#2
当たり前だが、私は大成しなかった。芸術の才はあったのかも判らない。しかし、余りにも趣味が悪かった。自覚はある。
そもそも、アートなんて今の御時世向かい風だ。嘆かわしいが現実だ。この醜態を見よ。アートの道の途絶えた私は今や、四畳半のアパートでその日暮らしだ。
何を隠そう、時代はからくり。それに拍車を掛けたのは、「人形」である。
感情を学習するからくり人形。
一体どんな技術が使われているのか、皆目見当も付かない傑作である。
普及の早さは瞠目ものであった。こいつが身の回りの世話から公衆には言えないようなことまで、何から何までやってくれるのである。
見た目は人間と変わらない。寧ろ、人間よりも整っているかもしれない。意思疎通に従来の不自然さが一切介在しない。故に「不気味の谷」も起こらない。人間と遜色ない完璧な自立型からくり人形。
友達。そんなものは「人形」で良い。
恋人。そんなものは「人形」で良い。
人間関係の希薄化が社会問題に発展するほど、「人形」は現代社会に浸透した。
一家に一人「人形」の時代。
しかし私は「人形」に懐疑的である。「人形」は美しくないからだ。
美は不完全なものにこそ宿る。
正確無比に時を刻む秒針然り、こういうものは私に言わせれば美しくない。
腕の欠けた石像。桜の枯れる花吹雪。朧雲に隠れた満月。誰も知らない深夜の雨。人の喧噪に隠れた烏の唄。
美しいとは、そういうもののことを言う。
だからこそ、「人形」は美しくない。美しくないから、私は「人形」が嫌いだ。
つまり、そういうことである。
「人形」のアナウンサー。朝の報道ニュース。四畳半に鎮座するブラウン管テレビ。珈琲を啜りながら私はそれを見ていた。いつもよりも不味い。絶対、朝っぱらから「人形」特有の完成されすぎたが故の醜さを目の当たりにしたからだ。
カーテンを開くと日光が眩しくて、窓を開くと小鳥が囀って挨拶をしてくれる。冬の寒さに身を震わせて窓を閉め、顔を洗って、珈琲を淹れて、今日読む分の文庫本を開く。しかし本に珈琲を零してしまって、静かな苛立ちが募る。それで囀る小鳥がうるさくなって、夕飯は焼き鳥にしようと心に決める。そういう人間然とした一日を私は送りたいのだが、「人形」の所為で台無しだ。
嗚呼、美しくないな、本当に。
確かに「人形」は人間と違って原稿を噛むことはないし、笑顔が崩れることもないけれど、人間臭さを全く感じない。
人間性はあるけれど、人間としての味が無い。
善があっても「アク」が無い。
苦みの無い珈琲みたいなものだ。珈琲は、苦みがあって成り立つ美味だろう。
激しく陳腐。「人形」の人格には、深みや豊かさがない。
ついでに、読み上げている「放火魔」のニュースにも聞き飽きた。もう何度同じ文言を聞いたことか。そんなだから、取り留めの無い思考に拍車が掛かってしまう。
「犯人は愉快犯。どうしようもない人格破綻者」
と、概ね要約するとそのようなことを「人形」が述べたところで、私はテレビを消した。気持ちとしては、リモコンを投げつけてやりたいくらいだった。からくり人形如きが知ったような口を利くなよ。
もののあはれを知れ。
壁掛けの古時計を見る。秒針が凍っていて、時は全く進まない。故にこいつは時計としての機能を全く果たさないのだが、これを見ると私の心は落ち着きを取り戻してくれる。かたつむりの渦巻き模様。反時計回り。渦巻き町。
「外でも行こうかな」
珈琲を排水溝に捨てて、私は支度を始めた。
珈琲が儚くて美しいのは、ぬるくなった途端に世界一不味くなるからだ。
○
深夜。冬の寒さと雪の白さ。
私は山を登っている。
朝に四畳半の城を出て、美術館に行って教養を深め、水族館に行ってシャチと戯れ、古本屋でジェンダー論を立ち読みしていたら日が暮れた。場末のこぢんまりとした居酒屋に入って一人でお酒を飲んでいたら、終電を逃した。行く当てが無かったのと、酩酊によるおかしなテンションで、私は山を登ることにした。そこまで大きな山ではなく、山頂には子供の遊べる公園があるような渦巻き町の小さな山ではあるのだが、早くも後悔し始めている。夜風と標高の高さが余計に寒さを際立たせて、酔いが醒めてきたのがその一因だ。何をしているのだろうという虚無感が募るが、しかし、ここで引き返そうと登り続けようと、距離にしてみれば同じである。丁度半分くらい。それに、どうせ降りようとも帰れない。ならば登るだけだ。
口から漏れ出る白い息が、一歩踏みしめる毎に増えていく。その度に、登り始めた時にはあった高揚感が減っていく。
山頂に着いた頃には疲労困憊であった。それに喉も渇いている。なので、自販機で温かい缶珈琲を買った。ごとん、という自販機から落ちてくる音。かちゃっ、ことっという缶を開ける音。鼓膜に響くごくっという喉の鳴る音。一口目の後に感じる缶の温もり。少し零れてしまったので、顎の辺りを手で拭う。
私が好きなのはこういうのである。
見上げると雪。冬銀河。あれが何とか何とかだよと、星の名前を言ってみたいものだが、私には全部同じに見えるので無理である。しんしんと降り頻る雪が星屑と重なって、時折不思議な反射を見せてくれる。その蛍のような雪は、ベンチに座って黄昏れる女の髪に落ちた。珈琲の缶と丁度同じような色をした髪に、白い雪はよく映える。
不思議だった。こんな深夜に、どうして女が一人で夜景に黄昏れるのか。しかも、彼女の身なりは特徴的で、一言で表すなら酷く見窄らしい。年季の入った麻布のコート。手入れの行き届いていない癖っぽい髪。足に吐いている雪駄。片目を隠す眼帯。私の好奇心をくすぐるには十分すぎた。
私は少し離して彼女の隣に座った。身なりとは反して、息を呑むほどに綺麗な横顔だった。特に亜麻色の瞳が素敵だ。
何だか変に照れてしまって、私は珈琲を口に運んだが、急すぎて噎せてしまった。口に入れたはずの珈琲の香りが、鼻の辺りで匂う。
彼女は全くの無反応であったが、私はこれを良いことに「ごめんなさい、何か拭うものを持っていませんか」と声を掛けた。先は手で拭ったにもかかわらずである。口実とはまさしくこのことだ。
「いいよ」
と、雪よりも冷たい嗄れた声で、彼女はハンカチを貸してくれた。四つ葉のクローバーの意匠が施された、緑の愛らしいデザインである。しかし生乾きの匂いがする。
「左利きなのかい」
「え? あー、はい。まあ昔は右だったんですけれど……」
「珍しいな。左に矯正するなんて」
「事情がありまして」
お礼を言って口元を拭ってから彼女にハンカチを返した。すると、彼女はがさごそとコートの懐を漁り始めて、やがて何かを取り出した。
それは酷く古典的な、銀色のオイルライターであった。喫煙かと思ったが、しかしそれは的外れも甚だしかった。
きん、かちっ、しゅっ、ぽっ、かちゃ――耳触りの良い金属音の後、緑が灰になっていく。焦げた匂いが充満する。正方形だったそれが、くるくると渦を巻いていく。
彼女はハンカチを燃やした。
「いい匂いだと思わないかい?」
私は何も言えなかった。当たり前である。誰が一体、初対面の女が前触れ無くハンカチを燃やすと思うものか。こうなると話が変わってくる。どうやら私は、とんでもない女に声を掛けてしまったらしい。
先までの冷たい顔が嘘のように、炎の橙色に照らされる彼女の顔には笑みがあった。
「面白い顔だね」
それはそうだろう。鳩が豆鉄砲を食らったような、ドラゴンがバズーカを食らったような顔をしているに違いない。
「それはどっちの意味でだい? 『びっくり』しているのか。それとも『感動』しているのか」
前者だ――と胸を張っては言えなかった。私は少し「綺麗だ」と思ってしまったのである。ハンカチの燃える様を――完成された形が不定型になっていくというその過程を、私は些か好ましく思ってしまった。
「ふふーん。なるほどね。気に入った」
私の心を見透かすような目。にやにやとした、厭な笑みが口元に浮かんでいる。彼女は目の前の夜景に目線を映しながら、ぽんぽんとベンチの空いた空間を叩いた。
「まあ座りなよ。先生」
「ま、待って。先生?」
「違うのかい?」今度は煙草に火を付けながら彼女は言う。「その格好を見る限り、お兄さん、画家か何かかと思ったんだけど」
「概ね当たってるけれど……」
「やったね。先生」
正確には「芸術家」、もっと言えば「芸術家に憧れちゃった凡人」だけれど、訂正する気も起きなかった。深く息を吐いて、ベンチに腰を下ろした。一方の彼女は、煙草の先っぽを何度も火で炙っているけれど、一向に煙の立つ様子が無い。
「吸いながらじゃないと付かないよ」
「知ってるさ、それくらい。でも無理。何度やってもね」
彼女はその雪駄で、煙草をくしゅっと踏み潰した。
「ポイ捨ては良くないな」
「じゃあこうしちゃえ。えいっ」
彼女はあろうことか、私の缶珈琲に吸い殻を放り込んだ。
絶句した。
「あはは、面白い顔」
蹴り潰してくれようかこの女。
「すまないね。ちょっとおふざけが過ぎたよ。後で奢るからさ、許してよ」まあそれならと、私は許した。「とにかくね、物理的に不可能なんだよ。吸うのは。何せわたしは息が出来ない」
「えーと?」
「わたしは『人形』なのさ」
驚いた。これには素直に。確かに言われてみれば、ずっと彼女からは、全く白い息が上がっていなかった。しかし、私の知る「人形」の人格とは大分異なっている。大抵、奴らは主従関係を弁えた言動を取る。その徹底ぶりは凄まじく、例えば煙草なんてそもそも吸おうとさえしない。煙草を吸おうとしているこの時点で、この「人形」は異常である。それに、学習しないのも気になる。「人形」は不可能なことに何度も挑戦する程阿呆じゃなかったはずだ。いや、これは違うな。彼女の言動からして、学習はしているのだ。しかし、ならばどうして。
「どうして煙草を吸おうとするのか? はぁ。雰囲気だよ雰囲気。先生には解るでしょ、そういうの」
腹が立った。「人形」がもののあはれを語るのか。唯のからくり如きが、からくりなんかで――理論なんかでは片付けられないこの感覚を、まるで理解したように振る舞うのか。
「わぁ怖い怖い。止めてよそういう顔」
わざとらしく戯けてみせる彼女に、尚むかついた。
「穏やかじゃないな。わたしは先生となら気が合いそうだと思っているのにさ」
「だとしたら酷い誤解だね」
「へえそういうこと言うんだ」
落ち込んだような素振りは全く無く、不気味で不敵な笑みは健在である。
彼女は夜景に目を遣って「じゃあ証明するよ」と零した。
「先生。ほら、見たまえよ綺麗でしょ、ここの景色は」
渋々眺めてみると、確かに綺麗である。先から視界に入ってはいたけれど、改めて眺めてみると違った趣がある。
白い息が撓垂れた枯れ木に重なる。それは登り坂の道路にはみ出していて、きっと昼には影を落とす。しかし今は深夜。車の通りは無く、実に閑散としているが、それ故に時折小動物のかさかさした物音が聞こえる。トカゲみたいな生物が木を這い、三日月と並んだ。月明かりに照らされる渦巻き町の町並み。点々と灯る人工の灯り。こうして高所から眺めると、本当に渦を巻くような町並みであることが一目瞭然である。目が慣れてくると、私が昼間に行った美術館や水族館も見えた。その中で一際目立つのが、やはり「時の天文台」である。流石にここまで秒針の音が聞こえることはないけれど、もう幻聴さえ聞こえてくる程に見飽きた。
「ねえ先生、あそこ判るかい?」
「あそこって言われてもな」
「あの芸術的な造形をした建物のことさ。デザイナーのエゴとしか思えないあれ」
その説明で理解した。それは多分、例の美術館のことを指している。この町で前衛的なデザインの建物と言ったら、あれくらいしかない。
彼女は携帯電話を取りだした。からくりがからくりなんて滑稽である。
「せっかくだし先生にやらせてみようか」
「何を?」
「ん。この電話に今から私が言う番号を入れて」
一体何をしようとしているのか、皆目見当が付かないけれど、私は言われるがままに、言われた通りの番号を入力した。
「じゃあそれに電話を掛けてみるんだ」
ぷるるるるる。ぷるるるる。
発信音はするけれど、全く出る気配は無い。
「これは一体――」
と、彼女に尋ねかけた次の瞬間。
私は豆電球を見た。夜の町の中で淡く灯る豆電球を。ゆらゆら光が揺曳して、茜が差す。
見ていてと言われた建物が、何かしらで蛍のように灯っている。
「そういえば自己紹介がまだだったね、先生」
焦げ臭い匂い。ハンカチの灰。銀色のオイルライター。蒼と茜の火柱。
彼女が眼帯を外す。そこにあったのは、見るも痛ましい酷い火傷。
「わたしは
篝は。
この女は。
「これで証明出来たよね。わたしがそっち側だって」
私の目の前で。
美術館を燃やした。
◯
「人形」が何かしらの犯罪に走ったという事例は無い。「人形」は人間に対して従順で、主従関係を弁えた言動をするからくりだからである。しかし篝は違う。私を「先生」と呼ぶことを除いては大変無礼で――逆に言えば、それが数少ない彼女に遺された「人形」的な要素の顕れなのであろう――人類に対して反逆的な行動を取ることを全く厭わない。即ち、彼女は「人形」として異常なのだ。自ら犯罪に走り、あまつさえそこに美学を見出している傾奇者。こんなもの、人間であっても異常者だ。
そんな逸脱的存在を前にして、私はどうするべきだっただろうか。
警察に通報すべきだったか。「人形」の開発元に問い合わせるべきだったか。
そういう、善とされる行動を取るべきだったか。
否。断じて否。
私は「倫理」という善の型を考え無しに当てはめて、それからはみ出たものを無条件に悪とする程、浅はかではない。情状酌量の余地は考慮するべきだし、そもそも善悪の判断というものは、自然に委ねるべきじゃなく、それぞれ独立して考えるべきだ。「これ故に善」「これ故に悪」と論理立てると、却って誤った結果を招くことがある。これは物事を平面で見てしまっている為に起こる。現実というのは、もっと多面的な形をしている。サイコロを論理立てて「立方体である」と判断する人間なんて居ないように、こういうのは瞬間的な感覚で判断するべきだ。
単純な話、私は篝を美しいと思った。
欠陥だらけの「人形」。美が不完全にこそ宿るなら、こんなに美しいものはない。
故に私は、警察に通報することはしなかった。
「人形」の大本に問い合わせることもしなかった。
燃え行く美術館もそのままに、倫理さえ捨てて。
私は篝と一緒に、ドミノ倒しのような日の出を見た。
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