秒針だけが燃えない

葵鳥

時計回りの地獄

#1

 かたつむりの殻が秒針にじゃらじゃら結ばれた時計が、今でも私の部屋にある。

 まずはこれを作った経緯を話そう。

 当時小学生だった私は、どうしようもない傾奇者で、あらゆる社会的営みに於いて不適合を起こしていた。空想に生きて空想に死ぬつもりで日々を暮らしていた。休み時間は絵を描き、授業中は本を読み、家に帰ったら工作をする。好きな教科は図画工作で、得意な教科は国語。そんな奴と友達になりたがる物好きは、残念ながら居なかった。「君はここに居ないみたいだね」と同級生に言われた。集団下校の班からも大人の目を盗んでハブられる始末。

 故に、その梅雨の日も私は黄色い傘を差して、一人でぼーっと空を見ながら帰っていた。くだらない駄洒落を思い付いて、一人でくすくす笑う。

 雨催い。しかし、「雨も良いな」と思わせてくれるくらいの雨催い。

 くすくす。

 今でもちょっと面白いのだから、当時の私はそんなのでも幸せは幸せだったのである。

 道中、雨に打たれる紫陽花を可哀想に思った私は、花に傘を差した。好奇心で蹴飛ばしたくなる程に小さなかたつむりが、のっそのっそと這う紫の花。そいつは私と同じように、重そうなランドセルを背負っていた。ただし、そのランドセルには私のと違って、反時計回りの渦巻き模様が描かれている。

 ぱらぱら。

 ぱらぱら。

 花の匂いは雨に掻き消され、しかしそんな雨音も、渦巻き模様を目で追うことの楽しさの前には遠のくばかりであった。

 ちく、たく。

 ちく、たく。

 それでも、私がかたつむりの迷路に迷わなかったのは、ひとえに耳に木霊するこの音が原因であった。

 渦巻き町三丁目。私が生まれて育った場所。

 そこにこの町の象徴とも言える時計塔はある。一際目立つ煉瓦造りの建築物で、曰く世界標準時計に対する誤差が極めて零に近く、一秒ズレるために百年を要するらしい。それ故に、この時計塔は正式名称そっちのけで、「世界標準時間を観測する」みたいな意味合いで、「時の天文台」と呼ばれる。

 しかしここで白状すると、かねてより、私は冷酷無比に時を刻むこの秒針の音が嫌いだった。空想の邪魔をされるからである。規模の所為で必要以上に秒針がうるさい。何か急かされているようで落ち着かない。かたつむりに迷いたくても迷えない。厭でも現実に引き戻されてしまう感じが、余りにも白けて、美しくない。

 その鬱憤が閃きを生んだのである。

 私はかたつむりを手で拾って、じめじめしたナメクジの部分を近くにあった石で叩いて捻り潰し、それと同じ事を他のかたつむりにもやった。ただし、甲羅の模様が「反時計回り」のものだけが対象である。そうして出来上がったかたつむりの死骸を一つに集めて、筆箱にあったセロハンテープを全て使い切ってぐるぐる巻きにし、大きな塊を作った。私は飛んでいくようにして家へと帰った。

 ちく、たく。

 ちく、たく。

 うるさい壁掛けの古時計。私は常々、リビングにあるこいつの息の根を止めてやりたいと画策していた。ぼーんと低く響く鐘の音や、硝子越しに見える振り子は好きだったが、秒針だけはやはりどうしても気に食わなかった。しかしそれを無力化する手段が無かった。こいつはゼンマイ仕掛けなので、電池を抜くなんてことは出来ないし、何だか私の美学として、粉々に破壊するのは、美しくないのでなしだった。

 そこへ一縷に差した希望の陽光こそ、かたつむりである。

 私は秒針にかたつむりの塊を紐で括り付けた。

 固唾を呑む。

 ちく、たく。

 ちく、たく。

 ちく……、がらん。

 秒針が俯いた所で、様子が変わった。中身の歯車が動く音はするのだが、秒針が一秒も進まないのである。

「勝った」と思った。破壊するとか、ゼンマイを回さないとか、そんなものとは訳が違う。私は秒針と同じ土俵に立ち、ルールに則った上でこれを止めたのである。これを勝利と言わずして何と言うか。

 一秒刻もうとする秒針を、「反時計回り」のかたつむりがマイナス一秒刻んで相殺する。常に零秒を刻み続ける時計。かたつむりのじゃらじゃした音が鳴る度に、私はうっとりした。これはマイナス一秒を刻む音。巻けて巻けて負け。

 時計の負ける音。それ即ち勝利の音。

 私が勝って、時計が負けた。

 嗚呼、何と美しいのだろう。

 これが多分、「芸術家」を志すきっかけであり、言うなれば私の処女作であった。 

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