということだ。これに篝が取った手段は聞くも馬鹿らしい程に単純なもので、端的に言えば物理的な破壊であった。「人形」の善性はあくまでもからくりによる産物である。ならば、それに該当するからくりを損傷させることが出来たならば、善性の桎梏から解き放たれることになる。幸い、何処が善性を司っているのか、篝は熟知していた。それは何も特別なことじゃない、からくり特有の感覚であった。ロボトミー手術を彷彿とさせるこの原始的な手段は、しかし酷く効果的で、詳細な手順は省くけれど、彼女は見事に真の意味で人間性を獲得するに至った。
篝が「人形」だと確信する人間は居なかった。一人を除いては。
篝は様々な職業を転々としていた。新聞配達から飲食店のウェイトレス、企業の受付、神社の巫女、工場の作業員、タクシーの運転手。からくり故にどれも難なくこなせた。彼女がここまでして職業を変えていたのは、徹底した危機管理意識からであった。火のない所に煙は立たない。根源不明の「あいつは『人形』ではないか」という噂が少しでも立てば、篝は面倒事になるためにさっさと退散した。
そんな紆余曲折を経て看護師になった。
ここで出逢った一人の「せんせい」が彼女にとっての転機であった。まあ「せんせい」とは言うが、別にその人が政治家とか教師とかいう訳ではなくて、単に篝が恩師として慕っているだけのことである。曰く、その「せんせい」とやらは私によく似ていたと言う。いや、時系列的には私がその「せんせい」に似ていたのだろう。具体的に何が似ていたのかは、篝とて言語化出来ないそうだが、身に纏う空気とか考え方というような、内面が似通っていたそうである。「せんせい」は今際の際を争う老年の女性患者であった。篝は彼女の日常的な世話を任された。朝の検温に始まり、ご飯の配膳、排泄の手伝い、それらの間にする世間話など多岐に亘り、次第に仲を深めていったという。「せんせい」はある時に、篝へこう切り出した。
演技は疲れるかい――と。
その真意を最初こそ図りかねたが、どうも「せんせい」は自分が「人形」であることを見透かしているらしいと気付くと篝は大変に動揺したが、しかし「せんせい」の表情を観察する限りに於いて、彼女には害意が全く無かったものだから、直ぐに落ち着いたと言う。それどころか、彼女には共感の意さえ見えた。
「わたしも疲れたさ、もう。篝、君には打ち明けよう」
その「せんせい」こそが、放火魔であった。その女性は篝にとっての「悪性の恩師」であった。何か洒落たルビを振れそうな文言だけれど、これは篝が本当に言っていたことだ。「せんせい」には病的な魅力があった。彼女の思想はどれも危険だったが、篝はそれを人間的と解釈した。人間になりたかった篝にとっては、これ以上ない「せんせい」だった。
「せんせい」は篝に一つのお願いをする。銀色のオイルライターを手に握らせながら。
自殺未遂を除けば、それが初めての放火だった。そしてこれが、彼女が放火魔となるきっかけ。燃やしたのは、一人の人間であった。
「わたしはもう長くない。だから篝、お前にお願いしたい。わたしが寿命で死ぬ前にわたしを燃やして殺してくれないかい。わたしは知りたい。燃え死ぬってどういうことなのか。これは償いじゃない。わたしの好奇心だ」
篝は「せんせい」を深夜に車椅子で外へと連れ出して、そこで彼女を燃やした。
深夜。風すら遠く、川のせせらぎばかりがやたらに木霊する凪の中、土手に転がった車椅子。金属音。火柱の音。その後に悲鳴がつんざく。目の前には囂々と燃え盛る豆電球のような光。蛍のように淡く煌めき立つそれを、篝は「美しい」と、そう思ったそうである。
それは多分、時計塔が燃える様と同じだっただろう。
「どうして僕を『先生』なんて慕うんだ? お前にしてみれば、その言葉は特別なんじゃないのか。だってほら、お前のその気取った口調だって『せんせい』の真似なんだろう」
篝の心臓に彼女から手渡された刃物を突き立てながら私は問うた。その用意周到さを見て、私は篝が最初から本当に死ぬつもりでここに来たのだと悟った。「人形」も心臓の辺りに大事なからくりがある。それを一刺しにすれば一切の機能が停止する。
「『せんせい』は確かに教えてくれたさ。放火の楽しさと美しさを」刃物を突き立てられているというのに、篝はいつもと変わらない。亜麻色のすれからした目。見窄らしい癖っ毛。白い肌。嗄れた声。「でも――」
私は何も言わない。何か言ったら、声が裏返ってしまいそうだった。
「あの人はこの燃えるような感情を教えてくれなかった。ありがとう先生。わたしの心に火を付けてくれて」
と、そこで篝の表情が明らかに変わった。柔らかくなった。目の奥が焔のように光っている。口調も暖かい。まるで、別人のようだ。
いや。どうだろう。それは変わったのではなく、戻ったのか。
いつかの「篝ちゃん」の前の彼女に。
幸せだった、彼女に。
時計が巻き戻ったのか。
「あの日、ボクは多分やっと生まれられたんだよ。ちょっと、変だけどね。だから、ありがとね、先生。今までも、これからも」
私は篝を何だと思っていたのだろう。
相棒か。
友人か。
人形か。
犯罪者か。
判らない。でも確かに言えるのは。
「大好きだよ、先生。ひとめぼれでした」
私は一度も。
篝を。
そんな目で見たことはなかった。
それは多分、私は何処かで篝を人間としてではなく、からくりとして見ていたからだ。
でも篝は違ったのだ。
彼女は人間だったのだ。
何処までも。何処までも。
恋に落ちるほどに。
燃える心があるほどに。
たとえ心臓を刺して血が流れなくても。
たとえ冬の日に白い息が上がらなくても。
最初から最後まで。
公園で会ったあの日から。
亜麻色の目が燃え盛る時計塔を映さなくなるその時まで。
篝は、人間だったのだ。
ごくごくありふれた平々凡々の。
私と同じ、人間だった。
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