ドリーマー

日ノ竹京

第1話

その女の子はいつも明るく辺りを照らす手下げランプを持っていましたから、谷の人たちにはランタンと呼ばれておりました。みんなお揃いの黒いマントにへの字の口を生白い肌にはっつけていましたが、ランタンだけはいつも花びらが開いたような唇をくすぐったそうにつんと尖らせていました。


「やあ、ランタン。どこかへ行くの?」

「ええ」


ランタンは返事をしながら、意気込んで看板の文字を照らしました。苔に背中を食われたような古びた看板は、背の低い彼女が見えやすいように小さく身をかがめてやりました。


「モモノメはどっち?」

「モモノメだって!」

「ちょっと、動かないで、看板さん。見えないわ」

「モモノメって言ったら、君、とても恐ろしいところだよ、知らないのかい!?」

「でも、そこを通らないと行けないんだもの」

「ダメだ! たった十だかそこらのお嬢ちゃんにそんなところは通らせられない! 帰りな!」

「嫌よ、決めたの。____あっちね」

「ラ、ランタン! なんだってそこを通らなきゃいけないんだい!? 君の友達の家はこっちだし、おつかいの商店街は……!」

「それじゃあね、看板さん。私が帰る頃には建て替えられてるといいわね」


ランタンは看板に手を振ると、モモノメの方向へ歩き出しました。湿った空気を短く呼吸しながらランタン灯りを頼りに進み、星明かりさえも届かない小さな洞窟に身をそっと隠します。ランタンはさっきの看板にまた呼ばれたような気がして、ちらりと後ろを振り返りました。


「ランタンは分からず屋ね」


不意にそばで強く言われて、ランタンは弾かれるように前を振り返りました。ぎょろりと自分を見下ろす無数の目に、彼女は驚いてランプを高く掲げながら立ち竦みます。


「誰!」

「私たちに光など必要ないのに、そのギラギラして目障りなランタンはなんのつもりなの?」


朗々としてランタンの学校の女教師を思わせるような声が高く言います。


「お前がランプで見つけた花が綺麗だから、なんなのさ。もっと綺麗なものが谷には溢れてる。しかも、お前が照らしたせいで蛍は逃げた!」


鼻にかかった気取り屋の友達に似た声が脅すように言います。


「あなたは、いつまでも人の気持ちも分かれないのね。私はそれを長所と勘違いしてたけれど__」


甘く親猫が唸るような声に、ランタンはぱっとかけ出してランタンが浮かび上がらせる苔むした伝い鎖を追いました。次から次へと溢れ出てくる涙にもう赤い鎖も見えなくなって、湿ったそれをぐしゃりと掴んで岩肌に身体を預けるようにしながら必死に進みます。


モモノメは闇から仄暗く輝く目をランタンにひらっと見せて笑いました。モモノメはこうやって人から灯りを奪おうとして、闇の中で喰らってしまう魔物です。


「ランタン、どこへ行くの? こっちにおいで」


ぱちぱち、にたにた、と道の一つを塞いでランタンを見つめるモモノメとは違う道から、母親の甘い声がしました。ランタンは思わず心細さに、ランプをぷらんと腕から垂れ下げたまま来た道を振り返ります。


「ランタン? 大丈夫よ、モモノメはそのランプを面白がってあなたを驚かしているだけ」

「……ほんとう?」


ランタンが疲れて掠れた声で返事をすると、母親の声は優しく笑んで言いました。


「ええ。ランタンをそこに置いて、モモノメを怖がらないでこっちへ来ればいいの」

「まさか。そんなことあるわけない」


不意に、ランタンの腕を誰か子どもが掴んで引っ張りました。どこから現れたのか、深くフードを被って顔の分からない男の子がモザイクガラスの丸い手提げランプを持って立っています。


「ランタン、君のそれをしっかり持ってるんだよ。今から走るからね」


きっぱりと言うと、彼はランタンの腕を掴んだまま三つ目の道へ走り出しました。ランタンは半分引きずられるようになりながら一生懸命追いかけます。


「親不孝者」


まるで人の声には聞こえない魔物の甘い囁きに、ランタンの花びらが散ってしまいそうに悲しく震えました。


「__ここで挫けてしまうならそうだろうな!」


ランタンより小さな少年とは思えぬ力強さを持った声がびりびりと空気を震わせます。


「でも僕らはそうじゃない! 残念だったな、僕らは“成し遂げて”、その上で家に帰ってやるんだから!」


少年がそう言ってすぐ、きらりと輝く小さな穴が正面に現れます。二人は急いで洞窟の出口をくぐりました。そこは別の谷の底で、小さな家が広い岩盤の中心にぽつんとありました。彼が勧めてくれたつやっとした白い岩に座りながら、ランタンはしくしくと泣き始めます。


「……モモノメは僕らの不安を読み取ってありもしないことを言うって、習うだろ」

「でも嘘じゃないかも分からないじゃない!」


ランタンが思わず強く言うと、隣に座った男の子は手に持った湯気の立つマグカップをきゅっと抱きしめました。一つしかないから自分の分か、そうでなければお客さんに淹れてあげた分でしょう。


「……ごめんね」

「……あげる」

「ありがとう……ねぇ、あなたは谷の神様の居場所を知ってる?」


ランタンが谷ヤギのお乳を飲みながら言うと、彼はこくりと頷きました。


「モモノメの洞窟にいる人は、みんなそこへ行きたがってるね。でもまだずっと遠いよ。まずは次の試練に行かなきゃ」

「試練! まだあんなのが続くの?」

「当たり前だろ、神様が変な願いまで叶えないようにふるいにかけるんだよ」


さっきの魔物が、どれだけランタンを傷つけたことか! それなのにまだこの旅を終われないのだと知って、ランタンは肩を竦めて俯きました。怖くて挫けてしまいそうでした、今すぐ家に帰って、変わり者のランタンでいいから無事に過ごしていたい。


僕なら、安全に送り返してあげられるけれど? と少年が見透かしたように囁きます。


「傷つけられて、味方もいなくて、頑張っても報われるかどうか分かんないことなんてみんな嫌じゃないか。君だってそれでいい……弱いままでいい」


少年の温かい手のひらが慰めるように背中に触れます。ランタンはその温かさが心地よくて、思わず頷きそうになりました。優しい手を振り払うのは失礼なことのように思えました。

そう、夢を諦めて足跡のある道をそのまま歩めば、何も傷つけられることなどない……


「……でも、私、太陽が欲しいの」


ランタンが絞り出すように言うと、少年がこくりと頷きました。


「なぜ?」

「おじいちゃんが昔、空の写真を見せてくれたの。私が知ってるのは星空、夜空だけだった。でも空はもっとカラフルで、すごく綺麗で、同じ青空でも一枚一枚違った。それを私も撮りたいの」


その感動は、今でもありありと思い出せます。おじいちゃんのおじいちゃんが撮った遥か昔の空は、黄ばんだ写真紙が輝いているのかと思うほど透き通った光を持っていて、ランプで明るく照らせば照らすほど美しく輝いたのでした。 この景色は全て太陽が作り上げているのだとおじいちゃんは言いました。


昔はこの景色が見えた。だけれど人間が太陽の光に耐えられなくなって、太陽を遠くへ追いやった。そのせいで地上は生活ができないくらい寒くなって、人間は温かい温泉の流れる谷の底で暮らすようになったのだ、と。


「光は周囲を明るく見せて、物の形を浮き彫りにする。だから昔の人たちは夜に閉じ籠ったんだって」

「そうだね、みんな自分よりずっと優れて見えて、同じだけ頑張らなきゃいけないって歩き続けるのは苦しい。僕なら、みんな同じくらいダメでいい暗闇の方がずっと楽だ」


ランタンは繰り返して言う少年を小さな振り返りました。モモノメに言い返したあの声の力強さはランタンに人間を劣等感で潰した太陽を思わせていました。


「でもあなたは太陽みたいだったじゃない。私はあんなふうにはきっと言えないわ」

「だって、言ってみりゃ本当になるかも知れないだろ」

「昔の人たちはこんな気持ちだったのね」


ランタンは冗談っぽく言って、劣等感を心の中で抱きしめました。


「悔しいわ、私にできないことを簡単にやってのけちゃうあなたを嫌いになりそう」


その青い瞳はまるで自ら光を放つように輝いていました。


「私、あなたのその勇気が欲しいんだわ。みんな太陽みたいな強さが欲しかったんだわ。でもどれだけ頑張ってもなれなくて、悔しくて、周りの眩しく輝く人たちすら妬ましくなった。もう悔しさをバネにもできないくらい疲れ切ってた。だけど、今はすごく憧れて見えるの」

「……ねぇ、知ってる? 太陽があった頃は、朝も昼も夕も夜も順番に回った。夜は休むための時間だったけど、あの頃は夜を知らない人がいた。だから、僕は、みんなに休んで欲しかった。……でも、もういいかな」


少年が掠れた声で言って、ランタンを辛そうに見上げました。


「もういいのよ」


ランタンは頷きました。少年はモザイクランプを持って立ち上がります。


「……太陽が、君の想像通りに頼もしくなくてごめんね、ランタン。でも、……今は目覚めたい人がいるんだ」


か、しゃん、と少年が自分のランタンのガラスを開けます。柔らかな赤、橙、黄が二人の頰を滑って、丸く膨らんだ中の灯火が現れました。


「神様」


男の子が乞うように呼びかけると、ぽうっと火が彼に向かって伸びました。ランタンがあまりの

眩しさに目を閉じると、誰かが彼女の身体をそっと横たえました。


「ランタン、先に行ってるね」


     *

ランタンが目を覚ますと、そこは鳥が鳴き、湿った風が涼しく吹く『朝』でした。ランタンは起き上がり、灯油切れの自分のランタンを抱きしめて空へ力一杯叫びました。


「ねぇ、次は! 次は私の番よ、見ていて!」

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